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Q,ねぇ今どんな気持ち?

A,紙に印刷するほうが楽だったような気がしてきたよ。


     *



 ――『鬼が来た』

 その急報を受けた子爵エルラックは冷徹な笑みを浮かべた。

 かつて見たことのない子爵の表情に、言伝に現れた宰相は思わず背筋が凍った。下町では穏健な名君で通っているが、何かの間違いだろう。こんなバケモノじみた殺気は今まで一度も感じたことがなかった。

 ――この御方は、人の皮を被った怪物だ!

 宰相は恐ろしい感覚に支配されながら、子爵の言葉を待った。

 二人の居る場所は、シルヴィアが幽閉されている寝室より壁を一枚隔てた、子爵の書斎であった。エルラックは昨日一日使って鬼人の動向を探っていたが、何かを企んでいるらしい兆候が見られただけで、それ以上の情報を掴めていなかった。

「……ケダモノが」

 エルリックがぼそりと呟いた。

「はい?」

「何でもありませんよ」

 子爵は再び考え込んでから、手に持っていた杖で床を二度叩いた。

「ご苦労様です。運送屋は離れの蔵に案内してください」

「はっ!」

「それと、案内が済んだら人払いもお願いします。言うまでもないでしょうけど、内密な取引ですから。警備の者であろうとも誰一人近づけないように配慮してください。禁を犯した者は首を飛ばします」

「畏まりました!」

 宰相は一礼して書斎を去った。

 扉が閉まると同時に、子爵の杖が乾いた音を立てた。尋常ならざる怪力に握り潰された杖のグリップが細かく砕かれ、床の上に落ちてからんからんと小さく鳴った。




      *



 カービンは警備兵のひとりに倉の前まで案内された。

 いや。

 正しくは、カービンは、倉の前まで来ると大男に指示して警備兵を絞め落とさせた。どしゃりと重々しい音を立てて地面に崩れる兵士の姿を眺めてから、彼は大男が担いでいた荷を解き始めた。

「ほれ。お前さんも手伝いなされ」

 カービンは厳重に梱包された包みを開けながら、大男に目配せした。

 大男は身を屈めて、カービンが次々と外していく袋を大きな腕で受け取っていった。もちろん、荷物の中身は高級婦人服なんかではない。子爵が密命を出して、高級婦人服を買い求めていたことは真実であったが、カービンたちはそこを利用させてもらっただけのこと。発注を受けた服屋から子爵の注文書を買い取り、自分たちが服屋になりすましたのだ。

 そして、高級婦人服と偽って持ち運んだのが……

「ふむ……」

 カービンは何重もの包みの中から、一本の瓶を取り出した。

 飲み物を入れておくような中型の瓶の中には黒く淀んだ怪しげな液体が詰められており、口の部分には石鹸が隙間なく詰めて密閉されている。その石鹸の中心から、蝋燭の芯のような布が伸びていた。

 いわゆる、火炎瓶という武器である。

 まだこの時代に石油はほとんど出回っていない。その石油をさらに精製して出来上がったものが火炎瓶の燃料となる。この面倒な燃料から分かるように、普通の商人は火炎瓶を入手できないどころか、その存在すら頭にないことがほとんどだろう。

 カービンは瓶の状態を確認してから、大男に手渡した。

「ご武運をお祈りいたします」

 大男は懐から火を取り出し、火炎瓶から伸びる布に着火した。

 瓶の口から赤い舌が伸びる。

 その炎を一瞥してから、大男は倉庫に向かって火炎瓶を投げつけた。火炎瓶は緩やかな放物線を描いて宙を飛び、倉庫の壁にぶつかって粉々に砕けた。瞬く間に火の手が広がり、辺りが異様に明るくなっていく。

 赤々と燃え始めた倉庫を背に、カービンは大男の肩を叩いた。

「さて。引き上げるとしましょうか」

「…………」

 大男は無言でカービンの行く手を遮った。

 彼が避難まじりに前方へ目を向けると、そこには一人の男が立っていた。

「おやおや。ずいぶん派手やってくれましたね」

 金髪に青い双眸。すらりと整った顔立ち。火事場には場違いな笑顔。明らかに庶民ではない立派な服装。実際に会ったことはなかったが、すべての状況が雄弁にこの人物が何者であるか物語っていた。フードの下から見える大男の顎先に一筋の汗が流れる。

