三十にして立つ
出勤して営業部のカフェスペースで珈琲飲んでいると、佐藤部長が近づいてきて俺をミーティングルームへと誘う。
入る前に鬼熊さんと視線を交し、自分がそこに入る事を示してから部長に続く。そんな様子を見て佐藤部長は笑う。
「ホント、鬼熊くんと君は営業部でも最高な名コンビだよな。こういうアイコンタクトもバッチリで」
俺はその言葉に苦笑し頭を横にふる。
「俺というより、鬼熊さんが頭の回転早くて察しが良いからでしょうに。だから余計な言葉交わさなくても通じるだけで」
佐藤部長は俺の言葉に顔を横に振る。
「イヤイヤ、大したモノだよ。多分彼女も、一番君を買っているし頼りにしていると思うよ」
鬼熊さんを使って、暗に引き留めにきているのだろうか?
「まあ、そのように言って頂ける関係に見えるのは光栄ですし、嬉しいです」
佐藤部長は目を細めて笑う。そしてテーブル挟み座った所で、改めて向き合い真面目な顔をして聞く姿勢をとる。態々ここに連れてきた理由も気になる。まあ予想は出来ている。
「君はもう察しているとは思うが、君の移動は今回もない」
「でしょうね」
あっさり応える俺に佐藤部長はやや意外そうな顔をする。
「なんだ、もっと不満そうな顔をするのかと思った」
俺は肩を竦める。大体移動あるなら昨年の末にそんな空気は見えて来る。しかも白鶴部長からも、ハッキリないと宣告されている。
「君は、高清水部長とも仲良いから色々裏の事情も聞いているか」
俺は顔を横に振る。
「ウチの部署、中堅二人が急遽抜けてしまった状態だけに、無理だろうなとは読めていましたから」
介護の為に似内課長が故郷のある支社に移動願いを出し営業部から去ったのと、山居係長が癌闘病の為引き継ぎもなしの状態で休職する事になり営業部はやや混乱している。そんな状況でさらに俺が移動なんて無理な話だろう。その言葉に佐藤部長は困ったように笑う。
「君も来季からリーダーだ! そこでだ! 折り入って頼みがある」
あれだけのトラブル起こして、よく昇進出来たと自分でも思う。鬼熊さんがシニアチーフになるので、バランスをとるための昇進と考えるべきだろう。俺は姿勢を正す。
「来年度は特に人材育成に力入れてくれ。相方をひとり立ちさせ、来年入って来る新人をしっかり育て上げて欲しい」
俺は首を傾げる。
「それは努力しますが、そういう事はそれこそ鬼熊さんが得意な事でしょうに」
佐藤部長は笑う。
「まあ、あの子はそういう事は言わなくてもやってくれるから」
佐藤部長からしてみると、あの鬼熊さんですら【あの子】となるようだ。まあ鬼熊さんはこれから複数のグループを纏める役割になる。彼女頼みでもいられないだろう。
「まあ、今までの自分は部下指導に難があったのは認めます。それだけに今年からは上司を見習って努力させていただきます」
そう応える俺に佐藤部長は笑い顔を横に振る。
「いや、君もなかなか下を育てるのが上手いから頼んでいるんだ。手下も君のアドバイスを受けて驚く程成長したし、相方もなかなか立派な営業マンに育ってきた」
その二人の成長は俺の手柄というより、やはり鬼熊さんの力だろうと思う。俺自身も社会人になって最初の上司が鬼熊さんであった事がどれ程大きかったかと思う。根拠の無いバカな自惚れ、要らぬ自尊心をやんわりと気付かせて、仕事もいうものの本質をたたきこんでくれた。
「鬼熊グループは面白いよ。鬼熊くんが母親で、清酒くんが父親的な役割を果していて、子供が両方の影響をいい感じに受けて成長出来る」
「何ですか、その例え!」
俺は笑ってしまうが、佐藤部長は真剣が顔なのに気付きその笑みを引かせる。先程からの話の流れが引っかかる。
「あの、もしかして鬼熊さん異動されるんですか?」
俺の言葉に部長は慌てたように顔を横にふる。
「そんな不吉な言葉はよしてくれ。
でも……」
そう切り出してから溜息をつく。俺はあえて言葉を挟まず次の言葉を待つ。
「今の営業部で、抜けざるをえない危険性があるは彼女だろう。だからこそ、いつその事態が起きても対応出来るように動いて欲しい」
俺は言わんとしている意味が分からず戸惑う。鬼熊さんは優秀だが、彼女自身この仕事を気に入っているしまさに此処が適職である。移動があるにしてももう少し役職が上がった段階であり、今は営業で実績を重ねる時であろう。
「俺だってその事態は出来る事なら起こって欲しくないし、それこそ君が抜けるどころではなく痛い。個人的には避けたい。
しかし彼女の人生もある。
旦那さんが移籍という事態もあるだろうし、産休を求めて来るかもしれない。
そういう事が起こって、鬼熊くんがどういう決断しても、それを笑顔で見送れるようにしておいてやりたいと思わないか?」
佐藤部長はかなり強引で自己中心な人で、俺の移動願いを散々握りつぶしてきた方。しかしその本質は情に熱く優しい懐の大きい男、それが佐藤部長。こういう男らしい所見せられると男の俺も心にくるものがある。
「鬼熊さんには散々お世話になりましたので、精一杯務めさせて頂きます」
俺の言葉に佐藤部長はニヤリと笑った。
「それに、ここまでお前を大きく立派にお前を育ててやったんだ! 営業にもその貸しをタァア~プリ返してくれ」
俺はその言葉に苦笑しつつも、シッカリと頷いた。この言い方だと俺の移動もそう遠くないという事だろうと思う。あれほど求めていた移動だが、それが見えてくると寂しくも感じるものである。逆に一年という期間は俺にとって、貴重なものになりそうだ。色んな意味で納得できる形で移動をするために。
