Prologue 2 裏切り者の名
日が沈み、そこに住むモノ達が眠りにつき始めた頃合。エイダの森と呼ばれる然程広くもない森の中を駆ける姿があった。夜の闇に溶け込むかの様に黒い髪は、その肩辺りまで無造作に伸ばされている。今は懸命に走る余り多少表情が崩れてはいるが、比較的整った顔立ちの青年。その髪とは逆に白い生地で作られた一見貴族が着ている礼服にも見える騎士服に身を包み、その格好と似つかない大剣を背負っている。一応鞘は存在するが、鞘に入れると抜くのが困難になる為、その剣は大きな布を何重にも巻く事で鞘の代わりにしている。背に固定する為の留め具と、布の留め具を外せば直ぐに武器として使える様にしてあるわけだ。なのだが……
青年は、その剣を使う事にならなければいいと考えている。彼は今、ある国の兵士達に追われている。それは彼が国の機密を持って城から逃げているからなのだが、兵士達はその理由を知らない。ただ命じられるままに、青年の後を追っている。それも理由の一つだ。しかし、何よりも一番の理由は――その国が、彼自身が仕える国だったからである。つまり、追っ手である兵士達はつい先刻までは仲間だった者達なのだ。そんな者達に剣を向けるなど、彼に出来るわけがなかった。だからこそ、彼は足を休める事なく走り続けている。かつての仲間達に追いつかれない様に。
しかし、それにも当然限界はあった。舗装などされているわけもない森の中を、自分の身の丈もあろうかと言う大剣を背負ったまま走り続けるのはかなりの重労働だ。いくら青年が普段から鍛えているとは言え、それを継続し続ける事は不可能である。
青年は一度足を止め、一息吐く。周囲に追っ手の気配がない事を確認し、近くの木に寄りかかった。左腰に提げてある布袋に視線を向けてから、今度は空を見上げる。木々達によってどこまでも続く空を見渡す事は出来ないが、阻まれている事によってその一部しか見えない今の空が、自分にも当てはまる様な気がして気を沈める。青年はゆっくりと瞳を閉じて、少し前の出来事を反芻する……
「いいか、カイト。俺はこれからレードに向かう。その上で最後の確認だ。今ならお前はまだ城に帰れる。俺と共の道を歩むか、それとも今まで通り騎士としての道を歩むか……どうする?」
つい先刻日が沈んだばかりの頃合。光の都とも呼ばれているファーン大陸一の大国、フィアルサーガが王城ハイゼンタールの北に位置する森の入り口で、青い騎士服に身を包んだ体格の良い男がそんな言葉を投げかけた。その相手は凛々しい顔立ちの青年。肩程まで伸ばした黒い髪、鍛え抜かれているが決して筋肉質ではない均整の取れた身体。そして白地の騎士服。カイトと呼ばれたその青年こそ、ハイゼンタールの北にある森――エイダの森の中を疾走していた青年だ。
「ここまで来て逃げたりしませんよ。俺は、団長に着いていきます」
決意に満ちた表情で、カイトは右手で握り拳を作りつつ頷いた。そんな様子を見て、男はすまなさそうな、それでいて満足のいった表情を浮かべた。
団長――カイトがそう呼んだ通り、その男はフィアルサーガが誇る聖騎士団の団長である。レナード=ヴァリアント。それが彼の名だ。青い騎士服こそがその証であり、又聖騎士としての象徴でもある。
「なら、これをお前に預けておく」
そう言ってレナードが差し出したのは、一見何の変哲もない布袋。それを怪訝に思い、カイトは「何ですか、それは?」と尋ねた。
「魔攻具……詳しい事は俺もわからないが、フィアルサーガが造り出した新兵器。とでも言っておこうか」
そう言いながら何かを思い出す様に目を細め、レナードはゆっくりと布袋をカイトに手渡した。
「魔攻具は魔力の塊の為、普通に持ち歩く事は難しい。そこで、中に魔方陣を描く事で魔攻具を一時的に封印しておける様にしたのがその布袋だ。さっきも言ったが、それはとても危険な代物だ。絶対にその布袋から出さないでくれ」
城内で遭遇した時にも少しだけ言われた内容を思い出し、カイトはレナードの言葉に頷いた。
「わかりました。でも、どうしてそんな危険な物を俺に?」
「お前が俺に付いたと気づいているとしても、まだ奴らはソレを俺が持っていると思っているはずだ。少なくともレードに着くまでは、追っ手は俺の方に集中するだろう。だから、しばらくはお前が持っていてくれ」
信じている。その言葉を直接出しはしなかったが、レナードが語った言葉の中に、その意図が多分に含まれている事を察しカイトはしっかりと頷いた。そのカイトの表情に納得がいったのか、レナードも緊張した表情の中少しだけ笑みを浮かべた。
「よし。お前は真っ直ぐにレードに向かえ。俺は少し追っ手を惹きつけながら、森を蛇行しながら逃げる」
