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「おばあちゃん、本当にお世話になりました」
「いいって、いいって。またいつでも遊びにおいで」
莉奈が祖母の前でぺこりと頭を下げる。遼二はそんな二人を眺めながら、来た時と同じスポーツバッグを肩にかける。
「あっち着いたら連絡する」
「遼二が帰ったら、きっとお父さんも喜ぶよ」
祖母の声に遼二は顔をしかめる。
「そんなわけねぇだろ? お前の顔は見たくないって言われたんだぜ?」
「今ごろ後悔してるに決まってる。お父さんはね、末っ子のあんたのことが一番心配で、一番可愛いんだよ」
遼二の前で祖母が笑う。視線をそらす遼二のことを、莉奈が黙って見つめている。
小学生の頃、夏休みは父と二人でこの家に来た。仕事人間だった父と、年に一度だけ一緒に過ごせる時間。
兄と姉は、勉強や部活で忙しかったから、一番年下の遼二だけを父が連れてきてくれたのだ。
海で泳いで、帰り道でアイスを食べて、夜はこの庭で花火をして……父の布団で虫の声を聞きながら眠った。
一日中、父を独り占めできることが嬉しくて、この時間が永遠に続けばいいと思っていた。
「俺、もう行くよ」
「ああ、気をつけてな」
庭先で手を振る祖母の姿。莉奈と一緒に歩きかけた遼二が振り返る。
「ばあちゃんは……一人で平気なのか?」
自分たちが出て行ったら、祖母はたった一人。祖父のいないこの家で、たった一人で生きていくのだ。
「もう慣れっこだよ」
祖母がそう言って笑う。
「それにここには、じいちゃんがいるからなぁ」
浜の女は一途なんよ――いつかの祖母の言葉が頭に浮かんだ。
莉奈の手を引きながら、海沿いの道を歩く。この町にやってきた日と同じように、空はどんよりと曇っていた。
「……遼二くん」
黙り込んだままの遼二に、莉奈がつぶやく。
「遼二くん、いいの?」
「何が?」
「私と一緒に、東京に戻ること」
莉奈がちらりと顔を上げて遼二を見る。
本当は少し思っていた。
コンビニもファミレスもゲーセンもない、潮の匂いがするだけの、息が詰まるような田舎町だけど、祖母と二人の生活は悪くなかった。
このままこの町で、面倒なことは考えずにずっと暮らしていければ……それはそれでよかったのかもしれないけれど……。
つないだ手をぎゅっと握る。もうこの、温かな手を離したくはない。
「こんな町にこれ以上いたら、俺、退屈すぎて死ぬ」
莉奈が少し笑った。遼二もかすかに笑顔を返した時、ふいに声をかけられた。
「遼二くん」
莉奈ではない女の子の声。振り向くと坂道を下りてきた雫が、遼二たちの元へ歩み寄った。
「東京に帰るんだってね? 拓から聞いた」
「あんたも来るんだろ? 拓海と一緒に」
雫が遼二の前で、首を横に振る。
「来ないのか?」
「……うん」
「どうして……」
雫は曖昧に笑い返し、話題を変えるかのように、莉奈をちらりと見て言った。
「遼二くんの彼女? 可愛いね。大事にしてあげなきゃダメだよ?」
「話そらすなよ」
「電車の中で、もう泣いたりしないでね? 男なんだから」
「うるさいっての」
二人で電車に乗って病院に行った日。雫の前でみっともなく泣いてしまった自分。雫のほうがよっぽどつらかったはずなのに……。
「それよりどうして……」
「遼二くん」
雫がぽつりとつぶやく。
「ありがとうね。いろいろと」
「雫……」
「拓に謝っておいて。ごめんねって……」
黙って雫の顔を見る。雫は寂しげにもう一度微笑む。
そんな雫の表情を見たら、それ以上何も言えなくなって……今来た道を戻っていく雫の背中を、遼二はただ見送るだけだった。
どうしてあんなふうに笑えるのだろう。憎しみも悲しみも、胸の奥にしまいこんで……今までも、これからも、そうやって生きていくつもりなのか? 生まれ育ったこの町で……。
駅へと続く道で振り返る。遠慮がちについてくる莉奈が立ち止る。その向こうに見えるのは、決して爽やかではない空と海。
鉛色した、重苦しい風景を背負ったような莉奈が、不安げな目をして自分を見ている。
「莉奈……」
手を伸ばして、莉奈の身体を抱き寄せる。柔らかくて温かい、その感触にすがりつく。
「遼二くん?」
戸惑いがちに莉奈がつぶやき、その手がゆっくりと遼二を包む。それに応えるかのように、莉奈の身体を抱きしめる。震える手で、強く、強く……。
すべてが不安で心細かった。遼二も、莉奈も、拓海も、雫も……誰もが脆く、危うく、深い海の底をもがくように生きていた。
莉奈と一緒に上り列車に乗る。ひと気のない車内で、莉奈と並んで座る。
単調な音と、心地よい揺れの中で、やがて莉奈の重みが肩にかかる。
自分に寄り添う莉奈のぬくもりを感じながら、遼二はただ黙って、過ぎてゆく景色を目で追っていた。