「エルリック・ザーバルダン………この街のご子爵様ではございませんか……」

 カービンは自分の膝が震えていることすら気づけなかった。




      *



 倉庫で上がった火の手はすぐさま兵士たちの知るところとなった。

 晴天に立ち昇る黒煙の根元を目指して、兵士たちは一目散に駆け出していった。もはや大した仕事もない自分の持ち場についている場合ではない。一刻も早くあの火を消し止めなければ――兵士の誰もがそう思っていた。

 結果として――

「こうも簡単に行くとはな」

 子爵の館の正門の前には、一人の鬼人しか立っていなかった。

 無人となった城門の下を潜り抜けて中庭に入っても、誰も出合おうとしてこない。ドガも事前にカービンの策略を聞かされてはいたが、そのときはここまで上手く行くとは思ってもいなかった。

 ドガは無人の中庭を突き進み、館の本館へ向かった。

 目測にして五階建てほどの本館から給仕の女が飛び出してきて、ドガを見て目を丸くして驚いたものの、今はそれどころではないといったように気を取り直して鬼人の脇を通り抜けてそのままどこかへ走り去ってしまった。

「そんなものか」

 ドガは憮然とした表情で本館に足を踏み入れた。

 さすがに本館にはほんの少数ながら歩哨が残っていたが、鬼人の敵ではなかった。味方を呼び寄せる間も稼げず、本館の警備についていた歩哨たちはものの五秒も保たずにバタバタとなぎ倒されていった。

 まるで無人の野を駆けるが如く。

 ドガは一気に子爵の寝室のある三階まで上りつめた。

「……………」

 長い廊下が続いている。

 窓からの日差しが壁に鬼人の影を映した。

 ドガの脚が一瞬だけ止まった。

「……………」

 この先に、あの狡猾な《シャドウ》待ち構えているかも知れない。

 廊下で立ち止まるなど、言うまでもなく危険で無駄なことである。いつ、廊下の向こうから新たな敵が現れるか分かったものではない。しかし、あの《シャドウ》がカービンの策を読み切っており、寝室の扉の向こうでニタニタ笑いながら待ち伏せしている可能性もある……

 ドガは鋭く舌打ちした。

「今さら、何を恐れる?」

 失敗しても死ぬだけだ。

 感情なんてとっくに壊れている。自分の命さえどうでもいい。自分の一生は、あの日。故郷と仲間をすべて失った瞬間に終わっていたようなものだ。《シャドウ》と《紅龍》に対する復讐だけが残ってしまうが、それを責める者はどこにもいない。

「そうだ。俺には何も無い」

 ドガは口元を歪ませた。

 恐怖は何かを失うことができる者が持つべき感情である。

 造作もなく、ドガは寝室のドアを蹴り破った。

 子爵の寝室は、表の騒がしさとは程遠く、静謐な空気が漂っていた。

 豪勢な内装の室内に入ると、すぐにベッドの上に座り込んでいる銀髪の少女の姿が目についた。少女はドガの顔を見ると目をパチクリさせ、それから慌ててプイとそっぽを向いた。何というか、いちいち仕草がドラゴンらしくない。

「ドガ。遅い」

 本音混じりの非難の声。

 まさか、こちらがここまでたどり着けないなど、夢にも思っていないかのような少女の態度に、ドガは大きく溜息を吐いた。ある意味、相手に信頼されている証なのかも知れないが、今回はハッキリ言って、かなり綱渡りだったのだ。

 言いたいことはいろいろあったが、今は口論する気が起きなかった。

「悪かったな」

 ドガは素っ気なく答えて、少女の座るベッドに歩み寄って行った。

 ――と、その次の瞬間。

 何かを感知したシルヴィアが、さっと目線を上に向けた。

「ドガ!」

 緊迫感の込められた声に、鬼人は即座に横へ跳んだ。

「グルォアッ!」

 一瞬遅れて、天井板をぶち抜いて黒い人影が飛び降りてきた。

 武器屋で襲ってきた《シャドウ》より一回り大きく、顔には分厚い鉄仮面が被せられていた。ドガよりも拳ひとつ分ほど大きな巨躯を持つ闖入者は、地響きと、頑丈な寝室の床を凹ませながら着地した。

