妹が不倫をしたそうです。ぶん殴ってもいいですか?
――六月に結婚した花嫁は、幸せになれる。
そんな海外発祥の言い伝えが、これほど日本で広がっているのは、梅雨時に客が激減するホテル業界の誰かが、苦悩の末に広告宣伝に採用したからだと、どこかで聞いた。世の中には、頭のいい人間がいるものである。
とはいえ、実際に六月の結婚式が増えた場合、どうしたって雨の結婚式は増えるわけで、参列客にとってはいい迷惑ではないかと泉は思う。
六月最初の土曜日の朝、皆城泉がそんなことを考えていたのは、二十五歳になったばかりの現在、彼氏いない歴七年を更新し続けているゆえの僻みからではない。ただ単に、乗ったバスの中吊り広告が、ホテルのウェディングプランだっただけのことである。
バスのつり革を掴みながら、泉は小さくため息を吐いた。
(いきなり連絡してきたかと思えば、直接会って相談したいことがあるなんてねえ。……普通に、厄介ごとの予感しかしない)
せっかくの休日に、彼女が朝からバスに揺られているのは、昨日突然妹から、至急の相談があるといって呼び出されたからだ。
ひとつ年下の妹である真理と泉は、仲がよくない。実際、泉が遠方の大学に進学してからは、年に数度実家で顔を合わせればいいというところだ。
そうなってしまった理由も事情も、泉としては充分過ぎるほどにあるのだけれど、こうして呼び出されたところをみると、真理にとってそれは大した問題ではなかったのだろう。
それでも、真理が血の繋がった妹であることは間違いない。彼女に助力を請われ、知らぬふりをできるほど泉は割り切りのいい人間ではなかった。
泉の職場は、地元の中小零細企業を主な顧客としている、小さな税理士事務所だ。大学在学中に、両親から学費を借りて専門学校とのダブルスクールをしたものの、残念ながら卒業までに税理士資格を取ることは叶わなかった。
就職してから三年、ようやく両親への借金返済が済んだ。今は、改めて専門学校の学費を貯めるために、泉は日々節約しながら小さなアパートで暮らしている。
待ち合わせ場所は、駅前のファミリーレストランだ。妹の相談内容次第では話しが長くなるだろうし、ドリンクバーだけで粘らせてもらおう。
時計を確認すれば、九時五十五分。約束の時間は十時ちょうどだが、真理は時間にルーズなところがある。
まだ来ていないかもしれないな、と思いながら入店した泉は、すでに奥のほうの席に陣取っている妹の姿を見つけ、驚いた。
それは、真理が約束の時間より早く到着していたからではない。パーティションと観葉植物で区切られた四人がけのテーブルが、すでに妹を含めて三人の人間で埋まっていたからである。卓上に、水の入ったグラスだけが三つあるところを見ると、彼らもやってきたばかりのようだ。
こちらから顔が見える席に真理が、その向かいに同年代と思しき男女がひとりずつ。もしや日を間違っただろうかと焦っていると、泉に気づいた真理が笑顔で立ち上がった。
「お姉ちゃん。よかったあ、来てくれて」
どうやら、待ち合わせは今日で合っていたようだ。
しかし、振り返った男女の顔を確認してみても、ふたりとも知らない相手である。内心首を傾げながら近づいた泉は、ひとまず彼らに挨拶をした。
「はじめまして。真理の姉の、皆城泉です。――真理。今日は、何か相談があるんじゃなかったの?」
「えっと……。うん。そう。ちょっと、父さんと母さんには、言いにくくて……」
女性にしては長身で、いわゆるモデル体型である真理は、明るい色に染めた髪を流行の形にカールさせており、化粧も身につけているものもかなり派手だ。
一方、真っ直ぐな黒髪をショートボブにして、ナチュラル系メイクにアクセサリーは一粒石のピアスだけという泉は、小柄な上にかなりの童顔である。
真理は父親に、泉は母親に全面的に似た結果だが、こうして並んでも、まず姉妹には見えないだろう。妹の知り合いらしい男女からも、困惑した視線が向けられる。
気まずそうに目を逸らし、なかなか口を開こうとしない妹のことはひとまず置いておくことにして、泉は自分を注視している男女に改めて向き直った。
「おふたりは、妹のご友人ですか?」
「あ――」
「違います!!」
男性が何か言いかけるより先に、女性が鋭く泉の問いかけを否定する。その声の厳しさに、泉は驚く。
思わずまじまじと見つめると、彼女ははっとした様子で一度目を伏せ、それから硬く強張った表情で見上げてきた。
