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蝶と心の魅る夢  作者: 藤波
後日譚 水晶と狐の魅る夢
13/22

第一話 結晶するような曳白

 小さい頃。ねむりにつく前には必ず、母さまの左右を埋めるようにして、姉さまとふたりで夢物語に聴き入っていた。少し怖い怪談や、教訓のような童話。妖精や妖が出て来る御伽草紙。そのなかでも、母さまの穏やかな声によって彩られた恋物語が姉さまの一等お気に入りだった。それも、見目麗しい王が大人しい女を見初める物語ではなく、穏やかで優しい王子が、純粋で勇敢な姫と苦難の末結ばれる筋書きを愛していた。「王子」と「姫」に誰と誰を当てはめて楽しんでいるのか、ふたりを知る者なら誰だって察せられただろうし、当然私もよく理解していた。

 姉さまは物語の「姫」のように勇敢で、美しく、たくましくて、強くて――。それは姉さまの幼馴染みである(シン)兄さまもそうだ。あのふたりはよく似ている。似すぎて怖いほどに。


 とある日。

 心兄さまと日中遊びまわり、すっかり疲れ切った姉さまが先に眠ってしまった夜。母さまが、ひみつを共有するかのように「今日は璃空(リークウ)の好きなお話を読んであげようね」と笑った。ふと、母さまの身体を挟んだ向こう側で、すやすやと寝入っている姉さまを見た。いつもの爛々とした大きな瞳は薄い瞼の下。さらりと流れた菖蒲(あやめ)色の髪の毛が額で踊っている。

 私は、姉さまが愛する物語の一片を母さまにねだった。

 母さまは「本当に良いの? 梦蝶(モンディエ)の好きな御伽で」と不思議そうにしながら、もう何度も詠んでいる恋物語を唄う。姉さまが何度も頼むから、母さまの脳内に、すでに王子と姫君の恋愛模様が染み込んでいる。いつも同じ読み方だとつまらないという母さまが毎度即興で入れる描写は、わざとではないのだろうけれど、私たちの良く知る”ふたり”をなぞらえた比喩ばかりだった。

 だからこそ、私は、母さまの話す、姉さまの好きな物語を愛していた。

 母さまの優しい声色に乗って、王子と姫が心兄さまと梦蝶姉さまになっていくのが好きだった。

 いつかこんな未来が来るのだと信じてやまなかったし、当然そうなるべきだと思っていた。だって梦蝶姉さまも、心恩兄さまも、互いを心から想い合っていたから。大好きと大好きは、つながる。幼い私は――(ラン) 璃空(リークウ)は、そう信じていた。

 

 けれども運命は捻じ曲げられて、誰かの都合と策略で恋は変容せざるを得なかった。

 誰のせいで。なんのために。どうして?

 そんな疑問と共に修羅へ進む姉さまと兄さまを見つめるしかない私は無力だった。どうしてこの手は姉さまの役に立たないの。どうしてこの足は、兄さまを助けられないのだろう?


 幼かった。あまりに。自分の無様な泣き声だけが反響する空間をやり過ごす一分一秒一刻が許せなかった。どうして。姉さまよりもはるかに褪せた紫――蕃紅花(サフラン)色の短い前髪が躍る。何で私は無力なの。


《私を抱きしめる女の両腕は震えていた。零れ落ちる涙が、美しい銀糸交じりの白い羽衣に染み込んでいく。美しく歪んだ双眸をついぞ忘れることなく、私は今年十歳になる。あの時の無力感を。焼けつくような暑さと共に味わった焦燥だけで、冷え切った十年を歩いてきた。》


 姉さまと兄さまは幸せにならなくてはいけないお人。

 だって、物語の最後は”めでたしめでたし”でなきゃ、ダメでしょう?


