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初めての恋は、王子様と。

作者: 碧檎

「――そうして、硝子の靴を小さな足にぴったり収めた〈灰かぶり〉は、王子様のお妃になり、幸せに暮らしました――」


 幼い頃から何度も読みふけったおとぎ話の本を閉じると、サラは目を閉じて大きく息を吸った。

 初夏の朝、朝靄を纏った空気が開いた窓から流れ込み、頬を撫でていく。

 瞼ごしにささやかな白い光を感じたサラは、その小麦色の長い睫毛を一気に持ち上げる。窓の外では登りかけた太陽が山際を赤く染めていた。


「いよいよね」


 昨夜は興奮して寝付けなかった。寝不足のはずだけれど、眼も頭もベッドの中に居てももう眠れそうにないくらいに冴えている。

 サラは、ゆっくりとベットから抜け出すと、ひとつ大きく伸びをした。そして壁にかけた青のドレスをじっと見つめる。


「今日はきっと特別な一日になるわ。――してみせる!」


 朝日がキラキラと窓に反射し、サラの瞳もサファイアのように輝いた。

 胸をくすぐる予感が心を踊らせていた。


 



 台所へと降りて行くと、すでに使用人ハウスメイドのマーサが朝食の準備をしていた。


「おはよう! マーサ」

「おはよう。今日は忙しくなるね」

「そうね。がんばらなくっちゃ!」


 サラは前掛けをさっと腰に巻き付け、古ぼけた木のバケツを手に外へ出る。

 建物の影になった庭はまだ薄暗い。冷たく澄んだ空気が胸にしみ込み、体中を洗っていく。

 目線をあげると、こんもりと盛り上がる森の向こうで、白々と輝く尖った塔が空を突き刺していた。それはこの国を治める王の住む城の一角だった。

 今日の夕刻、城で舞踏会が開かれる。

 御歳十八になられるラファエル王子殿下が、そろそろ本腰を入れてお妃を探している。しかも、王室に新しい風を吹き込むためにと、上流階級の娘だけでなく、中産階級や労働者階級からも広く集められている――そんな話もサラの耳に入っていた。

 だから義母・・をはじめ、サラの二人の義姉あねたちもひどく気合いが入っている。

 サラもその話を聞いて、必死でねだった。奮闘の結果、なんとか義母から参加する許可を貰ったのだ。ただし、時間までに全ての雑用を片付けることを条件につけられはしていたけれど。


 サラの実の母が亡くなってしばらくした頃、父は、二人の娘を連れた今の母と結婚した。

 貿易商である父は、前々から商品の仕入れで異国を飛び回り、家を空けがちだったのだけど、留守中のサラのことを心配して、降って湧いた縁談を二つ返事で受けてしまった。

 そうしてやってきた新しい家族は、サラに温かかった。だからサラは最初、心から彼女たちを歓迎していたのだ。

 けれど、現実は厳しい。

 義母も姉も、父の前で猫を被っていただけで、父が家庭の円満を確信した後、こっそりとサラをいびり出した。

 まるで、おとぎ話の〈灰かぶり〉のようだわと、思ったものだ。

 灰かぶりの様に灰を被るようなことは無いものの、あきらかにサラと姉たちの待遇は違った。義母はサラに姉のお古を着せたり、食事を減らしたりして、極力お金をかけないようにしていたけれど、それだけでは飽き足らず、家の仕事までさせて使用人メイドを雇うお金を浮かせている。今いるマーサは、父が幼い頃からの使用人だから雇っているだけで、もしそうでなければ解雇されていただろう。そこまでされると、怒るのも通り越して、感心してしまう。


 訴えようにも、それが父の負担になることは目に見えている。命にかかわるほどのものでもないし、ちょっとしたいいこと――以前は許されなかったような、街へのお使いや台所でのつまみ食いなど――もある。それにサラは仕事に燃える父を見るのが好きだった。だから、自分の僅かな不遇くらい我慢してみようかなと思うのだ。


 でも、サラは今日の舞踏会にはどうしても行きたかった。いつも頑張っているのだから、このくらいは望んでも罰が当たらないはず。夢見ることくらい許されるはず。だから、異国にいる父に、前から手紙で頼み込んで、ドレスが無いなどと理由をつけて渋る母を説得してもらっていた。


「だって――あたしはがしたいんだもの」


 サラは朝焼けの空に向かって呟く。

 別に〈灰かぶり〉のように、相手が本物の王子様じゃなくてもいい。自分だけの素敵な王子様に巡り逢いたかったのだ。



 ◆



 隣家との狭間にある古ぼけた井戸の前では、赤毛の少年が腰掛けて、手に持った新聞を熱心に読んでいる。

 彼はサラに気がつくと、無愛想に言った。


「おはよう、サラ」


 普段は同じように無愛想に返すところなのだけれど、今朝のサラは彼に満面の笑みを向けた。


「おはよう! ――あのね、あたし、今日の舞踏会、行けることになったのよ!」


 昨日、サラの懇願を汲んだ父からの返事が届いた。


『サラを舞踏会に行かせなさい』という一言が書かれたそれは、もはや説得ではなく命令だった。それでも渋る母から了承を得たのは昨日の夜の事。

 降って湧いた幸運を誰かに話したくてしょうがないサラは、獲物を逃すまいと新聞を押しのけ彼の顔を覗き込む。だが、


「あっそ」


 彼はプイとサラの瞳を避けると、後ろを向いてがさごぞと新聞を開いた。サラはまったく面白くないその反応に小さくため息をつく。


(あーあ。やっぱり聞く気なし、ね)


