決着・その後
――なんだろう。この感じは、どういうことなんだろう。
男が入ってくる音がする。
はじめに掃除用具ロッカーを開く音がして、小さく
[ここにはいない。]
という声が響いてきた。
――なんとも、霊関係のテレビにありそうな使い古されたシチュエーションだ。
トイレの個室は五つ。
そうこうしているうちに一番手前のトイレが開かれた。
また、
[ここでもない。]
と聞こえる。
――なんで、こんなに冷静でいられるんだろう。
またひとつ。
後三つしかない。
二十重は、さっき初音をかばった恵助のことを思い出した。
ああ、なるほど。さっき彼はこう言っていたのだ。
『逃げろ!直ぐに行くからとにかく走れ!レイコ、それまで二十重さんを頼む!』
うん。そうだ。
恵助君は、必ず来る。
だって、ここにはもう、レイコさんがいるんだもの。
ジャケットからグリグリの瓶底メガネと漆黒のリボンを取り出す。
またひとつ個室が確認された。つまり、次のドアをあの男が見た瞬間に、ここに隠れていることがばれてしまう。
メガネをかけて、黒いリボンで乱雑に髪を結い上げる。笑みを浮かべて、二十重は小声でつぶやくように『レイコに』話しかけた。
「そうなのね。だから、こんな状況でも心強かったのね。レイコさん、あなたがここにいてくれていたから。」
[へぇ、感じが変わったわね。そのほうが、生き生きしているというか…似合っているみたい。とはいっても、聞こえも見えもしないんでしょうけど…]
「そうですか?そう、かもしれないですね。メガネをかけると世間からレンズ一枚分遠ざかれる気がするんですもの。それより…本当にレイコさんが見えないのは残念です。」
[へ、見えないのは?]
「聞こえてますよ。しっかりと。」
[へぇ〜、恵助に影響されたのかしら。]
「そうみたいです。やっと『気付けた』みたいです。」
[じゃあ、改めてひとつよろしくね二十重さん、でいいかしら?私はレイコでいいわよ]
「あらあら。こんなところで自己紹介なんて…よろしくお願いしますね、レイコさん。」
[ここでもない。]
ついに、すぐ隣の個室が開かれた音がした。とたんに、このトイレ内からすべての気配が消える。
[なるほど、これで、安心して気を抜いたら……っていうのがテレビのオチだけど]
「私たちはオチを見るわけにはいかないですね。」
[じゃあ、]
「個室を上から覗くようなはしたないことをされる前に、」
[こっちからいっちゃいましょうか。]
「そうさせてもらいましょう。」
二十重とレイコは、ともに意地悪な笑みを浮かべた。
レイコは髪を揺らして力を収束する。
二十重は息を深く吸い込んで、軽く右足を引いて、半身に構えた。
「たぁー!」
[いけー!]
二十重は体をひねり全体重を乗せた回し蹴りを。
レイコは収束した衝撃波を。
まったく同時に、二人はドアへとぶちかました。一瞬だけ個室のドアは抵抗したものの、あっという間に弾けとびトイレの前に無防備に立ち尽くしていたアキマサを吹き飛ばした。
[行くわよ!]
「ええ。」
二十重たちはトイレを飛び出して階段を駆け下りた。
[やってくれるぜ。あのメス豚共…かか、かかかかかかか]
[抵抗してくれればそれだけ食うのが楽しみってもんだぜぇ!くっくっくっ…]
アキマサはぶつぶつと呟き、頭を振りながら真っ二つに折れたトイレのドアをどかして、ゆっくりとトイレを後にした。
階段を駆け下りる。
多少難はあったものの当初の理想どおり一階まで一気に降りてくることが出来た。
まだ、アキマサは階段を下りきっていない。一般棟へとつながっている廊下を駆け抜ける。
「レイコさん、ちゃんとついてきていますか?」
[う〜ん。正直な話、二十重さんが遅くてどうしようか考えてるところよ。]
「走るのはあまり得意じゃないんです」
二十重はレイコに話すつもりで左側を向いて話している。
[といいつつ、何気に恵助よりは速いみたい。]
しかし、レイコは初音に以前指摘されてから意識的に人の右側に飛ぶようにしていた。
「だから、あまり、得意じゃないんですよ。」
当然、見えていない二十重はそんなことお構いなしにレイコの後頭部を見せながら話しかけてきていた。
[ほ〜言いますねぇ。]
なるほど、恵助が言ったとおり、神様がいたなら、天は二物どころかいろんなものを与えすぎちゃってこんちくしょうめって話みたい。
レイコが苦笑いして二十重の左側に回りこんだとき、渡り廊下がシャッターで閉められて完全に袋小路になってしまった。
「まあまあ。どうしたものでしょう。」
キラリと二十重のメガネが光る。
[それは、コッチのセリフだぜぇ。]
[そうそう。これからお前たちをどうやって食おうかって話だからなぁ。]
逃げ場がないという余裕からか、アキマサは二人から十メートルほど、階段から五メートルほどの位置にぼんやりと立って、一人で自分と話し合いを展開している。
[私は恵助と契約しているのよ?それがどういうことか分からない幽霊じゃないでしょうに。]
肩をすくめてレイコは呆れたような、取るに足らないものを見るような眼をアキマサへと向けた。
[アア、何だって?それがどうしたってんだよ]
[ああ、そんなことはたいしたことないだろうが。俺たちと明正と同じってことだろ。]
アキマサは機械のように緩慢な動きと俊敏な動きを繰り返している。
「俺たち。ですか。やっぱりそうみたいですね、レイコさん。」
[ええ。ビンゴ!]