 そう、故にすべてを知った時――私は決めたのです。どんなことをしても夢を現実にしてみせると。

 いいえ、そうではありませんね。正しくはこうですわ。

 どんなことをしてでも、覚めない夢を描いてみせると、そう誓いましたの。


◇ ◆ ◇ ◆


「――と、いうことで、伊那(イナ)さま」

「え、え、えー……っと、はい……」

「私と夫婦(めおと)になってくださいませ」

「……う……う、うーん……」

「お返事は、はいかはいでお願いします」

「とりあえず、膝から……降りて頂きたく」

「お返事がまだですので」


 快諾していただけたらすぐにでも、と微笑む鈴蘭のような少女を、伊那(イナ)――(ニー) 伊那(イナ)は癖の強い長い前髪の隙間から見つめていた。少女がこの(やしろ)へ突然現れた時から、声はからからに乾ききっている。なのに、全身から噴き出す汗は止まることを知らない。このままだと新しい川になるんじゃないだろうか。薄い唐草色の着物を掴む手は白く幼い。伊那が生きて来た年月と比べるまでもなかった。只人の月日と並べても尚幼い。守られるべき子ども。

 考えるまでもなく答えは出ていた。はじめから。

「お断りします」

 璃空は怯まなかった。伊那は彼女が泣くのではと心配していたけれど、杞憂だった。璃空はひどく冷静に彼の顔を見つめた後、はあ、とため息をついた。

 え、と伊那は固まった。

 ――いまこの子、ため息をついたのか。何千歳も年上の妖に向かって、ためらいもなく。

「二千年以上山に籠もりきりだと言うから、もっと変わったお方だと思っておりましたわ。どうやら私たち、上手くやって行けそうですわね」

「いやごめん、どこらへんが?」

 全然上手くやっていけると思えないし、そもそも君、ほんの数秒前に大きなため息をついたよね、僕に。

 そう言いかけた伊那の唇めがけて、璃空が顔を寄せる。ぎょっとした彼が身体を大きく後ろに引いた。よろめいた璃空が彼の胸板に顔をぶつけそうになるのを、すぐそばでふたりを見つめていた従者が防ぐ。襟足をぐっと引き、まるで猫を持ち上げるように軽々璃空を引っ張り上げて、伊那から遠ざける。子どもに対する態度としても、そして女性に対する行いとしてもあまりにも乱暴な所作を、伊那が咎めた。

(キュウ)

「分かってる。“丁重に”だろ」

 耳タコだ、と呟いて、仏頂面の玖が璃空を抱え上げるのと、「なにするの」と彼女が反抗するのはほとんど同時だった。零れ落ちそうなほど透き通った薄茶の瞳が玖を睨む。強い眼差しだった。泣いたり喚いたりせず、じっと彼が自分に従うのを待っている。今まで玖が関わって来たこの社の者たちとはまったく別の"戦い方"だった。声を荒げず、手を出さず、ただじっと耐え忍ぶように、此方を見つめるだけ。少年はほんの少しだけたじろいだ。

 ――殴られれば殴り返せばいい。泣き叫べば口を塞げばいい。

 玖はそうやって誰かの敵意や意志をねじ伏せて来た。このやり方が一番容易かったから。一度こてんぱんにやっつければ、反抗的な者もしばらくは大人しくなる。それに、ある程度身体を動かすのはこの狭い山にすむ一族の鬱憤を晴らすのにちょうど良かった。だから、今までそういう手法しか取ってこなかったのだ。

 見つめるだけで相手を意のままに操ろうなんて無理だろう。

 暴力を振るわず、叫ばず、ただ静かに甘露茶色の双眸で玖を見つめるだけで、従わせようなんて甘いと思った。要望を素直に聞いてやるほど玖は優しくない。玖と少女は玖と伊那のような主従関係でもない。それなのに、どうしてか玖は考えあぐねていた。迷う必要などどこにもないはずなのにそれでも、くだらないと一蹴するにはあまりに真摯な眼光だった。


 揺らぐ玖を見て、伊那はなるほどね、と――あくまで心の中で独り言つ。

 なるほどどうやら、自分が思っていたよりもずっと……これは。


 口元が緩むのを隠すように袖を寄せると、結局根負けしたのか、面倒になったのか、玖がそっと璃空を床に下ろした。

 璃空は「ありがとう」と爽やかに微笑むと、襟元や、ほんの少しだけ乱れた足元を品よく直してみせた。一連のやり取りをすべて"なかったことに"するような流れる仕草。更に玖が面食らっているのが分かる。

