第五話 朝顔大のまじない
――時は、数刻前に戻る。
「やられた」
目を覚ました玖は、重い身体を起こしながら小さく舌打ちをする。寝台に敷かれた清潔な布も、部屋の明かりも、綺麗に整頓された本棚もすべて、普段寝起きしている玖の部屋に他ならなかったが、一瞬で別物だと分かる細工がされている。扉の外の景色が無い。普段は青空と稲雅の美しい山々が見えるはずの窓の先は、靄に包まれたように曇っている。やられた、ともう一度舌打ちをして、すぐそばに横たわる白百合の少女を見下ろす。伊那は子どもに手をあげるような人間ではない。ただ少しだけ眠らせただけだろう。玖と此処に閉じ込めるためだけに、ほんのひと時眠らせただけ。
とはいえ、油断したのは事実だ。唇にひっかかっている髪の毛のひと束を小指で掴んで、どけてやろうとして、やめる。気安く触れ合う関係ではない。相手は子ども。自分もまた、子ども。けれども年齢は、境界を怠る理由にはならない。
玖は――別に守ってやる義理はないのだが――様々な事情を聞き齧っただけに、なんとなく責任を感じていた。伊那が何を考えているのかくらい分かっている。元々伊那たちは足りない魔力を人間で補えないかと言っていた。そこに、あそこまでの存在が現れたのだ。飛んで火にいる夏の虫、というやつだろう。飛び込んできたのは璃空だが、巻き込んだのは枳族であり、伊那で、もっというなら玖だ。
ふと、右手に僅かな重みを感じて手を目の高さまで持ち上げてみる。幾つもの黒い玉で装飾された腕輪が、手首をぐるりと一周していた。引っ張ってみても、伸びるだけで外れない。伊那の術式で作られた、魔力が"底をつかないように"制限する腕輪。玖が眠らないギリギリのところで保たれた防衛線。過保護すぎる弟を持つのも考え物だな、と思いながら、寝台を降り、窓硝子を折り曲げた人差し指で、コツコツ、と刺激する。
作り物だ。幻と言い換えてもいい。狐が得意とする「本物の幻覚」。しかも――。
はあ、とため息をつく。伊那の策略が"それ"となると、玖に出来ることはほとんど無い。否、正しくは"玖だけで出来ること"は無い。
振り返って、ゆっくりと目を覚ました少女を見やる。
「璃空姫。手を貸してくれ」
まだ寝ぼけている濡れた瞳に、玖の焔色がめらりと揺れた。
◇ ◆ ◇ ◆
「――伊那様の目的はなんでしょう」
「あんたの魔力」
「分かりやすいですね」
「伊那はそもそも、悩むのに向いてない。……あんたもだと思うけど」
玖がそう言うと、寝台の縁に座っていた璃空が「じゃあ、あなたは向いてるんですか?」とばかりの視線を彼へ向ける。玖は肩をすくめて、何も答えず窓の外を見た。その仕草が既に答えのようなものだったけれど、璃空はあえて言及することなく、同様に景色を眺める。
「魔力なら……別に、私は構いませんけど」
「簡単に言うな。今だけの話じゃないぞ」
「え?」
「伊那が求めてるのは一時的な救済措置じゃない。この先ずっとあんたを此処に留め置くつもりだ」
口を噤む璃空の目が僅かに輝いたのを、玖は見逃さない。諫めるように軽くひと睨みする彼に、彼女は苦笑して、姿勢を正した。
「……分かってます。迷惑はかけません。帰るって約束しましたから」
玖はため息をついて、座っている璃空の隣に座る。こうして並ぶと、玖の方が幾分か身長が高い。色素の薄い霧のような瞳が、茶の視線と混ざる。
「あんたが本当に蘭家で暮らしたくないなら、稲雅で暮らせばいい。蘭の名を捨て、ただの璃空になるのなら、子どもがひとり増えるくらい、なんともない」
璃空は、玖の名を呼ぼうとして、辞めた。自分が何を口走るか分からなかった。
「――だが、その前にちゃんと家族と話せ。生きてるか死んでるか分からない娘を……妹を、いつまでも探す人間の気持ちを考えろ。枳族はあんたの逃げ場にはならない。"生きる場所"にこの山を選ぶなら、歓迎する」
玖が、璃空の頬に手を伸ばす。頬に届く寸前で、指先は彼女の頭の上に浮上した。乱暴に頭を撫でると、璃空の艶やかな髪が乱れ、衝撃で腕輪の玉同士がカチカチ、と軽い音を立てる。
少しだけ俯きながら璃空は、言い淀んでいた。ありがとう、という言葉では容易すぎる気がして、けれども他になんと表現すれば正しく伝わるのか分からない。生まれたその時から、絶えず言葉を享受してきたはずなのに、未だに適切な語句で心を描けないもどかしさが口惜しい。けれども、そのすべてを理解しているとばかりに玖は、穏やかな表情で璃空を見つめていた。心恩や梦蝶とは違う、優しいけれど公平な笑みだった。
