とんだサプライズ
猪口の移動は思ったよりも難航する。それは彼女の悪行が知れ渡り過ぎたからだ。誰がそんな明らかなハズレを引き取りたいと思うだろか? その評判はアメリカで開催された業界のコンベンションで暫く日本を離れていた牛島専務にまで届いたようで、帰って来た早々に俺はコッソリ呼ばれ姪についての仕事ぶりを尋ねられる事となる。サラリーマンとして専務クラスの人を怒らせるのもどうかと思うが、牛島専務が噂を真摯に受け止め猪口の今の状況をシッカリ聞きたいというスタンスできたので、俺もぶっちゃける事にする。
「猪口さんは私から見ると社会人の自覚がかなり欠けているように感じます。責任感なく仕事しているのでミスも多く、正直任せるのが怖いです。それでいて頑固な一面があり注意した事に対して納得して貰えないようで、改善する意思すら見せてくれません──」
あの猪口の伯父とは思えない程、牛島専務は人の話をジックリと聞き対応する大人な人のようだ。むしろウチの役員の中で一番穏やかで冷静な人に感じた。我の強い他の役員とは違い聞き上手な方なようだ。誠意と誠実さのみ感じるそのやり取りに、話せば話す程申し訳なさそうな顔になるので、こちらの心が痛んでくる。人事の話からも別に姪っ子を専務が推薦してきた訳ではなく、人事面接の時に猪口が専務と親戚である事を能天気に晒した事でその事実が発覚して、人事部長から『明るい元気な姪っ子さんで』と聞いて猪口がマメゾンを受けたこととその内定を知ったようなので、最大の被害者は専務と言って良いかもしれない。人事が変に気を使った結果、猪口への審査も甘くなったのかもしれない。
「何故あんな人の出来た伯父からあんな姪が生まれたのか?」
営業に戻り、さっさと六時で帰社した猪口の空いた机をみながら鬼熊さんにボヤいたら笑われる。
「牛島専務が産んだ訳でも育てた訳でもないからね。甥姪の教育まで責任もてないわよ」
それもそうかもしれない。我が家だって従兄弟と我が家は全く異なり、従兄弟達は自由人で定職も付かず海外飛び回っていたり、かと思えば生真面目で大学残って研究続けていたりといったような固い奴とかバラバラである。
「近々、コチラにご挨拶とお詫びに訪れるとおっしゃられていたけど、それをどう受ければ良いのか……」
鬼熊さんはフフと笑い顔を横に振る。笑うしかないだろう。これだけ周りが大騒ぎしているのに本人は至ってマイペースで問題起こし続ける。身内である伯父から何か言われれば流石に少しは堪えるかなとも考えるが、良識派の伯父の真っ当な言葉逆にまっすぐ過ぎて何も心に引っかからない可能性もある。俺は溜息をつく。
「そう言えば、明日だけど貴方が残業しないと宣言するのも珍しいわね」
先週は鬼熊さんが清瀬くんの百試合出場達成記念を祝い花束贈呈の役割を果たす為に一時間早く早退した後だけに煙草さんの誕生日の日は残業なしの予定でいかせてもらう事を頼みやすかった。
「地元の友人と久しぶりに会うもので。社会人になるとなかなか会えなくなりますよね。しかも関東と関西となると」
流石に彼女のバースデーを祝う為とは言いにくいので、最らしい別の理由で根回ししておいた。今の次期暇とは言わないが、そこまで激務になる季節でもない。まあ来週以降は半期契約の新規契約や更新等の手続きがあり忙しくなるが、今週はまでちょうどゆっくり出来る時期だった。猪口が余計な事をしないければ、そして澤ノ井さんが激しく動かなければの話。しかし明日は澤ノ井さんは一日外出の予定、彼の言動で右往左往する人もいないだろう。
「ネットで繋がれるにしても、そうやって実際会って話すと言うのも必要よね」