[ああっ?テメエらなに生意気なこと言ってんだよ。ぶっ殺すぞ]
[オウ、食うぞコラ]
どうやら自分だけが理解できていないことが酷く不愉快らしい。
アキマサは漫画であるように本当に顔に血管が浮き出している。
「あらあら。まあまあ。高血圧。」
[冷静な挑発なんだか、大ボケなんだか分からないわよ?それ。]
「どうでしょう。」
[まあいいわ。あなた『たち』みたいな対の霊は珍しいわねぇ。一体がメインとしての肉体完全支配。そしてもう一体がその肉体と相棒の『定着』と『繋ぎ止め』を担当するなんて、効率もいいし、単発の浄霊は通用しないし。なにより、我が強い霊が協力しているなんて誰も想像できないし、ホントにいい考えだわ。でも、そういうスタイルだからこそ契約者とのテレパシーには疎かったみたいね。]
「さしずめ、最初に開かずの間に行ったときに、対となっている存在の霊を体に取り込もうとしていたんでしょう。恵助君たちが開かずの間で、あなたたちが入っていたらしき瑠璃色の瓶を見つけ出したみたいですよ。まぁ……私の霊具を探し当てる直感って、素敵。」
[なにぃ?]
若干うろたえた様な揺れが声に混じる。
[は、ははははっ。だからどうしたってんだ。そんなこと知ったって、ただの冥土の土産だろうが。]
[やっすいセリフねぇ〜。もっとズシッと来る、聞いただけで絶望のどん底のズンドコで打ちひしがれて、涙の海で溺れる様な渋くておもた〜い言葉はないの?]
「あらあら。まあまあ。レイコさん無理みたいです。何度もシャッターを閉める同じ手を講じるなんて。浅慮なようですし…」
レイコは片眼をつぶり、手で電話のような形を作り出した。
[まあ、つまりはこの位置も。この狙い済まして作り出させた状況も。あんた達を浄霊する算段も。とうに恵助と相談済みってわけよ。階段を駆け下りるだけの時間で二十重さんにも打ち合わせ済み。簡単に言うなら、あんたらは一人じゃ何も出来ない無能な半端霊の寄せ集めだったって、ただそれだけの話。もしも〜しってね。]
[何…だとッこのアマッ!]
[無能かどうか…ヒィヒィ言わせてわからせてやるぜぇ!]
空間が歪む。
空気が振動して気圧が変わり耳鳴りがし、校内にもかかわらず微妙に風が吹いている。
[芸がないわねぇ。そんなこと私にも出来るっていうのよ]
イメージする。
こと、霊体の力はより鮮明に、より強固な意志で、より具体的な何かを創造することに因り生まれ出る。
肉体が存在しない分、干渉力にはイメージが、意思が、つまり気持ちの強さが反映される。
眼に見えるほど鮮明にイメージした小型拳銃を撃てば、あいまいに創造したミサイルのイメージの念を容易に貫通する。
その点、相手が二体なのは好都合だ。
衝撃波を放つ際それぞれのイメージには必ず相違がある。
その分、力をロスしているのだからだ。むろんその一発に籠められている力は強い。
しかし、揺らぎは大きい。
いびつな砲台に、必要以上の火薬を押し込んで発射しているようなものだ。
だから、私にも勝機はある。
だから、私はイメージする。
私がイメージするのはただの弓。そして矢。
レイコは体を半身にして弓を番えるようなポーズをとった。
私は、この弓に、私に気付いてくれた二十重、初音、そして、恵助を生きて帰したい気持ちを乗せる。
[ははっなんだそりゃ。このミサイルのイメージには何もかなわねぇゼ]
[謝るなら今の内だぜぇ?まあ、許してやらねぇケドよ〜]
アキマサが手をレイコたちに向けたとき、悪意の念が発射された。
レイコはそれに合わせて矢のイメージをその中心へと打ち出した。
一瞬間があって、両者の中心辺りでそれらはぶつかり、鬩ぎ合いをはじめる。
「レイコッ」
恵助がアキマサの向こうに見えた。
[なにぃ?]