「失礼しました。……私は、高橋あずさ。こちらは、夫の通也です。私は今、妊娠五ヶ月ですが、夫が真理さんと男女の関係を含む親密な交際をしていることがわかったため、今日はその話し合いに参りました」
少し声が掠れがちではあったが、至極落ち着いた話し方である。
しばしの間、彼女――あずさが口にしたことの意味を吟味した泉は、いつの間にか椅子に座っていた妹をゆっくりと見た。
「……真理。あずささんのお話は、本当なの?」
「いや……まあ……うん」
居心地悪そうに肩を竦めた真理が、子どものように唇を尖らす。
「コワイ奥さんだよねー。あたしとミッチーのやり取りとか、ホテルに行ったときの写真とか、探偵なんか使って全部集めてるんだもん。それでこの間から、慰謝料請求するーとか言われちゃってるんだ。しかも、百万もだよ? そんなお金、払えるわけないし。お姉ちゃん、税理士の卵なんでしょ。どうにかしてよ」
ミッチーとは、通也の愛称だろうか。
気持ちが悪い。
目眩がした。
束の間立ち尽くした泉は、ひとつ深呼吸をしたのち、ぐっと奥歯を噛みしめる。
そして――
「このたびは……っ! 愚妹が、大変申し訳ありませんでした!!」
妹の派手な頭を鷲づかみにし、全力でテーブルに叩きつけながら、泉はあずさに向かって深々と頭を下げた。
「慰謝料の件、たしかに承りました。そんなことでそちらのお気持ちが慰められるとは考えておりませんが、誠心誠意対応させていただきます。そのほかにも、何かご要望がございましたらなんなりとお申し付けください……!」
声が、震えそうになる。
情けなくて憤ろしくて、涙が出そうだった。
しかし、今ここで泣いていいのは、被害者であるあずさだけだ。加害者側の人間である泉に、そんな資格はない。
「んーっ、んんーっ」
不倫女の妹が、何やらうめいているが、知ったことか。趣味のバレーボールサークルで鍛え上げた腕力は、伊達ではない。
ややあって、あずさの先ほどよりも穏やかな声がした。
「泉さん、でしたか。顔を上げてください」
「……はい」
おそるおそる顔を上げると、色濃く疲労の色が残りながらも、柔らかな表情を浮かべた彼女と目が合う。
「まずは、お言葉に甘えさせていただきます。――真理さんが、今後一切と夫と関わらないことをお約束していただきたいです。もちろん、連絡を取るのもやめてください」
「わかりました」
泉は、真理の頭をテーブルに押さえこんだまま、もう一方の手で派手にデコられた妹の携帯端末を取り上げる。そして、低くドスを効かせた声で問う。
「真理。暗証番号は?」
答えはない。苛立った泉は、妹の頭を持ち上げた。予想はしていたが、強打した鼻からは血が出ているし、涙でメイクもぐちゃぐちゃだ。
「お……おでえ、ちゃ……」
「恥知らずの不倫女に、姉と呼ばれるのは不愉快。さっさと暗証番号を言いなさい」
腸が煮えくりかえる、という感覚を、まさか自分が体感する日が来るとは思わなかった。
泉の怒りように怯えた目をした真理が、ぼそぼそと暗証番号を口にする。液晶画面に親指を滑らせ、ロックを解除した泉は、それをあずさに差し出した。
「どうぞ、ご確認ください。ご主人の連絡先があれば、すべて消していただいて結構です」
不倫の共犯者であるあずさの夫に、なぜ『ご主人』などという立派な呼称をつけてやらねばならないのか。妊娠中の妻がいるというのに、よその女に手を出すようなゲス野郎など、クズかクソで充分だ。いや、それではクズやクソに失礼か。
今のあずさは、目の下にくまはあるし、髪や肌も健康的とは言い難い。ようやく安定期に入ったばかりの頃だろうに、夫が不倫に走ったというのだから、さぞ心労がたたっているのだろう。
それでも彼女は、知的な印象の素敵な女性だ。こんなふうにしなくてもいい苦労をしていなければ、新たな命を育む彼女は、さぞ美しく輝いていたに違いない。
そんな素晴らしい時間をズタズタにした妹の所業が、ひたすら申し訳なくて仕方がなかった。
携帯端末を受け取ったあずさが、しばらく液晶画面を操作したあと、ひとつうなずく。
「ありがとうございます、泉さん。――真理さん、こちらはお返しします」
おそらく、通也の連絡先をすべて消去された携帯端末が、テーブルの上に静かに置かれる。
「あなたの暗証番号、夫の誕生日なんですね。少し、驚きました」
(あずささん! 冷静過ぎですー!)