 このアンドレはサラの幼馴染みだ。昔からお隣に住んでるというだけの、腐れ縁というヤツだった。

 そして、彼は活字中毒者の異名も持っている。

 雨でも降らない限り、彼は毎朝ここで新聞の全ての記事に目を通す事を日課としている。

 彼が手に持つ新聞は、近所の実業家、それから酒場の主人までが彼の家の前に捨てるように置いていく、前日発刊の古新聞だった。しかも高級紙から大衆紙まで様々だ。

 サラは滅多に物に執着しない彼が、目を輝かせて新聞の回収を引き受けていた事を覚えている。まあ、確かに子供の小遣いで毎日すべて揃えるには少々高い買い物ではあるのだけれど、彼が宝物だと言って部屋に溜め込んでいる紙の束は、サラにはただのゴミにしか見えなかった。


「――足の被害にご用心――?」


 彼の気を引こうと、後ろから覗き込みながら活字を読み上げると、アンドレは五月蝿そうに大衆紙を閉じ、ようやくサラの話に付き合い始める。


「舞踏会か。あのお義母さんがよく許してくれたね」


 彼もサラの家の事情――主に義母のこと義姉のこと――はよく知っているのだ。特に義姉たちにはアンドレもよくいじめの被害にあっている。それもこれもサラを庇ったせいで。自分の家のことだ。自分たちで解決すべきだし、死ぬほど辛いわけでもないのだ。だからアンドレには口出し無用だと言い聞かせている。彼の前では平気なふりをしようとサラは思っていたし、そうすることで条件反射的に強くなった気もしていた。


「ふふん。を使ったのよ」


 よくぞ聞いてくれました! 誇らしげに言うサラに、アンドレはフンと鼻を鳴らした。


「あー、それは頭を使ったんじゃないだろ。親父・・を使ったって言うんだ」


 あっという間に看破されて、サラはげんなりした。


(そういうとこが、かわいくないんだってば!)


 そう思いつつも、いつもの事だから今さら腹を立てるのも面倒で、話を元に戻す。


「ねぇ、そういえば……アンドレは行かないの? せっかくダンスの練習だってしたんでしょ?」


 ダンスは有志のおばさまおじさまたちが学校の講堂を借り切って教えてくれた。確かアンドレの姿もそこにあったような――あまりに珍しかったから覚えていたのだ。


「興味ないし」


 アンドレは面倒臭そうにそう言うと、本当に興味なさそうに再び新聞を開く。サラはまたもや新聞を押しやって彼の注意を引こうとした。


「あたしね、今日の舞踏会で素敵な人に巡り逢えるんじゃないかって思ってるの。――ほら、運命の出会いってヤツよ!」


「運命の出会い?」


 アンドレがひどく不快そうに顔をしかめるが、サラは構わず興奮した声で続ける。


「あたしももう十六だし。家に閉じこもってたら、出逢えるものも出逢えないじゃない? そうよ……あんたもちょっとは考えた方がいいんじゃないかしら?」


「…………興味ないし」


 アンドレは突き放すようにそう繰り返して、新聞を折り畳むと自分の家の方へと戻って行った。


(うーん……なんだか、怒ってたような……まあ、でも、アンドレが無愛想なのはいつものことだし……)


 首をかしげるサラの耳に、マーサの呼ぶ声が届く。


「――サラ? 水はまだかい? 早くしておくれ!」


「あ、たいへん。時間がないんだった」


 サラは慌てて家に舞い戻る。





 そうして訪れた夕方、家の中はほとんど戦場だった。


「ほら、サラ、もっと締めてあげて。とびきり綺麗にしてあげてね。王子さまの目にとまるように!」


 義母はサラに訴えるけれど、それはどうにも無理な注文に思えた。


「ああ、もう! くるしい! ちょっと、サラ、――あんたのせいよ! なんでこんなにきつくドレス作っちゃったの! 寸法間違っちゃったんじゃないの?」


「ねぇ、ちょっとその口紅の色、下品すぎない? どういうつもり? 私にそんな色似合う訳ないでしょ? センスがないったら」


 上の姉も下の姉も気合いばかりが空回りしていた。二人揃ってこの日のための減量は功を奏さず、小さめのコルセットで締め上げられているせいか、苦痛と空腹感から文句ばかりが口から絶えず漏れていた。


「姉様たち、どちらも今までになく綺麗だから安心して!」


 いちいち細かい姉達をおだてて黙らせて、彼女達の用意を済ませると、ようやくサラは自分のことに取りかかれた。

 部屋を出て行く姉二人を見送ると、ふぅとため息をついて窓から外を見る。

西の空が燃えて、もう舞踏会が始まるまで半刻もなかった。


「ああ! 急がなくっちゃ!」


 マーサに手伝ってもらい、サラは母の形見の古いドレスとサファイアのネックレスを身に付けた。

 そうして、小麦色の髪を梳かして頭のてっぺんで纏める。軽くおしろいをはたき、唇に少しだけ淡い紅をのせる。


「じゃあ、行ってきます!」


「ちょっとお待ち!」


 羽が生えたかのように飛び出そうとするサラを、マーサが引き止め、鏡の前に立たせた。


「ほら、目を閉じて。仕上げに、魔法使いが魔法をかけてあげるよ!」


 すぐ終わるからと言われてサラは素直に目を閉じた。


「サラ、あんたは今からもっと綺麗になる――。そう信じるんだ。今は魔法なんて殆ど信じられてないが、ちゃんとあるんだ。少し前はみんなこうやって魔法をかけてたんだよ。私の母さんもばあさんもね」


