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蝶と心の魅る夢  作者: 藤波
後日譚 水晶と狐の魅る夢
14/22

第二話 実りの色の鮮烈の下

 「今すぐ帰れ」と突き放したい気持ちを堪えて、(キュウ)は「あー……」と言葉を探す。(やしろ)に住む同輩――少なくとも玖はそう思っている――相手ならば尻を蹴り飛ばして終わりにするところだが、相手は人間だ。しかもお貴族様と来ている。ここでキツイことを言って機嫌を損ねても余計に面倒が重なるだけだろうし、泣かれたら困る。

「えー……原因は? ……じゃなくて」

 俺で良ければ話を聞く、と言ったのは人生で初めてのことだった。


 ――あの玖が、お悩み相談!?


 伊那が今の玖の姿を見たら、大笑いするか「そんな気遣い出来たの、玖」と驚いただろう。勿論そんな態度を取った暁には、御自慢の尻尾の先が黒く焦げる羽目になるに違いないが。

 璃空は躊躇っている様子だった。話していいのか迷っていると言うよりは、どう説明していいか考えあぐねているようだった。無理やり聞き出す話でもないかもしれないが、一方的に追い出せない以上、譲歩の姿勢を見せるしか玖には策が無かった。何も泣きそうな子どもを突き放すのは気が引けるだとか、そういう人道的な問題ではなく、単純に結界を破って彼女を帰すには、それなりの協力が必要不可欠だったからだ。


 伊那の結界は非常に強力だが、それは「外の者を中に入れない」という一点に置いて効力を発揮する。「中の者を外へ出す」には、中の者の魔力を、伊那の術式に溶け込ませたうえで行う必要がある。

 数年前であれば、ある程度は自前の力でどうにかできたかもしれないが――今、枳族は著しく困窮していた。それは、こうして容易く璃空に侵入されていることからも言えるだろう。

 昨日は「返却だ」と突っぱねたが、枳家に彼女を送り返せるほどの力はない。


 意を決した璃空が、玖を見つめる。窓の外から差し込む光が、彼女の頬にひかりの道を作った。柔らかい檸檬色に晒された細い道で、細かな埃が躍るのを眺めながら、玖は息継ぎをする。吐息に塵が吹き飛ばされていった。


「……結婚するんです。姉さまが」

「へえ。おめでとう」


 軽く睨まれて、口を噤む。しまった。今のはナシ。璃空の冷え切った視線から逃れるように顔を逸らせて、玖が続ける。


(シン)家の嫡男だろ。山に引き籠もってる枳族でもそれくらいの噂話は知ってる」

「ええ。(シン)兄さまと」


 心兄さま、という名を告げた時、ほんの一瞬だけ璃空の瞳が穏やかになったのを、玖は見逃さなかった。

 透明の冷えた結晶のような女だと思っていた。新雪のようなすべらかな肌。やわらかで落ち着いた暖色の瞳。紫水晶の髪。華奢な身体。神経質そうな横顔はいつも張り詰めていたし、笑顔は無垢だが作りものだと分かるそれだった。からかって顔を赤くした時、ああ人形じゃないのかと思ったくらいだ。その時の僅かな"緩み"とはまた違う融解があった。

 春、凍り付いた湖の表面が静かに割れて、ゆっくりと沈んでいくような綻び。薄紅の唇が描く微笑は、年相応の愛らしさを飛び越えて、美しかった。玖を見ているようで、そうではない、優しく濡れた双眸に見覚えがあった。今はもう亡き玖の両親が、互いを見つめる時のそれと同じ。


 ――なるほど、と心の中で呟く。


 ひどく内臓の内側がむずむずする感覚に顔を顰めた。かゆい。どうしてかは分からないけれど、あまり気持ちのいい感情ではなかった。庭掃除の時、爪の間に泥が入った時に近い不快感。

 そんな玖の内情はつゆ知らず、璃空は所在なげに両の掌を合わせ、指を組んだり離したりしながら、再び言葉を探していた。焦れた玖が「それで?」と促すと、長い睫毛の先端同士が重なる。彼女が此処まで俯くのを見るのは初めてだった。