[邪魔させてたまるかぁッ!]
アキマサは残りの腕を上げて恵助たちを牽制する。
先ほど防ぎきれなかったほどではないにしても、恵助はハリセンでそれを防ぎながら初音を背負って、その場で立ち尽くすことしか出来ない。
念が揺らぐ。恵助にも力を割いているのでピントがずれかけているのだろう。
[まったくいつも遅いのよっ]
さらに力を籠める。焦点を絞り込む。
ビリ、と空間が破れるような音がして、均衡が崩れかけた。
矢に、ミサイルのイメージは押され始めていた。
[げぇえええ?なんだとぉ]
[て、テメエ、もっと力出しゃぁがれ]
[テメエこそサボって出し惜しみしてんじゃねぇ!]
[なんでもいい!行くぜっ]
[おがあああああああああああああっ]
アキマサの雄叫び。ただの雄叫びなのにガラスにひびが入った。
ズキン
[くぁっ]
ガラスとともに体にひびが入るような痛み。
それに、さっき開かずの間の前に恵助が来て忘れていた眩暈が再びレイコに襲い掛かってきた。
体が砂袋だとしたとき、まるで、砂がどんどん抜けていってしまうような痛み。
今度は矢のイメージが押され始める。
じりじりと押し込まれる。
レイコは顔をしかめながら、恵助へと視線を向けた。
今は念のピントが多少ぼやけることよりそうしたくて。
そう、することが必要な気がして。
向けた視線は、恵助が真っすぐに見つめる視線とぶつかった。
そして刹那。
そして、すべて分かってしまった。
これから、恵助が言う意地悪な言葉が。
「レイコ!もうへばったのかよ。もしかして長い間アパートにいたせいで年を取りすぎちゃったんじゃないのか?」
やっぱり。
わかっていても、レイコはカッとなって顔を赤く染めた。
怒りと、羞恥と、こんな状況で心が通じた奇妙な安堵を込めて。
[なんですってぇ〜!]
勢いよく拳を振り上げる。するとさらに、レイコの念には力が上乗せされた。
瞬間。相手の取るに足らない衝撃波など吹き飛んでしまっていた。
アキマサの衝撃波を吹き飛ばし、レイコの衝撃波はアキマサをすっぽりと包み込むほど巨大になって直撃していた。
[ぐおおおおおおおおおおおおお]
明正の体から、弾け飛ぶようにアキマサが離れていく。
黒い鎖が上空に舞った。
「高柳今だ!」
「恵助君今です!」
[恵助今よ!]
と。
初音さん、二十重さん、そしてレイコの三人の声が重なる。
「おうっ!」
恵助はアキマサがひるんだ拍子に衝撃波を完全に弾き飛ばしアキマサに駆け寄り、吹き飛んだ鎖の一番端、未だにしつこく影鎖を明正へとつなぎ止めている鎹のような影にハリセンを叩き込んだ。
[おごおおおおおおおおおっ消えるキエルきえる奇ヱ留ぅう!]
「いい迷惑だ。今まで殺した動物たちに必死に謝りながらとっとと逝けよ。ただし、行き先は天国ほど、甘くはないだろうケドね」
明正の体へとしがみついていた霊は、空中に完璧に排出され、次第に細かい霧になって消え去った。
「こんどこそ、浄霊完了!もう二度と戻ってくるなよ〜」
ハリセンで二度ほど肩を叩く。
明正はゆっくりと力なくその場に倒れこみ、すうすうと寝息を立て始めた。
「よし。生きているな。」
初音は脈、怪我の確認、写真、指紋採取、髪の毛の採取をして、データはパソコンに、明正の髪の毛は厳重に袋にしまいこんだ。
「これで、こいつが最初の動物殺しを悔やんで自首すればよし、しないなら全部ひっくるめて警察に引き渡せばよしだ。」
「まあまあ、それなら万全ね。じゃあ、帰りましょうか。教員玄関の鍵が開いていますからそっちへ行きましょう。」
「そうですね。」
[けーすけ!]
