5
「あ、拓ちゃんだぁ!」
学校帰りの拓海を見つけて、庭先で遊んでいた翔太が、おもちゃのシャベルを持ったまま駆け寄ってきた。
「お帰りなさい。拓ちゃん」
洗濯物を取り込んでいた水紀が、笑顔を見せる。
「ただいま……」
それだけつぶやくと、まとわりつく翔太を軽くかわし、拓海は自分の部屋へ入る。
そして持っていた鞄を、叩きつけるように机に置いた時、自分がイライラしていることにやっと気づいた。
「誰なんだよ……あの男」
さっき、知らない男と一緒にいる雫の姿を見た。昨日防波堤の所にいたやつだ。あいつ一体誰なんだ?
そんなことを雫に聞けるわけもなく、ただイライラしているだけの自分に腹が立つ。
なんて自分は情けなくて、ちっぽけな男なんだろう……。
隣の部屋で苦しそうに咳をする声がした。拓海はふうっと息を吐いてから、その部屋へ向かった。
窓際にあるベッドの上で、拓海の父親が咳き込んでいた。
「大丈夫?」
「……ああ」
父は消えそうな声でそう言ったけれど、大丈夫そうには到底見えなかった。拓海は無言のまま近づいて、そんな父の背中をさする。
強くて大きくて威厳のあった父の背中。それが今はやせ細って、ただ苦しそうに息をしているだけだ。
「悪いな……拓海」
「別に、いいよ」
母が亡くなってから体調を崩した父は、病院で癌と診断された。もうすでに末期だった。
医者には入院を勧められたけれど、父は頑として家に残ると言い張った。この家で死にたいという、覚悟の上だった。
だけどそんな父の看病をするのは、妊娠八か月の水紀さんだ。
大きなお腹で、三歳の翔太の世話をしながら、自分勝手な兄の相手もして、さらに父の面倒までみてくれている。水紀さんは本当に偉いと思うし、頭が上がらない。
「拓海……」
父のかすれた声が聞こえる。
「なに?」
「お前に、まだ言ってないことがある……」
まだ言ってないこと? 何の話だろう? 拓海は背中をさする手を止めた。
「実はな……」
父が少し咳き込んでからつぶやく。
「お前と大輔は……腹違いの兄弟なんだよ」
ごくんと、自分の唾を呑み込む音が聞こえた。心臓がざわざわと嫌な音を立てる。
「大輔は俺と前妻の子だ。その女が出て行ってから、俺は再婚してお前が生まれた」
「そんなの……聞いたことない」
「ああ、そうだな……お前には言う必要がないと思っていたから」
知らなかったのは自分だけだったのか? 兄は……大輔は、そのことを知っている。
「俺と大輔の母親は相性がよくなかった。結局母親は大輔を置いて、この家を出て行った」
咳き込む父の背中を、拓海はもう一度さする。
「だけど俺は、残された大輔のことを愛せなくてな。怒鳴ったり殴ったり、かなりひどい仕打ちをした」
それは聞いたことがある。
漁師だった父は、拓海にとっても怖い父親だったけれど、拓海に手を上げることは一度もなかった。だけど大輔はよく怒鳴られて、殴りつけられていたそうだ。
「大輔が十歳の時、俺と再婚した母さんがお前を産んだ。母親から可愛がられたお前のことを、きっと大輔は妬んでいたんだろう」
父が、痩せこけた顔を上げて拓海を見た。
「悪かった。大輔が今でもお前にきつく当たるのは、昔の俺のせいだ」
拓海はゆっくりと首を振った。
違う。違う――たとえどんな過去があったとしても、何をしてもいいわけではない。
大輔は自分だけでなく、水紀さんにも暴力的に振舞っているし、浮気だってしている。
あの男は最低だ。母親のせいとか、父親のせいとか、そんなの関係ない。
そう思った拓海の耳に、父のかすれる声が聞こえた。
「だけどな。それでもあいつは、お前のたった一人の兄弟なんだ。頼むから仲良くやってくれ。俺がいなくなったあとも……」
冗談じゃない。誰があんなやつと……。
玄関先で乱暴な音がした。大輔と水紀の、言い争うような声がする。
「夕飯を作って待ってろって言ったの、あなたじゃない!」
「ちょっと用事ができただけだ。帰ってから食うって言ってるだろ?」
「用事って何なの? どこに行くのよ?」
「いちいちうるせぇな! 黙ってろ!」
何かがぶつかる音がして、拓海は玄関へ飛び出した。
水紀が壁にもたれて座り込んでいる。大輔に突き飛ばされたのだ。
「だ、大丈夫?」
駆け寄って声をかける。
「ええ……」
水紀はつらそうな顔つきでお腹をかばう。
壁際に隠れるようにして、そんな父親と母親を見ている翔太の姿が見えた。
「なんだ、拓海? 何か文句あるのか?」
顔を上げて睨みつけたら、大輔が馬鹿にしたように笑った。
震える右手をぎゅっと握る。だけど……立ちはだかる大輔の前で、拓海はひと言も声を発することができなかった。
「ふん。ガキは大人しくお勉強でもしてろ」
大輔は拓海から目をそらすと、乱暴に引き戸を開けて外へ出て行った。