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「久しぶりだね、遼二くん」

 目の前に立つ莉奈が笑顔を見せる。その腕の中には生まれたばかりの赤ん坊の姿。

「私ね、赤ちゃん、産んだの」

「え……」

「私と、遼二くんの子供だよ?」

 霧のようにぼんやりとした、ミルク色の視界の中で、遼二は莉奈の声を聞く。

「ねぇ、目をそらさないでよく見てよ。可愛いでしょう? 遼二くんの子供なんだよ?」

 莉奈がそう言って、両腕を遼二の前に差し出す。

 嘘だ。嘘だ。子供なんて生まれるはずがない。だって莉奈が言ったんじゃないか。

 私ね、赤ちゃん、堕ろしたの――って。

 突然目の前で何かが弾けた。ミルク色の視界が、真っ赤な血の色に染まっていく。

 莉奈の手の中の赤ん坊がどろりと溶けて、遼二の足元に落ちた。


 がばっと布団の上に起き上がる。遠くでかすかに汽笛の音がする。

「……夢?」

 掛布団を握り締める自分の手が震えていて、全身に嫌な汗をかいていた。

「ふざけんなよ……」

 誰にでもなくつぶやいて、遼二は布団を蹴るように立ち上がる。

 窓の外では、空がうっすらと白み始めていた。


 田舎の生活は、夜が早くて朝も早い。

 何隻かの漁船が港を出て行くのが見え、人々はもう活動を始めている。

 なんとなく目覚めてしまった遼二は、家を抜け出し、雨上がりの道を歩き出した。

 あんな夢を見て、再び眠れそうもないし、眠りたくもない。

 だけどどうしてだか、最近見るのは、莉奈の出てくる夢ばかりなのだ。

 後悔しているのだろうか――莉奈にしたこと、後悔しているから、あんな夢を見るのだろうか……。

 ふと視線を移したら、防波堤の上に人影が見えた。そこは自分が初めてこの町に来た日、雫と出会った場所だった。


「何やってるんだよ? こんな所で」

 遼二が声をかけると、防波堤の端に座り込んでいた雫が、顔を上げて微笑んだ。

 けれど、その髪も服もぐっしょりと濡れていて、笑顔もどこかぎこちなかった。

「お前……もしかして一晩中、ここにいたとか?」

 確か昨日の夜は、ひどい雨が降っていたはず。

「ううん。いろんな所ぶらぶらしてて……さっきここに着いた」

「どうして……」

 そこまで言いかけて、遼二はこの前見た、雫の涙を思い出した。

 きっと……深い理由があるのだろう。

 それ以上聞くのは止めて、遼二は雫の隣に腰かけた。そしてTシャツの上に羽織っていたウインドブレーカーを脱いで、雫の胸に押し付ける。

「これ、着てろよ。体、冷えるだろ?」

 雫はそれを受け取って、くすっと笑う。

「慣れてるんだね」

「何が?」

「女の子に優しくすること」

 小柄なその体には大きすぎる上着を羽織り、雫は遼二に「ありがと」と言う。

 今日の空は珍しく晴れていた。太陽が昇るにつれて、海の色が深みを増してゆく。

 防波堤に座って、ぼんやりそんな光景を眺めていたら、遼二の隣で雫がぽつりとつぶやいた。


「この前の霊の話だけど」

 何かと思って振り向いた遼二に、雫がいたずらっぽく笑いかける。

「なんで死んでも会えないんだよって、あんた言ったよね?」

「……ああ」

 初めて会った日に聞いた話。言い伝えだか何だか知らないけど、遼二にとってはあんまり興味のない話だった。

「あれね、会えるはずはないの。だって彼は死んではいなかったんだから」

「はぁ? 何だよそれ」

 あきれた顔の遼二の前で、雫が続ける。

「実はね。遭難して死んだと思われてた彼氏は、どこかの浜に打ち上げられて、そこで看病してくれた女の人を好きになっちゃって、その人と結婚しちゃったの」

「……なんかそれ、作ってないか?」

 雫が無邪気に笑う。その笑顔は、いつもと変わりないようにも思えたけれど。

「だからね、会えるはずはないんだよ。死んでからそれを知った彼女は、成仏できなくなっちゃって、ずっとこの海に漂ってるの」

 ――浜の女は一途なんよ。

 いつかの祖母の言葉を思い出す。

 死んでもまだ、一途に男を愛するってことか。それはある意味、怖いかもしれない。

「俺だったら……」

 少し考えて遼二が言う。

「こんな所で彷徨ってないで、その浮気男の所へ行く。そんでそいつを呪い殺す」

 あははと雫が声を立てて笑った。遼二はそんな雫の笑顔を見つめる。

 その時遠くから、雫を呼ぶ声が聞こえた。


「雫っ! 捜したんだぞ!」

 肩で息をしながら駆け寄ってきた拓海も、雫と同じように濡れていた。

「家に行ってもいないし……一晩中、捜したんだからな!」

 雫はそんな拓海を無視するように上着を脱ぐと、それを遼二に差し出した。

「ありがと。遼二くん」

「雫、聞いてんのか! お前、一体何考えてんだよ!」

「うるさいな。拓には関係ないでしょ」

 それだけ言って、雫はすっと立ち上がる。

「帰る」

 そして呆然と立ち尽くしている拓海を残し、振り返らずに歩いて行った。


「……家、送ってやらなくてもいいのか?」

 崩れるようにその場に座り込んでしまった拓海に、遼二がつぶやく。雫の姿が、防波堤の上から見えなくなっていく。

「送りたかったら、あんたが送れよ。俺はもう、あんな女知らねぇ……」

 拓海が大きく息を吐いて、遼二から顔をそむける。

「もう絶対……心配なんか、してやらねぇからな」

 かすれた声でそう言う拓海の横顔に、朝の光が差す。遼二はぼんやりと、それきり黙り込んでしまった拓海のそばに立っていた。

 二人の前を、沖へ出て行く漁船が、白い波を立てながら通り過ぎた。

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