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蝶と心の魅る夢  作者: 藤波
蝶と心の魅る夢
1/22

第一話 蝶結びを引く嵐

挿絵(By みてみん)

「――いま、なんて?」


 聴こえなかったわけではない。

 自分がたった今幼馴染に何と告げられたのか理解できなかっただけだ。


 三度の飯――四雲で一番美味しいと話題の紋香亭(もんかてい)の焼饅頭よりも、この国の者であれば誰でも特別な気分になれるだろうと言われている天地祭よりも、十年の付き合いになる幼馴染兼婚約者との月に一度の茶会よりも読書を愛する彼が、一冊も本を持ってこなかった段階で嫌な予感はしていた。梦蝶(モンディエ)は今すぐ気を失って、すべて聞こえず、先ほど始まったばかりの久しぶりの邂逅を最初からやり直せたらと思ったけれどそうもいかない。心恩(シンアン)は先ほどと全く変わらない、いつも通りの穏やかで優し気な表情で、信じられない台詞をもう一度繰り返す。


「僕との婚約をなかったことにしてほしい」


 二度そっくりそのままの言葉を口にされたら、流石に聞き間違えたという言い訳は使えないだろう。感情の起伏が激しい梦蝶とは反対に、彼は常に静かでおとなしい。故に何を考えているのか分かりにくい。けれども、理解できないわけではない。なにせ十年を超える付き合いなのだ。いままで生きて来た人生の半分以上を共に過ごしてきている。十二を越えてからは婚約者らしい距離感で接するように両親に言われたために、ふたりきりで会うのは月に一度、それ以外は(ふみ)で近況を伝え合うか、第三者を伴っての逢瀬にするようにと決められたけれど、それまでは同じ部屋で過ごし、一緒のベッドで眠りにつき――これは物凄く幼い時の話だが――共に水浴びだってした仲だ。時間が関係性のすべてを定めるとは思わないが、少なくとも周りの誰よりも彼を理解しているし、彼もまた梦蝶を深く理解してくれているだろうと、彼女は驕っていた。

 そう、驕りだった、と梦蝶は思う。

 もし彼が梦蝶のことを真実理解してくれていたのなら、そんな台詞は絶対に口にしないだろう。


「なぜでしょう」


 梦蝶は今すぐ泣き喚いて心恩を糾弾したい気持ちを留めて、笑顔を浮かべる。作り笑いだとすぐに分かる出来だろうが、そう察してくれればむしろ好都合だった。婚約破棄だなんてありえない――そうわざわざ口にしなくとも、彼の要求に不満であると態度で示せる好機だ。

 けれども心恩は梦蝶の質問には答えない。


「十一年前に、僕が梦蝶と結んだ約束を、破棄したい」


 なかったことにしてほしい、から破棄したい、に言い換えた理由は何だろうと梦蝶は思う。深くため息をついて、彼の凪のような瞳を眺めた。金糸のまなこからは何も読み取れない。完全にお手上げだった。

 他人行儀な言葉遣いは辞める。最早ただの強がりでしかないから。


「口で破り捨てられるような約束(もの)じゃなかったと思うけど。きちんと書面で結んだ契約だったはずでしょう?」

「……ううん。口で無きゃ意味がないんだ」


 その時初めて、心恩が柔らかい表情を崩す。困ったような、何とも言えない顔だった。梦蝶が彼の前で泣いたときに、必ずする顔だ。


「騙していてごめん。あの紙は、正式な契約書じゃない。だから、正確には書類上僕たちはなんの関係もないんだよ」

「なにを……いってるの?」


 正式な契約書じゃない。書類上、なんの関係もない。つまり――婚約者ではなかったということ? あの日から一度だって?

 ――そんな馬鹿な話があるわけがない。


「良くみないと分からない細工をしたから、気づかなくて当然だと思う。わからないように、偽装したから」

「なんでそんなことを」

「……それは、言えない。でも、ごめん。……だから、梦蝶とむすんだのは口約束だけなんだ」


 だから律儀にも、その唇から生む言葉でとどめをさそうというのか。


 めまいがする。

 もう我慢ならなかった。理由を聞き出すまでは――もっというのならば「今のは全部悪い冗談なんだ」と彼らしくもない嘘を紡いでくれるまで我慢しようと思っていたのに、心恩は梦蝶の希望とは正反対の事実を口にした。何もかもが無理だった。十一年間、彼と添い遂げるために梦蝶がしてきたことだとか、何としてでも叶えたかったものだとか、友人との約束が走馬灯のように浮かんだ。そのすべてが意味のない行為だとは思わない。思いたくない。けれども、ここまで梦蝶に興味がないとは。十一年間共に居て、ふたりの間に恋がなくとも愛はあると感じていたのは錯覚だったのか。本の次で構わない。いや、本の次の次。いや、次の次の次でもいい。彼の好きの末席に、自分の居場所があると信じていた梦蝶が浮かれていたのだろうか。頭痛が酷くなって、立っていられなくなる。こんなの可能(アリ)だろうか。


