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 いつも以上に乱暴に引き戸が開き、どかどかと足音が近づいてくる。やがて襖がすっと開くと、どことなく不機嫌そうな顔つきの遼二が立っていた。

「帰るぞ。拓海」

 寝ころんでいた畳から体を起こし、面倒くさそうに、拓海は遼二のことを見た。

「何だよ、急に……」

「お前の家、教えろ。お前の兄貴に、会わせろよ」

 拓海の心臓がぴくんと反応した。思わず握った右手に、汗がじんわりとにじんでくる。

「ほら、さっさと支度しろ。帰るぞ」

 支度と言っても荷物などない。何も持たずに家を飛び出して、そのままこの松崎家に居候していたから。

 それにしても……遼二のやつは何を考えているのだろう。

 今朝、行き先も言わずに出かけたと思ったら、戻って来るなり自分に帰れと言う。しかも大輔に会わせろなんて……。

「何か……あった?」

 拓海の頭に浮かぶのは、雫の顔だ。もうあんな女の心配は、しないって決めたのに。

 だけど遼二は何も答えずに、さっさと家を出て行く。仕方なく拓海も立ち上がると、遼二の祖母に「お世話になりました」と挨拶して、遼二の後に続いた。


 空は茜色に染まっていた。海は穏やかに凪いでいて、潮の匂いが風に流れる。

「もしかして今日、雫と一緒だった?」

 背中を向けて歩いている遼二に、拓海はつぶやく。朝からなんとなく、そんな気がしていたのだ。

「……一緒だったよ」

 やっぱり……けれど拓海には、悔しい気持ちも、羨ましい気持ちも沸いてこなかった。というより、そんな気持ちを全部、無意識のうちに閉じ込めてしまったのかもしれない。

 どんなに自分が雫のことを想っても、どうにもならないことをわかっていたから。

「拓ちゃん?」

 声をかけられて立ち止った。ゆっくりと振り返ると、翔太の手を引いた水紀が、あわてた様子で駆け寄ってきた。

「今までどこにいたの? すごく心配したのよ?」

 拓海は返事をしないまま、すっと水紀から視線をそらす。すると自分を見ている遼二と目が合って、ものすごく気まずい気分になった。

「拓ちゃん、今日カレーだよ。一緒に食べようよ」

 翔太の無邪気な声が聞こえる。その途端、張りつめていた糸が切れたような、ものすごい脱力感に襲われた。

 なんだ、自分はどこにも逃げられないんだ。どんなに理不尽な目に遭っても、この狭い町から逃げ出すこともできずに、結局あの家に戻るだけなんだ。

「すぐに……帰るよ」

「うん! お母さんとカレー作って待ってるね」

 翔太がそう言って、水紀の手を引く。水紀は何か言いたげな表情で拓海を見ながら、夕暮れの道を歩いて行く。そんな二人を見送って、拓海は遼二につぶやいた。

「あれ、うちの兄貴の奥さんと子供」

 遼二は黙って遠くを見ていた。拓海もその視線の先を追いかける。そしてそこに見慣れた姿を見つけ、思わず「あっ」と声を上げそうになる。

 大輔だ――あの日、自分が殴りつけた兄が水紀たちと出会い、立ち止まって何か話している。

「で、あれがあんたの兄貴?」

 遼二の声に小さくうなずく。今さらながら、足がガクガクと震えている。情けない。

 拓海の隣で、遼二はじっと大輔たちを見ていた。そんな遼二の横顔と、大輔たちの姿を、拓海は交互に見比べる。

 やがて、大輔と会話をした水紀が静かに微笑んだ。

 必ず私の所に戻って来るって、信じているから――そう言った水紀の言葉を思い出す。

 あんなに理不尽なことをされても、すべて許して、笑っていられるというのか? 拓海には、水紀の気持ちがわからない。

 水紀の笑顔を見て、大輔も少し笑った。こんな穏やかな兄の顔を見るのは、久しぶりのような気がする。

 大輔の手がすっと伸びて、翔太の頭をなでる。あまり優しくされたことのない父の前で、顔をこわばらせていた翔太が、嬉しそうな笑顔になる。

 拓海の知らない家族の表情。今まで自分が口出ししてきたことが、馬鹿みたいに思える。

 隣に立つ遼二を見た。ぎゅっと唇を噛みしめて、何かに耐えているような顔つきで、遼二は大輔たちの姿を見つめている。

 三人の並んだ影が遠ざかる。遼二は動こうとしなかった。もしかして大輔に掴みかかるのではないかと思ったけれど、そんなことはしなかった。

「拓海ぃ」

 遼二の声に顔を上げる。

「お前、大事にしてやれよ。雫のこと」

 大輔たちに背中を向けて、遼二がつぶやく。

「お前が大事にしてやれよ。な? 拓海」

 茜色の空の下、遼二の向こうに凪いだ海が見えた。

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