見透かされているようなのに、不思議と嫌な気持ちになれないのだから奇妙だ。璃空は、自分がこの狐に心を許しかけているのを自覚せざるを得なかった。気恥ずかしさを誤魔化すために、立ち上がって近くの机へ近づいていく。ふたつ向かい合わせになっている椅子の間に、丸く丁度いい大きさの卓があり、あたたかいお茶が用意されている。傍らには菓子まで添えられていた。まるでお茶会を想定したかのような支度に眉を寄せていると、玖が「さてと。そうと決まればさっさと此処から出るか」と欠伸を漏らす。
「さっき手を貸せ、と言ってましたけど……具体的に何をすれば?」
椅子に座ると、横からやって来た玖が素手で璃空の菓子を一口で食べる。唖然としている彼女を無視して、玖が真向かいに腰かけた。
「お見合い」
ええっ!? と大きな声が璃空の口から飛び出す。咄嗟に袖で口を押さえ、恥じらうように視線を逸らした。玖が「でかい口」と感想を漏らすと、卓の下で、彼の足を小突く。
「お見合いって……お見合いですか?」
「ああ」
「お見合いって……」
大真面目な玖の様子を見る限り、ふざけているようには思えない。それに"お見合い"――卓を彩る様々な菓子や、香りのよい茶を不審に思っていたけれど、お見合いだというなら納得がいく。わざわざ玖の部屋を模した空間に閉じ込めた理由も。……まあ、本当のお見合いなら立会人として伊那が居るべきなのだが、そういう形式的な話ではないのだろう。
「……この"お見合い"がどう私の魔力と繋がるんです?」
「見合いは――まあ、一概にそれだけが目的というわけじゃないが、主に結婚を前提とした付き合いをするために行う、とっかかりみたいなものだ。互いの性格が合うか、話が弾むかを判断するひとつの手段」
「そう表現すると浪漫が無いですわね」
「事実だろ。……でも、狐の"見合い"は人間のそれとは少し違う」
玖は注がれたお茶を飲み干すと、静かに卓へ戻す。すると、白い茶器の底から柔らかな茶があふれ出て、器を再び満たした。便利だな、と思いながら璃空も茶を口に含むと、机に置く。
「狐は基本的に化かし合いが好きだ。息を吸うように嘘をつく。必要か、そうでないかも関係なく。……でも、偽っていては一向に仲が進まない。誑かす能力で"共犯者"を決める奴もいるが、そういう人種は見合いはしないで勝手に相手を見つけるから、狐の世界での"見合い"は、建前禁止の分かち合いだ」
嘘も、誤魔化しも、虚言も作り話も、一切禁止の相互伝達。至極当たり前のように聞こえるけれど、何か問題があるのだろうか。言いたくないことは言わなければいいのでは――と璃空が首を捻るけれど、玖の深刻そうな表情は少しも変わらない。
「……趣味とか、家族のこととか、身の上話をすればいいだけでは?」
「違う。"見合い"といっただろ」
だから、お見合いの定石を話しているんじゃないか、と璃空は思ったけれど、先ほど玖が「人間のそれとは違う」と言っていたのを思い出す。此処は、伊那が作り出した幻の空間。そこに、玖とふたりきり。そこでの嘘が少しも交わらない「見合い」。
「狐族はあんたが思ってるより、性悪で容赦がない。嘘禁止とはつまり、強制的にすべてを詳らかにさせるような絡繰りを用意してるって意味だ」
「……まさか、互いの"いままで"を【見合う】なんてことはないですよね?」
玖が押し黙る。まさか。まさか、そんなわけはないでしょう。そんな……。
「――本当ですか?」
たしかに璃空は。たしかに璃空は「夢が見たい」と言った。今まで一度も、うつつから抜け出せた試しがないから。けれどもだからと言って、誰かと幻を共有したかったわけではない。だって、そんなの。
「……気分の良い話じゃないだろ」
「それは――玖は、そうじゃないんですか? 私にあなたの"今まで"を見られても、なんともないの?」
「俺は口で説明するのはあまり得意じゃない。……し、嫌だと思うくらいあんたをよく知らない。少し知ってる奴にいろいろ見られるのはバツが悪いけど、あんたは昨夜出会ったばかりの赤の他人だ。嫌われても差し支えない」
「ちょっと、そんな言い方――」
と言いかけて、璃空は口を噤む。玖は減らない茶菓子を口に入れながら、涼しい顔をしていた。感情豊かな彼にしては冷静な振る舞いに、違和感を覚える。
ああ、もしかして。
璃空が悩まないように「気にするな」と言っているのか、このひとは。どんな過去が見えたとしても、よく知らない他人なのだから、好きになろうが嫌いになろうが関係ないのだと、そう励ましてくれているのか。
