番外 花と夕日は燃えるもの
火急の用だというから、何事かと梦蝶の部屋へ急いだ朝暉を出迎えたのは「不機嫌です」と顔に書いてある梦蝶と、その横で困ったように考え込んでいる心恩の姿だった。
ヤバい。これ、帰ったほうが良くないか? と朝暉が思う前に、左右に控えた彼の従者が「朝暉さま、帰りませんか?」「濡もそう思います」とそれぞれ口にする。彼らの発言を聞いた梦蝶が術式を発動させ、背後の扉を封じるのは朝暉が反応するよりずっと早く、小と濡が扉を破壊しないように、さっさと中央の椅子に腰を掛けた。急いできてほしいと言われた段階で、良い話でないのは分かっていたけれど、ここまで殺気だった梦蝶を相手にするのは少々……どころじゃなくとても、骨が折れる。さて、どうしたものか――と思ったけれど、朝暉よりもずっとこういう時に適任の者が居た。
「めんどくさいので、早く説明してほしいです。姫様」
「……朝暉様は、暇じゃない」
心恩が驚いた顔でふたりを見る。朝暉は後で褒めてやらないとな、と思いながら小濡を眺めた。
トゲトゲしている梦蝶を見た時、心恩は梦蝶の不安の種を解消したいと思うだろう。朝暉は、梦蝶の神経を逆撫でしないように、どうやったらうまく話が出来るかを考える。咄嗟に気をつかってしまうのだ。それは礼儀であるし、思いやりでもある。
けれども、小濡にとって、梦蝶が不機嫌かどうかは関係ない。
彼らにとって大事なのは任務であり、朝暉だ。と言っても、梦蝶のことを嫌っているわけではない。好きであることと、任務を優先することは小濡たちにとっては矛盾しない。好きでも、愛していても、嫌いでも、憎んでいても、小と濡にとって大事なのは朝暉の意志と時間である。
だから、小濡は、この場にいる誰もが聞きにくいことを平然と口に出来る。
そして――実を言うとそれが最も、複雑な梦蝶の心を一番刺激しない問いだったりもするのだ。
気をつかわれる方がムカつく、という時が、人の心には存在するから。
「分かってるわよ。単刀直入に言うと、璃空が居なくなったの」
「へえ、家出か? お年頃ってやつ?」
「馬鹿言わないで。誰かが連れ去ったに決まってる!」
梦蝶は忙しなく部屋の端から端を行ったり来たりしながら、声を荒げる。心恩の労わるような視線と交わった時だけ、甘露茶色の瞳が悲し気に揺れるのを見ながら、朝暉は右足を折り曲げ椅子に足の裏をつけると、膝に手を載せた。濡が退屈そうに朝暉の背中にくっついて、小はこなたの髪の毛を整えながら「あの妹君を? 姫様の目を掻い潜って? 不可能じゃありませんか?」と呟いた。
「同感だな。梦蝶の守護の術に引っかからずに外へ出るなんて、そんじょ其処らのヤツには無理だろ」
「だから厄介なんじゃない。力のある妖の犯行なら……いったいどんな目に遭うか」
「璃空姫が大人しく捕まるようには思えません。暴れた痕跡は?」
「ないよ。それどころか、置き手紙まで用意があった」と心恩が懐から文を取り出しながら答えた。
それなら、家出じゃないか。なんだ、と拍子抜けする朝暉に、鋭い視線が飛んでくる。こほんと咳ばらいをして、剣を抜きかける小の手に右手を重ねた。あっさり柄から手を離し、手を握る小の笑顔にこたえて、朝暉が笑う。
「璃空ちゃんなら、梦蝶の警戒の術式にひっかからず脱出できる。自分から出て行ったと考えるのが普通じゃないか?」
「なんで出ていく必要があるのよ」
「……妹に聞いたら?」
ずっと押し黙っていた濡が不機嫌そうに呟くと、梦蝶がため息をついて寝台に腰かけた。心恩が労わる様に彼女の肩に手を置く。
「別に喧嘩したわけじゃないんだろ? 梦蝶ももうすぐ心恩と結婚するし、姉離れしようと本人なりに考えたのかもな」
そう口にしながらも、朝暉は何処かひっかかりを覚えていた。梦蝶の妹・璃空が、姉にべったりなことは此処に居る全員が知っている。警戒心が強く、どちらかと言うと内気で、いつも梦蝶の後ろを歩いている印象が強い女の子。その幼い振る舞いとは対照的に、璃空が浮かべる笑顔はどこか達観していた。
自分が姿を消すことで、家族に心配をかけると想像できないほど愚かな少女には見えない。捜索届けを出されたら大変だから、数日で戻ると手紙を書いたのだろう。でも、本来ならもっと準備を重ねるはず。それこそ誰にも気づかれないように、慎重に。
何か、想定外なことが起こったのか?