 そのまたばあさんは本物の魔法使いだったんだ――と続けるマーサに、サラは微笑んで頷く。


「ほら、欲しいものはなんだい? カボチャの馬車かい? それともガラスの靴かい?」


 マーサは歌でも歌うように調子を付けてサラの耳元で囁く。まるで呪文のような言葉に、サラはふわりと宙に浮くような気分になった。


(あたしが欲しいのは――はじめての恋)


 サラは欲しいものを念じ終わるとそっと目を開けた。


(ああ、本当に魔法のかかった灰かぶりみたい――)


 思わず自画自賛してもおそらく罰は当たらないだろう。

 鏡の中には青いドレスを着た淑女が立っている。

 クリノリンで大きく膨らませた、裾を引きずるくらいの長いドレスは淑女の印。普段は仕事の邪魔になるからと、ようやくくるぶしが隠れる長さの、しかもしぼんだスカートを穿いているサラにとって、これはまさに憧れのドレスだった。

 しかし今日のサラが美しいのはドレスのせいだけでは無かった。サラは自分の青い瞳が、みるみるうちに自信をみなぎらせ、輝きを深めているのに気づく。

 それがサラの容貌すべてを引き立てていたのだ。


「きれいだねぇ、サラ。奥様のお若い頃にそっくりだ。――しっかり、王子様を射止めておいで!」


 マーサに言われて、サラは頷くと、


「ちょっとぉ! まだなの? 置いてくわよ!」という姉の声に応えて階段を駆け降りた。



 ◆



 舞踏会の会場である大広間に着くと、姉たちは猛然とラファエル殿下を探しに行ってしまった。


「あ、待って!」


 その勢いに戸惑うサラは、広間の入り口付近で大勢の人の波の中に取り残される。走ろうとしても慣れない服装がそれを妨げた。人の波はうねり、サラを飲み込み、あっという間に姉の姿は見えなくなってしまう。サラは溺れながらも、必死で壁際に寄ると、ようやく息をする事を思い出す。


「はぁ……少しは妹に対する思いやりのようなものはないのかしら……」


 初めてのことで、右も左も分からないのだ。それに、急に決まった事だから、サラには連れがいない。連れがいなければ、ダンスも出来ない。サラは一気に肩を落とし、目の前の波打つ人垣をじっと見つめた。

 サラが別人のように着飾っているのと同じで、皆が皆普段とは違う姿をしている。色鮮やかなドレスに、濃い化粧。まるで仮面舞踏会のようだと、サラは思った。いくら異彩を放っている姉たちだとしても、とてもこの中から探し当てる自信は無かった。


(あーあ。やっぱり姉さんとはぐれたのは失敗だわ。せっかくだし、姉さんの友人の一人でも紹介してもらいたかったのに……)


 噂に聞くと、こういう場では新しい恋の花が咲く確率がひどく高いのだそうだ。

 なぜなら王子様は一人。選ばれるのも一人。あぶれてしまった花を狙って男性がやってくるから。

 サラがこっそり期待していたのはまさにそれだったというのに。


(ああ、無念……)


 サラはひとつ大きなため息をついて、ぼんやりと会場を見回した。

 天井には意匠を凝らした模様が描かれ、柱には細々としたレリーフが彫り込まれている。見下ろすと、大理石で出来た床は鏡のように磨かれていた。そんな場に相応しい、家では滅多にお目にかかれないような豪勢な食事――七面鳥の丸焼き、見たことのない果物の盛り合わせ、甘い匂いの漂う菓子など――が各テーブルごとに山になっている。サラは飲まないけれども、お酒も大量に用意してあった。

 バルコニーとは逆の面には五名の楽団が陣取り、緩やかなテンポの曲を奏でている。中央は広く空けられていて、数組の男女が既に音楽に合わせてダンスを楽しんでいた。


 サラは少しでも楽しもうと、手に手を取り合う男女の間をすり抜けながら自分の居場所を探す。しかしきらびやかな中央に彼女の場所は見つからず、

結局は蔦模様の入った白い壁に寄ると、一人壁の青い地味な花となり、豪勢な食事をつまむことにした。


「あーあ、つまんない」


 ――食べないとやっていけない気分だった。

 はじめての舞踏会。もっといろんな人とお話したり、ダンスをしたりという、きらびやかなものを想像していた。

 この日のために覚えたと言っても過言ではないダンスは、おそらくお披露目の場所を失う事となるに違いない。

 せっかくのご馳走も味気なく思え、サラはため息をつくと、じっと自分の足元を見つめる。


(ガラスの靴じゃないから、駄目だったのかしら)


 もちろんそんなものは売られているはずも無い。あったとしても、履いて歩けばすぐに脆く割れてしまうに違いない。

 服だって、家で見れば素晴らしく豪華に見えたけれども、広場に花咲く女性たちのドレスと比べると、明らかに流行遅れで悲しくなる。色が地味な分だけ目立たないのが救いかもしれない。

