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 防波堤の上に立って、松崎遼二はぼんやりと海を見ていた。

 幼い頃、祖母の家に遊びに来た時、この海はもっと青く輝いて見えたのに……。

 何が変わってしまったのか。いや、この場所は何も変わっていないはず。

 変わってしまったのは、自分のほうだ。


「来ないの……生理が……」

 そう言って自分の前でうつむいた彼女――莉奈は、小さく震えていた。

「どうしよう……どうしよう、遼二くん」

 昼休みの終わりを告げるチャイムが耳に響く。渡り廊下で立ち尽くす自分たちの脇を、笑い声を上げてクラスメイトたちが通り過ぎる。

「どうしようって、言ったって……」

 あの時だ――遼二はうまく回らない頭の中で考えた。

 避妊はしてきたつもりだった。だけどたった一回だけ、雰囲気に流されて、何もつけずにしてしまったことがある。

 莉奈は嫌がったのに……そういうことをすれば、どうなるかってことくらい、わかっていたのに……一回くらい大丈夫だとか、自分だけはないだろうとか、根拠もない自信を持っていた。

「無理……だよな?」

 莉奈が顔を上げて遼二を見た。真っ赤に潤んだその瞳が、自分を責めているように感じて、遼二は思わず視線をそらした。

「病院行こう。誰にも知られないように……お金だったら、なんとかするから」

 クラスの男子が通りかかった。泣き出しそうな莉奈の顔を見て、遼二に冷やかしの声をかけていく。

 早く――早く、この場から立ち去りたい。そんな気持ちだけが、遼二の頭の中を支配していた。

「いいよな? それで」

 莉奈は何も答えなかった。その代わりにさっきとは違う、冷え切ったような視線を遼二に向けた。

「何してるんだぁ、お前ら。五時間目、始まるぞ?」

 担任教師の声がした。莉奈が黙ったまま、背中を向ける。

「こらぁ、松崎。女の子泣かしちゃ、ダメだろうが?」

 陽気に笑う担任教師。去って行く莉奈の後ろ姿。

 大丈夫、なんとかなる。次から絶対気をつければいいことだ。

 莉奈の背中を見送る遼二には、彼女の心の痛みなど、何ひとつわかっていなかったのだ。


 莉奈の両親が怒鳴り込んできたのは、その日の夕方だった。それも、遼二の父親が開業している産婦人科医院へ。

「娘をこんな目に遭わせておいて、お宅の息子は、何事もなかったことにしようとした」

「医者のくせに、自分の息子の性教育もできないのか」

 病院の待合室で、たくさんの患者のいる前で、莉奈の父親は見せしめのように、遼二の父を怒鳴りつけた。

 そして運悪く、同じ学校へ通う生徒の親も、たまたまそこに居合わせたため、次の日には噂話が学校へも広がってしまったのだ。


 遼二が父親に怒鳴られたのは、これが初めてだった。

 だからと言って今までが、優しくて物わかりの良い父親だったわけではない。

 大学病院で研修医をしている兄、医学部に通う姉。だけどその弟の遼二は、まずまずの進学校へ通ってはいても、兄や姉と比べれば、出来の良くない子供だった。

 だからだろう。父は遼二には、あまり口出ししなかった。

 適当に勉強さえしていれば遊ぶ金はくれたし、どんな友達と遊ぼうと、どんな女の子と付き合おうと、何も文句は言われなかった。というか、関心もなかったのだろう。

「お前はなんてことをしてくれたんだ!」

 そう言って父親が頭を抱える理由は、自分のことを想っているからでも、莉奈のことを心配しているからでもない。

 ただ自分が今まで築いてきた、地位や名誉といった世間体が、出来の悪い息子によって崩されたことに腹を立てているのだ。

 それを遼二もよくわかっていた。

「この家から出て行け! 学校も辞めろ! お前の顔は見たくない」

 やっと、父親の本音を聞けた――今までもその言葉を、自分はずっと待っていたのかもしれない。

「わかったよ。こんな家、こっちから出てってやる」

 広くて、必要以上のものが揃っているのに、なぜか物足りない冷たい部屋。自分のことを、馬鹿にした態度で眺めている兄と、憐れむような目つきの姉。

 そして、PTAの会長をやっている母親は、父と同じように世間体ばかり気にしている。

 もううんざりだった。莉奈のことは、ちょっとしたきっかけにすぎない。

 どこでもいい。早く、早く、この家を出たい。


「そこ、危ないよ」

 急に声をかけられ振り向いた。目の前に、自分と同じ年ごろの女の子がいる。

 彼女はこの町の言い伝えのような話をした後、「あなた誰?」と遼二に聞く。

 出て行けと言っても、未成年の息子を家出させるわけにもいかなかったのだろう。遼二は父方の祖母が一人で暮らしている田舎の家に、無理やり引き取られる形になったのだ。

 雫と名乗った女の子が、自分の家の方向を指さす。それをぼんやりと目で追いながら、これから暮らすことになった田舎町を眺めてみる。

 海と山に囲まれた、狭くて薄暗い町。毎日当たり前のように見ていた高いビルも、明るいコンビニも、車や電車の騒音もない。

 ただ耳に聞こえてくるのは、永遠に繰り返される波の音だけ。

 遼二は急に、何もかもが馬鹿馬鹿しく思えて、嫌になった。

「なんで……こんな所にいるんだろうな。俺」

 このまま海に飛び込んで死んでしまったら、あんな両親でも少しは焦るだろうか。それとも手のかかる息子がいなくなって、せいせいするだろうか。

 そして今まで一緒に遊んでいた仲間は……莉奈は……ほんの少しでも悲しんで、泣いてくれるだろうか。

 考えることさえ面倒になって、すべてを振り払うように一歩踏み出す。

 歩き始めた遼二の後ろから、セーラー服のスカーフを風になびかせながら、雫が黙ってついてきた。

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