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「あの子ならいないよ。父親の所に行っちゃったから」
「え……」
玄関から顔を出す雫の母親の前で、拓海は呆然と突っ立ったままだ。
「十八年間一緒に暮らした母親よりも、一度も会ったことのない父親を選んだんだよ。あの子は」
わけがわからず立ち尽くす。右手で携帯をぎゅっと握りしめる。
一緒に東京に行こう――拓海からのメールに雫からの返信が来たのは、今朝早くだった。
ごめんね。私は一緒に行けない――。
メールに気づいてすぐに駆け付けた雫の家に、もう雫の姿はなかった。
「父親の所にって……どうして」
雫の母がふっと笑って、静かにつぶやく。
「あの子は私を捨てたんだよ」
生ぬるい風が吹く。拓海から視線をそらした母親が、風になびく髪をそっと押さえる。雫とよく似たそのしぐさを見ながら、拓海は幼い頃に聞いた、雫の言葉を思い出す。
「お父さんがね、私のこと待っててくれてるの」
いつものように、なんとなく堤防に座って海を見ながら、雫は拓海の隣で言った。
「私いつかきっと、お父さんの所に行く」
雫は母に内緒で、父と手紙のやり取りをしていると言っていた。だけど会ったこともない父と暮らすなんて、とても現実的には思えず……幼い少女だった雫の、妄想のようなものだとばかり思っていた。
「本気だったんだ……」
雫は捨てた。母親を、大輔を、この町を――そして自分を。
「俺じゃ……ダメなんだ」
力が抜けて、ため息と一緒に笑いがもれる。雫を連れてこの町を出るなんて、自分にできるわけはなかったのだ。
馬鹿馬鹿しい。何もかも自分の独りよがりだった。おかしすぎて笑えるじゃないか。
雫の母親に背を向けて、海を見ながら坂道を下った。
見慣れた海が次第にぼやけて、自分が泣いていることに拓海は気づいた。




