将を射るなら猫から
あんな事あったわりにその後の俺の生活は気持ち悪い程平和だった。悩みはスーツの弁償代として支払われた金額がブランドスーツを買って少しおつりがくる程の金額であった為に、どの価格帯のスーツを新調しようかという事と、とんだ臨時収入となった慰謝料の使い道。『それで旅行でもいかないか?』と初芽に聞いてみたが、露骨に嫌な顔されて『そんなお金だと楽しめない!』と拒絶される。まさか臨時収入が入った事で困ると事があるとは思わなかった。
初芽の部屋で、灰色の猫は皿の前で微妙な顔をしている。そして前足で皿の上に載ったものをプルンとつつく。俺が買ってきてやった餌を不審そうに見入っている。
「コイツ何が気に入らないんだ」
ブルンブルンと震えるのが不思議なのか、猫は再びつつく。
「こういうタイプのゴハンだされたのは初めてだから戸惑っているのかも」
そういう俺に初芽は笑う。今日はクソ生意気な猫の誕生日だと言うから『白身魚と野菜のムース』とフランス料理のメニューかと勘違いしそうな猫缶とかを買ってきてやったのだ。別に猫のご機嫌伺っているのではないがコイツの事を気にかけているという態度を取ると初芽が喜ぶからだ。初芽と楽しい時間を過ごす為にも猫の機嫌は重要だった。
その前まで散々初芽に甘え餌を催促していたマールは出されたモノを見て戸惑いの表情を見せる。
「まあ、様子みましょう。私達が見ていると余計に気にするから」
そう言って俺をキッチンへから追い出す。そして俺が作った白菜と豚肉のミルフィーユ鍋をリビングで食べる事にする。
「そろそろ鍋が美味しい季節よね」
初芽は蓋を開いたことで、玉手箱のように蒸気を吹き出す土鍋を見てフフフと笑う。
高澤商事の担当を離れた事で、初芽との関係はより落ち着いたものになったように感じる。やはり仕事している様子が見えるというのは互いに気恥ずかしい事もあるし、特に初芽は公私を分けたいタイプなのでなおさらなのだろう。しかし猫相手の独り言は相変わらずで、あの男がいなくなったからとはいえまだまだ色々抱えるものの多い職場ではあるようだ。そして今までにないほど初芽の仕事は忙しくなった。何故かそんな状態であるのに英会話教室に通いだし平日のデートは殆どできなくなった。週末も疲れているのかどちらかの部屋でノンビリ過ごす事が多くなる。
「そうだね、しかもこういう料理はこうやって誰かと食べるのが楽しい」
取り分けながらそう言うと初芽は『ホントにそうね』と何処か虚ろに答える。あの件以来初芽がこのように何処かボンヤリする事が多くなった。連日の激務で疲れているのだろうし、何か悩んでいるのは分かった。しかし高澤商事に行けなくなった事で初芽の職場の空気が見られなくなったからその内容が読めなくなった。
「美味しいね。正秀の作る料理最高!」
初芽は、一口食べてからそう嬉しそうに笑う。笑っているのにその顔は何故か泣いているように見える。
「そりゃ、どうも。平日初芽は碌なもの食べてないんだろ! だから野菜や副菜もちゃんと食べて! 仕事忙しいなら余計に食生活気を付けないと」
そう言いながら、肝臓に良いアサリの酒蒸しやきゅうりの梅和えを示すと初芽は吹き出す。俺の営業にはないが、初芽は接待とかが結構ある。それだけに身体が心配なのだ。
「良い奥さんになるよ! 私なんかよりよっぽど」
最近明らかに飲む機会が増えて胃腸が荒れているであろう初芽の事考えてやった事。確かにマメ過ぎるきらいはあるが、初芽がそれだけやりたくなる存在だからしている事は分かって欲しい。こういう形でしか最近支えられないから。多分ムカツキが顔に出たのだろう。すると初芽が目を細めてコチラを見る。
「嬉しいのよ。とても。
でもこんな風に心配されたり、構われるのって私慣れてないから」
時折言葉の端々で感じる初芽の孤独。父親は北海道にいるらしいがその事しか知らない。付き合って三年になるが彼女の口から家族の事が語られたのを聞いた事ないし、実家に帰るとかいうのを見た事がない。一度だけ父親らしき人から電話が掛かってきて会話しているのを横で聞いていた事があるだけだ。しかしそれは身内との会話でなく、敵への対応というやりとりだった。
『二度とかけて来ないで下さい。私と貴方はもう無関係の他人なのですから』
そう言って電話を切った時の表情は忘れられない。激しい怒りに震えながらもその瞳は言葉にならない哀しみに満ちていた。
その時どういう会話がなされたのかは分からない。ただ相手の言葉を冷淡に『そうですか』と返すだけの初芽。そしえ電話を切った後、黙ったままうつむきしばらく身動きしなかった。そして俺が気づかい声をかけようとしたら、『父親。大した話じゃないわ』とだけ答え俺に噛み付くようにキスをし、そして抱き付き激しく求めてきた。相手の感情に翻弄されるセックスは初めてだっただけに、俺の記憶に妙な感触と共に残っている。家族への感情というのは伝わってきたものの、その事情というのは未だに分からない。
「付き合って結構経つのに……いい加減そういう俺に慣れろよ」
そう返すと初は困ったように笑い顔を振る。
「正秀はどうなの? こんな私厄介だと思っているんじゃない?」
俺は態と人の悪い笑みをつくる。
「俺? 楽しんでるけど、そんな所含めて初芽にどうしようもなく惹かれて惚れた」
全部受け入れたいから、もっと俺を頼って、心を晒してよ! そう言う思いを込めてそう返してみるが、初芽もニヤリという笑みを返し、強気な女の仮面を被る。
ニャー
そんな声がして視線向けると腹黒猫が可愛いこぶって初芽にスリスリしてくる。そして態々初芽の隣で幸せそうに毛繕いをしはじめた。
「マール、ゴハン終わったの?」
腹黒猫はその言葉には何の反応もせずに今度は腹を舐めている。見た感じ腹を空かせてのいる態度ではない。
二人でキッチンの隅の餌場を見ると皿は洗ったのように綺麗になっていた。
振り向くと入り口の所で腹黒猫はコッチを見ていた。俺を見てニヤリと笑った気がした。その顔は俺に『もっと貢げ、そしたら大人しくしてやろう』と言ったように見えたのは気の所為だろうか? 其の日は珍しく腹黒猫は邪魔してこなかった。やはり獣。喰い物で手懐けられるのかもしれない。
初芽の心を開かせるには、まずはコイツから攻めるかなんて馬鹿な事を考えてしまった。