部屋の中の象
都内を混乱させた火災と事故は、服部運送の雑賀さんの翌日の業務まで影響を与えたようで様々な迷惑及び協力をして貰ったお詫びに走り回り、コチラの詫びをいれる暇もないようだ。
谷津さんも昨日の色々うごいてくれたから、まだ怒っていて態と俺に会おうとしないとは、漢気ある雑賀さんだからないとは思いたい。
しかし谷津さんからかなり怒っていたとも聞くので不安は残る。
社会人にとって最も嫌な業務とは謝罪ではないだろうか?
俺としては頭を下げるのが嫌な訳では無い。
ただ理屈っぽい俺が謝っても謝っているように思われる事もあるようで、上手く乗り越えるという自信がないから嫌なのだ。
相手先の感情の様子や動きなんて読もうとしても読み切れるものではない。
しかも自分が仕出かした事なら、謝意を全力で込めて出来るが、こういう部下の不始末というのは何とか解せない自分がいる。
まあ去年までの自分の指導不足によるミスとか、一生懸命やった事で起こったミスならば『カワイイ部下の為』と頑張る事も出来るが、今回の様に俺も被害者の一人という気待ちが強いと気合いも入らないものである。
かといって雑賀さんに部下である猪口のどうしようもなさを訴えても仕方が無い。
結局一日雑賀さんにもつながらなかった。服部運送との電話を切り俺は溜息をつく。そんな俺に鬼熊さんは苦笑する。
「まあ、部長も谷津君も昨日色々フォローしたようだから貴方がそこまで思い悩む事もないのでは?」
今日、猪口は倉庫の方で作業させた。服が汚れちゃったと文句を言いつつも能天気に定時で帰っていった。
「こういう時、申し訳ないという感情こもった表情と対応出来る鬼熊さんは良いですよね」
鬼熊さんは眉を寄せる。
「私は演じてやっている訳では無いから」
「俺だってそうですよ。でも生意気に見えるみたいで」
俺が肩竦めると鬼熊さんは笑う。
「貴方は色々先回りして色々な事考えてしまうから不味いのでは? 謝る時とか、告白する時とか、その気持ちにだけ集中して行うべきよ」
鬼熊さんは、最近やたら恋愛的な話を絡めた妙な言い回しをしてくる。
これはセクハラというのではなく、俺の事を心配してのこと。
それが分かるから俺は反応にも困る。今は上手く矛先を向けてからかえる相方も代休でいない。
「なんですか、それ」
「どちらも下手に繕い構えると失敗するといっているの」
なるほど、言えてはいる。しかしこのまま話を続けるのも危ない気がする。
「頭が良すぎるというか、気を回しすぎるというか、もっと素で動いて良いのでは?」
なんか気になる言い回しである。
「素って、俺は別にいつも自分に正直に生きていますけど」
鬼熊さんは俺の言葉にフフと笑う。
「それはそうなんだけど、何と言うのかな。人に言いたい事うまく表現して伝えるのって難しいわね」
困ったように顔を捻る鬼熊さん。
初芽と別れてから、俺の自身の問題点を遠まわしで伝えようとしてきているのは分かる。
しかし今回の言葉もそう、その事が恋愛においても、仕事においてもそこまで大きな問題には思えないだけに、俺もどう応えるべきなのかいつも困ってしまう。
鬼熊さんは初芽とどんな話をしたのか分からないが、なんか別れた原因をズレて理解しているようにも感じた。
俺に通じないもどかしさに悩む鬼熊さんを見ていると、何か俺に言いたげな様子でジッと見つめてきていた初芽の顔を思い出す。
あの瞳は多分俺への不満物足りなさの表れ。
初芽が俺から離れていった理由は俺が一番理解している。俺がまだまだ子供で未熟だからだ。
俺がもっと大人で頼りがいのある男だったら、初芽も甘える事が出来たし、心も安心して預けてくれただろう。
黙り込んでしまった俺に、鬼熊さんは心配そうな視線をむけてくる。
「あのさ、今私が言った所は、決して悪い所なのではなくて、あなたの長所というべき所だから何ていっていいのか分からない……ただ私は貴方の上司なの。
だから服部運送の事にしても、冷静に報告だけするんじゃなくて、もっと愚痴とか泣き言とか交えて話してもいいのに」
なんとなく鬼熊さんのずっと言いたかった事が見えてきた。
初芽から聞いた俺への不満ではなくて、鬼熊さんが俺に純粋に感じている不満をずっと言ってきていたようだ。
この営業部においても、姐さんか兄貴分な存在で皆から慕われているし頼られている。
