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「ほんとに驚いた。遼二くんが、こんな近くに住んでたなんて」
雑踏の中を歩きながら、雫が遼二の隣で笑う。
雫の手には、女の子の手がしっかりと繋がれていて、こんなふうに並んで歩いている自分が、 とても不思議に思えた。
「驚いたのはこっちのほうだよ」
そう言って遼二は、ちらりと女の子の姿を見る。
「その子……」
「私の子だよ。希海っていうの。今六歳」
ああ、そうか。そういうことだったのか。
雫は産んで育てたのだ。あの時、お腹にいた子供を……。
「まだお父さんのところに?」
小さく首を横に振り、雫が答える。
「いろいろあってね……今は、この子と二人暮らし」
さらりと雫は言ったけど、簡単には説明できない出来事が、きっとたくさんあったのだと思う。
雫の隣で、少し上目づかいで自分を見ている希海に、遼二は聞く。
「今日の夕飯は……カレー?」
にこっと微笑む希海の表情は、雫によく似ていた。
「うん。お母さんと一緒に作るの」
「そっか。いいな、お母さんと一緒で」
嬉しそうに笑って、希海が雫を見る。雫も希海に笑顔を返すと、立ち止まって遼二に言った。
「じゃあ……私たちはこっちだから」
雫の指が分かれ道を差す。空は夕焼け色から、深い紺色に変わり始めていた。
「雫」
背中を向けた雫につぶやく。
「拓海は待ってるぞ。今でもまだ、お前のこと」
静かに振り返って、雫は遼二のことを見る。そして頬を緩ませると、穏やかな声でこう言った。
「それが本当だったら……すごく嬉しい」
雫の視線が希海に移る。
「でも私いま、とても幸せなの」
希海を見つめる雫の表情は、柔らかな母親の顔だ。
「この子は私を必要としてくれてるし、私もこの子が必要。だから私たち、二人ぼっちでもとても幸せなの」
雫はそう言って、もう一度遼二に笑いかける。
波の音も、潮の香りもしないこの町で、雫はひっそりと、だけど真っすぐ生きていた。娘と二人で……。
拓海に、このことを伝えようか。それとも知らない方がいいのだろうか。
今が幸せだと言った雫。彼女は誰かのぬくもりを、思い出すことがあるのだろうか。
寄り添うように歩いて行く、母娘の背中を見送る。二人の持つビニール袋がカサカサと揺れ、どこからかカレーライスの匂いが漂ってくるようだった。
二人の姿を見送ってから、遼二も雑踏の中を歩き始める。温かいような寂しいような、なんとも言えないもどかしい気持ちに包まれて、自然と早足になる。
早く、早く莉奈に会いたい。莉奈のぬくもりを感じたい。
いつまでたっても大人になりきれないのは、男の方だ。
商店街の終わりで、莉奈の姿を見つけた。
「迎えに来ちゃった」
そう言って、いたずらっぽく笑う莉奈の身体をそっと抱きしめる。
「やだぁ、遼二くん。どうしたの?」
胸の中でくすくす笑っている莉奈を、自分はこんなに必要としている。
「そんなに私に会いたかったの?」
「……うん」
身体を離すと莉奈がはにかむように微笑んで言った。
「私も、会いたかった。遼二くんに……」
莉奈の言葉を胸にしまう。
自分は莉奈を必要としていて、莉奈も自分を必要としてくれている。そしてもうすぐ、こんな自分を頼ってくれる命が生まれてくる。
かけがえのない、何よりも大事な人たちに、自分は何をしてあげられるのだろう。
右手を伸ばし、そっと莉奈のお腹に触れる。そんな遼二の手を、莉奈の温かな手が包み込む。
暗がりの中で莉奈の顔を見ると、少し顔色が悪かった。
「早く帰ろう。腹減った」
「カレーライス作ってあるよ」
「匂いキツイだろ? 気持ち悪くない?」
「カレーだけは大丈夫なの。いっぱい食べたい」
右手と左手を絡ませて、手を繋ぎながらゆっくりと歩く。何気なく見上げた空に、少し欠けた月が見える。
娘と暮らすアパートで、雫はこの月を見ているだろうか?
潮の香りがするあの町で、拓海もこの月を見ているだろうか?
同じ色の空の下、愛しい誰かを想いながら……。
静かに目を閉じた遼二の耳に、かすかな波の音が聞こえてきた。




