9
やった!!
ようやく終わりだ!!
*
鬼人は少女を抱えたまま、じっと燃え崩れた倉庫跡を見下ろした。
火炎は勢いを増しており、まだ、火消し役も到着していない。中庭は道具箱をひっくり返したような有様で、様々な人間が行き交っている。その後ろに見える、焼け落ちた倉庫の残骸を凝視して、鬼人は顔を曇らせた。
「……だから言っただろうが」
――住む世界が違う、と。
ドガは冴えた金眼で《シャドウ》を見据えた。
怒りも、恐れもない。
機械のような無表情な顔で、ゆっくりと少女の首を掴み上げた。
シルヴィアは首を捻ってドガに目を向けた。
「ドガ。彼は強いわ」
「知っている」
ドガは短く答えた。
彼でさえ、シルヴィアを取り返すまで、その影に怯えていたくらいである。あの《シャドウ》は格別強い。鉄仮面を被っていた巨漢とはケタ違いだ。この少女がいなければ、こちらは間違いなく一方的にやられていただろう。
「気を付けて」
「言われるまでもない」
いつも通りの返事を聞いて、シルヴィアは安心したように目を閉じた。
長い銀色の髪が風に吹かれたようにふわりと揺れ、少女の体が眩い光を放つ。
光り輝く銀竜越しに、ドガは《シャドウ》を見つめた。光の向こうに立つ黒影は、澄んだ青い瞳に凄まじい殺気を浮かべながらこちらを見上げている。目が合っただけで背筋が震えた。影人の漂わせる空気はそれほど尋常ではなかった。
「行くぞ」
ドガは銀刀を掴んで、バルコニーから飛び降りた。
ただ、地面に着地するだけでズン、と低い地響きが鳴り渡る。
鬼人は軽く首を振ってから、銀刀の切っ先を後ろに垂らして居合の構えを取った。
「…………」
「…………」
二人の間に、緊張の糸がピンと張りつめる。
《シャドウ》の歩みによって、間合いが徐々に狭まっていく。
戦いは地面の下から始まった。
「……っ!」
大地を突き破って、《シャドウ》の足の指が襲い掛かってきた。
ほとんど死角からの完璧な奇襲だったにも関わらず、鬼人は前に跳んで初手を躱した。続く正面からの二撃を銀刀で薙ぎ払い、鬼人は勢いを殺すことなくさらに直進した。そして、ついに《シャドウ》の胴体が刀の間合いに捉えた。
「シッ!」
電光石火の斬撃が閃く。
目にも止まらぬ斬撃に、黒い左肩がばっさり縦に斬られ、《シャドウ》の片腕が回転しながら宙に舞った。しかし、影人は動じることなくドガの目前に迫った。
「囮ですよ!」
「くっ」
切り落とした肩の断面から黒い血霧が吹き上がる。
視界を一瞬黒く塗りつぶされた鬼人はとっさに後ろへ飛びずさったところで、攻撃は背後から飛んできた。最初に襲ってきた足の指をさらに伸ばし、その後の一手として活用しされたのだ。
「フン!」
気合とともに銀刀を振るい、《シャドウ》の指を切断した。
背中に刺さっている指を抜き取りたかったが、そんな悠長なことをしている余裕はない。こちらの足が止まった瞬間を狙って、《シャドウ》が残った右腕を槍のように変形させて突きだしてきた。
「クソッ!」
躱せないなら叩き斬るまでのこと――
その、鬼人の思考は《シャドウ》の読み通りであった。
「お見通しです!」
「なに!?」
銀刀の刃が触れるより早く、黒い太槍が二股に裂けた。
