グラーヴェテンポ
仕事というのは便利なものだ。気張らしという意味で。前に鬼熊さんが入院している父親の看病しながら仕事している時『無理して仕事しなくても』と言うと『仕事している方が楽なの』と言っていたのを思い出す。
人の生死関係ない恋愛ごときで、あの時の鬼熊さんの苦悩を比べるのも失礼だがあんなにウンザリしていた仕事が、今の俺を社外不適合者にもせずまともな生活をさせていた。
一人暮らししていても、彼女がいなくてフリーの時は、一人でも寂しいと思う事なかったのに今は無性に孤独感をおぼえる。ただ一人の人物が生活に足りないだけなのに。
連絡をしなくなって十日経とうとしてきた。鬼熊さんが書類を見ながら何か言いたげな顔をする。
「何ですか? 何か問題でも?」
鬼熊さんは苦笑して首を横にふる。
「気持ち悪いくらい完璧!」
俺は苦笑する。
「気持ち悪いって何ですか?」
鬼熊さんは肩をすくめて人の悪い笑みを浮かべる。
「あんたの書類はチェックしがいがないというのかな。デザインとか、レイアウトのバランス悪さとかで責めようと思ってもそこもツッコめない」
「……ソコはご自分の指導の良さを喜び満足なさる所でしょうに」
鬼熊さんは肩を竦める。
「……そう言う慇懃無礼な所も可愛くない」
「俺に可愛さなんて求めないで下さい」
鬼熊さんは大袈裟に溜め息をつく。
「ちょっと外で一息入れない? 珈琲奢るから」
要は何か俺に小言を言うことにして外に連れ出すキッカケを探していたと言うことなようだ。鬼熊さんは清瀬くんとの仲は今良好。仕事で改めて話し合う事はない。という事はひとつだけ。
俺は内心の動揺を隠しニヤリと笑い頷く。
二人で会社の裏二本先にあるグラーヴェという喫茶店に入る。
「私は東ティモールで、清酒君は?」
「ブルマンで、折角の奢りだから旨いのと思って」
俺はニッコリ笑ってどういうと、鬼熊さん溜め息をつく。ウェイトレスに頷き下がらせる。
「本当に良い性格している。可愛くない」
「そう言ってました? アイツも」
俺がそう言うと、鬼熊さんは苦笑して顔を横にふる。
「私個人の感想……で、」
「で、俺に話って何ですか? 代わりに別れの宣告とか?」
鬼熊さんはびっくりしたように目を見開く。そこで珈琲が運ばれてきて不自然で居心地悪い沈黙が降りる。二人は黙ったまま、珈琲を飲む。
「何があったか分からないけれど…
初芽は貴方を気にかけ心配していた。
元気なのか、変わりないのか? と」
その言葉をどう捉えたら良い? また鬼熊さんがどう答えたかも気になるが聞きたくなかった。
「……で、彼女の様子は? いつもと変わりなく?」
俺の質問に鬼熊さんはまた大きく溜め息をつく。
「今まで気が付かなかったけど、あんた達って本当に似ている。というかソックリ。
だったらあの子の気持ち分かるのでは? 二人とも意地はってないで、さっさと仲直りしなさい!」
仲直りと言われても、そもそも喧嘩と言うほどぶつかり合うことすらしていない。ただ互いに一方的に怒鳴っただけだ。
今どう、こちらから動くべきかも分からないし、リアクションが怖い。下手な態度で出たら、かえって彼女のプライドを傷つけそうにも思える。黙ってしまった俺を鬼熊さんはただ見つめるだけ。
二人で黙り混んだまま珈琲を飲む。沈黙だけが場を支配する。ブルマン独自の軽やかな味わい芳香も気分もこの場も盛り上げてあくれなかった。
その静寂を破るように鈍いバイブレーション音が響く。俺のポケットの携帯電話が震えている。出してみると会社からの着信。
「あ! 清酒さん良かった! 実は今RTソリューションの方から電話があって――」
手下の声が聞こえる。
「分かったすぐに、俺から連絡するから」
そう答えて電話を切る。そして鬼熊さんに向き直る。
「色々お気遣いさせてしまい申し訳ありません。……努力はします。
仕事戻りますね」
そう言って財布から千円出してテーブルに置き喫茶店を後にした。奢るというのにあえてそうしてしまう俺。本当に可愛くないはないと思う。しかし鬼熊さんに要らぬ迷惑をかけているのだけに、これ以上甘えることは出来なかった。『努力します』とはいたものの何が出来る? 店を出て溜め息をついた。