泉は、内心の荒ぶりをぐっと堪えた。
「本当は、あなたの心からの謝罪が欲しかったのですけれど……。それはどうやら無理そうですし、泉さんからいただいた謝罪の言葉だけで満足しておこうと思います」
あずさの寛容さは美徳だが、それはよくない。泉は掴んだままだった妹の頭を、再び強制的に下げさせた。
「真理。あずささんに、謝りなさい」
「……っ」
この期に及んでも抵抗しようとする妹に、泉は静かに声を掛ける。
「アンタとそこの不倫男はね、あずささんに一生恨まれても仕方がないことをしたの。アンタたちふたりで、赤ちゃんが生まれてくるのを心待ちにする、嬉しくて幸せいっぱいであるべき時間を、ぐっちゃぐちゃに傷つけて台無しにしたの。それを悪いことだと理解できないほど、アンタは救いようのないお馬鹿さんなの?」
「……が、う」
真理の体が、震えた。
「違う、違う……! あたしとミッチーは、出会うのがちょっと遅かっただけ! ミッチーはいつも、奥さんよりあたしのほうが可愛い、あたしのほうが好きって言ってくれたもん!」
「知るかボケ。奥さんが妊娠中なのに不倫するような、脳みそも下半身もゆるゆるなクソ野郎の言うことを、いちいちまっとうに受け取ってるんじゃない。――あ、あずささん。ご主人を悪く言ったことで、気分を害されたのでしたら申し訳ありません」
血の繋がった妹に、あまりにも頭の悪いことを言われたせいで、つい口が悪くなってしまった。あずさには、姉妹揃って恥ずかしいところを見せてばかりだ。
しかし、一瞬目を瞠ったあずさは、肩の力が抜けたような顔で笑って言う。
「いいえ。本当のことですから、どうぞお気遣いなく」
「そうですか、よかったです」
ほっとした泉は、ずっと空気状態の通也を無視しながら、再び真理に謝罪を促す。
「ほら、さっさとあずささんに謝りなさい。悪いことをしたら、謝る。なんでそんな当たり前のことができないの」
自分でも、どんどん声が冷たくなっていくのがわかる。
「不倫ってのはね、『心の殺人』って言われてるの。アンタとそこのゲス不倫野郎は、ふたりがかりであずささんの心を取り返しがつかないほど傷つけたの。どうしたって、償いきれるものじゃないっていうのに、なんで基本のキである『本当に申し訳ありませんでした、二度とこんな馬鹿な真似はいたしません』が言えないの?」
「……っふ……ぅえ……っ」
真理が、泣き出した。顔をしかめ、泉は言う。
「鬱陶しい。まさか、泣けば誰かが助けてくれるとでも思ってる? 言っておくけど、アンタと出会うのが遅すぎたミッチーさんは、そうやってアンタが泣いてるのに、いまだに空気のままだから。わたしを止めるフリさえしてないから」
ちらりとミッチー、もといあずさの夫である通也に視線を向けると、びくりと大袈裟に肩を震わせて目を逸らす。まったく、小さな男だ。
泉は、にこりと営業スマイルを浮かべた。
「真理に請求された慰謝料の額からして、あずささんはあなたとの婚姻関係の再構築を選ばれたようですけれど。……わたしが生きている限り、あなたを一生軽蔑し続ける人間が、この世に必ずひとりいるということを、どうか忘れないでくださいね」
もしあずさが離婚を選んでいたなら、慰謝料を三倍請求されていてもおかしくない。
言葉もなく固まった通也を絶対零度の目で見た泉は、いまだに謝罪の言葉を口にしない真理の頭を掴んでいる指に、ぐっと力をこめる。
「ねえ、真理。まだ、あずささんに謝れないの?」
「……っ、何よ、何よ……! お姉ちゃんなんて、大っキライ!!」
ぐずぐずの涙声だった。
「そう。奇遇ね。わたしも、アンタがわたしの彼氏を寝取ったときから、アンタのことが大嫌いだったの」
忘れもしない、高校三年生のときである。受験勉強に集中するため、泉は生まれてはじめてできた恋人と、お互い納得の上で少し距離を置くことにしていた。
そして、ようやくすべての志望校の試験を終え、あとは合格発表を迎えるばかりになったその日に、泉は高校生らしく清い交際を続けていた恋人から、別れを切り出されたのである。
――俺、真理ちゃんと付き合ってるんだ。
――泉は、その……俺がいなくても大丈夫だろ?