勿論、囮の様な態度を気づかれない程度に。と付け加え、レナードはカイトの背を軽く押した。それが合図だと悟ったカイトは、もう一度力強く頷き駆け出した。エイダの森を北に抜けた先にある街、レードへと向かって……
閉じていた瞳をゆっくりと開け、カイトは視線を正面へと戻した。周囲に追っ手の気配はない。レナードが近くまで来た事で、自分を追っていた兵士達もそちらに向かったのかもしれない。そんな事を考えながら、カイトは一度深呼吸をした。
よし! と気合を入れ、カイトは再び駆け出す。小休憩を挟んだ事で、幾分かの体力は戻ってきている。小休憩を挟む前までの体力はないが、然程広くもない森である。出口は遠くない。だからこそ、カイトは油断していた。出口が近い事は分かっているはずなのに、その事を意識していなかった。自分の後を追う形で森の中を逃げ回るレナードが、真っ直ぐに森を抜けようとしている自分に追いつくには早過ぎる頃合だと気づかないくらいに……
森の終わりが視界に入ってきたその時、カイトは周囲を囲まれている事に気がつき足を止めた。相手がフィアルサーガの兵士達なのは分かりきっている。それ程多い数ではないのは確かだ。カイトは仕方なく戦う決意を固め、背中に括り付けている大剣の留め具を外す。木々の陰に隠れているらしく、相手の姿は見えない。しかし、確かにいる。鞘代わりの布も外し、ゆっくりと大剣を構えた。
しばしの静寂……微かに吹く風に揺られる木々の掠れる音、そして己の息遣いだけを耳に入れながら、周囲の気配に変化が訪れるのを待つ。相手も森の中を駆けてきたのだから、当然疲れはあるだろう。自分と比較してどの程度疲労に差があるのかは分からないが、人数の優劣がある以上、自分から動くのは得策ではない。少しでも体力回復を図れるのならばそれに越した事はない。そう考え、じっと相手が動くのを待つカイト。
「!」
一瞬前まで聞こえてきていた音とは明らかに異なる空気を切る様な音が背後から聞こえ、カイトはその身を左へと動かした。直ぐに自分の身体をすり抜ける様に前方へと飛んでいく矢の姿が見えた。正確に言えば矢の先は夜の闇に紛れていたが、羽の部分が白い為視界に映り、それが矢だと判別出来ただけだ。とは言え、カイトにとってはそれが矢だろうとそれ以外の物だろうと関係はない。問題は、ソレに当たるか当たらないかだ。カイトは矢の飛んできた方向へと振り返り注意を払ったが、予想していた第二撃はなかった。精神的に追い詰めようとでもしているのだろうか? そう思い浮かべたカイトだったが、それが間違いだと直ぐに思い知らされた。
一瞬の静寂。その次の瞬間には、背後から二人の兵士が飛び出してきていた。関節や急所など、局部的に身を守る為の作られた軽鎧を纏ったフィアルサーガ兵。その気配を察したカイトは再び振り返り、その勢いを利用して振るわれる相手の剣を弾いた。剣を弾かれた兵も、大剣を横薙ぎに振るわれた事で牽制されたもう一人の兵も一度その身を退かせた。接近戦に持ち込んできた時点で矢が飛んでくる事はないと踏み、背後に対して多少なりの油断をしていたカイトだったが、木々の影から飛び出してきた新手の気配には気が付き、一瞬で戦略を立てる。
再度振り返り、新手として出てきた兵士へと向かって駆け出すカイト。その距離は元よりあってない様なものだ。直ぐに詰められる互いの距離。そして交差する剣戟。その一撃で、カイトは相手に敵意がない事に気がついた。お互いに戦う意味を持たないまま、それでも戦わなければならない。そんな戦いに簡単に決着など着くわけがなく、無駄な剣戟が何度か続く。それでも戦いは戦いだ。意識は常に周囲へと配られ、それと同時にいくつもの戦闘パターンを思い浮かべては消し、再度思考するという流れを繰り返す。だからこそ、カイトは異変に気づかなかった。否、事が取り返しのつかない所に来るまでは。という方が正しいだろう。
カイトの腰に提げられた布袋が淡く光を放ち始め、やがてはそれが大きな光へ増長していった。拳一つ分の光――布袋を覆ってしまうくらいに大きくなった光は、そこから瞬時に広がった。カイトの身を一瞬で包み込むと、光は天へと向かって一筋の柱へと姿を変える。やがて光は天へと吸い込まれる様に消えていき……
まるで光の柱にさらわれたかの様に、そこにカイトの姿はなかった。
この場にいる誰もが、何が起きたのか理解出来ていなかった。そして、今はこの場にはいないカイト自身も。
この日、フィアルサーガには二人の裏切り者の名が掲示された。
一人は、元騎士団長のレナード=ヴァリアント。
そしてもう一人がその部下である元騎士、カイト=シンクフォード。
なぜこの二人が国を裏切ったのか、その事実を知るのは国の上層部のみ。兵士達はその理由を知らぬまま、二人の裏切り者を始末する様に命じられた。
そのうちの一人が、この世界から姿を消してしまった事を知らずに……