 サラには魔法使いは味方してくれなかった。それは仕方が無いこと。サラは〈灰かぶり〉のように虐げられた心優しく美しい娘ではなく、少しだけ不遇ではあるけれど、どこにでもいるような平凡な娘なのだから。

 マーサと二人でかけた楽しい魔法は解けかけていた。

 少しでも雰囲気が出るようにと、今日のために新調した白い皮の靴が、広間の照明に照らされて柔らかく光っていた。


「ね、ねぇ――」


「あら、」


 周りのざわめきにふと目線をあげると、異常に迫力のある美しい青年がサラの居る壁側に向かって歩いて来ていた。

 黒い艶やかな長い髪に、鋭い光を放つ同色の瞳、凛々しい眉。漆黒の衣装を身に纏うその肢体は、周りの人垣より頭ひとつ飛び抜けていて、サラの胸の位置にその腰がある。


(うわあ)


 一気にサラの頭に血が上る。

 慌てて手に持っていた骨付き肉を背に隠すと、周りを見回す。けれど、壁際にいるのはサラと、灰色のお仕着せを着た使用人だけだった。


「お嬢さん、お名前は?」


 そのしっとりした声はじわりとサラの耳に染み込む。


(まさか、あたし?)


 呆然としていると、青年はサラの瞳を覗き込んだ。はっとして答える。


「サ、サラと申します」


 その黒いダイヤのような瞳を見続けられず目を伏せると、彼の身に付けた服に比べて質素な古いドレスが目に入り、一気に居たたまれなくなった。逃げ出したい。そう思いながらも尋ねる。


「あの……どのようなご用件でしょうか」


「ああ、あまりにつまらなそうなのでね。そんな風に、壁に貼り付いてしまって。せっかくの舞踏会なのに、楽しんでもらえないのは不本意なんだ」


 急に思い当たる。こんなに秀麗な人間がただの民であるわけがない。


(つまり、つまり、この方は――)


「僕はね、運命の出会いを待っている。だから少しでも多くの女性と知り合っておきたいんだ。あとで後悔するのは嫌だからね。君のことは今日、初めて見かけたから」


 青年はサラに向かって片目を瞑る。


「僕と踊って頂けますか? サラ」


 差し出された大きな手、そして、天使のような笑みを拒む理由は、どこにもなかった。





(……ああ、もっとダンスの練習をしておけば良かった。アンドレを連れ出してでも練習しなきゃ)


 帰りの馬車の中、サラはそう心に誓っていた。

 なぜって、彼女は、かの人――ラファエル殿下の足を思いっきり踏んでしまったのだ。

 サラの足元にかがみ込んだ彼に向かって、どこに控えていたのか、侍従が怒濤の様に流れ込んだ。彼らのあまりの剣幕に、サラは頭の中が真っ白になって逃げ出そうとしたけれど、殿下はサラを引き止め、そして『気にする事は無い。全く痛くはなかったのだから』と優しく微笑んでくださった。踵の高い靴だったので、本当はさぞ痛かったろうと思う。それなのに――


(ああ――……なんてお優しい方)


 姉たちにやたらとやっかみを言われたけれど、気にならないほどサラはぼうっとしていた。


「まさか、ラファエル殿下があんたなんかに声をかけるなんてね!」


「いったいどこがいいのかしら。あ、殿下は目がお悪いのかもしれない――きっとそうに決まっているわ!」


「……」


 ちくちくと囁き合う姉達を横目にサラは馬車の窓を小さく開いた。

 姉たちの気持ちは、サラにもわからなくもない。だからここはぐっと我慢だった。

 夜空には無数の星が瞬く。流れ込む夏の夜の澄んだ空気は頬の火照りを冷ましてくれる。


「ドレスだってあんたの母様のお古でしょ? 髪だってまとめただけだし、飾りの一つもつけないで。貧乏臭いったらありゃしないわ。だから一緒に居たくなかったのよ」


「頬も少しすすけてるわよね? 化粧をする前に、顔洗った? 洗ってないんでしょ。みずぼらしいったら。あ、元々色黒なのかしら?」


「…………」


 さすがに少し頭が痛くなって来て、サラはこめかみをそっと揉んだ。

 姉達はこれだけ言ってもまだ物足りなそうにしている。二人示し合わせたように、大きな靴を蹴り上げて足を組むと、ドレスの裾からずっしりどっしりと肉付きの良い脚が二本現れた。

 足を見せることは淑女として有り得ないほどにはしたないこと――小さな頃からずっと言われ続けていたサラは、二人の姿にげんなりする。

 しかも、それは男性はおろか、妹のサラでも見るに耐えられない絵だった。サラがその恐ろしいものから目を逸らすと、窓に映り込んだ平凡な顔立ちの少女が目に入る。


(うーん……やっぱり、王子さまが目をつけるほどに優れた容姿だとは思えないわよね……。きっと気まぐれよ……一夜限りの夢だわ)


 気を抜くとすぐに浮かび上がる過分な期待を消したくて、サラは無理やりに今夜の夢を胸の内に押し込めた。



 ◆



 ところが、翌日。

 サラがいつものように家事をこなした後のこと。紅茶を飲みながら一息ついていると、呼び鈴が鳴った。

 何だろうと思って玄関を覗きに行くと、マーサが先に来客の対応していた。

 人物が身に纏っているのは、昨日見たばかりの王宮のお仕着せ。厳しい表情で、マーサに何か訴えている様に見える。


(王宮の人が何の用かしら……)