 急かしながらも、大方予想はついていた。子どもが構ってもらいたいがためにする問題行動だろう。皆姉ばかり注目するから、自分のことも考えてほしいと言う主張。十歳の子どもならあり得る、と思いながら、璃空の言葉を待つ。

 けれども彼女の口から、長考の末吐き出されたのは、もっと純粋な感情だった。


「……寂しくて」


 ――寂しい。

 それだけではないだろう、と咄嗟に思ったけれど、嘘のない言葉だった。寂しい。

 確か蘭家の長女と璃空は六歳ほど離れている。それほど年齢差があれば、喧嘩をすることもあまりないだろうし、可愛がられて育ったんだろうな、と玖は思った。玖も六人兄弟の長男だから、分からないでもない。年の離れた弟や妹には、特別優しくしたいと感じる。それが年長者の役割だとも、どこかで。



 ――とはいえ、寂しくて家出するっていうのは良く分からん、と玖は思う。


 姉が家から出ていくのが嫌なのだろうか。だが、避けられない未来だし、それなら星家に移住するまでの時間を大切にする方が建設的だろうに。そもそも死別するわけじゃないだろ――と、次々言いたいことが浮かんできたが、玖はあえて黙っていた。それが分からないほど愚鈍な娘には思えなかったからだ。


 全部分かっているけど、やりきれない。一見すると矛盾しているようなやり取りが、人間にはあると聞く。妖にも多少はあるのだろうが、玖には覚えがないから、すべてを理解するのは難しかった。俺たちと違って刹那を生きる種族なのだから、一番良い選択をすればいいのにと思う。が、出来ないから悩んでいるのだと返されればそれまでだとも納得する。

 もしかしたら璃空にとっては此処に来る選択こそ、最善なのかもしれないし……と考えて、昨夜やけに「婚約」に拘っていたのを思い出した。


「お前、まさか……姉が結婚するから自分もすればいいとか、そういう考えか?」

 姉が居なくなった家で過ごすのは寂しいから、自分も誰かと添い遂げればその空白を感じずに済むとか……そういう?

 やや愕然とする玖を見て、璃空が顔を赤らめた。

「そうではありません! ……私は枳族が困っていると聞いて、自分に何かできないかと」

「――誰に聞いた?」

 璃空と玖のあいだのひとりぶんを、彼の片手が飛び越える。床に向いていた横顔がはっと玖を見た。麦茶色の瞳に険しい表情の自分が映るのを無視して、冷え切った問いを繰り返す。

「誰に聞いた」

「それは……言えな――」

「言わないなら、こっちも手段を考えなきゃならない」

 璃空が息を呑むのが分かる。乱暴はしたくない。蘭家と揉めるのは面倒だし、子どもを傷つけるのは趣味じゃない。けれど、玖にも大切なものがある。こればかりは引けなかった。



 二千四百年もの間、(ニー)家の統べる稲雅山(いなみやびやま)とその麓の広大な土地は豊かな自然に恵まれていた。育てる穀物はすべて立派に育ち、四雲一美味いと謳われていた。

 人々は土地を守る(ニー)家を尊敬し、深く感謝した。村人は実った作物を惜しみなく献上し、潤沢な土地と共にひっそりと穏やかに暮らしてきた。

 土地妖である枳家は、稲雅山を離れれば力を損なうものの、山と麓の一帯にいる間は、例え七雲将――否、当時は八雲――をもってしても敵わないほど強かった。故に、先々代・雲王、黎明の統治によって国が大きく荒れた時も、村人は大きな打撃を受けることなく生き延びる。

 けれども永遠に続くかのように思えた平和も、二千四百の時を経て崩壊した。


 ――夜籠(よるごも)り、という現象がある。


 身体の中に眠る魔力が暴走し、本人の意志とは関係なく術式を発動させてしまう現象。辺り一帯に魔力と術式が満ち、地殻変動や災害を引き起こしたり、生態系が狂ってしまう場合もある。

 夜籠りが原因で、西に浮かぶ雲――西雲(サイウン)地方のとある国が、ひとつ滅びかけたこともある。先代日華王が訪れ、青星と共に西雲を救ったのはたった数百年前の出来事だ。

 