――真理ちゃんは、俺がいなくちゃダメな感じだから。
今から思えば、未成年のガキの分際で何を言っているのだか、という感想しか抱かないけれど、当時は相当ショックだった。
別れ話のあと、呆然としながら家に帰るなり、真理が勝ち誇った顔で「お姉ちゃんの元彼、えっち上手だよ。なんでさせてあげなかったの?」と言ったときには、半ば本気で殺意を覚えたものだ。泉も、若かったのである。
「アンタって、他人の男じゃないと興奮しない性癖の持ち主なの? それって相当やばいから、一度精神科にかかったほうがいいよ」
淡々と告げ、真理の頭から手を離した泉は、改めてあずさに向き直った。
「不出来な妹で、本当に申し訳ありません。こちらが、わたしの連絡先になります。もし今後何かありましたら、いつでもご連絡ください」
鞄から取り出した名刺の裏に、プライベート用のメールアドレスを書いて差し出すと、あずさが困惑した表情でそれを受け取る。
「泉さん……。ありがとうございます。お手数をおかけして、申し訳ありません」
「いえ、とんでもないです。それから、あずささん。今日は、示談書をお持ちではないんですか?」
不倫関係を清算するための話し合いの場では、被害者が示談書を持参することが多い。最近は、ネットでどんな文書のひな形でも出てくるのだから、便利な時代である。
そう思い出した泉の問いかけに、あずさは少しためらうようにしてから、鞄からA4サイズのクリアファイルを取り出した。
「こちらが、示談書です」
「拝見させていただきますね」
中に入っていた示談書を確認させてもらうと、慰謝料の件、先ほどあずさが口にした条件、そして真理に謝罪の要求をする旨に加え、今後真理が通也と接触した場合には百万円の罰金を要求する旨が記されていた。
それらを確認した泉は、示談書をテーブルに載せて最後の条項を指先で示す。
「あずささん。この点についてなのですが、『今後真理が通也氏といかなる手段によっても接触及び連絡を取った場合には、直ちに百万円を支払うこと』としたほうが、間違いがなくていいと思います。メールアドレスや電話番号、通信アプリなどのわかりやすい連絡先を削除しても、ゲームアプリのダイレクト通信機能などがありますから」
「そう、なのですか。ええと、今ここで訂正印と手書きで追加してもよろしいですか?」
きちんと判子も持参していたあずさが、丁寧な見やすい字で示談書を訂正していく。それを見ていた真理が、掠れきった声で呟く。
「お姉ちゃん……そこまで、する……?」
どうやら、鼻血は止まったらしい。血で汚れたハンカチを握りしめた真理の手が、細かく震えている。
「何? アンタが、もう二度とあずささんに迷惑を掛けなければいいだけの話しでしょう」
冷ややかに告げ、あずさが訂正し終えた示談書を再度確認した泉は、それを真理の前に置く。
「サインしなさい。アンタが、自分がしたことの後始末さえできない大馬鹿なのは、もう充分わかった。それでも、自分の名前を漢字で紙に書くくらいはできるよね?」
「そんな……っ! ねえ、ミッチー! なんとか言ってよ!」
くしゃりと顔を歪めた真理が、救いを求めるような目で通也を見る。通也は、そんな真理から顔を背けた。
「……ごめん。俺は、嫁と……あずさと、やり直したい」
真理が、勢いよく立ち上がる。
「ひどい! ひどい、ひどい! 奥さんとは別れるつもりだって、言ったじゃない! 必ず離婚するから、待っててくれって! なのに……!」
見るに堪えない形相で、真理が叫ぶ。
「離婚してくれないなら、あたしと不倫してたこと、ミッチーの会社に知らせてやる! 一緒に撮った写真とか動画とか、証拠なんてたくさんあるんだからね!」
「真理ちゃん!」
蒼白になった通也が中腰になり、あずさも顔を強張らせる。そんなことをされては、会社での信用を失った通也が職を失ってしまうかもしれない。
盛大に舌打ちした泉は、激高している真理の顔に、テーブルの上から取り上げたグラスの水をぶちまけた。
水浸しになり、呆然としている妹に泉は言う。