 一瞬、昨夜の甘い夢が脳裏に浮かび上がったけれど、その制服を見た次の瞬間、王子の負傷に駆けつけた侍従たちの姿がサラの頭の中を占領した。記憶の中の彼らの目の中には、主人を害した彼女への非難が渦巻いている。その厳しい顔が玄関の人物の顔と重なったとたん、甘い夢はあっさりと闇の中へ消えた。サラの顔は既に真っ青だった。


(まさか、まさか……昨日足を踏んだのが原因で、実は殿下が怪我をされていたとかそういうことって……ないわよね?)


 サラは急に怖くなって、屋敷の裏に急いで回り込んだ。


「あれ? どうしたの、慌てて」


 大きなオークの木陰では、アンドレが座り込んで分厚い本を読んでいた。井戸のすぐ傍にあるこの場所は、彼のお気に入りの場所なのだ。


「なんでもないの」


 サラは思わず彼の背中に隠れるようにして座り込むと、大きく息をつく。


「なんでもない……ねぇ」


 アンドレはとてもそうは見えないと言いたげに、サラを見る。


「な、なんでもないってば!」


 そう言ってごまかそうとしたけれど、二人の間にはマーサの怒鳴り声が屋敷から響いて割り込んだ。


「サラ! サラ! どこにいるの? 大変だよ!」


 その剣幕にサラは焦る。


(や、やっぱり、何かやらかしたんだ! どうしよう!)


 サラは不安で泣きそうになりながら、アンドレの背中にしがみついた。


「おい!」


 アンドレは困った様子で身をよじる。


「ちょっと――匿ってよ!」


「何やらかしたんだよ……」


 溜息をつきつつ、彼はサラを振り向く。


「き、昨日、舞踏会で王子様の足、思い切り踏んでしまって……多分、そのお咎めだわ」


「普通、その時に言うだろ、そういうのって。今更そんな」


「だって、昨日は平気だったけど、今日になって痛んで来たとか……」


「ないって、そんな事。……ったく馬鹿なんだから」


「バカ!? じゃ、じゃあ、いったい何だってのよ!」


「だから聞いて来いって。一緒に行ってやるから」


 言われて、サラは渋々立ち上がる。


(……こういうところも、変わらないなぁ)


 前を行くアンドレの背中を見ながらサラは昔を思い出す。

 昔、サラが姉にいじめられて、ここで泣いていたりすると、アンドレが抗議しに行ってくれた。

 そのせいでアンドレが被害に合うようになってからは、サラはもう泣かないように決めたのだけれど。


(ちょっと、頼もしいのよね)


 なんだか暖かい気持ちになって強ばっていた肩の力が抜ける。サラは、こみ上げてくる笑みをこっそりと噛み締めた。




 アンドレの後ろにいるサラを見つけると、マーサが大声で叫ぶ。彼女は珍しく慌てた様子だった。


「あぁ、こんなところに。……大変だよ! サラったら。昨日お会いしたんだろう、王子様に! お茶会への招待状が届いたんだ、さっき!」


(――え?)


「……あたしに?」


 にわかに信じられなくて思わずサラがアンドレの顔を見ると、彼は苦虫を噛み潰したような顔をしていた。


「な、なんで……。あ、そ、そういう風に偽って、やっぱりお咎めがあるとか……」


 アンドレは今度は馬鹿とも言わずに微かに唸っている。そんな彼を見るのは初めてで、サラは妙に胸が騒いだ。

 サラの手にマーサが一通の招待状を握らせる。


「ほら! 見てごらん、綺麗だろう!」


 マーサの言うとおり、それは見たこともないような綺麗な紙で作られていた。サラが知っているごわごわの紙ではなく、薄く、なめらかで、真っ白な紙だった。

 招待状をそっと開くと、美しいけれど特徴のない字が、場所と時間だけを短く伝えている。それ以外には何もない。ダンスのことも、――足を踏んだことも。

 この間の優しい王子の姿は文面からは何も窺えない。そのことにサラは余計に不安になり、思わず小さく溢した。


「……行かない方がいいのかしら」


「あぁ、お断りするなんて、とんでもない。絶対にいってらっしゃい。思い切りおめかししてね!」


 マーサがサラの気も知らないでウキウキとしている。おとぎ話のような話に、少女時代を思い出したのか、少し若返っているようにも見えた。見ているとサラの不安が一気に小さくなる。胸の中に押し込んでいた夢が再び芽吹き膨らんでいく。


(そうよ、あたし、何を悩んでるの。こんな夢みたいななお話――)