 "夜籠り"は、枳家でも起きていた。

 通常それは厄難をもたらす凶事になるはずだったが、枳家の嫡男の術式は"豊穣(ほうじょう)"であった。すべての実りを祝福し、促進させる回路。惜しみなく注ぎ込まれる魔力によって、術式は稲雅山の隅々まで張り巡らされ、栄養を送り込んだ。西雲は夜籠りのせいで窮地に追い遣られたが、稲雅山(いなみやびやま)は彼の"夜籠り"によって民の信頼と尊敬を得たのだ。

 勿論それは彼――及び枳族が進んで得たかった未来では無かったのだが、皮肉にも夜籠りが枳族を此処まで盛栄させたとも言える。

 ただ、夜籠りはあくまで魔力の暴走だ。制御不能なのだから、当然終わりも唐突だった。


 二千四百年続いた賑わいも夢のように消え、魔力の足りない土地だけが残された。

 枳族すべての力をもってしても、当時の豊潤を土地に与えるのは不可能だった。


 稲雅山の村人たちは、山ほどの作物を毎年収穫してきた。通常の土地では考えられないほどの量を植え、世話をし、育てる。枳家の加護により、害虫や冷害で大きな影響を受けたことは一度もない。失った年も同様の農業を行っていた。当然だ。だって今までは――二千四百年もの間はそうした育て方でも大丈夫だったのだから。

 まさか今年から不可能になるなどとは思っていないだろう。害虫対策も、土壌の栄養も、何か策を講じなければ収穫に大きな影響が出るなど夢にも思わない。


 とはいえ、枳族もこの二千四百年もの間、夜籠りの"終焉"を考えなかった日はない。

 いつか来たるその時のため、魔力を温存し継続的に保管してきた。だから、数年の間はどうにかなった。けれども、枳族の想像よりずっと、土地が喰らう魔力は多かったのだ。


 もし土壌へ術式が行き渡らなかったとして、稲雅山の村人が飢えることはないだろう。

 けれども、四雲国は稲雅山の収穫に依存している。王都で食される多くの作物がこの稲雅の里から輸出されている。もしその供給が減れば――王戦と重なって、どれほどの被害が出るか。枳族は頭を悩ませていた。


 早急にどうにかせねばならなかったが、それと同時に現状を報告すればどうなるか、枳族は警戒していた。妖は力がすべて。いままでは枳族が強かったから、稲雅山は不可侵の土地として扱われてきた。


 ……けれども、その"強さ"が揺らいだとしたら?


 伊那を含めた枳族のほとんどが、王都への報告に反対した。そんなことをすれば、王決めの混乱に乗じてどんな諍いが起こるか分からない。それよりも魔力を集める方が重要ではないか――というのが、伊那派の総意だった。

 都の民が飢えれば、稲雅山を攻めて来る可能性もあるのだから、どっちでも同じだし、玖はさっさと助けを求めたほうが良いんじゃないかと思ったが、却下された。


 "お前はまだ幼いからわからないだろうけど"――それが、彼らの言い分だった。


 実際、玖は自分が世間知らずなのを自覚していたし、考えるのは苦手だったから、まあ得意な奴に任せて、駄目だったらどうにかしようと思っていた。当然、枳族と稲雅の民を守るつもりで。



 伊那たちは必死に情報を隠していたはずだ、と玖は思う。

 あの神経質で臆病な狐がヘマをするとは思えない。何処から漏れた?

 渡るべきでない相手に情報が出回れば、本当に厄介なことになる。玖は焦っていた。


 璃空は一度目を逸らして、けれどもすぐにまた玖を真正面から見つめて来た。

 緊張と恐怖で顔色が悪かったが、怯えている態度は取らなかったし、泣きもしない。とても十歳の子どもには思えないな、と玖は思った。そういう自分も、年相応ではないと思いながらも。


