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序章

プロローグ



「頼む、頼むからついて来ないでくれー」


真っ黒な髪の毛をした、少し頼り無さそうな少し垂れ目のおそらく文化部系の青年は、心の中でそう繰り返し、早足で歩きながら右手で皮製の黒い学生鞄を、左手には皮張りの黒い筒を握り締めた。


そう、今日は感動的な中学校生活を締めくくる卒業式……のハズだったのに。


この青年の名は高柳恵助。


誰に対してもいつもやさしくあり、困った人を助ける子になるようにと、両親が漢字を1文字ずつ持ち寄った『恵む』と『助ける』をあわせた名前だそうだ。


その両親はというと、父親は仕事でずっと海外にいて、母親はずいぶん前に他界した。だから今は少し変な、鬼のような姉と二人でアパート暮らしをしている。


だから今日の卒業式にきたのは歳が離れたその鬼姉だった。


背は低くはないが高くもない一七二センチ。


少し頼り無さそうな見た目通り、バスケやサッカーや野球のような王道系のスポーツは苦手な、そして学校の成績の方も中の下、という特に取り柄が無さそうな、今年から高校生になるという平凡な学生だ。



しかし、どんな人間にも多少の秘密があるように、恵助にも人にはとても言えないような秘密があった……と、言うよりも、恵助の家系にはあった。


そしてそれをまったく知らないまま今日を迎え、そして今日、突然恵助はその秘密を嫌になるほど体感している。


[なんで、あなたは感動的な卒業式を迎えられたのに、私にはそれが出来なかったの?]


キィイイイイイイという、軽い痛みを伴うほどの耳鳴りがすると同時にかすれた声が背後から聞こえ、背中に何百という虫が這うような寒気が走る。


必死に前に動かしていた足が思わず動かなくなって、脳から発せられる電気信号を体のどこかで薄いゴムが完全に遮断したみたいに体が硬直した。


手の平には汗をびっしょりとかいて、皮製の鞄がそれを吸いこまないためにぬるりとした感触がなんとも気持ち悪い。


[私はいつも成績トップだったし、運動でも女子バスケをひっぱっていたわ。ヴァレンタインデイには義理でもいいからチョコレートをもらおうと大行列もできた。そんな私が卒業式を迎えられなかったのに…]


うっ と、声をもらしたと思ったが、周囲を歩いている人達は道のど真ん中に立ち止まる、見るからに卒業式後の一人の学生を怪訝な目で流し見るだけで、恵助に声をかけるものはいなかった。


どうやら声は出ていないようだ。助けを呼ぶことも出来ないらしい。


多分、今俺は卒業式の内容を思い返して感慨に浸る少し面白おかしい一人の男の子ってトコロだったりするのだろう。


首のあたりで青白い指がゆっくりと顎から喉仏の下あたりに向けて這うように動いている。



[なんで、見るからにトロそうなあなたは卒業できたのかしら!?]


首に巻き付いた手の指がゆっくり、ゆっくりと曲げられていき徐々に喉を圧迫して来る。


こめかみのあたりから一筋の汗が顎まで一気につたい、それと同時に卒業証書が入った皮の筒を手の平から流れた汗が伝い、一番下の縁から一滴地面に垂れた。


何でこんな事になったんだろ――――ああ、あの時に目をあわせたからだったっけ。


恵助は目の前が白くなっていくにしたがって、ゆっくりと自分の身に降りかかっている状況の顛末を思い出してきた。



恵助が卒業した中学は、卒業生一人ずつに校長が卒業証書を授与する形式を取っている学校だった。


恵助は最後の七組で、長い待ち時間の間でぼんやり、少しウトウトしたまま自分の番が回ってきて、少し頭を振って壇上に上った。


そして軽く礼をして一歩校長へ踏み出したとき、壇上の袖の所で体の左半分をカーテンに隠すようにして寂しそうにこっちをみているその子に気付いた。



練習通り証書を授与されて舞台から降りるとき、不思議に思ってその子としっかりと目をあわせてしまってからその子の体が普通ではないことに気付いた。


その子はおそらく自分と同い年くらい。しかし、首が座っていない、というか首の骨がおかしいようで、頭が正常の位置から転がり落ちそうになっているのを、ゆらゆらと体を揺らして何とか維持しているようで、近づいてからやっと見えた左半身は全体的に薄紫色をしてあざになっており、肩、肘、手首が脱臼ないし、骨折しているようで、直立しているのに左手の指が地面につきそうなほど伸びてしまっていた。


