13
「久しぶりだね、遼二くん」
目の前に立つ莉奈が笑顔を見せる。その腕の中には生まれたばかりの赤ん坊の姿。
「私ね、赤ちゃん、産んだの」
「え……」
「私と、遼二くんの子供だよ?」
霧のようにぼんやりとした、ミルク色の視界の中で、遼二は莉奈の声を聞く。
「ねぇ、目をそらさないでよく見てよ。可愛いでしょう? 遼二くんの子供なんだよ?」
莉奈がそう言って、両腕を遼二の前に差し出す。
嘘だ。嘘だ。子供なんて生まれるはずがない。だって莉奈が言ったんじゃないか。
私ね、赤ちゃん、堕ろしたの――って。
突然目の前で何かが弾けた。ミルク色の視界が、真っ赤な血の色に染まっていく。
莉奈の手の中の赤ん坊がどろりと溶けて、遼二の足元に落ちた。
がばっと布団の上に起き上がる。遠くでかすかに汽笛の音がする。
「……夢?」
掛布団を握り締める自分の手が震えていて、全身に嫌な汗をかいていた。
「ふざけんなよ……」
誰にでもなくつぶやいて、遼二は布団を蹴るように立ち上がる。
窓の外では、空がうっすらと白み始めていた。
田舎の生活は、夜が早くて朝も早い。
何隻かの漁船が港を出て行くのが見え、人々はもう活動を始めている。
なんとなく目覚めてしまった遼二は、家を抜け出し、雨上がりの道を歩き出した。
あんな夢を見て、再び眠れそうもないし、眠りたくもない。
だけどどうしてだか、最近見るのは、莉奈の出てくる夢ばかりなのだ。
後悔しているのだろうか――莉奈にしたこと、後悔しているから、あんな夢を見るのだろうか……。
ふと視線を移したら、防波堤の上に人影が見えた。そこは自分が初めてこの町に来た日、雫と出会った場所だった。
「何やってるんだよ? こんな所で」
遼二が声をかけると、防波堤の端に座り込んでいた雫が、顔を上げて微笑んだ。
けれど、その髪も服もぐっしょりと濡れていて、笑顔もどこかぎこちなかった。
「お前……もしかして一晩中、ここにいたとか?」
確か昨日の夜は、ひどい雨が降っていたはず。
「ううん。いろんな所ぶらぶらしてて……さっきここに着いた」
「どうして……」
そこまで言いかけて、遼二はこの前見た、雫の涙を思い出した。
きっと……深い理由があるのだろう。
それ以上聞くのは止めて、遼二は雫の隣に腰かけた。そしてTシャツの上に羽織っていたウインドブレーカーを脱いで、雫の胸に押し付ける。
「これ、着てろよ。体、冷えるだろ?」
雫はそれを受け取って、くすっと笑う。
「慣れてるんだね」
「何が?」
「女の子に優しくすること」
小柄なその体には大きすぎる上着を羽織り、雫は遼二に「ありがと」と言う。
今日の空は珍しく晴れていた。太陽が昇るにつれて、海の色が深みを増してゆく。
防波堤に座って、ぼんやりそんな光景を眺めていたら、遼二の隣で雫がぽつりとつぶやいた。
「この前の霊の話だけど」
何かと思って振り向いた遼二に、雫がいたずらっぽく笑いかける。
「なんで死んでも会えないんだよって、あんた言ったよね?」
「……ああ」
初めて会った日に聞いた話。言い伝えだか何だか知らないけど、遼二にとってはあんまり興味のない話だった。
「あれね、会えるはずはないの。だって彼は死んではいなかったんだから」
「はぁ? 何だよそれ」
あきれた顔の遼二の前で、雫が続ける。
「実はね。遭難して死んだと思われてた彼氏は、どこかの浜に打ち上げられて、そこで看病してくれた女の人を好きになっちゃって、その人と結婚しちゃったの」
「……なんかそれ、作ってないか?」
雫が無邪気に笑う。その笑顔は、いつもと変わりないようにも思えたけれど。
「だからね、会えるはずはないんだよ。死んでからそれを知った彼女は、成仏できなくなっちゃって、ずっとこの海に漂ってるの」
――浜の女は一途なんよ。
いつかの祖母の言葉を思い出す。
死んでもまだ、一途に男を愛するってことか。それはある意味、怖いかもしれない。
「俺だったら……」
少し考えて遼二が言う。
「こんな所で彷徨ってないで、その浮気男の所へ行く。そんでそいつを呪い殺す」
あははと雫が声を立てて笑った。遼二はそんな雫の笑顔を見つめる。
その時遠くから、雫を呼ぶ声が聞こえた。
「雫っ! 捜したんだぞ!」
肩で息をしながら駆け寄ってきた拓海も、雫と同じように濡れていた。
「家に行ってもいないし……一晩中、捜したんだからな!」
雫はそんな拓海を無視するように上着を脱ぐと、それを遼二に差し出した。
「ありがと。遼二くん」
「雫、聞いてんのか! お前、一体何考えてんだよ!」
「うるさいな。拓には関係ないでしょ」
それだけ言って、雫はすっと立ち上がる。
「帰る」
そして呆然と立ち尽くしている拓海を残し、振り返らずに歩いて行った。
「……家、送ってやらなくてもいいのか?」
崩れるようにその場に座り込んでしまった拓海に、遼二がつぶやく。雫の姿が、防波堤の上から見えなくなっていく。
「送りたかったら、あんたが送れよ。俺はもう、あんな女知らねぇ……」
拓海が大きく息を吐いて、遼二から顔をそむける。
「もう絶対……心配なんか、してやらねぇからな」
かすれた声でそう言う拓海の横顔に、朝の光が差す。遼二はぼんやりと、それきり黙り込んでしまった拓海のそばに立っていた。
二人の前を、沖へ出て行く漁船が、白い波を立てながら通り過ぎた。