 伊那はなるほどね、ともう一度心の中で頷いたが、彼の言わんとすることを理解したらしい玖から、鋭い矢のような視線が飛んできたので、前髪を整えて顔を隠した。怖い怖い。

 「璃空」と不機嫌な玖の声が飛ぶ。

 その低い声にも怯まず、「従者に呼び捨てされる筋合いはありません」とやんわり璃空が苦言を呈する。軽くため息をついて、短い襟足をひとつにまとめた白紐を片手で弄りながら、玖が咳ばらいをした。

「……姫様、子どもはもう寝るじか……もう遅い時間ですので、お休みになったらいかがですか?」

「失言は聞かなかったことにしましょう。では伊那さまと眠りますわ」

 ひっくり返りそうになるのをぐっと堪えて、今度は伊那が咳ばらいをする。

「離れに用意をさせたから、そっちで寝ると良いよ、璃空姫」

「いえ、私は――」

「いくらあんたが子どもだと言っても、婚前の……しかも貴族の女――」

 「女性」と伊那が呟く。じろり、と伊那を一瞥し、玖が再び少女へ目を向ける。

「……女性が、今日会ったばかりの男と共寝なんて、家の品位に関わるんじゃないか……ですか」

 滅茶苦茶な敬語を適当に紡いで、玖が璃空を見下ろしている。両腕を組んで。なんでそう威圧的かなあと思いながら、伊那はこめかみを押さえた。

 玖……もっと優しく言えないの? 人には伝わりやすい言い方っていうものがあってさぁ……。っていうか、品位とか女性だからとか、どうでもいいし古くさいよ。そうじゃなくて、そもそも寝室自体が物凄く個人的な場所だから、よく知らない他人と共有するのは双方あらゆる面で抵抗があるよね、てか僕は物凄くあるので辞退させて頂きますって話で……いや、どうしたもんか――と言葉を選ぶ伊那を無視して、玖が更に言葉を続ける。

「あと伊那は寝相がすこぶる悪い。怪我するからやめたほうがいい」

「えっそこ?」

「そうですか。ではお言葉に甘え、本日は離れをお借りしますわ」

「納得するんだ……」

 っていうか僕、そんなに寝相悪いんだ……知らなかった。教えてくれればよかったのに。ひどい。

 ちょっと泣きそうになりながら、玖に連れられて部屋を出ていく璃空へ微笑みかける。璃空は「おやすみなさいませ」と麗しく挨拶をして、颯爽と退出していった。とても部屋へ強引に入室し、あげく伊那に飛びついてきた女の子と同一人物とは思えない。どこまでが演技で、どこからが素なのだろう。


 貴族はあまり得意ではない。

 伊那も、玖も、この(やしろ)に住むすべての者たちがそうだ。もっと言うなら、山に住む妖の多くがそうだろう。都に居を構えている妖は人に好意的だが、山や地方でひっそりと暮らす妖は、貴族を――王都を避けている。今は王決めが始まったばかりで情勢が悪いし、それに――もう何百年も前のことだが、刹那を生きる人とは異なり、今も尚生き続けている長命の妖にとっては、先代日華の前王、妖最強と謳われた黎明(レイメイ)の時代の記憶が鮮烈に残っているからだ。


 人間の貴族は信用ならない。蘭家でなければ、何かと理由をつけて門前払いするところだ。

 蘭家は商家として――そして、類まれなる魔力の才を持った”天才”の娘がいる一家として有名だった。妖を魅了する美しい魔力を体内に秘める娘。あの七雲の麟庸さえも降したというのだから、その実力は推して知るべしであろう。

 だが、それでも(ニー)家が"いつも通り"であれば、璃空の来訪を拒絶した。この社は普通の人間は立ち入れぬ結界が施された、いわば(ニー)家の"領域"。一族以外の者を阻む"妖"と"人"の住まいを隔てる川は容易く渡れないほどに深い。