推測の域を出ない考えを脳内にちりばめて、結ぼうとして――やめる。
「麟庸」
朝暉が名前を呼ぶと、梦蝶の肩に止まっていた桃色の蝶が羽を震わせた。こなたの呼びかけには答えないと言うように、梦蝶の肩を飛び立ち、彼女の指先に止まる。梦蝶がふわりと表情を崩し彼の名を呼ぶと、瞬きの隙間に滑り込むような速さで麗しの妖が姿を現した。独特な衣装を着崩し、内側から漏れだす色香をそのままに微笑む男は、相も変わらず他の追随を許さない魅惑の美貌で周囲を見渡す。この部屋に誰が居るかなんてとっくに分かっているくせに「お揃いのようだね」と演じる麟庸を見て、朝暉はすぐに合点がいった。
「あんただな。璃空姫を嗾けたのは」
「なんですって?」
梦蝶が眉を寄せ、朝暉を睨む。今の「なんですって?」は、麟庸への糾弾ではなく朝暉への苦言だった。自分の契約妖への不名誉な冤罪に主である梦蝶が腹を立てるのも無理はない。もちろんその疑いが”冤罪であったなら”だが。
伸ばしていた足を折り曲げて、椅子の上で胡坐をかいた朝暉は麟庸を見る。夜の面影を覗かせる、焼けつくような章丹色は蠱惑的の一言に尽きるけれど、朝暉の日向色は彼の夕焼けを強制的に正午へ引きずりだす。失せた暮夜は恐るるに足らず。にっこりと微笑んでいた麟庸は興を削がれたとばかりにため息をついた。
「だったらなんだっていうの?」
「おお、開き直るね。主への離反と捉えられてもおかしくねぇな」
「まさか。僕は蝶々に、出来得る限りの協力をしているつもりだし、朝の君に兎や角言われる筋合いはないね」
“蝶々”ね、と朝暉は思案する。ちょうちょ。蝶々……。
ふと、思う。
術式はいわば回路。魔力の通り道だ。術式に魔力を流し込むことではじめて、術が発動する。魔力は、ただそれのみだけでは術にならない。魔術には正当な式が必要で、その式にどれだけの魔力を流し込めるかなのだ。
術を破る方法はいたって単純である。術に巡る純粋な魔力を何処まで自分のものに塗り替えられるかの勝負に過ぎない。力の主導権を握れば、容易く破ることができる。けれども、回路である式との相性がある。血管ではない所に血を流し込めば身体が崩壊するのと同じで、適切な位置に魔力を流さなければ回路は己のものにならない。だから術師は、妖と契約し回路を教えてもらうのだ。適切な管を手に入れるために。その位置と性質を、正しく捉えるために。
梦蝶の警戒の術式を破るのは、内部の人間であればそう難しくない。害する者から蘭家の人間を守るための術式であるから、そもそも家族であり、守護対象である璃空が出ていく分には発動しない。けれどもこの建物から出て行くときに多少の術式の揺れは存在するはずだ。その揺らぎを、見逃す梦蝶ではないだろう。けれども彼女は気づかなかった。
つまり、術式が揺らがないように璃空が出て行ったのだと推測される。そんなことが果たして可能なのか?
麟庸は”蝶々に出来得る限りの協力をしているつもりだ”と言った。
ちょうちょ。蝶々。――蝶と、蝶。
「麟庸。あなたもしかして、璃空とも契約しているというの?」
目を見開いて驚いている梦蝶に、麟庸が傅く。言わずとも、それは肯定を示していた。
麟庸と契約していると思えば、すべてに合点がいく。麟庸の術式は治癒と浄化。そして魅了。彼の管は何も、人体の修繕だけに特化しているわけではない。魔力のあるものすべてに作用する修繕の術だ。つまり――破られた術式を元に戻すのにも、最適と言える。
「ごめんね、蝶々。どうしても、”お願い”って頼まれたものだから」
「麟庸……。それなら一言、私に相談してくれたっていいじゃない」
事前にあなたから聞いていたら、反対なんてしなかったのにという梦蝶に、この場にいる全員が「いや、絶対反対しただろ」と思ったが、それは置いておいて。傍に控えていた小が「人騒がせな害妖……」と呟いたのを笑っていると「それで、璃空は何処なの?」と心恩が呟いた。
「東の雲と王都の間、稲雅の山」
――そりゃあまた、面倒な処へ。
そしてなんとも、丁度良く。朝暉は心の中で、静かに唸る。
璃空姫は引っ込み思案の、内気な女の子。そう思っていたけれど、どうやら違うかもしれないと朝暉は考える。今この瞬間、稲雅と縁を結ぼうとするのは、あまりに算盤ずくの選択肢だ。誰かの入れ知恵を疑う一粒選だ。が、梦蝶への麟庸の反応を見る限り、彼が考案したとは思えない。いくら契約主の選択だったとしても、梦蝶もまた主であるから、彼女の機嫌をわざわざ損ねるような振る舞いは麟庸の望むところではないだろう。では、誰が?
ううん、と唸りながら左右に身体を動かして腰を伸ばしていると、先日の会話が唐突に思い出された。
『――朝暉さま』
普段、璃空は朝暉を見かけても挨拶と、ほんの少しの世間話をして去って行ってしまう。恥ずかしがり屋なんだな、と思うだけで気に留めていなかったが、あの日は違った。朝暉を見るなり、挨拶もそこそこで、謎掛けのような問いを口にした。
「……”病魔や天災、殺戮を除いたら、最も恐れるべき死は何処にありますか?”」
突然、あの日の戯れを口にした朝暉を、梦蝶と心恩が目を見開いて聴き入る。麟庸が冷たい視線を此方へ投げたのを、こなたは見逃さなかった。
ああヤバい。これは、もしかして。
「おれのせい、かもしんない……」
左右に控えた小濡がすぐに、「違います。決めたのは璃空姫ですよ」と答える。
それが、"朝暉のせい”であることを証明する台詞に他ならないことを、こなたの従者以外全員が知っていた。
2021/08/13 執筆
title by alkalism