 膝から崩れ落ちるのと、心恩が梦蝶の名前を呼ぶのはほとんど同時だった。

 けれどもその前に気を失っていた彼女が、彼の焦った声を聞けるはずもなく。

 梦蝶の意識は闇よりも深い絶望のさらにその先まで落下していったのだった。




 たしかに、あの日心恩は梦蝶に約束した。

 今でもはっきりと思い出せる。


 うだるような暑さの先に辿り着いた、凍り付くような王座の前で。感情のない王の瞳の中で心恩が梦蝶に跪いて、今までで一番辛そうな、泣きそうな顔で呟いた言葉を。一字一句、忘れたことなんてない。


「僕の婚約者になってほしい」


 震えた言葉が大理石を滑って、梦蝶のつま先に触れる。足首を伝い、お腹を通って心まで辿り着いた感情は――猛烈な、怒りだった。


 あの時から梦蝶は、彼を必ず幸せにすると誓った。

 二度とこんな顔をさせない。こんな、見る人の心をずたずたにするような笑顔、させたりしない。

 この人はただ、ああでもないこうでもないと大騒ぎする梦蝶の横で読書をしていればいいのだ。誰も咎める者のいない、彼の指先を止める厄災のない場所で活字を追っていればいい。梦蝶のことを見なくても構わない。好きになってもらわなくったっていい。たくさん言葉を知ってるくせに、ふたりきりの時に気の利いた台詞ひとつ言えない彼でいい。


 私が必ず守る。

 その気持ちを込めて、彼の心に誓ったのだ。


「喜んで」


◇ ◆ ◇ ◆ 


 頬に髪の毛が張り付くほどに馬車の中は暑く、じっとりと蒸れていた。


 太陽の日差しに晒されたせいか、窓から入ってくる空気はとても爽快とは例え難い温風だった。かといって閉め切るわけにもいかず、梦蝶は仕方なしに縁に寄りかかる。幼馴染の心恩は全く気にならないと言わんばかりにご機嫌で、いつも通りの穏やかな表情で読書をしている。毛先のみ柔らかな薄紅に染まった栗色の髪から、透明な汗が滴って落ちる。金糸の瞳は古ぼけた紙に記された活字を追って、上から下へと忙しなく動いていた。眠くなる様子も、中断するそぶりもない。

 互いの母親と梦蝶の生まれたばかりの妹はすぐ後ろの馬車に乗っている。ちょうど梦蝶と心恩くらいの時――つまりは六歳から――の友人だというから、おおかた話に花を咲かせている頃合いだろう。父親たちはすでに現地で悠々と釣りをして過ごしている。つまり、梦蝶と心恩は、狭くはないが広くもない馬車でたったふたりという訳だ。せめて話し相手になって、この暑さから意識を逸らせる手助けをしてくれてもいいのに、と梦蝶は思わないでもなかったが、今この状況で、雪女がお手製夏氷を出してくれたとしても、心恩は見向きもしないで読みかけの書物の続きを選ぶだろう。梦蝶が貪るようにかき氷を食べる横で、同じくらいの勢いで活字を食す彼の様子が容易に想像できて、梦蝶は思わず笑いを零した。

 梦蝶も読書好きであれば、彼と共に新作の感想を交わしたり、心恩の知らない書物をおすすめしたり、『読書談義』が出来たかもしれないが、あいにく梦蝶は活字の類を見ると眠くなる(たち)だし、推理小説を読んでいても、情報集めや謎解きを楽しむよりも犯人を早く知りたい人間だ。数百ページに渡る冒険活劇を登場人物と共に楽しむよりも、最終ページで描かれる彼らの旅の終わりを見守るほうがどきどきせずに済む。父親には呆れられ、母親にはため息をつかれたけれど、そんな彼女を心恩は馬鹿にしない。「どんな話なの?」と彼女が聞けば、必ず梦蝶が飽きないように短く、けれどもその本の良さを読んでいない彼女にも伝わるように語ってくれる。梦蝶は心恩のそういう所を好ましく感じていた。もっとも、彼女が居ても居なくても変わらず活字の世界で楽しそうにしている彼は、梦蝶のことなどなんとも思っていないだろうが――それでもまあいいや、と思っている。寡黙で穏やかな彼の横でただ座っているのも、悪くない。

