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「大丈夫。すぐに終わりますからね」

 手術着に着替え、横になった雫に看護師が言う。麻酔の準備をされながら、雫はぼんやりと天井を見ていた。

 子供を作るのも簡単ならば、なくしてしまうのも簡単なこと。眠っている間にすべてが終わり、またもとの身体に戻るだけ。

 目を閉じると、ゆらゆらと揺れる水面が目に浮かんだ。その中にぽっかりと浮かぶのは、見たこともない赤ん坊の姿。

 眠るように目を閉じた赤ん坊は、小さな心臓をトクトクと動かして、雫の身体の中で生きている。臍の緒でつながり合い、自分だけを頼って生きている。

 ――私はこの子に必要とされているんだ。

 そう思った途端、全身が震えた。目を開けて体を起こす。

「どうしました?」

 驚いた顔の看護師に雫は告げる。

「ごめんなさい。やっぱりやめます」

「え?」

「やっぱりやめます」

 そのあとは震えて声にならなかった。

 困った表情で顔を見合わせる看護師たちの姿だけが、やけにはっきりと目に映った。


 逃げるように病院を出て、駅までの道を一人で歩く。

 これからどうしたらいいのだろう……。

 一人で産んで、一人で育てるなんて、絶対無理だ。けれど大輔に頼るつもりもない。

 こうなったのはすべて自分のせいなのだ。

 奥さんと子供がいることを知っていて、大輔と関係を持った。

 妊娠してしまうかもしれないとわかっていたのに、拒否しなかった。

 先のことなど考えずに、何もしないで病院を出た。

 全部、全部、自分で決めたこと。

 途方に暮れた気持ちで、駅のホームに立ち尽くす。何本かの列車を、ぼんやりと見送る。

 下り線に乗ればあの町に、上り線に乗れば別の町に。真っ直ぐ続く線路を見つめ、雫は唇をぎゅっと噛む。

 駅のアナウンスが流れ、上り列車が着いた。雫は開いたドアをじっと見つめる。

 やがてそのドアが静かに閉じ、列車がまたゆっくりと動き出す。

 雫は走り始める列車を見送りながら、右手でそっとお腹に触れた。何の感触もないこの身体の中に、一つの命が宿っているなんて、今でも信じられない。

「何やってるんだろ……私」

 ひとり言のようにつぶやいて、あきれたように笑う。

 その時なぜか今朝聞いた、拓海の言葉が頭に浮かんだ。

 ――雫が戻ってくるまで……俺、ここで待ってるから。

 下り列車がホームに止まる。雫は重い足を踏み出して、ひと気のない列車に乗り込んだ。


 薄暗くなった寂れたホームに、雫は一人降りた。

 列車から降りた途端に感じた、潮の匂い。きっとこの身体にも染みついていて、それは決して消えることはないのだろう。

 ぼんやりと灯る灯りの下で立ち止まる。少し先の堤防の所に人影が見える。

「ほんとに……バカなんだから」

 もしも自分が戻ってこなかったら、拓海はどうしていただろう。いつまでもいつまでも、ただこの場所で、自分のことを待ち続けてくれたのだろうか。

 そんなことを思ったら、愛しい想いが全身にこみあげてきた。

「雫」

 雫の姿に気づいた拓海が、名前を呼ぶ。幼い頃からずっと聞いていた、懐かしい声。拓海は雫の前に駆け寄って、大きく息を吐いてからつぶやく。

「おせえよ……」

 背中からぐっと抱き寄せられた。薄いブラウス越しに触れる拓海の手が、細かく震えているのがわかる。

「本当に……待っててくれたんだ」

「待ってるって言ったろ?」

 両手を伸ばして、拓海のシャツをぎゅっと握りしめる。そんな自分の手も、やっぱり震えている。怖くて、不安で、本当は立っているのがやっとだということに、雫は気づく。

「捨てよう……一緒に」

 拓海の、かすれる声を耳元で聞く。

「この町を、一緒に捨てよう」

 小さくて、何にもないこの町で、波の音を聞きながら育った。

 潮風に打たれて、少しずつ錆びついていくように、今まで生きてきた。

 逃げたくても逃げられずに、何かに憑りつかれてしまったかのように。

「私を……連れ出してくれるの?」

「……うん」

 ぎこちなく抱きしめられながら、雫はそっと目を閉じる。

 拓海の胸は温かくて、そして自分と同じ匂いがした。

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