三人が一歩だけ踏み出したとき、レイコが口を開いた。
どこか少しだけあせったような響きがある。
「わかってるって。早く帰って寝ないとオカピもおちおち観に行かれないってんだろ?」
振り向くと、さっき小日向小学校で俺が声を荒げたときのように、レイコの像は酷く薄くなっていた。
「レイコ?それどうしたん…」
[恵助!聞いて。]
問答の時間も惜しいのかレイコは恵助の言葉にかぶせてやや声を強くした。
「あ、ああ。なんだ?」
[私、途中で日にちを数えるのをやめちゃったから、実際にはどれくらいだったのか分からないんだけど、あのアパートに閉じ込められて永遠に、もう死ぬこともできないし、独りで、時に化け物だとか、お化けだとか罵られて、それでずっと、アパートがなくなるまで独りきりなんだって、そうなんだって諦めてた。]
月明かりが差し込む一階の渡り廊下。
壁に囲まれて、高い校舎に挟まれた間から差し込む月光と、初めて会ったアパートの、隣との狭い屋根の隙間から差し込む弱々しいほどの優しい光。
大きな窓に、どこか、古ぼけて、寂れた空間。
孤独を痛感する、少し冷たい空気。
どこか、似ている。
[まったく、恵助ったらいきなり缶を投げつけて来るんだもん。しかも、あたらないと思っていたらあたって痛かったし、コッチのほうが驚いたわよ。]
「レイコ?」
[そしたら霊感があることを隠してただなんていいだすし、それに一緒に暮らすようになったらなったでなんだかボーっとしてたり、頼りなかったり、間抜けだったり、何気に女好きだったり、どうしようもないなって思った。]
「なんだよそれ。どうせ、レイコが言うんならその通りなんだろうけどさ…」
[まあ、でも、その、あれよ。記憶の欠片は見つけられなかったけれど、恵助、ずっと私を『女の子』としてみてくれていたし、今日だって、私のことを心配して、無理にひどいこと言ってみたり、あんなに強力な霊に一歩も引かなかったりして、ホントに嬉しかったし、なんだか頼りがいがあったよ。]
気のせいじゃない。
どんどんレイコは薄くなっている。
「おい、見つけられなかったってなんだよ。これから見つければいいだろ?俺にも、レイコにも、時間はあるんだし。それにほら、二十重さんも初音さんも、レイコのことわかるようになったしさ…」
[ひとつだけ、謝らなきゃいけないことがあるんだけど、実は勝手に恵助が寝ている間に憑依してお弁当作っていたんだ。夢見がすっごく悪かったでしょ。それと、残念だけど今日はオカピ観にいけそうにない。]
小さく浮かべた微笑には、自嘲の色が混じっている。
「ば〜か。じゃあ、明日でもいいし、明後日でもいいだろ。中国とかそこらへんの国に行っちゃったら、お金貯めていつか観に行ってもいい。」
言葉が切れたら、レイコは消えてしまいそうな気がした。
だから、延々喋り続けてやろうと思った。
「それにな、お前憑依しただけじゃなくて、何か弁当に、普通使わないような何かを入れていただろ。鶏肉が冷蔵庫にない日に、鳥のから揚げのようなものだとか。まあ、味は悪くなかったけどさ。まあ、憑依されたり、そんなことくらいじゃ怒ったりしないって。むしろ感謝してるくらいだし。朝遅刻しなくてすんでるのも、家に帰ってなんとなく寂しい思いしなくて済んでんのも、一緒にテレビ見て笑ったりするようななんでもない些細なことにだって。うん。感謝してる。」
[わたしも、満足してるよ。久しぶりの外は新鮮な気がしたし、恵助は人がいいからね。楽しかったよ。ただ、ひとつ心配なのは…]
言葉を区切って、レイコはこっちに来た。
すぐ近くに来ているのにさっきよりもさらに像が薄くなって、感覚を鋭敏化させても向こう側が完璧に透けて見えている。
[すぐに自分のせいだと思い込むのが、怖いくらいかな。今回のことも、私が、二十重さんが、初音さんが、自分でここに来たんだから、恵助が思い悩んだり、悔やんだりする理由はまったくないよ。]
レイコは顔を恵助に寄せた。
「え?」
レイコの、柔らかい唇が恵助の額に触れた。
[どこかの外国流の挨拶〜なんて。じゃあね、恵助。少し疲れちゃっただけ。気にしないで。自分のせいだと思わないでいいからね。ありがとう。本当に、私は満足してるよ。]
ニッと満面の笑みを浮かべて、レイコはすっと、あっけなく消え去ってしまった。