「そう簡単には行かないか!」

 鬼人は歯噛みしながら、路地裏で警備兵から借りたレイピアを引き抜いた。

 身体の大きな鬼人が持つと、警備兵のレイピアは小枝のように見えた。手強い《シャドウ》と打ち合うにはずいぶん心もとない武器ではあるが、これでも無いよりはマシである。相手は腕をハンマーのように先端を肥大化させて、振り回してきた。

 唸り声を上げて飛来する黒い塊を、鬼人は首を逸らして鼻先でやり過ごした。

「ドガ! それ、エルリックじゃない!」

「何の話だ」

「前に襲ってきた《シャドウ》とは別人なの!」

 シルヴィアは煩わしそうに首輪の鎖を引っ張った。

 二人のやり取りに構わず、《シャドウ》が無造作に腕を振るう。肥大化した腕がブンと鈍い唸りを上げて鬼人に襲い掛かる。とてもじゃないが、小枝のようなレイピアで防ぎきれる攻撃ではない。

 鬼人は堪らず後退した。

「田舎の街に《シャドウ》が二体……か」

「グルルルル」

 鉄仮面の下から嘲笑するような唸り声が聞こえた。

 その間にも、大ぶりでデタラメな攻撃が次々と繰り出される。一撃の破壊力が大きく、一発でもまともに食らえば、それだけで勝負が決まりかねない。しかし、幸いなことに、武器屋で襲ってきた《シャドウ》とは違い、攻撃のパターンは単調そのものである。

 猛攻の嵐をひとつひとつ見切り、鬼人はすべてを紙一重でかわした。

「シルヴィア!」

「ダメ! 鎖が外れない!」

「くそったれ!」

 ドガは罵声とともに床を蹴った。

 レイピアの刀身を水平に寝かせた、突撃体勢である。

 《シャドウ》も相手から突撃してくるとは予想していなかったのだろう。不意の突撃に対して黒い人影はとっさに両手を振り下ろし、突っ込んでくる相手を叩き落とそうとした。元々の身体能力がズバ抜けている《シャドウ》ならでは素早い対応であった。

 しかし、ドガは最初からその反応を読んでいた。

「馬鹿が!」

 鬼人は間髪入れずに二歩目を踏んだ。

「グルァッ!」

 突進しかけていた巨体が人影の目の前で跳び上がった。

 最初の一歩目は突進に見せかけたフェイクに過ぎない。本命は天井目掛けて跳躍する、危険な二歩目にあった。目前で無防備な体勢を曝しながら宙に上がる鬼人を、《シャドウ》は床に両腕を陥没させた状態で歯軋りしながら睨みつけるしかなかった。

 天井にレイピアを突き立てて、ドガは軌道を変えた。

 《シャドウ》が再び腕を振り回したときにはもう鬼人の姿は天井周辺にはなく、黒い人影の背後に着地していた。天井を蹴って軌道を変更し、《シャドウ》を飛び越えたのだ。オーガらしくない、軽業じみた身のこなし。

「ガルッ!」

「遅い!」

 相手が腕を振るうより早く、ドガのレイピアが宙を滑った。

 振り返りざまの一撃を《シャドウ》の背中に叩き込む。剣筋の乱れた力任せの攻撃に、細いレイピアの刀身は簡単に折れた。しかし、ドガは少しも焦りを見せず、そのまま刃を欠いた柄で黒い巨体をぶん殴った。

 巨岩同士がぶつかり合ったような鈍い音が響いた。

 体勢の崩れた《シャドウ》の背中に、さらなる蹴りを加えて、部屋の端まで吹き飛ばす。

「グラァァッ!」

 黒い巨漢は寝室の床を削りながら踏ん張り、壁の手前で勢いを殺した。

 苛立ち紛れに化粧台を叩き潰し、鉄仮面を被った《シャドウ》は再び鬼人と対峙しようとした。そして、その瞬間、鬼人の真意に気付いて、顔色を変えた。最初から、ドガはまともに《シャドウ》とやり合うつもりなど微塵もなかったのだ。彼にとって、今何よりも必要なもの。それは――