 いつしかサラの頭の中では、自らがお姫様に姿を変え、ラファエル王子とダンスを楽しんでいた。

 しかし、


「……それっていつ? どこで?」


 妄想をアンドレの声が突き破る。彼はマーサに向き合い、真剣な眼をしていた。

 マーサもアンドレに向き直る。


「明日、レンヌの別宅の庭と書いてあったけれど。ふうん……レンヌって事は、結構街外れだね。離宮があるわけでもなし……あんな寂しいところ、なぜかねぇ」


 アンドレは何か考え込んだけれど、やがて難しい顔をして言った。


「……止めておいた方がいい」


「へ? なんで?」


「なんかすごく胡散臭いし」


「はあ? ……胡散臭い? どこが?」


「だって、サラみたいな普通の中の普通、どこを切っても普通しか出てこない子を王子殿下が誘うわけ無いだろ。美味い話には絶対裏があるんだ」


 きっぱりと言い切られて、サラはかちんと来た。

 アンドレの言うとおり、サラの家は中産階級。生活に困らない程度のお金はあるけれど、資産も特出したものがなく、貴族には敵わない。もちろん爵位もない、中の中の平凡な娘。

 だが、それはアンドレだって同じ程度。父親が教師である彼の家は、やはり中産階級だし、顔だって背だって中くらいで、平凡だ。


「アンドレ、僻んでるんでしょう。あたしばっかりがお誘いを受けたから!」


 サラの反撃にアンドレがムッとした表情を浮かべる。


「そんなわけないだろ。男に誘われて嬉しいもんか」


 サラにはアンドレが図星を突かれて怒っているように見えた。


(なあに? いつもあたしの行動にケチつけておいて。自分は何にも行動しなくって僻むなんてバカみたい)


「だから言ったのに。あんたも舞踏会に行ってたら、素敵な女の子と出会えたかもしれないのに。今更悔やんでも遅いわよ」


「……」


 いつも冷静な彼が言葉に詰まるのがサラは面白くて仕方が無かった。そのため、過ぎた言葉が口から飛び出していくのも止められない。


「……ま・さ・か、あんた妬いてるわけじゃないわよね?」

「バッ、馬鹿! 誰がお前みたいなブス!」


(ムッカア! ――ブ、ブスですって?)


 思わぬ反撃にサラの頭に血が上る。彼女は美人と言われることはお世辞くらいしかないけれど、生まれて一度もブスとは言われたこともないのだ。


「ブスだって! うちのサラに向かって、なんてこと!」


 先にマーサの方が短気を起こした。彼女はサラの母親代わりをずっと務めてるものだから、サラへの侮辱にはかなり敏感だ。

 二人して腰に手を当ててアンドレを睨むと、彼はさすがに分が悪かったのか、たじたじになって後ずさりする。

 そうして、井戸の手前で一気に後ろを振り向き、捨て台詞を吐いて自宅へ向かって駆けだした。


「とにかく! 絶対行くなよ!」


「何が何でも絶対行くんだから!」


(――行くなと言われると、余計に行きたくなるんだからね!)


 サラはアンドレの背中に向かってべーっと舌を出す。



 ◆



 石畳の上を箱型馬車の車輪がが跳ねる。中では着飾ったサラが一人、ぼんやりと窓から外を見つめていた。


 サラは茶会が開かれる別宅へ向かう途中だったのだが、出がけに見たアンドレの姿が気になって仕方が無かった。

 彼はサラを説得しようと、早朝から新聞も読まずにずっと家の前で張っていたようだった。けれど、サラはそれを知って裏口から家を出て、王宮から郊外へ延びる大通りの入り口で、迎えの馬車を待った。

 そうしてまんまと撒いたと思っていたのに、アンドレは意外にしつこかった。彼は馬車の音を聞きつけて通りまで飛び出して来たのだ。しかし、同じく飛び出して来たマーサに取り押さえられ、何か必死で叫んでいた。それは車輪がはねる音に掻き消されて、サラは全てを聞き取ることができなかった。


『――サラ! 待てよ! 僕の話を聞けって!――』


 サラの耳にはアンドレの叫び声が張り付いたままだった。彼の声がうきうきしているはずの心に小さな影を落とす。


(まあ、いいわ。帰ってからゆっくり話を聞いてあげようっと。いや、聞かせてあげよう、かしら)



 馬車が進むにつれ、期待で胸が一杯になり、不安は薄れ、やがては消えて行った。

 ラファエル王子に指定された屋敷は、本当に街外れにあった。

 近くには樫の林が鬱蒼と茂っていて、他に民家は無く、水車小屋だけがぽつぽつと散在する。周りには小麦が青々と波打つ畑が広がっていて、鳥の声が僅かに耳に届く。

 手入れの行き届いた垣根には、色とりどりの野薔薇が咲き乱れている。しかし中にたたずむのは、ひどく古い屋敷だった。造り自体も村里の農家にしか見えない。ひょっとしたらそれを模しているだけなのかもしれないけれど。


(……王宮とは比べ物にならないわ。こんなところに本当にラファエル殿下がいらっしゃるのかしら)


 サラはこの間とは別の意味で驚いて、胸の底から不安が湧き上がるのを抑えられない。

 それでも震える脚で門をくぐると、サラの不安は掻き消される。ほのかに薔薇の香りのする庭では、黒髪の美しい青年がのんびりと寛いでいた。


(ああ、よかったぁ)


 大きく息をつくと、サラは青年の前でドレスの裾をわずかに上げ、片方の足の膝を軽く曲げて挨拶をする。


「本日はお招きいただいてありがとうございます」


「うん。よく来てくれたね。サラ」


 低い声が心地よく耳に響き、思わずにっこり笑う。


「あ、あの時は、足を踏んでしまって、申し訳ありませんでした。大丈夫でしたでしょうか? もう痛みませんか?」


「全く平気だよ。あのおかげで、探し物が見つかって、僕はすごく嬉しかったんだ」


 庭の薔薇にも負けないような華やかな笑みを王子は浮かべる。


「――探し物?」


 怪訝に思ったけれど、彼はにこにこと微笑むばかりで、それ以上語ろうとしない。


「……ええと、今日は他の方は?」


 実は門をくぐった時から気になっていた。外からは分からなかったけれど、お茶会というのに、庭はがらんとしていて人の気配がしない。普通、もっと人が居て、いろいろとおしゃべりを楽しむはずなのに。


(おかしいわね? あたしだけ早く着いてしまったのかしら?)


