宿屋
少女は沈んだ面持ちでスープ皿の底を見つめていた。
時刻はちょうど夕食前。
城壁の外にある宿屋〈石竜亭〉は中世ヨーロッパの旅景色のように、汚らしく、ニンニク臭く、イモ洗い状態の宿屋。怪しげな砂漠の民やら、見るからに貧しい宗教家に、片腕のヤクザ者とか、従者を連れた騎士様やらがひしめき合っている。その中でも、小山のような巨漢ドガと幼い少女シルヴィアの組み合わせはとりわけ目立った。
ドガはふてぶてしく両手を組んで椅子に座っていた。
「……ドガ」
「まだ大人しくしていろ」
「……あい」
どうやら鬼人は誰かに話しかける気なぞ甚だないようだ。ドガの近くに座っている職人らしき男たちも物珍しそうに彼の二本角に目を向けるものの、明らかに危険な香りのする、厳めしい巨漢にわざわざ声を掛けようとはしなかった。大陸南部ならばオーガもそう珍しい種族ではないが、氷刃山の麓まで北上するオーガはほとんどいない。
調理場から運ばれてくる料理を回しながら、ドガは鋭い目線を左右に送った。
そして、隣りの商人らしき男で目を止めた。
――こいつだな。
ドガはスッと目を細めた。
指の動きで隣りのシルヴィアに合図を送り、いつもの方法を始める。
「……あっ」
ガシャンッ!
銀髪の少女のほうから皿の砕け散る音が鳴り響いた。周囲の人々の目がシルヴィアのほうへ吸い寄せられる。彼女は、スープ皿の中身を膝元にぶちまけ、途方に暮れた顔で床に落ちてしまった皿の破片を見つめていた。
「う、あ……」
シルヴィアはおろおろ宙に手を彷徨わせてから、鬼人の袖を引っ張った。
「ドガ……」
「……また洗濯か」
鬼人は慣れた手つきでシルヴィアの脇に手を通し、彼女を椅子の上に立たせた。それから膝元から順に床まで手持ちの布クズで拭いてやり、心配そうにこちらを伺っていた酒場の従業員に砕けた皿の破片を渡して、ついでにその代金も支払った。
「シル。着替えるぞ」
「……あい」
鬼人は銀髪の少女を連れて、テーブルから離れた。
二階の個室で少女を着替えさせて、ついでに人前では憚られるような折檻を与えるのだろう。このとき食堂にいた大半の人間がそんな想像を思い浮かべた。そして、目の前に温かい食事があることを思い出して、すぐにその二人のことを忘れてしまった。
しかし、一人だけ例外がいた。
テーブルの端についていた、頬に傷がある小太りの初老の男は、うっすら生えている顎髭を摩りながら感嘆した。
「ほぅ。見かけによらず手のお早いことで」
小太りの男は二人の消えていった階段を眺めて、にやりと笑った。