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 土曜日の朝。朝食を食べ終えると、祖母と拓海を残し、遼二はいそいそと出かける支度をした。

「どこ行くんだよ?」

 玄関先で拓海に声をかけられる。

 雫と出かけること、拓海に言おうか迷ったけれど、どこに行くのか聞かされていなかったし、言うのはやめた。

 それになんとなく、言ってはいけないことのような気がしたから。

「別にどこでもいいだろ」

 そっけなく返して靴を履く。

「それよりお前、いつまでこの家に居候してるつもりだよ? いい加減、家に帰れよな」

「あんたこそ」

 振り返って拓海を見る。

「ばあちゃんが言ってたぞ? あんたの父さんもあんたも、ただの意地っ張りだって。お互い謝るところは謝って、一緒に暮らすのが一番いいのにって」

「うるせぇな。お前のそういう説教くさいところが、雫も気に入らないんだよ」

 言ってから、まずかったかな? と後悔する。拓海は何とも言えない、複雑な表情でそこに立っていた。

 拓海は雫のことが好きで。雫は拓海の兄貴と付き合っていて。でも兄貴には奥さんも子供もいて。

 自分が拓海の立場だったら、好きな子と自分の兄に、どう接したらいいのだろう。

「じゃあ……俺、行くから」

 それだけ言って、外へ出た。眩しい日差しが、容赦なく頭の上から照りつけて、遼二は忌々しそうに顔をしかめた。


 駅で待ち合わせした雫は、髪をばっさり短く切っていた。

「夏だからね」

 そう言って笑う雫と一緒に電車に乗る。

 空席だらけのガランとした車内で、花柄のワンピースを着た雫は、どことなくはしゃいでいるようにも見えた。

「どこ行くんだよ?」

 三つ目の駅を過ぎた時、遼二がやっと雫に聞いた。

 四人掛けのボックス席の向かい側で、窓の外を眺めていた雫の動きが、一瞬だけ止まった気がする。

「知りたい?」

「いい加減、教えてくれてもいいだろ?」

 雫が遼二を見て、小さく微笑む。

「病院に行きたいの」

「病院?」

 髪を揺らして、こくんとうなずく雫。

「私、妊娠してるかもしれないの」


 名前も知らない駅で降りた。ひと気のない改札を抜け、寂れた駅前広場を突っ切り、住宅街の中を歩く。

 雫は目的地がわかっているみたいで、前を向いてただ黙々と歩いていた。そんな雫の一歩後ろを、遼二も黙ったままついて行く。

 夏の日差しがじりじりと照りつけ、額に汗がにじんでくる。道の両側に生い茂る緑から、蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 少し前を歩く雫の小さな背中。雫は今、何を考えているのだろう。

 緑のつたが絡まる塀の前で、雫が立ち止る。そしてゆっくりと振り返って、遼二に言う。

「ありがとう。もうここでいいよ」

 木々の向こうに見えるのは、古い洋館のような二階建ての建物。入口についている小さな看板を見て、ここが産婦人科医院だということがわかった。

「この病院で、私産まれたの。もちろん覚えてないけど」

 雫がそう言ってほんの少し微笑む。

「中まで一緒に行くよ」

「大丈夫。だって嫌でしょう? こんな所に入るの」

 雫だって、一人で入るのは怖いだろう? だから自分を連れてきたんだろう?

「……知ってるのか? 相手の人は」

 雫がそっと視線をそらす。

「もしできてたら……どうするつもりなんだよ?」

「決まってるでしょ? 産めるわけないもの」

 遼二の胸にちくりと痛みが走る。

「一緒に来てもらってよかった。やっぱり一人は心細かったから。ありがとね、遼二くん」

 雫はそれだけ言うと背中を向けて、小走りで建物の中へ消えていく。

 その背中が莉奈の背中とだぶって見えて、遼二は無性に息苦しさを覚えた。


 人通りもない駅前のベンチに座って、遼二は雫のことを待っていた。

 空から降り注ぐ熱い日差し。ねっとりと肌にまとわりつく空気。

 蝉の鳴き声だけがじわじわと耳に響き、一分一秒がとてつもなく長く感じられる。

 どのくらい待っただろうか……二、三時間のような気もするけれど、もしかしたらほんの三十分くらいだったのかもしれない。

 ベンチから立ち上がった遼二に気がつくと、雫は少し驚いた顔をしたあと、急いでこちらに駆け寄ってきた。

「待っててくれなくても、よかったのに」

「そういうわけにはいかないだろ?」

 雫は病院の匂いがした。遼二が幼い頃からよく知っている匂いだ。ふと一瞬だけ、白衣を着た父の背中を思い出す。

「……どうだった?」

 遼二の声に、雫は他人事のようにあっさりと答える。

「七週目だって。来週手術受けることにした」

 そして軽く微笑むと、改札に向かって歩き出した。


 帰りの電車に揺られながら、雫は一言もしゃべろうとしなかった。

 そんな雫に、何と声をかければいいのかわからずに、遼二もずっと黙っていた。

 窓の外に海が見える。晴れた海は空の青を映し、何もかもを呑み込んでしまうように深い。

 その時、遼二の耳に、雫の消えそうな声が聞こえてきた。

「赤ちゃんのね……心臓が動いてたの」

 窓の外を眺めながら、誰にでもなく雫がつぶやく。

「もう私のお腹の中で、四十日も生きてるんだって」

 そう言った瞬間、雫は海を見たまま、右手で口元を覆った。その指先は、小刻みに震えている。

「そんな赤ちゃんを、私が殺すの。私が……私の赤ちゃんを殺すの」

「違う。雫のせいだけじゃない」

 思わず遼二は口を開いた。目の前で震えながら、自分を責めている雫を、黙って見てはいられなかった。

「相手の男に言えよ。あんた一人が傷つくなんて、不公平だろ?」

 そう言いながら、そんなセリフを口にしている自分におかしくなった。

 人の目ばかり気にして、自分の都合が良くなるようにごまかして、莉奈一人を傷つけたのは、この自分じゃないか。

 莉奈の身体の痛みも、心の痛みも、何ひとつわからなくて……わかろうともしていなかった。

 それなのに、雫に偉そうなことを言っている自分は、とんでもない馬鹿だ。

「……ごめん」

 つい口を出た遼二の言葉に、雫が潤んだ目を向ける。

「ごめん、ごめん……何やってんだ、俺……」

「……遼二くん?」

 頭を抱えた遼二のことを、雫が見ている。

「殺したのは……俺だ」

 目の前にいる雫の姿が、莉奈に変わる。莉奈は笑顔で両手を差し出し、夢の中のセリフを遼二に言う。

 ――可愛いでしょう? 遼二くんの子供なんだよ?

「俺が、殺したんだ。自分の子供を……」

 車内に、駅名を告げるアナウンスが流れる。ぽつぽつと数人の乗客が立ち上がり、やがて雫のかすれる声が聞こえてくる。

「……もう、降りなきゃ」

 雫がゆらりと立ち上がった。そしてうつむく遼二の前に、右手をそっと差し伸べる。

 顔を上げると、無理して微笑んでいるような雫の顔が、涙でぼんやりとかすんで見えた。

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