不器用な人、と璃空は笑った。突然笑い出した璃空を、訝しげに見ながらも玖は二杯目のお茶を飲み干している。幻の空間なのだから、喉が渇いたり、お腹がすいたりするのも多分錯覚なのに。彼なりに雰囲気を和ませようと、粗野に振る舞っているのだと思えば可愛らしく思えた。
よく知らない人。赤の他人。それなのに、自分と向き合って優しくしてくれようとするこの人になら、明かしてもいいのかもしれない。どうなるか分からない。呆れられるかもしれないし、幻滅させる可能性もある。
――でも、璃空は此処まで来てしまったのだ。
麟庸から豊穣な土地に住んでいて、困っているひとの情報を聞き出して。自分能力を生かしたいのだと主張した。人に注げば忽ち相手を狂わせてしまう、自分の恐ろしく強大な力を分け与えても崩壊しない、強固な器を持った妖へ恩を売って、せめてもの償いを出来たらと――そういう詭弁で梦蝶姉さまと心恩兄さまから逃げた。璃空を必要としないすべてが寂しくて、空しくて、仕方がなかったから。
二千四百年もの間、隠れ続けている枳族ならば。
莫大な力を必要とし、消耗されながらも自分の土地を守り続ける稲雅の獣妖であれば、危険な目に遭わないだろうと目算して、踏み込んだ。「共犯者」を必要とする狐族ならば、「結婚」を持ち掛ければ門前払いはされないだろうと画策して家を出た。何もかも自分本位に企てて、此処まで辿り着いたのだ。
すべて、今更だ。
「――やり方を教えて。玖」
「……嫌だったらやめてもいいんだぞ」
「しなくても出られるんですか?」
だったら初めから提案などしないだろう。玖を見つめる秋色が揺れる。玖は肩を竦めて「頑張れば、出来なくはない」と言う。
「頑張るって、具体的に何を?」
「あんたの魔力を貰って、俺が術を破る」
「……それで、玖は大丈夫なの?」
視線が泳ぐ。
やっぱり、と璃空は呆れる。玖は璃空よりずっと賢いし、自由に見えるのに、時々愚かな選択をする。協力を断った時も、伊那に楯突いた時も、目の前の利益よりも他者を優先する節がある。今だって、璃空の心を守るために負担を抱えようとするのだから、分からない。優しいとはまた違う、その先に、彼自身のこだわりがあるような――これも、もし"見合い"をすれば、少しくらい理解できるようになるのだろうか。そう思うと、悪くないかもしれないと感じる己の性根の悪さに璃空はほんの少し自嘲する。
「危険を冒す必要はありませんわ」
「――でも」
「しつこいです」
し、しつこい。
玖の口元がひくりと引き攣った。
「俺は心配して――」
「分かってます。……分かってるから、やり方を教えてって頼んでるんです」
ひとにモノを頼む態度ではないけれど、わざと強気に玖に詰め寄る璃空を、玖はじっと見つめていた。璃空の心の中などすべてお見通しだと言わんばかりの、混ざり気のない美しい双眸は、彼女に迷いがないか――しつこいくらいに探り続けている。
しつこいくらいっていうか、しつこい。
璃空は立ち上がると、徐に玖の手を掴んだ。冷たい。ぎょっとする彼を至近距離で見返すと、根負けした玖が目を逸らした。
「分かった」
「それで――やり方は、」
「焦るな。簡単だから」
掴んだ手をそのまま持ち上げると寝台に移動する。縁に座るように促すと、玖は「手のひらを合わせて」と密やかな声で呼びかけた。呪文を紡ぐような繊細な声色に素直に従うと「そのまま、腕輪の中に入れ」と次の指示が飛ぶ。そのまま指先を手首の骨に沿わせる。中指の腹が、ごつごつとした黒の玉に触れ、通り過ぎたところで手首と宝石の下をくぐる。腕飾りが壊れるのを少し心配したけれど、あっけなく杞憂に終わり、輪の中で二つの手が向かい合わせにくっついた。
「そのまま、もう一度繋ぐ」
璃空と玖の、大きさの違う掌が再度接する。先ほどの四指をまとめた繋ぎ方ではなく、指と指の間に互いのそれらが侵入する、親密な繋ぎ方だった。
けれども、不快ではない。
どうしてだろう、と思いながら、目を瞑る玖に習い、瞼を閉じる。眠りとはまた違うまどろみという名の繭が、間もなく璃空と玖を包み込んだ。
――そして、水晶と狐は夢を魅る。
互いが持ち得ない現実と幻。生まれの記憶へ運ばれてゆく。
触れたことのない希望と絶望の夢想は、心への鋭利な刃になり得る激動だ。見知らぬその人が体験した、最果てに似た更地は優しき道連れを得て進む。
立ち返るその時を繋ぎ目にして。
2021/09/21 執筆
title by alkalism