そんな彼女だから初芽と失恋して苦しんでいた俺をずっと気遣ってくれていた。だけど元々そういうキャラではないし、逆に初芽に近い所にいる鬼熊さんにそんな弱いところいせられる訳もない。
改めて考えると、鬼熊さんは解放的でちゃんと女性に甘えを見せられる清瀬くんと結婚した。
つまりはそういうタイプの人を好み頼られるとそれだけ頑張る方。
そういう意味で俺は鬼熊さんのモチベーション上げる事は出来てきないようだ。
「あの、そういった事は俺に求めないでください。相方や清瀬くんのような可愛げは俺にはありませんから」
鬼熊さんはハッとした顔をして俺を見る。
「そう、それよ! 私がズッといいたかった事。本当に可愛げが無い! 貴方は何でもひとりで抱え込む。報告してくれても協力は求めてこない。コチラが何かいっても『大丈夫です何とかしますから』それって私としてはすごく寂しい」
俺はハァと息をはく。
「俺としてはかなりいつも頼りにしています。それに結構いろいろやらかしてフォローもしてもらって申し訳ないと思っていますよ。高澤の事にしてもそうですし。
俺がなりたいのは鬼熊さんの可愛いペットではなくて、頼れるバディーなんですが」
鬼熊さんは眼鏡の奥の目を細めてジト―と俺を見つめてくる。
「……そういう意味ではもう目標に達してはいると思うから安心して。
でも、それに可愛げをプラスしてくれたら最高の部下になるから」
俺はその言葉に脱力する。
「マメゾンでも大評判の可愛すぎる部下をもうお持ちではないですか、欲張らないでください」
そう返すと何故か大きな溜息をつかれてしまった。
旦那様から甘えられ、可愛い部下からワンコロのように懐かれ頼られもう充分では? と思う。
俺は自分に可愛く頼って甘えてくれる存在は恋人の煙草さん一人で大満足だというのに……。逆に他の奴らにされるとウザい。
俺はヤレヤレと思いつつ視線をずらすと澤ノ井さんが営業に戻って来るのが見えた。
それでそっと鬼熊さんから離れる事にした。
抽斗を開けクリアケースに入った資料を出す。
遠くに座っていた同僚の兒丸さんに視線を向けるとブルブルと顔を横に振られてしまった。
澤ノ井さんはというと、俺の視線に気が付いたのだろうニヤリとされる。何か話がある事を察しカフェエリアに誘ってくれる。
「スゲ~疲れた。なんか飲み物欲しいな」
そんな事言ってくるので俺は頷き、カートリッジタイプのサーバーで一番澤ノ井さんの好きなストロングな味のコーヒーを用意する。
自分用には、今日は軽めのテイストのモノをチョイスする。
テーブルにコーヒーを置くと、澤ノ井さんは、早くも俺の用意した資料に目を通している。
「以前澤ノ井さんが却下していた、兒丸さんが提案していた内容です。
あれから二人で少し詰めて考えてみました」
今のご時世、社内の入り口のセキュリティが強い為に、飛び込み営業というものが難しい。
そこで兒丸さんは同じ会社で複数部署へのサーバー設置してもらい、セット価格として二台目は無料でレンタル出来るという案を出してきたが。
しかし大ざっばな兒丸の暴走的な企画の為、採算ラインを下回るモノとなっていて澤ノ井さんに持っていったのはいいが撃沈して三日立ち直れなくなっていた。
その相談にのり二人で採算ラインにのるものへと企画を練り直したモノがそれである。
今も一緒にコレを見せようと思ったのだが、澤ノ井さんへの恐怖が強すぎてそれを拒絶して、遠くからコチラの様子を伺っている。
俺は企画横取りとは思われたく無いので『二人で』という部分を強調しておく。
「まあ、この企画は既に複数台利用してもらっている会社からの売り上げが落ちるというリスクもありますが……」
そう締めくくると、澤ノ井さんは意地の悪い笑みをコチラに向けてくる。
「清酒くんとか、既に複数台数レンタルしている客先多いからこれになると大変だよな。君だけでなく、コレのサービス適用される顧客は多いブラスに働くか読めないというか、難しい所だな」
俺は肩をすくめ珈琲を飲む。
目の端で兒丸さんが不安そうにコチラに聞き耳たてて様子伺っている。
そんなに気になるなら共に来れば良かったのにと思うが、先日の容赦ないぶった斬りが余程怖かったようだ。
