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 海沿いに建つ、壊れかけたこの古い漁師小屋は、強い風にあおられて今にも吹き飛ばされそうだ。

 ガタガタと音を立てる、錆びついたトタン屋根。外から入り込むすきま風は、辛気臭い潮の匂いを運んでくる。

 そんな匂いを嗅ぎながら、佐原雫は自分の上で激しく動く男の向こうの、曇った窓ガラスを見つめていた。

「くっ……」

 短いうめき声と共に、のしかかる男の体重を受け止める。

 汗ばんだその背中に、ほんの少しだけ爪の先を立てて……。


「今日、拓海に会ったか?」

 行為を終えると、広瀬大輔はいつものように背中を向け、何事もなかったかのように服を身に着ける。

 海育ちの漁師らしい、日に焼けた逞しい腕が、シャツの中に隠されていく。

「会ったよ。同じクラスだもの」

「あいつ、気づいてるぞ。俺たちのこと」

 だからどうしろというのだろう? もう会わないとでも言うのだろうか?

 けれど大輔はそれ以上言わず、上着を羽織り、扉を開ける。ねっとりとした潮風が吹き込んで、雫のむき出しの肌を、舐めまわすように刺激する。

「……大ちゃん」

「なんだ?」

 煩わしそうに振り返る大輔につぶやく。

「……なんでもない」

 大輔が何も言わずに小屋を出て行く。雫は黙って、その背中を見送る。

 人の予定などお構いなしに、自分の気が向いた時だけ雫を誘って、この小屋で身体を求めてくる大輔。

 何度も何度も……奥さんに内緒で……。

 勝手だと思う。ひどいと思う。だけどそれを拒否しない自分も、ひどい女だと思う。

 好きだとか、愛してるだとか、そんな感情はたぶんない。ただ、身体と身体が繋がりあったほんの一瞬だけ、大輔に求められていることを感じ、幸せな気持ちになれる。

 ほんの一瞬でいい――雫は誰かに必要とされたかったのだ。


 重たい体を起こし、手を伸ばして、脱ぎ捨てられた制服を引き寄せる。

 体の中から、何かがどろりと溢れる感覚……。

 大輔は避妊することを嫌がる。このまま続けたら、妊娠してしまうかもしれないのに。

 もしそうなったら、大輔は何て言うだろう。金を渡して「堕ろして来い」とでも言うだけか……。

 馬鹿らしくなって笑いが漏れた。下着と服を身に着け、外へ出る。

 体が揺さぶられるほどの強い風と、鉛色の空と海。幼い頃から見慣れた景色に嫌気が差す。

 波の音を聞きながら、雫は海沿いの道を歩いた。

 このまま海に沈んで、消えてしまおうか――できもしないのにそんなことを考えて、また一人でおかしくなった時、防波堤の上に人影を見た。


 荒れた海をじっと見ているのは、雫と同じ、高校生くらいの男の子だった。だけどその顔に見覚えはない。

 野良猫の顔まで見分けられるほどの、狭くて閉鎖的なこの町で、知らない顔なんているはずがないのに。

「そこ、危ないよ」

 雫は男に近寄り、思わず声をかけていた。そうしないと――今にもその影が、仄暗い海の底に引きこまれてしまいそうだったから。

 男はゆっくりと振り向き、雫を見た。

 茶色く染めた長めの前髪。背が高くてすらりとした細身の体は、やはりこの町では見かけない。

「ここに立ってると、女の人の霊に引き込まれるのよ」

「霊?」

 男が馬鹿にしたようにふっと笑う。けれど雫は続けて言った。

「昔、漁に出た漁船がこの沖で転覆してね。恋人を亡くした彼女が後を追うように、お腹の子供と一緒に、ここから海に飛び込んだの」

 話しながら男の顔を見る。男はどうでもいいような表情で、けれど目をそらすことなく、雫のことを見つめている。

「だけどね、彼女は海の底でも愛する人には会えなくて……結局その霊は、いつまでもこの場所で彷徨ってるわけ」

 生暖かい風が吹いた。雫はなびく髪を右手で押さえる。切ろう切ろうと思いつつ、いつの間にか肩まで伸びてしまった鬱陶しい髪。

「それ、本当にあった話?」

「さあ? 知らないけど」

「なんで死んでも会えないんだよ? 死んで恋人と会えて、めでたしめでたしっていうのが普通じゃねぇの?」

「そうかもね」

「くだらねぇ」

 男はもう一度笑うと、足元に置いてあったスポーツバッグを肩にかけた。

「あなた誰?」

 思わずつぶやいた雫の前で、男は右手を真っすぐ伸ばし、少し先にある集落を指さした。

「あそこ。松崎っていうばあちゃんち、知ってる?」

 もちろん知っている。雫が物心ついた頃から一人で住んでいる、気さくなおばあさんだ。

「俺はその孫。今日からばあちゃんちで暮らすことになった」

「孫?」

「そう。松崎遼二。東京から来た。あんたは?」

 雫は同じように指をさす。海にせり出すような山の途中に、雫の住む家がある。

「私は佐原雫。そこの坂の上に住んでる」

 その男――遼二は、適当にうなずいてから、もう一度海に視線を移した。強い海風が、彼の柔らかそうな髪を揺らし、どんよりとした空を海鳥たちが飛び交っている。

「なんで……こんな所にいるんだろうな。俺」

 ひとり言のようにつぶやいたその言葉が、雫の胸をちくりと刺す。

 ――なんで、こんな所にいるんだろう……私。

 遼二の隣に立って海を見た。

 くすんだ色の汚い風景。大嫌いな、自分の生まれ育った町。

 何度も出て行こうとしたのに、やっぱり今もここにいる。

 もがくように、苦しく息を続けながら。

 私をこんなに縛り付けているのは、一体何なんだろう……。

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