「頭を冷やしなさい、馬鹿真理。いくら本当のことだろうと、それは名誉毀損。ていうか、今のも立派な脅迫だから。つまり、犯罪。不倫だけでも恥ずかしいってのに、まさか身内から犯罪者が出るとは思わなかったわ」
「何……それ……」
犯罪者、という単語に生々しさを感じたのか、真理がおどおどと視線を動かす。
「あずささんに脅迫罪で訴えられたくなかったら、今すぐ謝罪してさっきの言葉を撤回しなさい。それから、不倫の証拠になる写真とか動画なんかは、全部消すこと」
「……なんでよ」
顎先から水を滴らせたまま、真理が呟く。
「なんでお姉ちゃん、奥さんの味方ばっかり……! ひどいよ、ひどい!」
「アンタが最初からちゃんとあずささんに謝ってたら、わたしはアンタの味方をしてたよ」
どれほど嫌いな相手でも、真理は血の繋がった妹だ。
彼女が自らの過ちを認め、誠心誠意あずさに謝罪していたなら、泉は姉として寄り添う道を選んだだろう。
けれど実際には、真理は反省して詫びるどころか、被害者であるあずさを傷つけるような言動ばかり。いい加減、愛想も尽きた。
立ち尽くす真理の携帯端末を手に取り、ロックが解除されたままだったそれの表示画面から、アルバムを開く。その中から『らぶ(キラめくハートマーク)』というフォルダを選択すると、予想通り真理と通也の写真や動画が、数え切れないほどに出てきた。ざっと確認しただけでも、かなりきわどいものも相当ある。
それらをすべて削除しようとした泉は、ふとあずさに視線を向けた。
「あずささん。先ほどのお話だと、探偵に依頼してこのふたりの不倫関係を証明する証拠を集められたということですが……。もし今後、離婚を選ぶことになった際のために、もっと確実な証拠を確保しておきたいということでしたら、こちらの写真や動画をすべてお渡しいたしますけれど、どうなさいますか?」
泉の問いかけに、あずさは軽く目を瞠り、その隣で通也が中腰になって言う。
「なん……っ、そんなもの、さっさと消してくださいよ! 俺たちは、これからちゃんとやり直すんですから!」
不倫相手との『らぶ(キラめくハートマーク)』の記録を、そんなもの呼ばわりときた。明らかに事後とわかる写真まで残しておいて、厚顔無恥にもほどがある。
泉は、再び営業スマイルを浮かべて通也に告げた。
「わたしは、一度でも不倫をした人間は、絶対にまたすると考えているんです。将来的に離婚を選択する事態に陥ったときに備え、慰謝料と養育費を最大限ぶんどれるよう、不貞の証拠を確保しておくことは、当然のリスク管理だと思います」
「俺は……! もう二度と、不倫なんてしません! 信じてください!」
必死の形相で言われても、そもそも訴える相手が違っている。
「そういうことは、奥さまに言ってください。わたしは、初対面の不倫男の言うことなど、一切信用するつもりはありません。――あずささん。これらの証拠は、どうなさいますか? お手元に残しておくのも不愉快だということでしたら、この場ですべて削除いたします」
声のトーンを和らげてあずさに問うと、彼女は少し考えるようにしてから、苦しげに目を伏せた。
「……申し訳ありません、泉さん。お気遣いは、本当に嬉しいのですけれど……。今、そういった写真や動画を見るのは、耐えられそうにありません」
はっとした泉は、あずさのまだ膨らみの目立たない腹部を見る。
彼女は、妊娠中なのだ。夫の不倫の証拠物件など、胎教に悪いにもほどがある。
「こちらこそ配慮が足りず、申し訳ありません! でしたら……そうですね。これらの証拠は、わたしが保管しておきますので、もし必要になった際にはいつでもご連絡ください。もちろん、あずささんが完全に不要になったと判断された場合には、責任を持ってすべて削除いたします」
あずさが、驚いた顔で言う。
「そんな……ご迷惑でしょう?」
「うちの妹があずささんにかけたご迷惑を考えれば、これくらい迷惑のうちに入りませんよ」