「……友達の、妖に。困ってる一族がいるって」

「それだけでホイホイ来たのか。俺たちが見境なく人間を襲う妖だったらどうする」

「二千四百年もの間、この社へ留まり土地を守って来た枳族が、人を襲う理由が思い当たらなかったんです。奪えるのならとっくに略取していたでしょうから」

 玖は咄嗟に閉口する。それは、その通りだった。

 ……けれども納得いかない点がいくつもある。

「お前が俺たちを助ける理由はなんだ? そんな義理ないだろ。だいたい、姉の結婚との接点がまるでない」

「やることがあれば寂しさも紛れるかと」


 無茶苦茶だ。やぶれかぶれにさえ見える。

 姉の結婚が寂しいから働くって、どんな思考回路だよ、と玖は頭を抱えた。その"寂しさ"はもっと身近なことで解消すべきじゃないのか。掃除をするだとか、趣味に打ち込むとか。身体を動かすとか。買い物するとか……。

 王都から離れた山奥へ侵入し、知らない妖に求婚するのは、どう考えても割に合わない。というか、その決定で一生が左右されるかもしれないのに。もしや、断られるのは織り込み済みか?


「俺たち総出でもどうにもならない魔力をお前ひとりがどうにかできるわけない。さっさと帰れ」

「何故、やる前から決めつけるんですか」

「分かってるからだ。出来ないって」

「あなたに成せないことを、私がやり遂げるのが嫌なんですか?」


 玖は無言で立ち上がると、璃空の手を引いて部屋を出る。「いきなり何です」と不平を口にする彼女を無視して、まっすぐ伊那の部屋がある本殿へ続く小径を歩いていく。竹が並ぶ小道に差し掛かったところで、璃空が玖の手を振り払った。

 頭上に光る白熱の太陽が雲に隠れ、竹藪を闇に隠す。玖は目線を落とす。玖が無理やり連れだしたために、璃空は靴を履いていなかった。無言で跪くと、彼女の足裏を袖で払って、横抱きにする。

「なぜ何も」

 言わないのか、という璃空に玖は答えなかった。真白の瞳の奥に、燃えるような炎が見えるのに気づき、璃空も押し黙る。

 玖はそのまま道を進んだ。以降、伊那の部屋に着くまでふたりの間に会話は無かった。


「――伊那」

 引き戸を開け中に入ると、汚れた足のまま座敷を歩く。「ちょ……ちょっと、いいんですか、従者がこんな……」と小声で璃空が玖に声を掛けたが、彼は気にする様子もなく御簾を乱暴に潜り抜けた。

「伊那。今すぐこいつを元の所にもど……」

 誰も居ない。

 いやな予感がして入り口を振り返ると、玖と同じくらいの背丈の面を被った小姓が平伏していた。

「伊那は?」

「お出かけになりました。しばらく戻らないと」

「は? 何処にだよ」

「王都へ」

 ――はあ?

 これは一体、どういう類の嫌がらせだ。



◇ ◆ ◇ ◆



「ふざけんな……」

 璃空を抱きかかえたまま考えに耽る玖を見ながら、璃空は考えを巡らせていた。

 その後、話を聞いても、王都へ行ったという情報以外何も伝えられていないのが分かると、玖は従者をあっさり下がらせた。怒りをぶつけても仕方がないと思ったのだろう。かっとなるとすぐ手が出る性質だと推測していたけれど、玖は案外理性的だった。昨夜も今朝も。出来る限り譲歩しようとしてくれていることは分かっていた。それを璃空が受け入れないだけで。

「あの」

「……なんだよ」

「そろそろ離してもらえませんか」

 ああ、と今気づいたかのように簡単に解放される。向かいに座るのもなんだから、と横に腰を下ろした。玖はがしがし、と頭を掻いて、後ろにごろりと寝転がると、天井を睨みつける。きまずい雰囲気が流れたが、どちらもそれをどうにかしないまま、しばらく時間が過ぎた。


 沈黙を破ったのは璃空だった。


「……嘘をつきました。いえ、正しくは嘘は言ってませんけれど、本当のことも言っていませんでしたわ。……ごめんなさい」


 すみません、ではなくごめんなさい、という柔らかい謝罪に、離れの一件以降璃空を見ようとしなかった玖の視線が茶と交わった。震えた指先を隠すように握りしめる。どうやら話を聞いてくれるらしい。もう二度と耳を貸してくれない可能性もあった。璃空はほんの少しだけ安心して、息を吸う。


「力になりたかったのは本当です。困ってるなら、助けられたらって」

「自分は誰かに"ほどこす"側の人間だから?」

 してあげる。たすけてあげる。そういう立場だから?