「ようやく。届いたな」

 ドガは少女の座るベッドのすぐそばに立っていた。

 彼の狙いは、彼女を回収することであった。

「ドガ。これ」

「貸してみろ」

 鬼人は少女の首輪に指を掛けた。

「フンッ!」

 ぶちっ。

 人間の力ではびくともしないような鉄の首輪が糸のように千切れた。

「ガルルッ!」

 黒い人影は、大慌てで床を蹴った。

 銀刀を手にした鬼人の強さはかねがね耳にしていた。多くの仲間が斬り殺された。自分が殺される悪夢も見た。《シャドウ》にとって、シルヴィアと組んだドガはそれほど恐ろしい存在だった。

 ――だが。しかし。

 時、既に遅し。

 少女の首にかけられていた、魔力を封じる首輪は無残に分断されている。

「ドガ!」

「ああ」

 鬼人の手が、剥き出しになった少女の首を掴む。

 その次の瞬間。

 室内は目も眩むような閃光に包まれた。

「グラァァァァア!」

 あまりの明るさに《シャドウ》は目を覆った。

 そこに、決定的な隙が生まれた。

 光の中心から飛び出てきた鬼人は、一瞬の躊躇もなくまだ光を放っている銀刀で《シャドウ》の胸を貫いた。鉄仮面の下から血が吹き出す。黒い巨体がビクッビクッと断末魔の痙攣を繰り返す。

 ドガは無言で銀刀を下に振り、唐竹割に《シャドウ》の体を両断した。




     *



 両断された巨体から吹き出した血飛沫が、カービンの視界を赤く染めた。

 ドガの贋者として用意した大男をたった今、彼の目の前で斬り捨てた黒いバケモノは、悠々と血を払いながらこちらに目を向けた。青く澄んだ双眸には何の感慨も浮かんでいない。そのことが、カービンの心を掻き乱した。

 まさに、瞬殺であった。

 贋者といえども、それなりの武人を雇ったはずだったが、まったく歯が立たなかった。一合も斬り合うことなく、ただそこに立っていただけで何もできずに殺された。

 次元が違い過ぎる。

 カービンは震える手で火炎瓶を構えた。

 すでに火は付いている。

 彼を試すように、黒い人影はぴたりと動きを止めた。

 すべてを見透かすような青い瞳がこちらを見据えている。

「く、くそっ!」

 恐怖に耐えられず、半ば誘われるままに、カービンは火炎瓶を投げつけた。

 彼の手を離れた火炎瓶はそう大した速度ではなかったが、黒い怪物は敢えて何もせず、顔面で受け止めた。ガシャン。ガラス瓶が砕け、黒い体の表面に火炎が燃え広がった。バケモノは燃える自分の腕を眺めてから、フッと口を歪めた。

「なるほど。面白いおもちゃですね」

「ひっ!」

 カービンは悲鳴を上げて後退した。

 黒い体がぐにゃりと歪み、風呂敷で炎を包むように、新たに生やした薄皮で燃える火炎を呑み込んだ。空気を締め出された炎はすぐに掻き消え、バケモノは何事もなかったかのごとく、涼しげな様子で指先から煙りを放出した。

「運搬が容易で、使用方法が単純な火炎兵器……効果も見ての通り、十分でしょう。問題はこの燃料と容器の生産コストくらいですか。効果のほどを考えれば、多少値が張るでしょうけど、敵地攪乱用の特殊兵器と割り切れば、手を出してみる価値もありそうですね」

 黒いバケモノは長広舌をふるいながら、ゆっくりカービンに近づいて行った。

「それにしても、あのケダモノに人間の協力者がいたとは驚きましたよ」

「ひっ!」

 砕けた瓶の欠片が踏み潰しされて、ジャリ、と耳障りな音を立てる。

 カービンはいつの間にか地面に尻もちをついていた。

 転んだ覚えはない。知らぬ間に、バケモノの威圧のせいで腰が抜けてしまっていたのだ。人一倍好奇心の強い彼ですら、とっくに胆を潰されていた。頼れる鬼人と一緒だったときは、ここまで心を乱さなかったが、あの日とは何もかもが違った。