俺の事をジトっとみている部長の視線に気が付く。
「君は、随分楽しそうだねぇ~。まぁ。君ならどんな部署に飛ばされても立派にやっていくだろうから……」
佐藤部長は、目を細めながらなんか若干気になるニュアンスでそんな言葉を呟く。それを追求しようとしたタイミングで佐藤部長に電話がきて、そのまま解散となってしまった。
グループに戻り鬼熊さんにその事を詫びいつもの打ち合わせが始まる。相方は終わるといつものように元気に挨拶して客先へ飛び出していった。ウチのグループを佐藤部長が親子のようだと称したのも、相方のこのいい意味でのあどけなさにあるのかもしれない。
二人でその様子を見送り、その後顔を見合せ笑ってしまう。今日は同業者意見交換会の為電車で移動するという鬼熊さんを、向かう方向が同じなので車で送る事にする。助手席に乗り込んだ鬼熊さんが意味ありげに俺を見つめてくる
「何? 個人面談で、部長に何か色々と言われたの?」
俺は苦笑して肩を竦める。
「来年度の移動はないとね!」
鬼熊さんはフフと笑う。
「みたいね、それで色々愚痴られ嫌味言われたのでしょ。あんなに部長に愛されているのに、貴方が浮気ばかりしているから」
「何ですかそれ、別に俺はそんな不義理な事してないですよね」
そう言い返すと鬼熊さんはニヤニヤしている。からかって楽しんでいるようだ。
「違うか、部長の片想いね。あんなに想っていて貴方はつれなくて別の方みていて」
俺は溜息をつく。佐藤部長の事は尊敬しているし、恩も感じているし、その人となりも好きではある。そこは示してきたと思うし通じているとは思う。
「それよりも、言われてしまいましたよ、相方と次くる新人を俺もシッカリ面倒みろと。部下の育成ということもしっかり学べとね。
あと、去るからには、営業にシッカリ恩を返せって」
鬼熊さんはクスクス笑う。
「ならば来季は私も少し楽できそう。清酒くんも、相方くんのお蔭でかなり丸くなったし、部下の面倒の見方を覚えたから、次はもうさほど苦労しないのでは?
…………それよりも貴方もそろそろ三十歳になるんだから、男としてもっと見ておくべき事もあるのでは?」
挨拶かわりの軽口という形で始まった会話だから、そのつもりで受けていたが鬼熊さんの目が笑っているようで真剣だったので、少し警戒してしまう。もしかして初芽の事とか言われるのだろうか?
「下の面倒を見るのも大切だけど、そろそろ上の動きも注意してみたほうがいいわよ!」
言われた事は予想外の言葉だった。評価されるなら、良く思われたいが、別に俺は成り上がりたい訳ではない。本当にやりたい仕事を求めているだけである。だからその言葉に首を傾げてしまう。それにマメゾンは派閥争いというのは余所のようにはない。性格的なもので合わないというものはあったとしてもそんな感情を業務に持ち込むような子供じみたことする上層部はいない。
営業部の佐藤部長と広報戦略部の白鶴部長はライバル関係にあり常に火花散らしているとは言われているが、それは本人の前でそう冗談で言えるレベル。ポン酒の会で俺だけが佐藤部長陣営の人間なために、からかいのネタにはよくされるが、それで何か溝があるなんて事もない。そして両部長は仕事の事で意見をぶつけあっていることも多いが、一方二人で時々呑みに行ったりしているようで仲は悪くない。クセがある同士だけに、意外と馬が合うのかもしれない。
「……まあ、それなりに色々交流はしているつもりですけど」
俺の反応が微妙だったからか、鬼熊さんは小さく溜息をつく。
「もう発表直前だから言うけど、広報戦略企画部の澤ノ井さんが今度課長に昇進して営業部に移動になる」
俺はその情報に驚く。ポン酒の会のメンバーでもある澤ノ井さんは俺より五つ上で社内でも評判の中堅のホープである。白鶴部長に育てられだけに白鶴部長配下という印象が強い。そして今の仕事を楽しんでやっている印象がある。
「よく、白鶴部長が手放しましたね」
そう言ってから二つ心に浮かんだものがある。
『知っているか? 佐藤は異様に鼻が効く。だからいつも強引に新人でも他部署の人間でも良いのを奪っていく』
という白鶴部長の言葉。今の営業の立て直しに佐藤部長が無理を通して働きかけた結果?
そしてもう一つ浮かび上がったのは、俺を使って他会社との連携を円滑にはかろうとしている白鶴部長の動き。
来年俺が移動した以降の事を踏まえての事? それとも俺の仕事のやり方が気に入らなかった? どちらの部長の意図によりその人事が通ったのか? 結論出すには、判断材料が少なすぎる。俺はグタグタ考えるのを今は止める事にした。
「まあ澤ノ井さんが入るとなると、営業もかなり楽しくはなりそうですがね」
俺の言葉に鬼熊さんは笑いながら頷く。
「貴方とは既に仲の良い友達みたいだから。
その点ではやりやすいかもね。まあ頑張って。応援しているわ。
ありがとう。送ってくれて助かったわ」
会場のあるホテルにつき鬼熊さんは降りていった。もう俺も二十代という時代も終わる。上司に甘えるだけの関係は許されない。
言われた仕事だけをすればよいのではなく、言葉に出ていない望みや期待を察しそれを超える仕事をしていかないといけない。さて、今の俺に求められているモノは何なのだろうか? と考える。
俺は鬼熊さんの背中から正面に視線を戻し深呼吸する。ギアをドライブに切り替えて車をスタートさせた。