真顔で応じ、泉は不愉快なフォルダを丸ごと自分の携帯端末に送信した。機種交換したばかりの携帯端末が汚されていく気がしたけれど、忍の一字だ。データがきちんと送られてきたのを確認したのち、真理の携帯端末からそれらをすべて削除する。
「それで? 真理。まだ、サインのひとつも書けないの?」
いまだにうつむいたままの妹に、泉はわざとらしくため息をついた。
「ていうかね、そもそも不倫の相談とか、税理士を目指している人間の管轄じゃないから。聞きかじりの知識しかないってのに、不倫なんてバカ過ぎることをしでかしたアンタの尻拭いをしてあげているわたしに、その態度はなんなの?」
「うるさい……っ」
そう、とうなずいた泉は、いまだに小さく縮こまっていた通也を見る。
「高橋さん。これ以上わたしにできることはないようですので、あなたが真理に示談書へのサインをさせてください」
「……え?」
営業スマイルを浮かべるのにも、疲れてきた。無表情のまま、ひたすら淡々と泉は言う。
「あずささんと、婚姻関係の再構築を目指すんですよね? だったら、大切な奥さまを――あなたのお子さんを身ごもり、命がけで育んでいらっしゃる、誰よりも全力で尊重しなければいけない奥さまを安心させて差し上げるために。ここで、夫として最低限の誠意を見せろと言ってるんですよ」
そもそも、泉は今回の件に関して責任を負うべき立場にはないのだ。自分の身内が他人様に迷惑を掛けまくっていたため、ここまでしゃしゃり出てきていたけれど、本来は当事者である通也が収めるべき案件である。
いずれにせよ、意固地になっている真理に、示談書へのサインすらさせられないようでは、今後あずさとの関係を再構築していくことなど、到底不可能だろう。
慰謝料の振込先が記されている示談書を携帯端末で撮影し、泉は改めてあずさに頭を下げた。
「あずささん。重ねてになりますが、このたびはわたしの妹が大変なご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。部外者がいてはお話ししにくいこともあるでしょうし、わたしはこれで失礼いたします」
「……泉さん」
あずさが立ち上がる。
「こちらこそ、私の夫のせいでご迷惑をおかけしてしまって、本当にごめんなさい。それから、あなたが私の味方をしてくださって、とても嬉しかったです。……ありがとう、ございました」
「いいえ。では、その……わたしなどに言われても不愉快なだけかもしれませんけれど、大切な時期なのですし、あまり無理はなさらないでくださいね。元気な赤ちゃんが生まれることを、祈っています」
彼女がこれからどんな道を選ぶにせよ、それは決して容易なものではないだろう。その原因が自分の妹だと思うと、ひたすら胸の奥が重くなる。
けれど、これ以上泉があずさのためにできることはない。せめて、慰謝料だけでも遅滞なく支払えるよう、すぐに両親に相談しようと決意する。
あずさに辞去の挨拶をし、不倫カップルは無視してファミリーレストランを出ると、雨がやんでいた。やたらと爽やかな青空が広がっているのが、なんだか虚しい。
(母さんに、電話しなきゃ……)
なんだかんだ言って、両親は社交的な性格で華やかな容姿を持つ妹に甘かった。だからと言って、彼らからの愛情に差を感じたことはなかったけれど、「泉はお姉ちゃんだから、しっかりしていて助かるわ」という類いの言葉を、幼い頃から数え切れないほど聞かされたものだ。今から思えば、妹が親を困らせることをそれだけしていたという事実の裏返しなのかもしれない。
とうに二十歳を超えた真理がしでかしたことの責任は、もちろん本人自身にある。けれど、両親はきっとこれから「自分たちが甘やかして育てたせいで、こんなことになってしまったのか」と自分を責めることになるだろう。想像するだけで、胃が痛い。
(義務教育で、故意に他人に迷惑をかけたり、傷つけたりしてはいけません、なんてことは、ちゃんと教わっているはずなんだけどな……)
どっと疲れを感じた泉は、ひとまず自分のアパートに帰ることにした。
しばらくは、いやな意味で忙しくなりそうだ。
不倫、ダメ絶対。