足を止めて思わず大声をあげそうになったのを口に手を当てて目をつぶった。


どうやら周囲は少し感動したため足を止めたくらいに思ってくれたらしく、さして異常を感じ取った人はいないようだった。


ぐるぐると回る頭の中を、今、自分は寝惚けていたんだ。


だからありえないような物を見た気がしただけだ、と言い聞かせて思考をねじ伏せた。



ゆっくり、おそるおそる目を開けるとそこにその恐ろしい女の子の姿はなかった。


ほ〜、と大きなため息をついて舞台に一礼し、自分の席へと進んでいく。


そして練習通り舞台下で黒い皮製の筒とちょっとした書類を受け取り、座る前にも一礼して列の真ん中の辺りにある自分のパイプ椅子に座った。


寝惚けて夢を見ただけなのに、額にはぐっしょりと酷く冷たい汗をかいていた。


ひどく頭をぼんやりとさせたまま残りの予定をこなし、最後にすすり泣きが混じった蛍の光が体育館内を満たした後、順番にカーネーションをもって体育館外へと向かっていった。



頭がやけにハッキリしないまま、残りわずかな中学生としての時間は終わっていた。


寂しいことに、とくに第二ボタンを取りに来てくれるような人はいないので、同じ高校に通う予定の坂本伸行をふくむ、友人達とのとたわいのない会話をして家へと向かった。


そう、そこまでは何の事はない、少しだけ味気ないただの普通の卒業式。



そして異常は一歩校門を出たところからはじまった。



意思に反して帰宅一歩目が向かったのは家と正反対の方向だった。


そして背後から冷たい纏わりつくような空気が吹いてきて、それに乗ってすすり泣きのような声が聞こえてきた。


恵助は振り向かなくてもさっきの舞台袖の女の子だと頭が確信して、家と正反対だとわかりながら無理に早歩きで街中へと歩いていった。



ああ、苦しいなぁ。



走馬灯って子供の頃からのことを思い出すんだって誰かが言っていたけれどそんな事無かったみたいだ。


ついさっきのことしか思い出せなかった。


……あ、なんか気持ちよくなってきた。



そう言えば、鬼姉の目をかいくぐって部屋に持ち込んだ、ノブに借りたあのアイテム、通称『プルート』が部屋の引き出しに入れっぱなしだ。


こんなところで変死したら警察とかが部屋の中を調べたりするかもしれない。


それは勘弁して欲しい。っていうかマズイ。やっぱりまだ十八歳未満だし。

なにより半分しか見てないし。



頭がホントにボーッとしてきた。


理不尽に迫る死に、猛然と湧き上がった強烈な怒りを通り越して、なんか、もう冷静になっている。


力が入らない…


鬼姉、多分死んじゃったら怒るだろうな。


普段から、おまえにもそろそろ幽霊が見えているだろうなんて俺に迫ってきたような変人だけど、いざ幽霊を見て、死んじゃったなんていったら生き返らされてから散々叱り倒されて改めて殺されるかもしれない。



ほんとに、見えるようになって、こんなことに、なるなんて…


そこまで考えたとき、不意に恵助の手に握られていた卒業証書が入った筒を後ろにひったくられた。


「バカタレ――!!!!」


耳元でおっそろしく大きな怒鳴り声が聞こえて、今取り上げられた筒で思いっきり後頭部をひっぱたかれた。


パカーンなんて音と一緒に、大切な卒業証書と、その入れ物が折れた。



「痛ああ――って…ああああああああ証書おおおおお」


「ウルサイ!!街中で騒ぐな!!」


恵助が叫んだ声よりもよっぽど大きな声で、道路に転がった証書の残骸を拾う恵助の事を鬼姉こと、高柳撫子は怒鳴り付けた。



常日頃から思っていたけれど、この強暴な姉貴には撫子なんておしとやかな名前は似合っていない。

口に出したら殺されてしまうかもしれないから言わないけれど。



おかしなものだが、それから確かに鬼姉は『憑いてきた幽霊』と恵助を引っ張り、あまり人通りが無い細い路地へと引っ張り込んだ。


「あんたねぇ、何いきなり霊に引っ張られているのよ!!そのまま死ぬつもりだったの?だいたい運が悪いにも程があるわ。卒業証書授与直後に様子がおかしいと思ったらまんまと憑かれているし、それにすぐに見つかる位置にいれば良いのに一人でこんな街中まで迷い込んで!!それに私並の『目』をいきなり使えるようになっているのだっておかしいし」