 首を傾げるサラに王子はにやり・・・と微笑んだ。


「今日は、君だけ」

「え」


 黒い瞳が怪しく輝いた気がして、思わず後ずさる。


「やっぱりいいね、庶民の娘は。世間知らずで、こんな所に供も付けずにやって来るなんて。……まあ、貴族みたいに使用人も多くないのだから仕方がないだろうけど」


「……殿下?」


 ひどく意地悪な声色にサラは驚く。


はさ、足の綺麗な娘をずっと探してるんだ。なのに、寄ってくる女の子はみんなデブでね。まるで大根。いつもがっかりなんだ」


 王子は急に口調をがらりと変えると俯いた。彼の視線の先を見ると彼の手元には磨かれたガラスの靴――かと一瞬思ったけれど、それはガラスどころか、宝石が散りばめられた美しい靴。


「ほら――この靴が入る女を捜している」


 美しい顔が急に妙な迫力を帯びる。彼は熱に浮かされたような目でサラの足下を見つめた。


「君、いつも働いているのかな? 動きがしなやかで綺麗だったから声をかけたんだ。予想通りダンスも上手かったし、よく動くいい足をしてた。それから、君に足を踏まれたときにちらりと見たけれど、思ったとおり君の足は華奢ですごくよかった。ほら、もう一度ちゃんと見せて。そしてこの靴を履いて」


 サラはその妄執の込められた瞳にぞっとして、伸びてくる手から飛びのく。


(足ー!? 嘘でしょ、王子様がこんな――!)


 サラはあまりの衝撃に、動きが取れなかった。

 ドレスの長い裾に王子の手が触れて、はじめて身体の硬直が解ける。


「嫌!」


 サラは叫び声とともに体の動かし方を思い出し、慌てて逃げ出す。


(いつもの格好ならもっと早く走れるのに!)


 重いドレスを纏って、その上、踵の高い靴を履いていたため、全くうまく走れない。門をくぐったところで、とうとう足がもつれ、その場に倒れ込んだ。

 白い靴が片方、青い草の上に転がった。後ろで響く足音に急かされるようにもう一方の靴を脱ぎ、右手で掴むと走り出す。

 胸は焼けるように痛く、呼吸は今にも途切れそうだった。目の前には空と森しか見えなかった。


「誰か、助けて!」


 無駄だと思いつつも叫んだその時だった。


「僕のサラに手を出すな!」


 聞き慣れた声が辺りに響き、サラは驚いて声の方向を見る。


「アンドレ!」


 道の向こうからアンドレが息せき切ってこちらに向かって来ているのが見え、サラは残る力を振り絞って彼に駆け寄った。

 まだそこまで暑い時期ではないというのに彼は汗びっしょりで、どれだけ必死で走って来たのかがありありと分かる。

 ふと後ろに気配を感じ、サラが振り向こうとするのと同時にアンドレの身体が後ろに吹っ飛んだ。


「邪魔をするな。せっかくの獲物を――」


 王子は吐き捨てると、サラの腕を掴んで、もと来た道を連れて行こうとする。


「嫌よ! 離して!」


 必死で叫び、その場にしゃがみ込んで引きずられまいとする。

 すると、王子はふと眉を上げサラの手を離したかと思うと、屈み込んで今度は足首を掴んだ。

 筋張った力強い手が痛いほどに食い込む。サラは風に舞い上がるドレスの裾を必死で押さえた。


「いや――!」


 直後、王子の体が真横に倒れ、見るとアンドレが王子にしがみついてる。


「手を出すなと言った!」


 彼は唇の端が切れていて、すでに頬が青く腫れていた。

 王子が再びアンドレを殴り、彼は吹っ飛ぶけれど、すぐに起き上がって、再び掴み掛かる。王子は鬱陶しげに脚でアンドレを蹴り上げる。


「放せ」


「嫌だ!」


「殺されたいのか?」


「……このことが国民にバレてもいいのかよ!」


 王子は明らかに動揺した。その黒い瞳が空を泳ぐ。


「バレるわけがない。もみ消せるように、警官隊はこっちで押さえてあるんだ」


 否定する王子にアンドレが被せるように言った。


「もうすぐ、ここに記者・・がやってくる。僕が戻らなかったら呼ぶように伝えてる」


 アンドレは苦しげな息の中、にやりと不敵に笑い、王子を見上げた。


「新聞はきっと飛ぶように売れるよ。世論はどう反応するかな? 下手すれば王家の存続に関わらないか? さすがに困るだろう、変態王子・・・・様?」


 王子はその言葉に真っ青になると、慌てて立ち上がり、サラに目もくれず屋敷の方へと駆けて行った。


「いてて……」


 呆然と王子の後ろ姿を眺めていたサラは、その声にはっとしてアンドレに駆け寄る。


「だ、大丈夫?」


「あまり大丈夫じゃない……あー、歯が欠けたかも」


「嘘!」


 サラは、地面に倒れたままのアンドレを膝に抱きかかえる。

 彼は目をつぶって、息を上げ、ひどく辛そうだった。その様子を見ていると、胸が締め付けられ涙が溢れそうになる。サラは涙をこらえつつハンカチでアンドレの唇の脇をそっと拭う。すると彼はすかさずその手を握った。