鬼人が振り下ろした銀刀が虚しく空を斬る。斬撃に遮られることなく抜けてきた二股の黒槍が、鬼人の分厚い胸板に吸い込まれる。
「ガァッ!」
黒い穂先が胸の深部にまで到達する直前で、鬼人は《シャドウ》の腕を掴んだ。
身を捻じりながら、槍の進行方向を怪力で強引に変える。鬼の腕力に引っ張られた黒い爪先は、わずかに軌道が横に逸らして鬼人のアバラ沿いの肉を削ぎ落としつつも、致命傷には及ばなかった。
「ほう……無理やり外しましたか」
辛うじて一命を取り留めた鬼人は、血反吐きながら間合いを取った。
たった数回打ち合っただけで、双方に凄まじい傷が刻まれた。
片腕を失った《シャドウ》。
横っ腹の肉をズタボロにされたオーガ。
損傷具合だけをみれば甲乙つけがたいものの、超再生能力まで含めて考えれば《シャドウ》のほうが優位と言えよう。現に、今この瞬間にも影人の左肩が白い煙を上げながらじりじりと目に見える速度で再生し始めている。
右脇から血を流し続ける鬼人を挑発的に睨んでから、《シャドウ》が口を開いた。
「《銀竜の鬼人》も、その程度ですか?」
「……………」
ドガは答えず傷口を片手で押さえた。
最初から分かっていたことだが――この《シャドウ》はバケモノであった。
銀刀を持って、ほぼ万全の状態で戦っているにも関わらず、力量の差が縮まったように感じられない。変幻自在の攻撃に翻弄されてしまう。おそらく、今まで戦ってきたどの《シャドウ》よりも強いはずだ。
青眼の影人は淡々と語り始めた。
「やはり、あなたはシルヴィア様に相応しくない」
「……そうかもな」
「当然です! そこはケダモノが立つべき場所ではありません!」
怒声とともに、《シャドウ》の腕が伸びる。
辛うじて反応できた鬼人は、上体を逸らして相手の突きをやり過ごした。
しかし、《シャドウ》は突きを避けられることを見越して、次の一手を打ってきた。突き出した腕の形を薄い刃に変えて、そのまま振り下ろした。
ドガは反射的に銀刀で防いだ。
さらに追加で撃ち込まれる斬撃の雨あられを、鬼人は冷や汗を流しながら必死に弾いた。
「たかがオーガが、竜と肩を並べて良いはずがない! 知能! 身体能力! 判断力! そのどれもが基準に至っていない! つまるところ、あなたはただの害獣に過ぎない! 獣は獣らしく、舞台の上から消えなさい!」
二撃、三撃、四撃。
一発一発が必殺の重さで振り下ろされる。
無理な体勢で防御に回っていたため、小山のような鬼人の巨体が斬撃に圧されて徐々に傾いていく。攻め時と見取った《シャドウ》は、腕を柱のように巨大化させて、今まで以上の渾身の力を叩きつけた。
「竜と等しく扱われるべき存在は、この私をおいて他にない!」
黒い柱と銀刀が火花を散らす。
どっと音を立てて、鬼人の背中が地面に沈んだ。
「グッ!」
目の前は黒柱、背中は地面。
銀刀を掴んでいる両手の力を少しでも緩めたら、即座に圧殺されてしまう。
まさに絶体絶命の窮地に追い込まれた状態である。
左右に目線を動かす間にも、糸のように細い黒線がどんどん上から降り注いできた。鬼人は避けることもかなわず、雨のように降り落ちる黒線に、腕を、脚を、胴体を突き刺された。何と意地の悪い攻撃である。
――ここに来て、まだ小細工に頼るか!
