第四話 霖に揺蕩う篝
狐は夢を見ない。
夢幻とは、彼らにとって描くもので、魅せるものであるから。故に、狐は夢を見ない。狐の見る世界は何処までも真実だ。嘘つきになれるのは、誰よりも"本当"を知っている現実主義者だけ。騙し、惑わし、愛し、驚かせて、たらしこむ。
化かすのに長けた彼らは謀られるのを何よりも嫌う。虚偽を描くために真実を追究する――知恵の獣である狐にとってそれは、"敗北"を意味するからだ。
狐は夢を見ない。狐は、幻を魅ない。
けれども、玖は――。
◇ ◆ ◇ ◆
玖の人生は現実のような希望から始まった。
深い深い静謐と滑らかなまどろみの中で、彼は生を受けた。魚よりも細やかな呼吸を、伉儷は危うく聞き逃し、初めての子が冥府へ渡ったのではと肝を冷やしたほどだった。ただ眠っているだけだと分かるのに、四カ月もの月日が掛かった。
力の強い妖は稀に休眠を取ると蛇族の妖から聞かされ、ふたりは安堵した。幸いにも、妖と仙の間に生まれた童だ。時間はたくさんあるのだから、存分にまどろんでいればよいと結論付け、彼らは玖の見る夢が何処までも美しく、彼の心と魂を育む休息でありますようにと毎夜祈った。
玖の両親の話を、少しだけしよう。
まだ人無き山であった稲雅という土地を統べることになった大狐・火尹は四雲各地に散らばる九尾一族の反対を押し切り、仙人であった甚雨という青年と添い遂げた。枳という姓は山に自生していた落葉樹から取ったものだ。このふたりが、初代の枳族の長であり、玖の両親である。
繁栄の妖であり、稀有な力を持った美丈夫――火尹と、気立てが良く誰にでも好かれる男であり、強大な魔力を宿す甚雨の周りには多くの民が集まり、彼らが十五人めの子狐を授かる頃にはひとつの集落が生まれていた。火尹と甚雨は仲睦まじく、ひとびとも彼らを敬っていた。土地は豊かすぎるほど潤っており、毎年うっとりするくらい美味しい作物が収穫できた。稲雅に住まう限り飢えることはない――そう噂され、十五の可愛らしい子らに囲まれふたりは幸福であった。ただひとつだけ、二十年経っても目を覚まさない玖のことだけが火尹と甚雨の心を曇らせた。
いつか夢から醒めるだろう。火尹の色か、甚雨のそれかはわからないけれども、どちらにせよ鮮やかであろう瞳を輝かせ、たくさんの兄弟と美しき稲雅の里を映す玖を想像しては、火尹と甚雨は互いを慰めた。
けれども、百年経っても、三百年経っても……玖は目覚めなかった。
玖が眠り続けているのは"夜籠り"であると甚雨が突き止める頃には、五百年もの月日が過ぎ去っていた。
目覚めないことを抜きにすれば、玖は健やかだった。
眠っている間、彼の成長はほとんど止まっており、二番目に生まれた伊那が軽々と彼を抱き上げるほどになっても、まどろむばかりだった。土地は繁栄し、四雲の情勢が大きく変わっても、稲雅の里は甚雨の鉄壁の守りによって脅かされずに済んでいた。
火尹と甚雨が結ばれて千年。甚雨は寿命を全うし、二百を越える家族に囲まれ、亡くなった。死するときまで玖の隣で、出来ることなら同じ夢を見たいと願って、儚くなった。
それからというもの、火尹は、村人と会わず、社に籠りきりになった。彼の愛する家族は皆彼に似ていたし、甚雨にも似ていた。愛はゆるぎなくそこにある。何年経とうが、褪せない熱情だ。だからこそ、亡き伴侶の面影を見るのは火尹にとって辛く苦しいことだった。
枳族は火尹を思い遣り、皆面をつけるようになった。九尾の一族が持つ真実の面。火尹は子らの慈愛に感謝し、密やかに余生を送っていた。
