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「俺、これから部活だから。拓海、あと頼むなぁ?」
そう言って笑いながら教室を出て行く、男子生徒の背中を見送る。
外は朝から雨が降っていたから、サッカー部の練習がないことくらい、帰宅部の拓海も知っていた。
窓際の机の上に広げられたのは、明日までに書き上げなくてはならない、学校新聞の原稿用紙。
誰もやり手のない新聞委員なんてやらされて、しかも仕事を全部押し付けられて……自分は一体何をしているのだろうと、拓海は思う。
そしてすべて言いなりになっているだけの自分に、つくづく嫌気が差す。
シャープペンシルを取り出して、親指で押す。カチカチと鳴る音が、誰もいない教室に響き渡る。
その時いきなり引き戸が開いて、教室に誰かが入ってきた。
「あ」
小さくつぶやいて立ち止ったのは、あの雫だった。
「お弁当箱忘れちゃって」
言い訳するように、そんなことを言いながら、雫は自分の机から弁当箱を取り出した。
拓海はすっと視線をそらして、机の上の原稿を見つめる。
するとそんな拓海の目の前に、雫がやってきて言った。
「何やってるの?」
机の上をのぞきこまれて、思わず拓海は、散らかった用紙を隠すように集めた。
「なんだっていいだろ」
ぶっきらぼうにそう言ったら、雫が顔をしかめた。
何だよ、こんな自分なんかに用はないだろ? さっさと教室から出て行けよ。
「拓」
雫が昔みたいに名前を呼んだ。たったそれだけのことなのに、なぜだか心臓が音を立てる。
「あんた、何にも知らないよね?」
「……何が?」
「知らないなら、いいんだ」
拓海を見下ろすように、ふっと笑う雫。机の上に触れる指先が、思ったよりも細くて長い。
真っ黒で、ひょろひょろしてて、男の子みたいだった雫が、こんなに女らしくなってしまったのは……それは、たぶん、きっと……。
「知ってるよ」
立ち去ろうと背中を向けた雫に、拓海はつぶやく。
「俺、見たから」
雫がゆっくりと振り返る。その視線の先に自分がいることが、なんとなく快感に思えて、拓海は雫に笑い返した。
兄の大輔の様子がおかしいことに気づいたのは、もうだいぶ前だ。
どこかで昼間から呑んだくれているのか、それとも浮気でもしているのか……ある日、拓海はこっそりと、大輔の後をつけてみた。
もちろん、ばれたら殺されかねないから、絶対見つからないよう慎重に。
家を出るとすぐに、大輔は携帯で誰かを呼び出した。
自分の船が泊まる漁港の前を通り過ぎ、慣れた足取りで荒れた草むらを歩く。
その先には寂れた掘っ建て小屋と海があるだけで、誰も近寄ることのない場所なのに。
何で? 何のために?
拓海の胸は密かに高ぶっていた。あの大輔の秘密を盗み見しながら、優越感に浸っていたのだ。
だけど次の瞬間、拓海は頭をガツンと殴られたような気分になった。
いつの間にか現れた少女が、さりげなく大輔の隣に並ぶ。二人は迷うことなく、その先にある壊れそうな小屋の中へ消えていった。
「見たって、何を?」
もう一度拓海の前に立ち、笑いかける雫の顔は、どことなく青ざめていた。
ざまあみろ。もっとビビッて、焦ればいいんだ。
拓海は机の上の荷物を、乱暴に鞄の中に押し込んでから言った。
「お前が兄貴と、あの小屋の中でしてたこと」
勝ち誇ったようにそう言いながら、全身に嫌な汗が流れるのを感じていた。
あの日と同じだ。
壁に張り付き、恐る恐る窓の中を覗き込んだ。
見えたのは、雫の細い体に覆いかぶさる、大輔の背中。
あの日もこんなふうに、胸が締め付けられるように痛かった。
「そう……なんだ」
雫が拓海から目をそらしてつぶやく。そしてその口元をふっと緩ませる。
何もかもをあきらめて、捨ててしまったような笑顔。
「言いふらしたかったら言いふらせば? 私は別にかまわないから」
そして自分の鞄を肩にかけると、もう一度拓海を見て笑った。
馬鹿なやつ。あんなことされて、そんなふうに笑うなんて……。雫はどこまでも馬鹿だ。
「奥さんの気持ち、考えたことあるのか?」
雫は黙って拓海を見ている。
「少しは人の気持ちも考えろ!」
意味もなく鞄を机に叩きつけ、雫を押しやるように教室を出る。
どうしようもないほどイライラして、何もかもぶち壊してしまいたい気分だった。