 そう、いつもなら悪くないのだが――今日は、少々暑すぎる。流石の梦蝶も、何もせずぼうっとしているだけでは耐えられそうになかった。眠ってしまうかもしれないけれど、これなら心恩のように何か暇つぶしになるものを持ってくればよかった――そう姿勢を崩した時だった。馬車が大きく揺れて視界が傾く。何が起こったのか分からず口を開く梦蝶を、さっきまでのんびり書物を読んでいたはずの心恩が強く引き寄せた。自分のと大差ない白い腕は、けれども自分より少し逞しく感じて目を開く。


「口を、閉じていて」


 早朝に挨拶を交わしてから二度目の会話が「口を閉じていろ」だなんて随分だ。けれどそうも言ってられない。動揺で叫びそうになるのをぐっと堪えて心恩にしがみ付くと、彼は馬車が横転する前に、梦蝶を抱えて窓から転げ落ちた。ものすごく痛いだろうと覚悟していたのに、不思議と痛みはない。心恩が庇ったのだ。


「心恩!」


 酷い怪我をしているのではないかと心配したけれど、彼は無傷だった。華麗な受け身で地面に落下し、梦蝶をおろすと立ち上がる。よろめくことなく立つ心恩の前には、血を流して倒れている馬と、動かない馬主、そして大きな剣を持った数人の大人たちの姿があった。少し離れたところで、呆然と馬車が停まっているのが見える。梦蝶の母親たちのだ。此方とは違い、急停止しただけでひっくり返らずにはすんだらしい。


「戻れ! 州境の検問所で、人を呼んでくるんだ!」


 心恩が聞いたこともない大きな声で馬主に指示を出す。男たちが焦ったように馬車に近づいていくが、あと一歩のところで遠のく。赤ん坊の泣き声がだんだんと細くなる。妹の璃空(リークウ)が泣いているのだろう。梦蝶はワッと喚きたくなるのを堪えて、赤子の無事を願った。どう考えても心恩と自分の心配をすべきだったが、心恩が異常な落ち着きを見せているからだろうか。恐怖心はなかった。

 獲物を逃し、機嫌が悪くなったらしい男たちが馬の主人を殺し、此方に近づいてくる。何人かは横転した車を物色し、梦蝶と心恩の荷を取り出して引っ掻き回しているのが見えた。今日のために新調した窗帘(カーテン)が無惨に引きちぎられて乱暴に賊の鞄に入れられていく。心恩の瞳に合うように梦蝶が選んだ穏やかな黄琉璃(ホワンリューリー)の布地だ。


「心恩……」


 怖くないはずなのに、梦蝶の声は震えていた。ずっと前を見据えていた心恩の瞳が梦蝶を映す。


「大丈夫。僕がどうにかするから」


 いつも通りに柔らかく笑う心恩の穏やかさが不気味だった。

 一体どうするというのだ。心恩はまだ六歳で、梦蝶も同じだ。彼は妖と契約していないから、術式を編む力はないし、魔術の才も無い。数十年にひとりの逸材と評された梦蝶が出来るのも、目くらまし程度で、自分たちよりも一回りも二回りも大きく屈強な男たちを御せる力はない。身代金目当てに拉致されるか、奴隷として売り飛ばされるか、最悪の場合此処で切り捨てられて(しま)いだろう。黙って殺されるほど大人しくするつもりはないけれど、暴れて死を早めるのもしたくはない――と梦蝶は思っていた。

 けれども、心恩の考えは違うようだった。

 彼は梦蝶が止める間もなく、悠々と此方に向かって歩いてきていた賊の間合いに入ると、踊るように半回転して――その後、二人組の間を抜けて、少し後ろを歩いていた別の男の横を通り過ぎる。

 一瞬の出来事だった。

 男たちは何が起きたのか分かっていないようだったし、梦蝶にも、ただ心恩が野鼠のように彼らの足元を通り抜けたようにしか見えなかった。けれども心恩の手には見えない刃が握られていて、その細く屈強な"何か"は明確に彼らの命を削っていた。