拙く説明していた兒丸さんの言葉をすぐ遮り、既に理解したそのアイデアに対してダメ出しという形の質問を次々と投げかけ『話にならないな』と鼻で笑ってな切り捨てた。
多分アイデアを持っていくのですら緊張していたというのに、そんな対応されるとトラウマにもなる。
巨漢で威圧感半端ない相手から、ヒグマの爪のようにダメージ強い言葉による攻撃を受けたのだから。
立ち直れなくても仕方が無いのかもしれない。しかし逃げてばかりでは澤ノ井さんの下ではやっていけない。
「しかしな~君もお人好しだよな~厄介者抱えていて、ただでさえ大変なのに、こういう他人のフォロー。そこはあのオカン女史の教育の賜物?」
チラリと鬼熊さんに視線を向けニヤリと笑う。こういう事を、本人も聞こえるであろう所で大声言ってくるのがこの人の面倒な所。
下手に答えて反応起こしても更にややこしくなるので俺は肩をすくめニコリと笑みだけを返す。やはりそれをネタに俺をからかおうと思っていたのか大人な対応したのが面白くなさそうだ。
澤ノ井さんは鬼熊さんの仕事のやり方が気にいらないようだ。仲良く低レベルに合わせるやり方で全体の緊張感を削がせ、会社としては何の推進力も産まないといいった事を俺に言ってくる。
しかし今の状況で、鬼熊さんのような存在がいかに課にとって救いだったか……。
前までは職場も異なり仕事から離れた付き合いだから良かったが、俺でも澤ノ井さんと一緒に仕事をするのはキツいと感じる事が多い。
澤ノ井さんはフーと溜め息ついて課内に視線を巡らせている。
やはりコレだけ詰めてもこの企画は、澤ノ井さんを動かすまでは行かなかったようだ。
今はあまり打つ手がないからやって見るというのも手だと思ったのだが、完全に澤ノ井さんの関心は企画書から離れている。
澤ノ井さんの視線が課内に向けている事で部屋の緊張が高まっている。
部下を見守る目ではなく、獲物探す肉食獣の目である。
部屋がいつになく静かになっている。
「にしてもさ、この課って営業のくせに、まともに話せないヤツ多いよな~」
とんでもないことを、良く通る声で言ってくる。
「そうですか?
単に澤ノ井さんとはお話していないだけでしょ」
惚けたように言ったその言葉に、澤ノ井さんの眉がより眼つきがさらに悪くなり、顔が不快そうに歪む。
俺も溜息をつく。澤ノ井さんに比べたら穏やかで平和に会話しているというのに。
「『お話してない』じゃなくてする気もないんだろ。
言いたい事あれば直接いってくればいいのに、お前とかにこうやって代理でモノ申してくるって、ここはどういう複雑なシステムなんだよ」
俺に言っているようで、課全体に聞こえる声で言い放つ澤ノ井さんに、俺は大きく溜息をついてしまう。
澤ノ井さんのこういう所はムカつく。なんでそうやって攻撃的な言葉しかかけないのか?
「それは貴方の態度に問題があると思いますけど。
皆最初は貴方と話をしようと努力していた。でもそれを悉く跳ね付けてきた。
そういった経緯の結果ではないですか」
「あ“~?」
低い声でそんな威圧的な声出すってチンピラかよ。逆に本当に営業部の人間かって思う。
俺だって短気で人間も出来ていないが、仕事においては我を抑えて相手とできる限り平穏に物事を進めるように努力している。
「それでもまだ遠まわしでも貴方とコミュニケーション図ろうとしてくれているなんて、貴方よりもはるかに社交性は高いと思います。
この現状を産み出しているのは、澤ノ井さんですよね。色々それぞれ考えや思う事があってもそれを出せる環境を壊して何がやりたいんですか。
それだけ蔑ろにしても、そうしたアクション起こしてもらえるなんて、本当に部下に恵まれていますよね」
俺がそう言った事で営業の空気がズンと重くなったのを感じた。
部屋が静かなだけに俺の声も響いたようだ。
コチラに皆の視線が集まっているのを感じる。
正面では顔を真っ赤にして俺を睨みつけている澤ノ井さん。
俺、またやらかしてしまったようだ。目の端で頭を抑えている鬼熊さんと、どうしたものかと焦っている塩の姿を感じるがどうしようもない。
俺は間違えた事言った訳でもないし、ここで目を逸らす訳にもいかないので、俺は黙ったまま澤ノ井さんと睨み合うしかなかった。
さてどうする? 澤ノ井さんのすっかり凶悪になった顔をジックリ見つめ続けるしかなかった。