 (ニー)家はこの一帯を統べる領主でありながら、麓に住まう人とは直接関わらずに生きて来た。人々は土地を守る(ニー)家を尊敬し、畏怖を込め作物を献上する。(ニー)家は、その信仰と献身に報いて土地へ豊饒を授ける。それが古からの取り決めであったし、(ニー)家は二千四百年と少しのあいだ、その統治の仕方を守り抜いてきた。


 ――だがそれも、二千四百年と少しのあいだまでの話だ。




 後ろ手に扉を閉め、部屋を眺めていた璃空に玖が近づく。

 璃空が物音に振り向く前に、細く幼い手首を掴んで軽く引っ張り上げた。つま先立ちになった璃空に顔を寄せる。僅かに表情が硬くなるのを見て取って、玖は目を細めた。冷ややかな玖の灰色の瞳が、璃空のあまったるい瞳に映る。麦茶みたいだな、と頭の端っこで玖は思った。

「なんです」

 璃空は怯まなかった。あくまで冷静に、吐息を感じるほど近づいた玖の顔を眺めていた。

「何を知ってる」

「何とは?」

 質問を間違えた、と玖は舌打ちをしたい気持ちになった。これでは"何か"を隠していると自白するようなものだ。伊那と違って玖は頭を使うのが上手くない。騙し合いや言葉遊びは苦手だった。けれども、璃空が何かを――もっというならば真実を握っている確率は限りなく高かった。でなければ、無邪気な子どものふりをして伊那に口づけを迫る理由が分からない。接吻が好きな酔狂な子どもか、或いは。

「気になるのでしたらお好きに」

 可憐に笑う少女の余裕を、玖は笑った。あっさりと手を離すと、ふらついた身体が容易く背後の寝台に沈む。青みの強い、淡い紫水晶のような髪がすべらかな白い布に散らばった。十分すぎる答えだった。玖は扉の装飾に手を掛けて、部屋を後にしようとする。

「――あら、案外小心者ですのね」

 少女が発したの中で、最もとげとげしく挑戦的な発言だった。

 玖は扉をほんの少しだけ開けた状態で振り返ると、寝台に座り此方を睨んでいる少女に向かって笑ってみせる。

 今日少年が浮かべた表情の中で、一等楽しそうな不敵な笑みだった。

「"知っての通り"俺たち(きつね)は共犯者としか口づけをしない」

 璃空は驚かなかった。矢張り知っていたか、と玖は思う。


 この社に住む妖……狐の一族は皆、たったひとりの共犯者を選んで添い遂げる。口づけという契約を交わし、死ぬまで互いのみを生涯の相手とする。嘘のない、清らかな関係。故に"共犯者"。信頼できる友人であり、愛する家族であり、焦がれる恋人であり、唯一自分を傷つけられる(やいば)でもある存在。すべてを担うその複雑な関係の始まりは、勿論心が伴っていなければ約束の形を為さないのだが、そこまでは知らなかったのだろう。もしくは知っていながらも、一か八かくらいの気持ちで伊那と接吻しようとしたか。どちらにせよ、あまりに――。

「……」

「あんた、思ったより子どもっぽいんだな」

 かあっと白い肌に朱が差すのを、玖はしっかり目に焼き付けて扉を閉めた。バンッ、と大きい振動と共に、切り硝子の窓越しに白いモノがぶつかって落ちる。枕投げとは、矢張り子どもっぽい。さて、明日の朝、帰れと言って素直に帰るんだろうか。骨が折れそうだな。そもそもどうやってきたんだ――と考えながら渡り廊下を歩いていると、部屋から出て来たらしい伊那が玖を呼び止めた。

「玖」

「なんだよ」

「僕、(あるじ)なんでしょ?」

「……なんですか」

 舌打ちをしながら言い直した玖を見て、伊那が噴き出す。鋭い目がぎろりと伊那を睨む。居心地が悪そうに、玖の足の指がせわしなく動いていた。足袋越しであるから、伊那には二股が交互に動いているようにしか見えないのだが。