ドガは歯を食いしばって、《シャドウ》へ目を向けた。
黒い人影は片手で鬼人を押さえつけたまま、こちらを悠々と見下ろしていた。
「無様な姿ですね。《銀竜の守護者》」
そう言いながら、エルリックは鬼人の体に突き刺している線を動かした。
傷口を掻き回されたドガは、閉じた口の隙間からくぐもった唸り声を上げた。四肢を細線で貫かれた程度の傷では大事に至らないが、相手に体を貫かれたまま、本命の斬撃を受け止め続けるのは至難の業である。
地に倒された鬼人の体は、ガラ空きになっている。
やろうと思えば、いつでも殺せる。
おそらく、《シャドウ》はこの圧倒的な優位を愉しんでいるのだろう。
「ほら。もっと足掻いてみせてくださいよ」
「悪趣味だな……」
ドガは吐き捨てるように言った。
「……やれよ」
「もう諦めてしまいますか?」
《シャドウ》がつまらなさそうに首を傾げた。
しかし、ドガの言葉は《シャドウ》ではなく、その背後に向けて放たれていた。
焼け崩れた倉庫の瓦礫がカサリと動いた。
「ここが世界の分かれ目だ」
「何を言っているのですか?」
「さっさとやっちまえ! カービンッ!」
その瞬間、《シャドウ》が勘付いた。
サッと首を回すと、背後で火炎瓶を構えた小太りの男が必死の形相でこちらを睨んでいた。彼は倉庫の下敷きになったと思っていたが、想像以上に傷が軽かったのだろう。エルリックは天運を呪った。
「食らえ! バケモノ!」
カービンの手から火炎瓶が放たれた。
《シャドウ》は本能的に火を避けようと動こうとして、固まった。動けない。鬼人の雄叫びが聞こえる。目だけでそちらを見ると、鬼人が銀刀を手放して、両手でこちらの腕を捕えていた。
――私としたことが
黒い人影は棒立ちのまま、火炎瓶をぶつけられた。
容器の瓶が割れ、燃料に乗った火炎が《シャドウ》の体に広がる。
「無駄なことを!」
エルリックは吠えながら、また体を変形して炎を包み込もうとした。
しかし、またもや鬼人の邪魔が入った。
「ガァァァアアアアアアアアアッ!!」
全身を切り刻まれながら、網のように細かくなった黒い線を抱き留める。
至る所から血が吹き出す。
切り落とされた片腕を再生したために、体の活力も落ちている。さすがに連戦の疲れが溜まり始めている。そこで、この炎。万全の状態であれば、何の脅威でもないただの火に、エルリックは生命の危機を感じた。
「ええい!」
もはや攻勢に出ているときではない。
黒い人影は鬼人に掴まれている腕の太さを変更した。それまでのサイズより二回りも腕を細めて、するりとドガの手をすり抜けた。腕を縮めた《シャドウ》は、脇目も振らずに表皮で燃える炎を包殺に掛かった。
しかし、それが命取りだった。
「ッ!」
銀の光が瞬いた。
体が自由になり、相手が隙を見せた一瞬の機会を、ドガは見逃さなかった。考えるより先に体が動き、気づいたときには銀刀を振り終えていた。黒い人影を焼いていた炎が、斬撃の余波に揺らいだ。
何をどう斬ったのか――
ドガは一切覚えていなかった。
ただ、こちらに背中を向けていた《シャドウ》の上体が腰から斜めにずり落ち、火のついたまま地面に倒れた。さすがの《シャドウ》も、胴体を切断されては手の施しようがないのだろう。人影の放っていた殺気がふっと霧散した。
残心の体勢で固まっていたドガは、ようやく銀刀の血を払い落とした。
*
炎に囲まれた中庭で。
ドガは真っ二つになって地面に倒れ伏している黒い怪物の前に立った。
「まだ息があるとはな……」
体に力の入らないエルリックは、顔だけ動かしてドガを見上げた。
「私が、ケダモノ如きに負けるとは思いませんでしたよ」
「助太刀がなければ結果は違った」
そう言って、ドガはちらりとカービンに目を向けた。