「レイ…コ?冗談だろ?」
レイコは、冗談だよ〜なんてまた出てくることはなかった。
「なんだよ!無理して、霊の相手して、もう一回死んじゃってるのに、成仏するわけでも、浄霊されたわけでもなく、また死んじまうなんて、そんなの…そんなのないだろ!」
熱くなった恵助の声が響き渡った。
ただ、それは、冷たい校舎の中の空気を温めることすらなく、ただ、響き渡っただけだった。
たっぷりの沈黙の時間を破ったのは二十重だった。
「帰りましょう。恵助君。」
「聞いただろう。レイコは満足してるといったんだ。ここで高柳が必要以上に悲しんだら、それこそレイコは素直に満足できないだろうが。」
「わかっています。じゃあ、帰りましょうか。」
「高柳……。」
「歯切れが悪いですよ、初音さん。帰って、少ししたら相手をしてもらうことになってるんですから、相手をさせていただくときに死なないように帰って寝ます。」
「そうですよ。初音は強いんですよ〜。だって、一度は霊に取り憑かれているアキマサさんを投げ飛ばしているんですから。」
「ごめんなさい。勘弁してください。俺、それじゃあ死んじゃうじゃないですか。」
ははは、なんて、思わず笑っていた。
「大丈夫だ。畳張りの道場でやるなら死にはしないさ。」
「無理です。死にます。」
足は、勝手に外に向けて歩き出していた。
「柔道はお手の物だろう?」
「それでも、俺はあの状態の人間を投げ飛ばすなど出来ません。」
「柔道は、鍛えれば致命傷を与えることも出来るし、そうさせないように投げ飛ばすことも出来るスポーツだろう?」
校門をくぐって、帰り道を行く。
「ああ、じゃあ、寝技を…」
「あらあら。まあまあ。恵助君ったら…」
「ほう、それは、どういうことだ?赤黒い、その胸の内にある炎を開放しようという魂胆か?」
「え?いや、そういうわけじゃないですって。何でそう解釈するんですか初音さんは!圧倒的な力差で投げ飛ばされるのがいやだって話じゃないですか。」
「絞め技、関節ありありの寝技でいいんだな?」
「だからなんで致命的なダメージを与えられるようなルールを選び出してるんですか!」
「理由はいろいろだが、聞きたいか?」
「あらあら、恵助君、どうします?」
幽霊話のときなみに二十重さんは嬉しそうだ。
「聞きたいのか?」
そして、なんだか、初音さんも。
「いえ、結構でーす。」
「うむ。」
なぜか、やたらと初音さんは満足げだった。
「そういえば、二十重さんはめがねをかけるとずいぶん印象が変わりますね」
「あらあら、そうですか?」
「そうだな。確かに初めて見たときは私もびっくりした。」
まったく同じタイミングで二十重と恵助は初音を見つめた。
「……初音さんでも『びっくりすること』があるんですね」
初音は平生の表情から比べ、やや目を細めた。
「私も人間だからな。当然だろう?」
「イヤ、そうなんですけど、初めて会ったときはこう、完璧人間ってイメージで正直怖かったんで」
「怖い?私が怖い、だと?」
初音さんの口元がかすかに歪む。
よく見るとそれは笑っている、ように、見える。
「あ、いえ、そういう意味じゃなくってですね……今は怖いとかではなくってですね……」
何か、危機を察知して後ずさりしながら効果的な訂正を考える。
でも、
「あらあら。」
「ほぅ、じゃあ、今は一体どうなんだい?高柳。恵助。君。」
「あ、家に着いちゃいましたね。じゃあこの辺で失礼します。おやすみなさい。」
「はい、おやすみなさい。」
「晩くまで起きすぎた。体のペースを戻しておけよ。おやすみ。」
「分かりました。月曜は遅刻しないようにしますよ」
アパートのわきの道をぬけ、階段を上る。
時間が三時近くなので、出来るだけ静かに上る。
鍵を開け、見慣れたドアを開けた。
「ただいま〜!」
いつものように声をあげて家の中に入る。
いつものような返事は、当然返ってこなかった。
「…………………バカ、ヤロー………」
雲はほとんどなくなり、月明かりがカーテンを照らしてうすぼんやり部屋は明るかった。
今日は、晴れに間違いないだろう。
まったく、起きてから予定はないって言うのに、何かイベントがあるときに晴れはとっておいてもらいたい。
風呂に入って着替えて布団に入った。
部屋の電気を消すと同時に、恵助は霊感の完全鈍化のスイッチを入れ、眼を閉じた。