 心恩の通り抜けた道沿いに、彼らの肉塊が散らばる。少し間を置いて、鮮やかな赤い花弁が血を這う。梦蝶が心恩の持っていた刃が細く逞しい糸だと気づいたのは、空気に晒されたそれが朱の線になってからだった。

 椿の生まれる糸を心恩が震わせる。荷を漁っていた仲間が、異様な様子に気が付いて悲鳴をあげた。彼らが懐から凶器を取り出す一時さえも心恩は与えない。走って、隙間を縫うように手足を滑り込ませ、踊るように身を捻る。それだけで雑草交じりの地面に花が咲き、うだるような暑さが加速する。見なくても、彼の視線が滑らかに男たちを往復しているのが分かった。読書をするように。活字を追う瞳の動きと同じ、けれども彼の愛する行為とは程遠い、冷たい所作だった。


 あっという間に、心恩と梦蝶は、ふたたびふたりきりになった。

 やはり気の利いた言葉は、彼の唇から発せられない。


 せめて。

 せめて話し相手になって、この暑さから意識を逸らせる手助けをしてくれてもいいのに、と梦蝶は思う。

 けれども心恩はただ、(べに)の付着した線を布で綺麗に拭うのに没頭していて、此方を見ようとはしない。

 力なく笑いを零す梦蝶はただ、耐えがたい灼熱の中で泣き叫ぶ蝉の声を聞いていた。



 それからすぐのことだった。

 州境の官僚と共に家族が戻ってきた。獣が死体を漁りにやってくるまでに合流できてよかった、と呟いて、心恩ははじめてほっとした表情を浮かべた。けれどもあまりの惨状に心恩の母は気を失い、梦蝶の母親はふたりの子どもの無事を確認したのちに神に感謝した。梦蝶は、最初から最後までこの"惨状"を眺めていただろうに一切手を下さなかった"神なる存在"なんかより、心恩に感謝すべきだと母に訴えた。母はもう一度神を崇めた後、血だらけの心恩を迷いなく抱きしめた。


 事態はそれで収まるかと思われた。

 ――けれどもそうはいかなかった。


 梦蝶の屋敷の一室で目を覚ました心恩の母は、息子の顔を見るなり泣き叫んだ。ぎょっとするほどの形相で、甲斐甲斐しく介護していた心恩を部屋から追い出し、あろうことか化け物と罵ったのだ。すぐに梦蝶の母親が彼女の肩を抱き、もう少し休むようにと宥めたけれど、聞くに堪えない罵詈雑言が、薄くないはずの扉を突き抜けて廊下の先まで響き渡っていた。心恩は何も言わなかった。ただ梦蝶と手を繋いで――梦蝶が居てもたってもいられなくて繋いだだけで、彼から手を伸ばしたわけではない――「母さんが目覚めて良かった」とだけ言って、笑った。


 梦蝶の部屋で寝ころぶふたりの元にしばらくしてから彼女の母親がやってきた。いろいろな心労が重なって、一時的に混乱しているだけだ、明日には戻るだろうと心恩の頭を撫でて、梦蝶の額にキスをして部屋を出ていく。心恩の母親はたしかに神経が細いところがあったが、彼に似て穏やかで優しい性格の女性だ。母の言うように、きっと今だけのことなのだろう、と梦蝶は安心して眠りについた。


 けれども翌日になっても翌々日になっても、心恩の母親は彼を遠ざけた。目に映るたびに酷い言葉を浴びせて、父たちが避暑地から戻って来ても尚その状態は続いた。心恩は梦蝶の屋敷に預けられる日が多くなり、更に――。


「――心恩。お前を左手之剣(サシュのつるぎ)に任命する」


 我が国――四雲天国の雲王の左手に抜擢されたのだ。

 つい先日亡くなった左手之剣の代わり――王のための暗殺者である、次の代の"左手"として。




 王には右手之智(ウシュのち)左手之剣(サシュのつるぎ)という側近が居る。

 右手之智には、王の右手となって、彼の代わりに術を行使する賢人としての役割が。

 左手之剣には、王の左手となって、彼の代わりに武力を為し王に仇なす者を排除する使命がある。

 王を守る手であるといわれる一方で、替えが効く義手でもある側近は、彼にとって都合のいい駒だ。少なくとも、梦蝶はそう思っている。

 右手之智と左手之剣は、基本的に王以外のためには動かない。

 否、"王命が無いと動けない"のだ。

 彼らの四肢は王のためにある。民草を守る指先ではない。そして当然、彼らが守る者の中に自身は居ない。王と自分を秤にかける時があらば、迷わず己を切り捨てなければいけない。