「どう? 蘭家の」

「どうってなんだよ」

「貰う?」

「あ?」

 だって、魔力持ちでしょ、という伊那の無邪気な笑みを見て、はあ、と玖がため息をつく。

「帰す」

「えー……」

「返却だ。貴族に喧嘩売ってどうする。麟庸が入れ込んでる家を相手にするのは面倒だ」

「そんなこと知ってるよ。上のお姉さんの許嫁、腑抜けだって聞いたけど、腐っても(シン)家だからなぁ。一連のごたごたを見る限り、どうも複雑な事情がありそうだし……」

「頭が痛くなるからもういい」

 ひらひらと手を振って伊那の横を通り過ぎようとするけれど、大きな掌が玖の二の腕を掴む。木の根のように絡みついて離れない。何キレてんだよ、と思いながら、掴まれていない手で結んだ髪を人差し指に巻き付かせて、くるり、と回す。バツが悪い時の癖だった。

「手段を選ぶ余裕が僕らに残ってると思ってる?」

「……いざとなれば――」

「それは"ナシ"っていったよね」

 口にするのも許さないというような強い声だった。「ナシだよ、玖」と繰り返す伊那の顔が、紐で括りつけた狐の面と全く同じになって、玖を見下ろす。白い狐の裂けたような大きな口が、がぱりと開かれる。玖は奴袴(ぬばかま)を履いた下半身を大きく動かし、威圧する伊那の脛を思い切り蹴り飛ばした。玖よりも遥かに重い布を幾つも羽織った伊那は、簡単に体勢を崩し、背後の壁に頭をぶつけた。

「いったぁ~~~!!」

「うるさい。もう寝る」

「本当に返しちゃうの?」

「寝る」

 頭を擦っていた伊那の顔が凍り付く。

「玖」

「おやすみ」

 伊那の言わんとする内容は分かっていた。それだけに、玖は会話を切り上げると、そのまま廊下を進んでいく。あの箱入りの姫さんは果たして眠れるのだろうか、と思いながら、髪をほどく。

 さらさらと流れる真っ赤な髪が、色んな方にくるくると跳ねた。夕焼けよりも派手な色は、白を基調とした社の中の唯一の極彩色。鳥居を思わせる紅蓮。

 ――ああ、眠い。とても。

 急に耐えがたい眠気に襲われる。心地よく、だからこそ恐ろしいほどの睡魔。このままだと立っていられなくなる。流石に廊下で寝るのはマズい、と思いながら、近くの扉を開け中に入った。

 眠い。とにかく眠かった。わぁわぁと騒ぐ声を無視して、寝台に四肢を投げる。あとはもう、白い夢のなかだった。


◇ ◆ ◇ ◆


 瞼を開けた(キュウ)の瞳に飛び込んできたのは、陽の光を浴びて煌めく白い頬と、観察するような無防備な視線だった。薄い唇の隙間から吐息が漏れ、ごくごく内側が僅かに震えている。

 驚いてはね起きると、敷布を巻き込んでそのまま両足を残して寝台から滑り落ちる。無様に天井と向かい合わせになった玖に「大丈夫ですか?」とあどけない表情で微笑む璃空から顔を逸らし、玖は昨晩の記憶を丁寧にひとつひとつ拾っていく。


 たしか、伊那と無駄話をしていたせいで余計な体力を使い、それからはあまりの眠気に朦朧としていて――このままではマズい、と適当な部屋に入った。やけにうるさいと思っていたが、従者の誰かの小言だろうと相手にしなかった。最悪部屋に運んでくれるだろうと甘えていたけれど、まさか部屋の主が璃空だとは。しくじった。


 伊那との共寝を批判した手前、非常に居心地が悪い。自分が悪いのだからさっさと謝るべきなのだが、そもそもごめんで済むことなのだろうか。相手は人間。さらに貴族と来ている。昨日(さくじつ)の己の発言を思い返しながら、どう誠意を見せればよいか考えあぐねていると、床に上半身を投げ出したまま動かない玖に「よく眠れました?」と璃空が言葉を続ける。