火炎瓶を投げてから、そのまま地面に崩れ落ちた小太りの中年。全身煤や焦げ跡で黒ずんで見えるが、腰で両断された《シャドウ》に比べれば、まだマシだろう。ドガはようやく出血が弱まってきた脇腹を押さえたまま、目線を戻した。
「お前の言葉は正しい」
「はい?」
「わざわざ指摘されるまでもなく、俺はお前たちほど強くはない。無様で、取るに足らないちっぽけな存在だ。俺には何も残っちゃない。仲間や家族はみんなお前らに殺された。仲間たちの代わりに、俺の腹の底にどろり濁ったドス黒い感情が渦巻いているだけだ……」
自嘲するようにドガはフッと鼻を鳴らした。
「よく、夢を見る」
「それは――悪夢、ですか……」
鬼人は直接答えず、ただ目を細めた。
きっと、本人にも判断つけかねる夢なのだろう。
「どこかの山奥に小屋を建てて、そこで静かに暮らしている夢だ。《紅龍》や《シャドウ》たちへの復讐も忘れて、シルヴィアとただ平和に暮らしている。あいつは俺の狩ってくる獲物によく文句を言うくせに、俺より食べる……」
「幸せな夢ではありませんか?」
「……どうだかな」
そう答えるドガの顔には、悲嘆な影が差していた。
鬼人は続けた。
「俺にはそれが幸せだと感じることができない」
「なぜです?」
「……多くを失い、多くを殺し過ぎた」
「それが復讐者の定めですよ」
影人は意地悪そうな笑みを浮かべた。
殺されたから殺す。
《シャドウ》がオーガを焼き滅ぼし、《銀竜の守護者》が《シャドウ》を殺す。ひとつの復讐はさらなる復讐に繋がり、泥沼のような潰し合いに発展する。その復讐劇の中心にいる者が、幸せなど感じられるものか。
エルリックは皮肉を込めて尋ねた。
「復讐が、あなたの生きがいでしょう」
「昔はな」
「昔は? なら、今はどうなのですか」
「……もう、言い訳みたいなものだな」
――復讐が言いわけ。
阿修羅のような《銀竜の鬼人》の復讐を耳にしていたエルリックには信じられない言葉であった。シルヴィアも似たようなことを言っていた。一体、何がどうなっているのか? 一族同胞を皆殺しにされたのだ。
怨みもないのに、復讐に命を賭けるのか?
エルリックには理解できなかった。
薄れゆく意識を必死に繋ぎ止めながら、《シャドウ》は尋ねた。
「なら、あなたはなぜ戦うのですか?」
ドガは目を逸らして、ぼそりと呟いた。
「一人になりたくない。それだけだ」
――竜と鬼。
そのふたりが並び立つためには理由がいる。
煌々と燃える火の海のなかで、あのとき、鬼人がただ「一緒にいてほしい」と言ったところで、あの竜の少女はここまでついてきてくれただろうか……答えは考えるまでもない。だから、ドガはどうでもいい復讐にしがみ付いた。
《シャドウ》を殺したところで、誰も喜ばない。
家族や仲間が生き返るわけでもない。
それでも、ドガは復讐に拘らなければならなかったのだ。
ひとりの少女を引き留めるために――
「似たもの同士ですね」
「誰と誰が?」
「私も、誰かとそんな関係を築きたかった……」
青い瞳が、遥か彼方の天空へ向けられた。
影人として生まれ、同種とはかけ離れた才能を持ち、理解者は一人も現れなかった。この鬼人と銀竜のように、互いに寄り添い合うような関係など、夢のまた夢。氷のように冷淡に生き、炎のように苛烈なオーガに打ち破られる。
「ああ。そうだ。最後にひとつ教えましょう」
「何を?」
「『影は主の元へ』。空中庭園へ行くための合言葉です」
エルリックの言葉に、鬼人は訝しげに眉を顰めた。
「なぜ、俺に教える?」
つい先程まで憎悪の感情をむき出しにして殺し合っていた相手に、わざわざ重要な情報を与えてやる意味が分からない。エルリックは少し躊躇してから、何かを誤魔化すようにフッと笑った。
「ドラゴンに対する、《影》のささやかな反抗、とでも考えてください」
影人の双眸がそっと閉じられた。
荒々しく殺気の渦巻いていた顔にももう生気が感じられない。武力と知力を兼ね備えていた強敵が、ついに墜ちる。