 玖の言葉は淡々としていた。彼の怒りを受け取って、璃空はもう一度「ごめんなさい」と謝罪する。

「自分にも何かできるって思いたかったからです」

 玖が閉口する。璃空は自分の小さい掌を見て、苦笑した。

「私は一番幸せになってほしいふたりに何も出来ませんでした。すべて知っていたのに何も出来なかったんです。やったことは全部、ただ(いたずら)に姉さまたちを傷つけただけで」

「……」

「だからせめて、少しでも役立つと証明したかった。自分にはその力があると思いたかったんです」

「分からん。あんたが俺たちを救ったとして、証明になるのか?」

「なります。稲雅山を蘭家が救ったとなれば、おいそれと歯向かうものはいなくなる。星家も同様です」

 玖はため息をついて、璃空の方へ寝返りを打つ。畳についた手に、玖のやさしい吐息が触れて、少しだけくすぐったい。むずがゆさを押さえ、璃空は微笑んだ。深刻な話をする時、余裕があるような笑みを浮かべてしまうのは璃空の悪い癖だった。決して心にゆとりがあるわけではないのに。

「元々明けの雲の一員である、星家と星家の傘下の蘭家に手出しできる貴族なんていないだろ。幾ら王決めの時世だからって――」

「いえ。だからですわ。姉さまと心恩兄さまは、空水晶に選ばれた()家の朝暉さまと懇意にしています」


 空水晶持ち。日家の生き残りを名乗る男。……本物だったのか。

 世間知らずの玖も、朝暉という名前には聞き覚えがあった。先王日華の嫡子。破滅の祝詞を得た子ども。たしか少し前に流刑になって遠くへ飛ばされて、流行り病で死んだと聞かされていたが。璃空の口ぶりからすると生きていたということだろうか。

 どちらにせよ、璃空が必死になる理由が先ほどよりも明瞭になった、と玖は独り言つ。


「俺たちに恩を売って、日家に与しろと?」

「いいえ。そこまでは。ただ、姉さまと兄さまに何かあった時に、助けてほしいだけです」

 それだけのものを、捧げますから。

 璃空の瞳は揺らぎなく玖を捉えていた。

「助けになる奴なんて山ほど要るだろ。人間は群れるもんだし、蘭家の長女には七雲のひとりが付いてる。俺たちの出る幕はないと思うが?」

「病気や怪我は治せます。一角獣の治癒の力と、夢魔の血を引く麟庸さまの術式を借りれば、どうにか」

「……なら」

「でも、飢餓は?」


 病気は治せる。勿論、なんでも出来るわけではないけれど、それでもある程度の異常を治せるほど、麟庸の術式は強い。怪我も、魔力があればどうにかなるだろう。

 災害が起こった時、地殻変動が起きても、心恩の身体能力があれば、すぐに梦蝶を抱え上げて難を逃れられる。誰かに奇襲をかけられても、簡単に嬲られるほど、あのふたりが過ごしてきた時間は容易くない。朝暉さまにはお強い従者もいる。


 だけど、飢餓は無理だ。

 空腹は病気じゃなく状態だ。病気や傷でないから、治せない。精神にさえ介入できる麟庸の術式をもってしても、"お腹が空いていないように感じさせる"ことはできても、ひもじさを解決する方法はない。


 食べ物が無ければ人は死ぬ。賢くても、強くても、優しくても関係なく。等しく死ぬ。

 璃空は、それを恐れていた。


「……ふうん、稲雅山(いなみやびやま)の――俺たち一族の豊穣を手に入れようというわけか」

「お借りするだけです。力を貸した分だけ。対価には対価を、と父に教え込まれておりますので」

 寝転がっていた玖が手を使わずに起き上がる。白瑪瑙(めのう)の瞳が、柔らかく綻んだ。

「流石商家の娘」

「……」

 それは、最上級の賛美に思えた。


 ――同い年くらいで、しかも従者のくせに、本当に態度が大きい人。

 けれど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。もう慣れてしまったからかもしれないが。

 璃空の周りに彼女と同い年くらいの子どもは居なかったから、歳の近い玖に親近感が湧いていた。梦蝶と心恩は彼女の六つ上で、親戚は皆年上だったから、いくら璃空が意見をしても、それは子どもの発言に過ぎない。