 振り切ろうとしたけれど、彼は離そうとしない。


「え、えっと、離して」


「離さない」


 真剣に見つめるその瞳と、久々に触れたその暖かさと大きさに動揺しつつ、サラは思い出した。さっきはどさくさで流していたけれど、よく思い返すと聞き捨てならない事を彼は叫んでいたのだ。


(たしか――僕のサラとかなんとか言ってたような)


 サラは照れ隠しも兼ねて尋ねる。


「ま、まったくもう……いつあたしが、あんたのものになったのよ……」


 アンドレはわずかに気まずそうに目を逸らすと、ぽつりとこぼす。


「僕は昔から――君の母さんが亡くなった時からずっと君を守るって決めてた。なのに、義母さんや、義姉さんたちの理不尽な仕打ちにも平気だって笑ってて。僕がかばっていじめられたら逆に僕を守ってくれて……めちゃくちゃ歯がゆかった。頼むから、守らせてくれよ。こんな危ないところに無鉄砲に飛び込むなよ!」


 彼は声を上ずらせる。昂った言葉を飲み込むと、サラを引き寄せて、切れた唇をその唇に押し付けた。柔らかい感触と、かすかな血の香りが、あっという間にサラの体を痺れさせる。


(あ、あれ? これって)


 ずっと前から憧れていて、いつか大好きな人と――そう思っていたはずの事なのに……。なぜか今、サラはただの幼馴染で腐れ縁のはずのアンドレとそういう事になっていた。


(どうして?)


 だけどサラは全然嫌だと思えない。不思議だった。そして急にアンドレが男の子だと意識してドギマギする。


 アンドレは唇を離すと、サラの目を水色の綺麗な瞳で覗き込む。


「君は馬鹿だ。恋がしたいんなら、僕とすればいいのに」


 拗ねた子供のような顔だった。家族の顔よりも見慣れた顔――でも、よく見れば実は結構素敵なことに、サラは今初めて気がついた。


(あぁ、アンドレの言うとおりよ。あたしって、ほんとに馬鹿だわ。近くに居すぎて見ようとしなかったんだ……)


 サラが穴が開くほど彼の顔を見つめると、彼は照れたようにそっぽを向く。

 その時、屋敷から箱型馬車がガラガラと大きな音を立てながら走り去る。


「放っておいていいの? 記者の人は?」


 サラは慌ててアンドレに尋ねる。


「あぁ、それ、でまかせだから。呼ぶ時間もコネもないよ」


「……悪党……」


「ま、これに懲りておとなしくなるんじゃないの?」


 不敵に笑うアンドレの顔が妙に眩しい。サラは落ち着かなくなって、話題を探した。


「そ、そういえばどうして、分かったの? 王子があんな変態だって」


「新聞読んでたら、郊外で変な事件が多発してて。『足の被害にご用心』って、あったの覚えてるか? あれ、被害者がすぐに被害届を取り下げて、なんだかもみ消されてるみたいで気になってたんだ。もみ消せるってことは、金か力、もしくはどっちも持ってるってことだろ? だから、昨日の話を聞いて、もしかしてって思った。……だいたい、君に目をつけるところから怪しい」


「どういう意味よ」


 またもやけなされてムッとしたサラに、アンドレは悪びれずに微笑む。それは滅多に見る事の出来ない極上の笑顔だった。


「君の良さは、そんなに簡単には分からないってこと。――僕くらいずっと見てないとね」


 彼はゆっくりと立ち上がると、サラに手を差し伸ばす。

 拒絶なんてあり得ないというような自信にあふれるその表情に、呆れつつもサラはその手を取った。

 アンドレの手は大きく暖かい。サラの欲しかったものはこんな近くに落ちていた。

 それはまだ始まりでしかない。だけどその先に広がるのは、飛び込まずにはいられないくらいに魅力的な世界だった。


(あたし、きっとアンドレのこと――もっともっと好きになるんだわ)


 サラは大きく深呼吸をすると、水色の瞳をしっかりと見つめながら、ゆっくりと微笑む。そうして、マーサにかけてもらった魔法を、自分でもう一度しっかりとかけ直した。

 ふとアンドレは屋敷の方に顔を向けると、


「ちょっと待ってて」


 と言ってその場を離れる。


 戻って来た彼の手には、陽光に輝くサラの白い靴。


「あ!」


(灰かぶりとガラスの靴だわ)


 突然サラの頭にそんなことがひらめいた。


「――アンドレが王子様だったんだ」


「何? おうじさま? 変態王子と一緒にしないでくれる?」


(……活字中毒者もおとぎ話は読まないのね)


 不可解そうな顔をするアンドレに一人くすくす笑い、今度はサラが彼の手を取った。


「帰りましょう」


 ――あたしだけの王子様。




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