「すべてを捨てて、旅に出ていれば、私の人生も少しはマシだったのでしょうか……」
強敵の最後を看取った鬼人は、その亡骸をじっと見下ろしながら、孤独な魂に黙祷を捧げた。
*
炎の中から現れた鬼人は、壮絶な姿をしていた。
よほど火の近くにいたらしく、灰を被った髪がネズミ色になっている。しかし、灰を被ったくらいの変化ならまだ可愛いもので、鬼人の左の脇腹は血で赤く染まっており、外から見ても凹んでいることが分かるほど深い傷を負っていた。
しかも、鬼人は、ただ重傷でいるだけではない。
彼は人間をひとり背に縛り付けて、片手で小柄な少女を抱えていた。
「凄まじい格好だな」
傷だらけのドガを頭からつま先まで眺めて、マレックは肩をすくめた。
「剣を返してもらうどころの話じゃないみたいだな」
「……悪い」
「命よりは安いさ」
マレックは自分の胸を軽く叩いた。
つい先日、ドガに命を救われた彼からしてみれば、ごく一般的なレイピアの一本や二本くらい、そう大した損失だとは感じられなかった。
「それより、約束は約束だから、やれるだけやってはみるけど……」
「これだけの騒ぎだ」
タムルグの街を治める子爵の館で火事が起きた。
そして、まだマレックは知らないことだが、このどさくさに紛れて、エルリック子爵本人も何者かによって殺されていた。要するに、街を執り仕切っていた管理者の長が消されたのだ。そのうえ、エルリックは自分の後継者を用意していなかったため、状況を俯瞰的に見て、全体をひとつの生き物のように動かせるような統率者がいなかった。
結果として、中庭で動き回る人々は何をしていいのか分からず右往左往するのが大半だった。
報告と命令がごっちゃになって、物事がうまく進まない。
「そう簡単には片付かない。分かっている」
「だったらいいけど」
マレックは人差し指を立ててくるくる回しながら言った。
「正門は野次馬たちでごった返していて通れそうにない。裏門は、火から逃げようとした人たちで詰まっている、とか聞いたな。西側の通用門は俺たちみたいな現場に慣れたプロの連中の出入りに使われているから、人目を触れずにここを通るのは無理だな」
「東門はどうだ?」
「そっちは論外だ。最初の現場から飛び火して門自体が燃えちまってる」
「……ふむ」
ドガは目を閉じて思案をめぐらせた。
四方の門のうち、どれを選ぼうとも面倒事が付いてくる。万全の状態であれば、迷わず燃えている東門へ行って、門を蹴り倒すところであるが、今は傷を負っているうえに荷物が多い。門が破れないとなると、残りの選択肢は人間と遭遇することになる。それなら、考えることは単純だ。
ドガは目を開いた。
「最短はどの門だ?」
「最短って……」
「タムルグから抜け出す。距離だけ考えてくれ」
マレックはこめかみをトントンと指で叩いた。
きっと彼の脳内にはこの街の地図がきちんと保管されているのだろう。
「そりゃ、正門から行くのが一番早く街から出られるけど――」
「なら、正門だ」
言うが早いか、ドガは足をそちらに向けた。
そんな鬼人の挙動を見て、マレックは慌てて彼の前に立ちはだかった。
「ストップ! ちょっと待った! アンタはどうやって正門にいる野次馬たちを掻き分けて進むつもりなんだ? それに、よしんば野次馬の囲みを突破できたとして、そのあと、タムルグ街を取り巻く城壁から抜け出す策はあるのか?」
そう問われると、ドガは答えられなかった。
野次馬たちは強行突破で突き進むつもりだったし、タムルグの城壁についてはほとんど考えてもいなかった。
ドガが口を噤んでいると、マレックがやれやれと首を振った。
「まったく。アンタはどこまでも筋肉任せなんだな」
「他に方法がないだけだ」
「まあ、そう言うなよ」
ドガの腕をぽんぽんと叩いた。
それから、マレックは自信ありげにニヤリと笑った。