 明確に璃空を軽んじるような態度を取る者はいなかったけれど、だからこそ、一見思いやりに見える優しい眼差しは時折彼女をひどく傷つけた。


 玖は貴族の子どもとして璃空を扱ったり、発言することはあったが、だからと言って対話を遮断する選択はしなかった。璃空が失言した時は別として、話を聞いた上で意見を口にした。場を和ませるために冗談を言ったり、その場限りの優しさで切り抜けようとしなかった。分からないことは分からないと言い、歯に着せぬ物言いをする彼は、失礼な人ではあったけれど、璃空にとって、傷つける大人でも無神経な子どもでもなかった。

「言い分は分かった。けど、やっぱりお前の手は借りない」

 だから、彼が頑なに良しとしない理由が気になった。璃空を問答無用で送り返さないのには意味があると信じていた。……最もその理由の半分は、枳族の力の衰退にあったのだが、それは彼女の知る所では無かったので。


「何故、と聞いたら答えてくれますか?」

「……こっちもだんまりってわけにはいかないか」

 玖は背伸びをして、深く息を吐いた。


「二千四百年の間、枳族は自分たちだけでこの土地を守ってきた。人間からの尊敬を得たのは、それだけ長い間、種族だけでこの土地を制してきたからだ」

「人間の手を借りると不都合があると?」

「……っていうのは、まあ伊那たちの理屈で、俺は正直どうでもいいと思う。土地も一族も民も守れるなら、手段はそこまで重要じゃない」

「だったら――」

「でも、あんたが飢餓が怖いと思ったように、食べ物はどんな対局でも重要な駒になる。それを持ってるか持ってないかで、力が変わる。兵力と同じくらい大切な」


 そんなことは分かっている、と思ったけれど、玖の瞳は何処までもまっすぐで、子どもに言い聞かせるような声色ではなかった。反論しそうになるのをぐっと堪えて、続きを促す。


「あんたがその駒を持ったとする。俺たちに"助け"を求めた時、優先して助けてもらえる人間になったとする。……周りは、あんたをどうすると思う?」


 璃空は口を閉ざす。玖が距離を詰めてくる。反射的に、後ずさった。玖は苦笑して、それ以上近づいてこなかった。胸が詰まる。声が出ない。たくさん考えたつもりだったのに、璃空は自分の考えがそれでも甘かったことに落ち込んだ。彼女の落胆を察した玖が「まあそうがっかりするな」と呟いた。


「あんたは賢い。怖い物知らずも行きすぎればただの馬鹿だが、ギリギリをあんたは何処かで分かってる。それは親の教育とあんた自身の人柄の為せるものだろう。だけど、あんたは十歳の子どもだ。良い様にしようとする奴なんて幾らでもいる。そういうクズは、あんたが賢くっても、どうにもならないやり方を選ぶ」


 それは――良く分かっていた。

 兄さまと姉さまは、"良い様にしようとする奴"のせいで、追い詰められ続けたのだから。


「あんたがもし騙されたとして、騙そうとしてくる奴らが悪い。あんたは悪くない。でも、そういう誰かの悪意を未然に避けられるなら、こしたことないとも思う」

「……はい」

「あとまあ……根本的な話だが。俺たち一族の魔力をもってしてもまだ足りないと騒ぐこの土地を、ひとりでどうにかってのは、やっぱり無理だろ」


 一番最初にそれをいえば済んだ話なのに、律儀な人だと璃空は笑った。

 本人もそれを分かっていたのか、バツが悪そうに視線を逸らす。あくまで璃空が納得する理屈を丁寧に話してくれたのだ。それは、多分璃空が十歳の子どもだから。彼にとって、守るべき対象だったからだろう。