俺は肩を竦める。嘘ついている事に若干の疚しさもあったが、それ以上に明日が楽しみでたまらなかった。煙草さんはサプライズで誕生日祝いをしたらどういう反応を示すのだろうか? どんなカワイイ顔で喜んでくれるのか? 俺はすました顔で鬼熊さんと話をしながらそんな事を考えていた。
日が変わり煙草さんの誕生日当日。猪口にも手を煩わせられないように、いくつかの書類のファイリングという期限もゆるく事故起こしにくい仕事を命じて万全の体制で過ごす。書類を整理して穴開けファイルするだけ小学校でもできる仕事。俺なら半日もあれば終わる作業だが、案の定猪口はタラタラとやっているので一日、もしくは明日の午前中までかけてやるだろう。しかもこの作業だと人に聞かなきゃならない要素もないので、俺はいつもより自由に過ごせるというもの。俺はテンポよく作業をして外回りしてと、仕事をこなした。
夕方あと少しで六時という時に、塩が俺に声をかけてきた。塩は俺の同期で、苗字だけでなく名前が浩司といい、続けて読むと【塩麹】となるために皆から面白がられ弄られている男。まあ穏やかで人も良く弄り甲斐がある愛嬌のある性格だから皆もしつこく弄っているのだろう。珍名の多いウチの会社において、【清酒】と書いてそのまま読むだけの俺なんてすぐに飽きられて三か月で誰も弄ってこなくなった。俺の性格が可愛げがないところも大きいのかもしれない。
温厚な塩が困ったように表情を曇らせている。塩は澤ノ井さん直下のグループにいるために、一番こき使われ苦労も多い男だけに、また愚痴でも言いにきたのかの最初は思った。
「明日の定例会議用に清酒くんがまとめて作ったという会議資料、なんか色々おかしくて見てもらえないかな?」
俺は自分の眉が寄るのを感じる。会議の資料は普通俺なんかが作るものでもないのだが、俺がそういった事が得意な事もありいつも作らされていた。澤ノ井さんはプレゼンで慣れていてこういった作業は得意な筈なのに明日の会議での資料作成を俺に作らせてきた。しかし部長とは違い『任せた』と言いつつ作ったものを細かくチェックし、レイアウトや構成に散々文句をたれ何度もやり直しを命じてくる。資料作りに自信があっただけに、澤ノ井さんのダメだし要求はムカついたが、全ての情報を分かり易く見せるという事を心掛けて作成する俺とは違って、澤ノ井さんの求めてきた変更案は強調すべきもの、伝えるべき事をインパクトもたせ見せるという意味では優れていた。悔しいがそのダメ出しは俺の足りてないところを痛感させる。身内である経営会議において全ての情報をオープンに見せ報告する必要はなくて、自分が訴えたい内容に合わせた資料作りで、隠してはいないが見せたい所に人の視線を向けさせるという資料の作り方は俺にとって衝撃的で勉強にはなった。仕事するというのはそういう駆け引きを常に意識すべき事なのだ。澤ノ井さんの意図が解りそれに答え文句をこれ以上言わせなぞとムキになって作り上げた。それだけに今更不備があるとは思えない。
「それに関しては一昨日仕上げて澤ノ井さんにも確認してチェックしてもらったから万全のはず」
そう返すと塩は顔を困ったように笑う。
「今日澤ノ井さんに言われてプリントアウトしようと見たら、エラー値だらけで明らかに変なんだ」
俺はパソコンに向かい共有サーバーを覗きに行き一覧から問題の資料をクリックしようとして手を止める。更新日が今日の午後二時四十五分となっている。部長と澤ノ井さんはイベントなどで一日いなかった。この資料をあえて今日触る人等いないはず。ファイルを開きプロバティから最終更新者名を見ると【chyokur】とある。
【チョクル】と一瞬読んでそれが【猪口麗子】である事に気が付く。それは分かったけど、何故こんな会議資料を猪口が触る必要がある?