玖だけは、面をつけずに眠り続けていた。呼吸の妨げになるだろうから、と火尹は皆に言っていたけれども、何百といる一族の中で、火尹と同様の紅蓮の髪を持つものは玖だけだった。容姿こそ甚雨の片鱗があれど、瞳を閉じている玖はほとんど火尹と瓜二つであったから、他の狐を見るよりも幾分か気持ちが楽だったのではないか――と、伊那たちは思っている。
火尹は日に一度、玖の元を訪れ、その額に口づけを落とした。今は亡き甚雨の分も、彼の見る夢が美しく優しいことを願って。
ほどなくして――といっても、四百年ほどたった後に――最愛の友人であり、共犯者であり、恋人であった甚雨を失くした火尹は、魂の灯を浄土へと委ねた。
彼もまた玖の隣で、甚雨と玖との逢瀬を乞い、死んでいった。稲雅の狐は皆、寂しくはあれど嘆きはしなかった。火尹と甚雨の教え通り、いつか来たる玖の目覚めと、同時に起こるであろう夜ごもりの終焉のために備えを怠らなかった。
夜籠りによって繁栄した枳族は、それでも、他の夜籠りの被害を受けた者たちと同様に嘆き苦しんでいた。玖のもたらした現実は甘美で幸福に満ちていたけれども、彼の眠りは一族の悲劇だった。
九尾は動物の姿を模す妖の中でも、寿命が長い。火尹は約四千年ほど生きた。けれども、仙人であった甚雨は千年と少し。ふたりの間に生まれた長男である玖が、果たしてどれだけの時を生きるのか、誰にも分からなかった。伊那を含め皆、死など些末な別れだと思っている。いつ死んだとて悔いがないよう彼らは生きている。でも、玖は違う。
玖はまだ、自分の"生"を少しも歩んでいない。このまま、すべての力を使い果たし、逝ってしまったら、と伊那たちは恐れていた。自分たちもまた、両親と同様に玖と言葉を交わせなかったらどうしよう。口には出さずとも、一族全員が玖の目覚めを切望していた。
そして二千四百年の時を経て、"その刻"はやって来た。
永い、長い夢を見ていた子どもは彼らの願いを聞き入れたかのように、ゆったりと瞼をあげた。
初めて世界へと向けられた眼は、甚雨と同じ白磁。
寝転がっていた齢三歳ほどの姿の玖は静かに立ち上がり、蒲公英色の瞳から、大きな雫を落とし続ける伊那に微笑みかけた。
その悲しげで、愛情に満ちた切ない笑みを、伊那は生涯忘れない。
「おはよう、伊那」
ああこの人は、何も知らないのに知っている、我らの長男。
長子であり末っ子である――幼い狐。
「おはよう、玖」
燃えるような赤い髪をたなびかせ、一歩進むたびに少しずつ成長する。あっという間に六歳ほどの背丈になり、やがて穏やかに止まった。そしてそのままひっくり返り、数時間ほど眠りについたものだから、危うく再び目覚めなくなるのではと心配した伊那が、彼自身の涙で溺れ死ぬところだった。
◇ ◆ ◇ ◆
玖の人生は現実のような希望から始まった。
繭に包み、あたたかな腕に抱かれるようにして、二千四百年の時を過ごした。永久にも思えたその午睡は、彼の両親が祈ったように何処までも美しく、彼の心と魂を育む休息であった。彼は夢の中で稲雅の各地を訪れ、潤う土地へ祝福を与え続けた。此処に住まうすべての者たちが幸福であることを願って。彼を愛する家族を祝って。
肉体を置き去りに、精神だけ大気を舞う。
地面と溶け合い、風に揺られ、黄昏を駆け抜ける。ひとびとを見守り続ける玖はもしかすると、常に沈黙を貫く無関心な"神"よりももっと、神らしかったかもしれない。しかし彼は天道ではなく、ただ少しばかり才ある嬰児に過ぎず、真なる運命は玖に空色を与えなかった。はじめから玖の"器"は、稲雅の地と自身の家族で出来た、底の見える愛。故に、神は玖を選ばなかった。玖もまた、神を選ばなかった。