「お断りします」


 心恩と共に玉座に呼ばれた梦蝶は、頭を下げたまま言い淀んでいる彼の代わりに王の欲求を退けた。六歳の子どもを自分だけの暗殺者に任命するだなんて、いくら王と言えどどうかしている。後ろに控えていた七雲将のひとりが梦蝶の不敬を正そうと近づいて来たのを、彼が片手で制した。


「ほう。王命を断るか」

「お言葉ながら、心恩では分不相応かと存じます」


 さらに言葉を重ねる梦蝶を王の笑い声が掻き消す。狂っているようには見えない。けれど不気味なほど軽い笑いだった。その異質さに困惑して口を閉じた梦蝶に、心恩よりも明るく濃い黄金の瞳が突き刺さる。


「では極刑を受けてもらう」


 誰が、とは聞かずとも知れていた。極刑。いくら六歳の子どもだと言っても、刑と名のつくものがさす意味くらいは分かる。裁かれる。心恩が。ただ私を守っただけなのに。梦蝶は口の中が急速に乾いていくのを感じる。

 ――今思えば、賊を数人殺した程度で極刑など受けるはずはないのだが、この時ふたりはひどく緊張していたし、何度も繰り返すようだが六歳の子どもだった。王の冷たい言葉のすべてを真に受けて震えあがる程度には幼く、無知だった。


「そんな、心恩はただ――!」


 言い募ろうとした彼女を留めたのは心恩だった。心恩は立ち上がると、片手を天に伸ばしたまま、ふたたび跪く。伸ばした手は真白の左手。指先が向かうは王座。

 王がゆっくりと立ち上がる。

 控えていた、神子の装束に身を包んだ男が、宝玉の埋め込まれた金の剣を王に差し出す。燃えつくすような赤の垫子(クッション)の上に横たわる剣は見るからに重そうで、使うためにはない証明のように過度な装飾がついている。心恩の身長の半分以上もあるその重すぎる――大きすぎる剣を、王は彼の伸ばした左手の上に載せた。


「認めよう」


 心恩、と尚も彼を止めようとした梦蝶に、国を治める男の冷たいまなざしが落ちる。


「――ところで、小娘よ。何故この場に呼ばれたか、理解できるか?」


 長い金の髪が揺れる。美しいはずのその色がたまらなく禍々しく、悍ましい色に感じられるのは何故なのだろう、と梦蝶は思う。乱暴をされたわけではない。けれども今にも殺されるかもしれないという底知れぬ恐怖がそこにあった。


「……雲王様」


 心恩が緊張した表情で、王を見ている。すでに剣は傍らに収まっていた。さっきまで冷ややかな宝刀に触れていた左手は、強く梦蝶の右手を包んでいる。王が彼と彼女(ふたり)の小さな手を見下ろし、僅かに目を細めた。


心恩(おまえ)は気づいているようだな」


 なにが、と心恩を見る梦蝶を無視して王が座へ戻る。


「……では、失礼します」

 と梦蝶の手を引いて王の間を去ろうとする心恩を、彼は許さなかった。


「左手之剣は代々、公には伏せられていることは知っているな?」

「……」

心恩(おまえ)の腕を知るものは、小娘(むすめご)だけか?」

「梦蝶は関係ありません」

「そうはいくまい。お前の力は、お前が殺す者以外誰にも露呈してはいけないのだ」


 諭すような口ぶりだったが、実際には脅しだった。

 梦蝶の口封じをしろといわんばかりの言いざまに、心恩が浅く呼吸する。

 顔色が悪い。梦蝶は彼と繋いでいる手に力を入れる。心恩が驚いたように一瞬梦蝶を見て、また王に向き直る。


「彼女は僕を裏切りません」

「どう証明する」

「制約の妖による、術式の契約を」

「……いいだろう。永久にお前に従うという制約か?」

「違います。婚約を結びます」


 てっきり命を握られるかと思ったのに、随分と簡単な制約だと梦蝶は思う。たかが婚約くらいで――そう考えてすぐに、まさか、と思い至る。


「――家族を人質にしようというのか。面白い」


 心恩の身体は震えていた。


 その数秒後、梦蝶は心恩の婚約者になった。

 必ずこの狸ジジイに復讐することを心に誓って。


2021/04/18 執筆

2021/05/06 修正・加筆

2021/05/27 修正・加筆


title by alkalism

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