そして【やる気】はゼロになる
四月の街は桜の木の存在だけで、目出度く楽しい空気を漂わせる。通勤途中でも見える咲き乱れる桜を見ると思わず唇が綻んでしまう。桜の美しさに魅入られてというより週末の煙草さんのとの花見を思い出してという意味が強いだろう。他人が見たら怪しいだろうから、桜を見て楽しんでいるふりをした。
会社に到着でプライベートな時間は終わり顔見知りの人との挨拶を交しあいながら仕事の時間が始まる。職場の空気は相変わらずでギクシャクしたままで正直気疲れも多いが、充実した週末のお陰でパワーも充填し今週ものりきれそうだ。
そう思いながらグループ内で仕事の話をしていたら、始業ギリギリに営業に大騒ぎに入ってきてミーティングルームに消えて行く白っぽくヒラヒラしたものが目の端に見えた。
「誰ですか? あの可愛い女の子」
俺はそう呟く相方の声を聞きながら顔を顰めてしまう。せっかく週末で取り戻していた労働意欲を萎んでいくのを感じ溜息をついた。
相方が不思議そうにコチラをみていたので『あれが、こんどウチのグループに入る奴』と簡単に説明しておいた。それを聞き、相方は嬉しそうにニカーと笑っている。喜んでいるので、あえて多くはここで語るまいと俺は打ち合わせを再開することにした。
「猪口麗子です! 趣味はお洒落とショッピング♪―――」
十分後、薄っぺらな自分を能天気に晒しながら自己紹介する新人を、営業の皆は半ば唖然と見つめている。職場配属初日に関わらずスーツも着ておらず、やたらヒラヒラフワフワした格好。お洒落が趣味というだけあり、淡いピンクのレーシーで軽やかなワンピースの趣味は悪くないし、目鼻立ちハッキリした華やかな顔立ちの猪口麗子によく似合ってはいる。結婚式の時しか見かけないようなカールして遊ばせたロングヘアー。トータルファッションとしては完璧かもしれないが、何かチョットしたバーティに出席するのですか? という感じで仕事をしに来た人間の格好ではない。
オマケに『職場に花を添えようと思い、桜をイメージしたファッションにしてきました』と本人が説明してきたところから、かなり今の格好に相当な自信を持っているようだ。その言葉にある者は苦笑し、あるもそののは営業らしいスマイルを返す。澤の井さんに至っては露骨に顔を顰め凶悪な顔になっている。
何故、よりにもよってコイツが俺のグループにくるのか? 眩暈がしそうである。俺はチラリと鬼熊さんに視線を向けると苦笑している。そりゃそうだろう今後の事考えたらそういう顔にもなる。鬼熊さんと、視線だけで互いにエールを送り合い、コレからの健闘を誓いあった。
「あと、実は~牛島専務は私の伯父になります♪ ということで宜しくお願いします」
明るく高らかにそう告げニッコリ笑う猪口に、営業全体に微妙な空気が流れる。それが何? 【宜しく】って何? というのが全体の共通の感情だろう。
マメゾンはニ代目社長から創始者一族でない人物が社長となっているし、上層部に創始者一族がいない。そのことから分かるようにコネ的関係があまり生かせないというか生きていない会社である。創業社長が身内に特に厳しい人だったようで、息子をとことん会社でしごき鍛えた結果、長男は南米で珈琲栽培に目覚めそこで農場経営会社を興し独立してしまい、次男は発展途上国の生活水準向上を目的としたボランティア団体であるNP0法人を立ち上げマメゾンから去ってしまっている。それ以降叩き上げの社員が上にいくという環境が出来上がっていて、そうやって上に立った人物だけに後任者にもそれを求めてきた結果だろう。
TVドラマにあるように常務や専務の娘との結婚で出世とかいう話もまったく聞いたことがない。彼女の伯父という牛島専務は管理部門から出身の方で、アクの強すぎる上層部の中でそういった人達の調整役で穏やかな印象が強い。俺はそのことにも首を傾げる。そしてその隣で猪口の話を困ったように聞いている馬場に視線を向け、なんでウチにくるのがコチラでなかったのか? と人事部に対して怒りを覚える。
来年後の事も考えて基本的な教育は相方に任せ、俺はその新人教育も含めて鬼熊さんと指導していく方針にしていた。それに今回の新人が女の子である事をから、俺より相方の方が女性を動かすのが上手いだろうと読んでの事だった。その為にも前もって相方に俺特製のマニュアルを作り鍛えておいた。俺は新人研修で煙たがれている可能性もあるし、アイドル顔の先輩と接している方が嬉しいだろう。あと一番面倒くさい所を相方に押し付けられるという計算もある。
配属されて、グループ内でも自己紹介を終え、相方を教育係と紹介してから『あれ?』と思う。相方はいつもの親しみを相手に抱かせる笑みで猪口と向き合うが、猪口は相方が教育係と聞いて何故か露骨に嫌そうに顔を顰めた。
「え、この人が?」
そのとんでもない言葉に相方は目を丸くして相手をマジマジと見つめる。しかし直ぐに笑みを取り戻す。
「確かに君とは一つしか変わらないから、頼りなく感じる事あるかもしれないけど、その分君と近い存在としてサポート出来ると思うから、一緒に頑張ろうな!」
笑顔でそう返した相方に感心してしまう。俺よりも確実に人間出来ていると思う。俺なら嫌味の一つでも返す。