 縋れるものが何もない。

 青眼の影人はゆらりと歩を進めた。

「あのケダモノに協力して、何のメリットがあったでしょうか?」

「ひぃっ!」

 カービンは必死の形相で腰の抜けた体を引きずった。泣き笑いするかのように顔をくしゃくしゃに歪めて、赤々と燃える倉庫の一歩手前まで下がった。それ以上後ろに行くと、炎に身を焼かれてしまう。追い詰められたカービンは新しい火炎瓶を取り出そうとしたが、手が震えて重箱の中身をすべて地面にばら撒いてしまった。

 地面を転がりゆく火炎瓶を、黒い人影が踏み砕く。

 遥か前方から、新たな足音が聞こえた。

 黒いバケモノは振り返って新手を確認した。

 そこには、武装した兵士たちが並んでいた。

「ヒッ! 何だこの怪物は!」

「こ、こいつが火付けの犯人なのか!」

「そんなことはどうでもいい! 全員、武器を構えろ!」

 八人の兵士が長槍を構えた。

 火を消し止めに来た、この館の警備兵の一隊であった。

 彼らは未知の生物と遭遇した恐怖に顔を引き攣らせ、相手の出方を伺った。

「まったく、運のない人たちですね」

 溜息と同時に、黒い両腕が鞭のように高速でしなった。

 黒い細線が一閃二閃し、八つの首が宙を舞う。

 武装した集団をまるでカカシのように苦も無くバケモノは平然とこちらへ向きなおった。

「ひっ、ひひっ」

 カービンは憔悴しきった顔で迫りくる黒い人影を見上げた。

 もう危機を逃れる術はない。

 バケモノは言った。

「そろそろ終わりにしましょう」

「……ひ。ひひひ」

 カービンはじりりと半歩下がった。

 視界の端で火の粉が躍る。

 黒い人影は、相手の意外な行動に足を止めた。

「自ら焼かれるつもりですか?」

「ひっ、ひひっ……けっきょく、こうなりますか……強い者が勝ち、弱い者が踏み潰される……弱い者がいくら足掻いたところで、巨大な力の前には無に等しい……アッシ程度の人間には、ここが限界……ひひっ。ルナリア。すぐ、そちらに行くぞ」

 視点の定まらぬ目で、カービンはぶつぶつ呟いた。

 もはや、この小太りの中年にまともに喋る能力があるかどうかすら怪しい。

 エルリックは無言で片手を伸ばして刀の形をつくった。

「この様子では、人質にも使えませんね」

「ひっ、ひひっ、ひひひひ……」

「一思いに――」

 黒い腕が振り上げられた瞬間――


〈キュォオオオオオオオンン!!〉


 甲高い咆哮が鳴り響いた。

 本能的に、骨の芯まで凍りつくような、屈辱の記憶と深く結びついた竜の叫び。

「まさか!」

 黒い人影は、初めて動揺の色を浮かべて、声のした本館の方角へ体を向けた。

 本館のバルコニーには、黒い返り血を浴びた鬼人が、透き通るような銀髪の少女を片手で抱えて立っていた。

「は、ははっ……」

 黒い人影は乾いた笑い声をあげた。

 万人を見下す、嘲笑の声――

「まったく……揃いもそろって役立たずばかり……」

 長らく炎上していた倉庫の柱が焼け崩れ、建物自体がぐらりと手前に傾いた。

 そして、そのまま津波のようにカービンとエルリックを呑み込まんと倉庫全体が炎を纏ったまま倒れてきた。黒い人影はバルコニーを睨んだまま、そちらを見るともなしに両手の指を伸ばし、降りかかる倉庫の残骸を細切れに切り刻んだ。

「いいでしょう。すべて私が片付けます」

 崩れ落ちた残骸の巻き起こした土煙の中で、エルリックは青い双眸を光らせた。





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