 どう答えればよいか分からず頷けば、手を差し伸べられた。数時間前までの険悪な雰囲気は、なりを潜めるどころか真逆の風を纏ってふたりを包んでいる。断る理由もない白い手を反射的に掴めば、思っていたよりも強い力で身体を引っ張り上げられた。くしゃくしゃになった敷布が璃空と玖の隙間を埋めるように波打ち、それがまた玖を複雑な気持ちにさせる。

「怒ってないのか」

 不適切な質問だったが、璃空があまりにもご機嫌にみえたので、玖はおそるおそる口にするはめになった。あくまでふさわしくない文脈だとは分かっていたので、しぶしぶといったていは崩さずに。

「怒る? (わたくし)が?」

 そんなわけないでしょうときっぱり言い切って、璃空は突然寝台を降りると、掛けていた薄手の着物を羽織った。玖に背を向けたまま中の寝衣を脱ぎ去ると、衣紋掛けに掛け直す。何故怒らないのか玖には見当もつかなかったが、あっという間に身支度を調えた璃空が不敵な笑みを小さな顔にぺたりと貼り付けた時、嫌な予感がした。

「むしろ寝物語のひとつでも語り聞かせて差し上げればよかったわ。私、諳んじるのには自信がありますから」

「寝物語……」

「ええ。"子ども"にはぴったりでしょう?」

 カチン、と頭の何処かで音がした。

 ああ――なるほど? と玖はひくりと引きつる唇を上手く隠しながら璃空に微笑みかける。してやったりという訳か。そういうところが子どもっぽいんだと畳みかけたかったが、今回に限りは玖に非がある。年長者として謝れないのは恥ずべき行為だと考えて、彼は「悪かった」と早口で呟いた。

 玖は当然乗ってくると思っていたのだろう。拍子抜けしたように璃空が此方の様子を窺っていた。

「悪かった。信じてもらえないかもしれないが、あんたの部屋だとは思わなかった」

「出て行ったばかりだったのに?」

「伊那と話してて……眠くて……とにかく、前後不覚ってヤツだった」

「省略しすぎじゃありません?」

 長く語ると言い訳になると思ったからだが、それを説明するのもまた蛇足だと思い、玖は押し黙った。璃空は深くため息をつくと、依然と寝台から動かない玖に近づいてくる。

「まあいいです。何かされたわけでもないですから」

「いいのか、そんなで」

 貴族だろ、とまた言いかけて辞める。眉を吊り上げた璃空が「許してほしいのか、そうじゃないのか、どっちなんですか?」と咎めた。

「謝ったのは悪いと思ったからだ。許してほしいからじゃない」

「……変わった人」

 璃空は玖との間に人ひとり分くらいの距離を置いて寝台に腰かけた。長い髪は綺麗に二つのお団子になって、髪飾りと同化している。

「まあいいです。許してあげましょう」

「どうも」

「その代わり、しばらく私を此処に置いてください」

「それは無理。すぐ家に戻す。あんな夜中に単身で来るなんてどうかしてるぞ。家出同然じゃないか」

 本当にどうやってきたんだよ、と呟く玖の顔を、また"あの目が"見つめている。黙って、ただ熱心に見つめるだけですべて意のままにしようとする、傲慢と誠実が混ざった不思議な視線。どうして自分は"これ"に弱いのだろうと思いながら逃げようとして――辞める。

 ぐらぐらと、泣きそうに麦茶色が揺れているように見えたから。

「……まさか」

 その三文字を口にした途端、璃空の唇までもが震え始める。うわあ、と一気に重たい気分になりながら、信じがたいが確認せねばならない事項を口にした。

「家出してきたのか?」

 こくり、と可愛らしい頷きと共に、朝を告げる鳥の声がチュン、と聞こえた。

2021/07/29 執筆

2021/11/18 加筆修正

title by alkalism

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