「こう見えても、コイツはかなり優秀で皆からも、一目置かれている営業マンだぞ。コイツから学べるのは寧ろ幸せだと思うぞ」
俺もそうフォローすると、相方は嬉しそうに照れて『イヤイヤ』と顔を振る。この謙虚さは悪くはないが、今はもう少し新人に威厳を見せて欲しかった。俺の経験上こういうタイプはなめさせたらおしまいだからだ。
「清酒さんは、指導してくれないの~?」
目の前の相方を無視して上目遣いでそう俺に話しかけて来る。
一般的に見ればそれは可愛らしく男の庇護欲を誘う可愛らしい女性の様子かもしれないが、可愛く見せるように繕っているのが透けてみえるので、魅力的に思えない。
「もちろん上司としてシッカリ指導させてもらうつもりだ」
そう言っておくと、ニッコリと笑い『宜しくお願いしま~す』と俺だけに挨拶してきた。何? この意味不明な言動。猪口は俺の大学時代にいたバイトのムカつく女の子に似ていて、チヤホヤされる事が何よりも好きで楽しくしていることしか興味ないという女の子に見える。そういう人物は、俺の様に耳痛いことを言ってくるタイプは苦手な筈。新人研修の際の彼女の俺の印象は余り良くないと思うのだか、何故媚びた笑みを向けられる? 俺は気持ち悪さを感じ、猪口から離れ仕事に戻る事にした。
最初は同じ女性の鬼熊さんが女子更衣室のロッカーの案内とか、男性が立ち入れない所を案内したので良かったのだが、相方が実際の業務の説明を始めると、同じグループだけに嫌でも視界に入ってくる。相方は張り切っている為か元気で楽しそうだが、俺の気分は時間とともにローへと移行していく。週末の煙草効果が台無しだ。
「営業で仕事していく上で、お客様に聞かれたり書いたりする事が多いので、本社の住所電話番号に先ほど至急された猪口さんの携帯電話の電話番号は暗記するようにしてください。といってもすぐに暗記というのは難しいから、自分の手帳に記録しておいてすぐに取り出せるようにしておいたり机の上に書いた紙貼っておいたりして、聞かれてもすぐ答えられるようにしておくといいよ。そして常に目にしていることで覚えやすくなるから」
相方は思った以上に人に説明をするのが上手い。詳しい理由も言わずに『仕事していくうえに必要だから覚えておくように』とだけは言い放った俺よりもずっと丁寧で、何故必要なのか? そしてそれをどのように覚えていけばよいのか? ということまでアドバイスしている。しかし問題は聞いている猪口の態度だ。相方の説明をニコニコと聞いて、『ハ~イ』と元気に返事をしてくるのはよいが、適当に聞き流しているようにしか見えない。その手にはメモすらない。メモもしくは、用意されたマニュアルを手に聞くものだと思う。しかし猪口は貰ったそれらの書類を一瞥しただけで引き出しにしまい、今は手を胸の所で組み、『へぇ~』『そうなんですか~』と聞いているだけ。コイツってどうしてイチイチ乙女なポーズをつけてくるのか?
「猪口さん、メモもまったく取らずに聞いているけど大丈夫?」
そう聞くとキョトンとした顔をするが『大丈夫です』とニッコリ笑って答える。大丈夫な訳ないだろ! 仕事舐めるな! 怒鳴りたくなるのを耐える。
「コレからはメモをとる習慣をつけて下さい。それで無くても仕事する上で新しく覚えなきゃならない事多いので、ただ聞いて覚えるのは無理ですから。聞いている時は分かった気でいても時間経つと分からなくなることが多い。何度も同じ事先輩に聞くという迷惑かけないためにもメモして下さい」
俺の言葉にヘラリと笑う。
「ハーイ、今日さっそく手帳買ってきます」
その言葉に溜息がでる。
「相方! 確か年末のご挨拶の時もらった手帳まだ残っていた筈、あれを猪口さんに渡せ!
猪口さん、明日からでなく則実行しなさい。そしてさっきまで聞いた事も含めてメモしておくように」
相方に声かけてから、猪口を、軽く睨みながらそう指示をしておく。猪口は少し驚いた顔をしたが明るく笑い『ハーイ!』と間延びした返事をした。
「あと、そういう子供っぽい受け答えは、会社内では辞めるように」
俺がムカつきもありややキツめに注意する。口煩く細かく言いたくないけど、やはりこれは上司としてスルーしてはいけないだろう。
「はい♪」
しかし返ってきたのは、どこかおちゃらけた空気のある返事で俺は溜息をつく。
俺が苛立っているのに相方は気が付いたのだろう、猪口を連れて手帳を取りにイソイソと離れていった。
「えーこんな手帳可愛くない~もっとカワイイのないの?」
「でも、この会社の手帳は実用的で営業の中では物凄く使いやすいと評判なんだよ」
離れたとしても、甲高くはしゃいだそんな猪口の声と、それを優しくうける相方の声が聞こえてきて苛立ちも増す。
「あっだったら、ウチのマメゾンの手帳は? 表紙は豆のイラストでカワイイし、後ろには珈琲に関するマメ情報もあって勉強になるからいいかも」
俺だったら、そういう『我儘言うな! そういう事はプライベートで楽しめ!』と、突き放した対応をするのだが、流石営業能力が俺より高い相方。そうやって猪口が満足する手帳探しを手伝っているようだ。俺は平常心を失わない為にも、もう猪口に関しては関わりたくない。相方は楽しそうに新人教育をしているようなので、もう前面的に任せることにした。