玖はいつだって彼自身の選択肢を進んできた。生まれ落ちたその時から、彼の物語は始まった。美しき生命の息吹く御山――稲雅と、両親、その周りを囲むあたたかな人の輪を守り、祝福するために生まれたのだと信じていた。火尹と甚雨が、漂い続ける彼の元を訪れ、説得しなければ、命が尽きるその時まで、玖の意識は土地と共にあったかもしれない。
「やっと見つけた。玖」と両親は玖を抱きしめて笑った。そして「お前は、もっとたくさんのことを知るといい」と空気と溶け合い形を持たぬ玖へ、願いを口にした。玖は驚き、狼狽し、困惑して、それから、はじめて他人の「熱」を感じ、自分の内側から何らかの感情が沸き上がるのを感じた。稲雅を生きる者たちの生活を見つめている時とは違う、もっと個人的で、穏やかじゃない動機だった。
「もっとお前と話がしたかった」
甚雨に言われて初めて――玖は「自我」を得た。
今までずっと、玖は稲雅と共にあると思っていた。「自分」は「土地」であり、此処一帯すべての"流れ"が自分を作っていると誤解していた。そうではなく、自分もまた郷土を生きる一匹の狐であり、肉体を持つ自己であるのだと知覚した。大気に紛れていた心が、ゆっくりと剝がされて、輪郭がはっきりとしてくる。
「楽しんで。玖」
きっと楽しめる、と思った。甚雨の言うように、楽しみたい、とも。
火尹が額に口づけを落とし、甚雨が頬へ接吻する。稲雅と繋がっていた血管のようなものがばつりと切れ、玖は肉体へと落下していった。希望の形は変わらない。両親を祝福し、郷土を愛し、兄弟たちや此処に住まう者たちへの恵愛も。けれども、願う幸せの器へ玖自身も入れてみたいと思った。器になるのではなく、器に入る「ひとり」になってみよう、と。愛されるという喜びを、祝福されるという吉日を、両親から貰ったからだ。
玖は目覚めた。
号泣する可愛らしい弟を見やる。自分よりも大きく、立派で、頭の良い伊那。きょうだいの名は皆覚えている。全部見て来た。火雨、伊南、怜、香、甚子、崑……それから――ああ、また少し眠くなってきた。今までよりも随分と視界が狭い。身体というやつは、なんて重たいのだろう。節々が痛む。
ぐらり、と体勢を崩す。真っ青な顔をした伊那に抱き留められて、目を閉じる。死なないで、と耳元で叫ばれると五月蠅くて敵わない。けれど、やはり抱擁されるのは、悪くなかった。
狐は夢を見ない。
夢幻とは、彼らにとって描くもので、魅せるものであるから。故に、狐は夢を見ない。狐の見る世界は何処までも真実だ。嘘つきになれるのは、誰よりも"本当"を知っている現実主義者だけ。騙し、惑わし、愛し、驚かせて、たらしこむ。
化かすのに長けた彼らは謀られるのを何よりも嫌う。虚偽を描くために真実を追究する――知恵の獣である狐にとってそれは、"敗北"を意味するからだ。
狐は夢を見ない。狐は、幻を魅ない。
けれども、玖は夢を"観ていた"。
美しく優しい、ひかりに満ちたあわいを彼は忘れない。
生まれ出づる数多の希望を抱きしめるために。
底の見える自分だけの器へ、あたたかな幸福を余すことなく注ぎ続けるために。
心地よい湯殿に、のぼせて困ってしまうくらいに浸かってやる。両親の元へ旅立つその時まで――いや、その後も懐抱の熱に浮かれながらこう言うのだ。
「ああ、楽しい」って。
2021/09/08 執筆
title by alkalism