「猪口さん、今日パソコンで社内資料触ったよね」
案の定ファイリング作業を明日に残して早くも帰りの準備に入ろうとしている猪口に声をかける。猪口は俺の問いかけに一瞬気まずそうな顔をしたがヘラリと笑う。
「はい。実はファイリングする資料コーヒ零して汚してしまい、プリントアウトし直したので」
ちょっと待った。訊ねた事以外に気になる事言いやがった。塩だけでなく、鬼熊さんも驚き『えっ』と顔を上げる。
「プリントし直したって何? 勿論、承認印とかも貰い直した……なんて事をする筈ないか……」
猪口はキョトンとしている。
「汚れたという書類どうしたの?」
鬼熊さんが、焦った様子で顔を話しかける。
「汚れも酷かったからシュレッダーかけちゃいました」
アッケラカンと答える猪口に俺は言葉を失う。しかし皆の反応に拙かった事をしたことに流石に気が付いたのだろう。ヘラヘラとした顔をやめる。
「直ぐにその差し替えたという書類を揃えて見せて」
きつめの声で指示する鬼熊さんに猪口は不満顔を返す。
「え! もう定時ですよ~」
「すぐに、やって頂戴」
鬼熊さんは畳みかけるようにもう一度指示を与える。
「ちょっとまって、その前に猪口さん聞かせてもらいたいんだけど、この顧客分析データのファイル昼間に触ったよな」
猪口は俺の言葉にコチラに顔と視線を向けてきて視線だけ逸らす。
「ファイリングしてて疲れたので、勉強の為に……」
「見ただけではないだろ! なんで触って変更した? そしてそれを何故セーブした?」
猪口はビックリした顔をして近づいてくる。そして明らかに変わってしまっていると画面の様子を見て顔を流石に青ざめる。
「あ! そんなつもりなかったんですが。確かにほんの少し触ったりしましたけど」
集計の票やグラフがオカシクなっているのは、猪口がデータの大元となっているリストを弄ったからのようだ。
「そんなつもりはあろうがなかろうが、そうなっている。しかも君が何故このファイルを触ったの? 見る必要もないだろ!」
「悪気はまったくないんです。一日でも早く、お役に立ちたくて。それ皆さんが先日素晴らしいと言われていたのでつい……」
そう言えばコイツ俺が作業していて時も、後ろチョロチョロして『スゴイですね~清酒さん流石です』『こんど私にExcelのそういう使い方教えて下さい♪』とか絡んで来て邪魔だったのを思い出す。テンプレートを使った書類の入力ですらミス続出させるヤツが何言っているんだ! と怒鳴りたいのを耐え『Excelを普通に使えるようになるのが先では』と言ったら剥れられた。まさかその仕返しかとも思ったが、必死に言い訳してくる様子から違うようだがムカつくことは変わりない。
「事故なんです、怒らないでください。色んな資料を見て営業の勉強したかっただけなの」
半分涙目で色々言ってくる猪口に溜息をつき、俺は猪口の机に一応断ってから行きマウスを動かす。俺は大きく溜息をつく。そして猪口の机に行き本日彼女が弄ったと思われるファイルの一覧を見て眩暈を感じる。横でそれを一緒に見た塩は得体のしれないものを見るように猪口に視線を向ける。何で片っ端からデータを色々開いて覗いているんだ。産業スパイかと言いたくなる。
「今の君の仕事に関係ないものをこれだけ勝手に見て何をしたいんだ?」
俺が睨みつけると、猪口はしょげた顔をする。しかしコチラに少し甘えるように見上げてくる所がイラつく。『ファイリング作業が単調でつまらなかったから』とか『先輩たちの仕事を知りたかったから』と意味分からな事を言ってくるのを、俺は冷めた目で見下ろす。そこに相方が明るく戻ってくる声がする。挨拶してから、不思議な空気に気が付いたようだ。
「あの……また……何かありま……した?」
難しい顔をしている俺と鬼熊さんを交互にキョロキョロ見つめ、少しビビった様子でそう聞いてきた。『また』という言葉を使ってくる所で、もう色々察しているところは流石である。丸くて愛嬌のある相方の目が細められに猪口へと向けた。
塩さんは全国で7972位という苗字で、262世帯いらっしゃるようです。




