16
空がうっすらと明るくなってきた頃、雫は眠っている母親を横目に家を出た。
坂道から見下ろす海に浮かぶ、何艘かの船。無意識のうちに、大輔の船を探している自分に気づき、なんだかおかしくなる。
昨日、大輔の奥さんである水紀と、その息子の翔太の姿を見かけた。
雑貨屋から出てきた水紀のお腹は、ふっくらと丸く膨らんでいた。
買い物袋をぶら下げて、手をつなぎながら夕暮れの道を歩いて行く二人。
これから家に帰るのだろう。そして大輔のために、夕飯の支度をするのだろう。
そんなことを思いながら、背中にかかる水紀の長い髪を見送った。
べったりとした風が吹く。そういえば昨日、梅雨明けしたというニュースを聞いた。薄暗いこの町に蒸し暑い夏がやってくる。
「髪……切ろう」
肩まで伸びた髪を指先に絡める。赤茶けて、傷んでしまったこの髪が、彼女の黒髪にかなわないことを雫は知っていた。
いつもの防波堤のところまで歩いて立ち止る。ぼんやり海を眺めているその背中に、雫は声をかける。
「おはよう」
雫の声に、遼二がこちらを振り向いた。
「ああ……」
「ずいぶん早起きなんだね?」
少し驚いた顔をしていた遼二が、ふっと笑う。
「隣で寝てるヤツのいびきがうるさくてさ。なんとかなんねぇの? アレ」
「隣で寝てるヤツ?」
「広瀬拓海」
拓海が? どうして?
「あいつ、なんだか知らねぇけど、家出してきたらしくてさ。今、俺のうちにいるんだよ」
「そう……なんだ」
雫の頭に、びしょ濡れになって自分を捜していたと言った、拓海の姿が浮かぶ。
拓海がいつも、自分のことを気にかけてくれているって、雫は知っていた。
そしてたぶん、拓海が自分を好きでいてくれているってことも……。
雫は黙って遼二の隣に座った。海から吹き付ける風が、雫の髪を揺らす。
「お前学校、サボってんだろ? そろそろちゃんと行けよ」
海を見たまま遼二が言った。雫はもう何日も、学校を無断で休んでいた。
「遼二くんって、そういうこと言うんだ。なんか意外」
「意外って……どういう意味だよ?」
雫も海を眺めながら、ふっと息を吐く。
「だって遼二くんって……軽くて、いい加減で、調子よくて……それから、すごく悪い人だと思ってたから」
「ずいぶんひどい男と思われてんだな、俺」
顔を見合わせて二人で笑った。そう言えば、こんなふうに笑ったのは、久しぶりのような気がする。
「ねぇ、悪いことって、何したの?」
笑い声が途切れた時、雫がぽつりとつぶやいた。
「悪いことして、東京の家、追い出されたんでしょ?」
遼二がまた、海に視線を移す。雫はその横顔をぼんやりと眺める。
「彼女のこと……傷つけた」
遼二の声が耳に届く。
「取り返しのつかないほど、深く……彼女のことを、傷つけた」
雫は静かに目を閉じる。波の音が遠く、近く、聞こえてくる。
「私も……」
遼二がゆっくりと、隣に座る雫を見る。
「私も、傷つけた。いろんな人を……それに、自分を……取り返しのつかないこと、しちゃった」
雲が晴れ、夏空が顔を出す。きっと今日は暑くなる。
「ねぇ遼二くん? 明日の土曜日、暇?」
「俺はいつでも暇だけど?」
「一緒に、付き合ってもらいたい所があるの。お願い」
遼二の前で両手を合わせて、雫は微笑む。まるで、デートの約束でも持ちかけるかのように。
少し不思議そうな顔のまま、遼二が答える。
「いいよ。別に」
「嬉しい。ありがとう」
そう言いながら、自分の指先がおかしいほど震えていることに、雫はその時やっと気がついた。




