7
目覚まし時計をセットしたわけでもないのに、朝早くに目が覚めた。
台所から漂ってくる味噌汁の香り。それに釣られるように、遼二は体を起こし部屋を出る。
六畳間にある祖父の仏壇から、細い線香の煙が漂っている。真ん中の小さな卓袱台の上には、二人分の朝食が用意されていた。
「ああ、遼二。おはよう」
「おはよ」
当たり前のように座布団の上に座って、祖母と二人で朝食をとる。
小さい頃に何度か遊びに来ただけの父方の祖母の家で、こんなふうに普通に暮らしている自分が不思議で仕方ない。
祖母は遼二に、何も聞かなかった。テレビもつけず、特に会話もせず、用意された食事を、向かい合って黙々と食べる。
東京の家にいた頃、食事はいつも一人だった。広い部屋の広いテーブルにたった一人で、冷蔵庫から取り出したおかずを食べた。
冷たかったらレンジで温めればいいし、退屈だったらテレビをつければいい。食事しながら友達とメールしても、行儀が悪いと文句を言う人はいない。
だからそのことに、不満なんて感じてはいなかったけれど。
「ばあちゃんは……どうしてこんな所に、一人で住んでんの?」
「ん?」
遼二の声に祖母が顔を上げる。
「東京に来いって、何度も誘われてたんだろ?」
「ああ、ここにはじいちゃんがいるからなぁ」
祖母の視線が祖父の仏壇に移る。
遼二は写真の中の祖父しか知らない。遼二が生まれた頃、とっくに祖父は他界していたから。確か、祖父もこの町の漁師で、海で事故に遭って亡くなったとか、昔聞いた。
「じいちゃんを一人残して、あんな騒がしい所に行けるわけないよ」
「まさかばあちゃん、ここにいればじいちゃんが戻って来るとか、そんな夢みたいなこと思ってないよな?」
遼二はふと、防波堤で雫に聞いた話を思い出した。
恋人を事故で失った女が、後を追うように海に飛び込んだという、あの話を……。
「そうだねぇ……そんな夢を、見てた頃もあったなぁ……」
祖母はそう言って笑い、ゆっくりと立ち上がる。
「遼二、覚えておきな。浜の女は一途なんよ」
遼二はぼんやりと、小さくなってしまった祖母の背中を見つめる。
ばあちゃんにも自分と同じように若い頃があって、じいちゃんと恋をしたりしていたのだろう。そしてじいちゃんが死んだ今でも、ばあちゃんはじいちゃんのことを、一途に想っているのだろうか。
そんなことを考えていたら、ポケットの中の携帯電話が震えだした。
電話の相手は莉奈だった。生暖かい風の吹く庭先で、少しだけ懐かしい声を聞く。
「もしもし……遼二くん?」
莉奈と話をするのは、あの学校の渡り廊下以来だ。
「久しぶり」
「……ああ」
莉奈の声はかすかに震えていた。そんな彼女に何を話せばいいのか、遼二にはわからなかった。
「遼二くん、私ね」
小さく息を吐くように莉奈がつぶやく。
「赤ちゃん、堕ろしたの」
携帯をぎゅっと握りしめて目を閉じた。だけど出てくる言葉は、そっけない一言だけ。
「そう」
「そうって……それだけ?」
莉奈が少し笑った気がした。こんな自分に呆れたように。
「私がこんなに傷ついてるのに、遼二くんは何にも傷つかないんだね?」
「そんなことない。俺だって……」
好き勝手な噂を立てられ、学校を辞めさせられた。家を追い出されて、こんな辺鄙な田舎町に島流しだ。
だいたい全部男のせいにさせられるなんて……そういう関係になったのは、お互い納得し合ったからだろう?
「最低」
莉奈のかすれる声が聞こえる。
「遼二くんは何にもわかってない。私が今、どんな想いでいるのか……」
携帯を耳に当てたまま、遠くを眺める。草の生い茂った庭の向こうに見えるのは、寂しそうに波の漂う灰色の海。
「さよなら。遼二くん」
莉奈の声がそこで途切れた。遼二は携帯をポケットにつっこみ空を見上げる。
ああ、なんだ、そういうことか。
莉奈の言うとおり、自分は何にもわかっていない。莉奈の気持ちなんか、わかろうともしていない。
自分が人からどう見られているか。かっこ悪くて、ひどいやつと思われていないか……いつだってそうやって、自分のことしか考えていなくて……。
結局同じじゃないか。見栄っ張りなあの両親と、まったく同じじゃないか。
「はっ、バカみてぇ……」
思わず笑いがもれて、両手で顔を覆う。
どうして涙なんか流れてくるのか……誰かに教えて欲しかった。