「オレに任せろ。アンタに秘策を授けてやる」
*
墨を流したような深い暗闇の広がる夜の世界。
タムルグの街から遠く離れた丘の上。
荒野を走る街道から少し外れたところに生えている大木の傍で、焚火の炎が揺らめいていた。焚火に照らし出された鬼人の影が、大木の太い幹や扇のように広がった枝々に奇怪な形を作り出す。
火の近くに座り込んでいるドガの身体には、乾いた血がこべりついていた。
まだロクな手当てもしていないのだろう。体に刻まれた傷跡も生々しく剥き出しのままになっている。傷だらけのドガの両脇には、銀髪の少女と小太りの男が並んで眠っていた。
「……ん」
少女がうっすらと目を開いた。
寝ぼけ眼できょろきょろ左右を見回してから、むくりと起き上がった。
「やっと起きたか」
「……疲れた」
少女は気だるげに頭を垂れた。
焚火の光を反射して仄かに輝いている艶やかな銀髪が、少女の華奢な肩口からさらさらと零れた。シルヴィアは瞼の半分閉じかかった目を動かして、自分の隣りに寝ている小太りの男をちらりと確認した。
「連れてきたんだ……」
「今回はこの男に助けられた。そう嫌な顔をするな」
「…………」
少女は苦々しい顔を見せて、無言でドガに抗議した。
そんな少女に溜息を吐いてから、ドガは黙ったまま焚火に新しい薪を投げ入れた。
しばらく、薪の燃える音だけが聞こえた。
長い沈黙の後――少女が呟いた。
「あれから」
鬼人の目がシルヴィアに向けられた。
「あれから、どうやって街から出たの?」
「《シャドウ》を殺した」
「……そう」
「それから、怪我人を運んできた救助者を装って、野次馬の囲いを抜け出した」
「自分が一番ケガしてるくせに」
なじるようにシルヴィアが言った。
彼女の言うとおり、この場にいる三人のなかで、もっとも負傷しているのは間違いなくドガ本人であった。今でこそ血が止まっているものの、タムルグから抜けて一息つくまで、脇腹の傷はずっと流血していたのだ。
しかし、少女の指摘に構わず、ドガは話を続けた。
「館を出てからは……タムルグの知り合いに、ひとり不真面目な兵士がいてな。その男から、サボりスポットへの直行ルートとやらを聞き出して、そこを通った。まあ、要するに、ほとんど誰にも知られていない秘密の抜け穴があったわけだ」
「……知り合い?」
「武器屋で助けた兵士だ」
「……ふーん」
少女はどうでも良さそうに話を切った。
薪の爆ぜる音が夜の帳に吸い込まれていった。
しばらく経ってから、シルヴィアが思い出したように尋ねた。
「次は、どこへ行くの?」
「…………」
「ドガ?」
「…………」
シルヴィアが不審そうに隣りを見ると、ドガの頭がガクリと下がった。どうやら、鬼人の体力も限界だったらしい。ドガは座ったままの状態で眠ってしまっていた。そんな彼の横顔を見つめてから、少女は小山のように大きな鬼人の体に寄りかかった。
「お疲れさま」
このオーガは全力で自分を助けに来てくれた。
もちろん、彼には彼なりの理由があって、こちらを求めてきたことは分かっている。彼には《紅龍》への復讐という、何より大事な目的があるのだ。彼にとって、自分はそのために必要な道具に過ぎないのかも知れない。
でも、
しかし、シルヴィアは嬉しかった。
子爵の寝室で《シャドウ》に囚われていたとき、助けに来たドガの姿を見て、すごく安心した。なぜ、この鬼人と旅を続けるのか。その瞬間、シルヴィアは悟った。
――ドガはわたしを必要としてくれる。
肉親に裏切られ、同族に追われるような自分でも、この鬼人は求めてくれる。
たったそれだけのことが、彼女にとって救いだった。
シルヴィアは頭のすぐ上にある、ドガの無防備な寝顔を慈しむように見上げた。
「ありがと」
少女は鬼人の頬にそっと口づけした。
Q、とりあえず終わったけど、次は?
A、今日のところは勘弁してください。