intro.
沈む夕陽が空を茜に、草原を麦藁色に染めている。
些かのんびりとし過ぎただろうか。いや、そもそも馬車代をケチったせいだ。
土産を片手に、青年は街道を行く歩みを早める。先の小高い丘を登れば、もう街はすぐそこだ。急がねばならない。きっと妹が首を長くして待っている。
しかし、
「待たれよ」
それは、急く青年の前に立ち塞がった。
突如、目の前の空間を裂くようにして現れたのは、まるで一足早く夜の闇が訪れたかのような漆黒の体躯。頭には角を、背には翼を、腰には尾を携えたその異形なる姿は紛れもない――『原初の魔』と呼ばれる高位魔属の証だった。
「我が名はアシュタル、願いを叶える者。幸運であったな小僧、主は選ばれたのだ」
そう仰々しく語り始めるアシュタルを前に、青年は仕方なくその足を止める。
「さぁ、万死を冀う者の名を我に申すがよい。その身に秘めたる意趣遺恨、主が命を対価とし、この我が見事晴らして見せようぞ」
それはまさしく、魔属の決まり文句であった。
魔属とは人の願いを叶える存在。だが、それは誰かを殺すというものに限られている。もし、今ここで青年が殺したいと思う者の名を口にすれば契約は成立し、このアシュタルという魔属の手によって、その者は酷い殺され方をすることとなる。
ただ、契約には対価が必要。代償といってもいいが、この場合、願った者の『命』がそれに相当する。自の死を以て、他の死を願う――それが魔属の齎す契約だ。
とはいえ、誰しもがそんな物騒な願いを抱いているというわけではない。殺したいほどの相手などいないという者が大半。仮に恨みを向ける相手がいたとて、自分の命と引き換えでは躊躇もする。
しかし、ここで「居ない」と答えたところで、はい、さようなら、というわけにはいかない。むしろ、こちらの方が圧倒的なまでに被害は大きく、それはこの世界に暮らす全ての者が知っていることだった。
無論、彼だって。
「結構です」
それでも青年は言った。その表情に微塵の恐れも躊躇いも滲ませず。
対するアシュタルは、ありありと怒気を膨らませる。
「主よ、この我には言えぬと申すか」
人は誰しも必ず恨みを抱いている、と、どうやら魔属は前提にそのような認識を持っていると思われる。故に、青年の沈黙は、魔属にとって黙秘であり不信――つまりは「お前みたいな弱っちい魔属に、俺の恨みが晴らせるものかよ」と蔑まれているに等しいようだ。
「……よかろう、ならば我が力を証明するまで。これより僅かなる時の中で、彼の街を滅ぼして見せよう。万は下らぬ数を葬り去れば、その固く閉ざした岩戸も開けるであろう」
この場に臨む街といえば一つしかない。
それは青年が妹と暮らしている街。帰るべき家のある街。
アシュタルは翼を広げ、今にも飛び立たんとする。
原初の魔であらば、街の一つや二つを焼き払うことなど造作もないことだろう。実際、過去にはいくつもの街が滅ぼされており、それらもきっと、今と同じような状況が生み出した禍だ。
青年にそれを見過ごせるはずはなく、そもそも見過ごすつもりもなかった。
「だったら、もっと良い方法がありますよ」
そして手にしていた土産袋をそっと地面に置き、腰にぶら下げていた鞘から剣を抜き放つ。と、どこまでも平静な青年に、アシュタルはニッと牙を見せた。
「よもや、その身で試すと――」
「どうぞ、ご遠慮なく」
「フッ、フハハハハハ。面白い小僧だ。名は何と」
「ネル――、ネル・ファンノートル」
その瞬間、ネルの剣とアシュタルの爪が競り合い、耳を刺すような音が夕暮れの丘に響き渡ったのだった。