 分かっていた。自分がまだ幼いことは。どれだけ賢く振る舞っても、背伸びをしても、大人にはなれない。でもだからこそ、出来る選択もあると信じていた。

 そうでないと、自分の力に振り回されてしまいそうだったから。


「……分かりました、帰ります。でも、その前に……迷惑をかけてしまったので、少しだけ魔力をお渡しできませんか。足しにはならないかもしれないですけれど、気持ちだけ」

「いや……」

「このことは秘密にします。伊那さまにも、両親にも言いませんわ。勿論、貸し借りも無しです。ただあなたが代わりに持っていてくれれば、それで」


 璃空が玖の手を掴む。彼女よりも少しだけ大きい掌に自分のそれを重ね、指を絡める。ふたりの両手を、淡く柔らかい空色のひかりが包み込んだ。朝の空から闇夜まで色を変え続けるきらめきを見つめながら玖は、体内を侵食し始める甘美な力に愕然とする。どろりと流れる蜂蜜が、身体の中で湯水のように湧き上がるのが分かる。


 ――蘭家の娘。類まれなる魔力の才を持った”天才”。

 てっきり、姉の方だと思っていたけれど、まさか。


 璃空は目を瞑り、繋いだ手に願いをかけるように額を寄せている。

 ああ、これは――予想外だ。

 玖は自分の姿が少しずつ変化(へんげ)しかけているのを感じ、璃空の耳に唇を寄せると、ふう、と息を吐いた。

「――ひょあ!?」

 驚いて璃空が目を開けた瞬間、青空がぱちんとはじけるように離散する。玖はずるりとその場に崩れ落ち、荒い息を整える。

 ……物凄い力だった。あと少しで、自我を失う所だった。

「なにするんです、危ないでしょう」

「璃空」

 繋いだ手を引っ張って、玖が初めて璃空の名前を呼んだ。鬼気迫る表情を見て取って、璃空が黙る。玖が言葉を続けようとするが、それはあっさりと遮られた。


「――わあ、やっぱり当たり」


 玖が起き上がり、座った状態で璃空を背中に隠すのと、伊那が玖の目前に現れるのは同時だった。急に現れた伊那に驚く璃空を置き去りに、二匹の狐が睨み合う。

「……僕が主なんだよね? 玖」

「気が変わった」

 袖で口を隠す伊那を挑発するように微笑む玖を、前髪に隠れた蒲公英(たんぽぽ)色の瞳が、真っ赤な炎を宿して断罪する。

「――"お前はまだ幼いからわからないだろうけど"」

 しゃがんだ伊那の指先が玖の顎を掴む。口から紅蓮の炎を吐き出すと、伊那の前髪が炎の勢いで舞い、顔があらわになる。璃空は息を呑んだ。彼の顔は、玖に瓜二つだったから。

 ちりちりと焦げた匂いがする。けれども伊那の顔には傷ひとつついていなかった。

「甘いよ、兄さん」

 そう微笑んだ伊那が、玖に口づける。見開かれた玖の赤い瞳は、ゆるりと閉じ、そのままぐらりと身体が横に傾いた。

「玖!」

 慌てて支えようとした璃空の手を、伊那が掴む。

「気絶してるだけ。大したことないよ」

「何を……」

 従者じゃないの? 仲間でしょう? 

 そう言い募ろうとして、先ほど言っていた伊那の言葉を思い返す。


 兄さん。目の色こそ違えど、瓜二つの容姿。


 この社には枳族しかいない、と言っていた。多少似ていてもおかしくない。先ほど会った小姓も、廊下ですれ違った従者も皆仮面を付けていたから、どれほど玖たちと似ているかは分からない。もしかしたら、この社に住むすべての狐が、似通った容姿をしているのかもしれないが、それでも……。

 伊那の「兄さん」という響きは、自分が姉を呼ぶ時の響きと同じだった。


「伊那さま、あなたは――」


 そう続けようとした璃空の目を、大きな掌が覆い隠す。

 玖とも璃空とも違う、おおきな――大人の手が、すべてを遮断するように。


 ああ、と璃空は思う。玖の言う通りだった。

 自分はこういう大人を、よく知っているはずなのに。知っていた、はずなのに。また、しくじった――。

 

 後悔し、彼に謝罪する璃空が、玖に重なる様に眠りについた頃。

 紅蓮に瞳を染めた獣がひとり、深いため息を零したのを、誰も知らない。

2021/08/01 執筆

title by alkalism

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