憤然と髪をかきあげた後、肩に下げていたバッグに手を入れると、撫子はすっと厚手の白い紙を山折りと谷折りを交互にした、よく昔のTV番組で見かけた例のもの、つまりハリセンを取り出し、再び恵助と憑いてきていた幽霊の女の子の頭を殴り飛ばした。


それがバッグよりも大きかったのでどうやって収納したのだろうと思ったが、想像していたよりもその衝撃が痛くて、その疑問は二秒で吹っ飛んでしまった。


スパン、というキレの良い音が二度して、俯いた女の子の長めの髪が乱れて顔にかかる。


「だいたいあなたもいい加減自分の立場を知りなさい。いつまでもこんなところにしがみついていたって幸せになんてなれないわよ。あなたは……えーと……そうなの。トモミさん、たしかにそれは辛かったでしょうけどもう死んでしまっているの。もう一度言うわ、死んでしまったのよ。だから今生きている人を引っ張って連れて逝ってはいけないの。」


ピクッと頭を揺らし、ゆっくりとトモミは顔を上げる。


少しずつ見えてくるその顔は恐ろしく歪んでいて、一昔前の貞○がTVから出て来るのを彷彿とさせて、この世の終わりを見るようなとても恐ろしいものだった。



「あわわ、姉貴言い過ぎだって。いくらなんでもそこまでいうのは……うっ」


言葉が終わる前にもう一発強烈なハリセンが飛んできた。


「ウルサイ!!いろはもわからないヒヨッコが口出ししない!!あと動揺していたからって、あわわ、なんて恥ずかしいから二度と言うんじゃないわよ。」


そうこうしているうちにどんどん俯いていた顔が上がってきた。


「ちょ、ちょっと言い過ぎの上、叩きすぎだったみたいだから謝りなって」


「ウルサイ!!何回言わせる気?黙ってなさい」


撫子の最後の罵声が終わるころ、ゆっくりと顔が正面を向いた。


先程までの歪んだ表情ではなく、それは凍り付いたような無表情だったが、漫画などにあるような背後に『ゴゴゴゴゴゴゴゴ!』という効果音が乗っかりそうなプレッシャーがある。



全員黙り込んでからの二、三秒が永遠のように長い。



と、沈黙を打ち破って幽霊ことトモミさんが一歩こっちに踏み出した。


「あ、ごめ……」


[ほんとすいませんでした〜]


恵助が後ずさりしながら思わず謝りそうになった瞬間、トモミはやたら爽やかな笑顔を浮かべて、天から差しこむ光に乗って消えていった。


「あ、れ?どういうこと?今メチャクチャ怒ってなかったっけ」


「そんなこと今は良いの。それよりもこれから二週間、高校にはいるまで私の地獄の浄霊強制強化特訓よ。まあ、それをやれば今の事も理解できるようになるでしょ。高校入ったらあんた一人で暮らさなきゃになるんだし。」



タップリ、めいっぱい、これでもかというほど邪悪な笑みを浮かべて撫子は恵助を上から下まで見つめた。



第六感でさっき幽霊に捕まった時よりも強烈な危険信号がビカビカなっているけれど、蛇に睨まれた蛙のように体が動かない。


鬼姉にぐいぐいと腕を引っ張られ家が近づいて来ると同時に勝手に涙腺が緩んできて、短い走馬灯を見た瞬間よりも確信して恵助は認識した。



『この特訓で、自分は死んでしまうんだろう』


と。

『格安アパート』



まったく、ついこの間の中学卒業式以来ろくなことがない。


まして、今回は完璧に自分のミスだった。



恵助は引っ越すことになった格安アパートの前に立ち尽くして、一人うんざりとため息をついた。


比較的田舎といっていいこの埼玉県の小日向高校に進学する関係で、親父の実家にお世話になるのが申し訳ないので親戚便りでとにかく安く、風呂、トイレ、台所完備のアパートを借りるのがいい、などと非現実的なことをのたまってしまった自分にあきれてしまう。


そこは、高校にも近く、町の中心部に位置する物件で、普通に考えたらいくら都心でなくてもそれなりの値を張ってもいいはずだった。



いったい月いくらなのかと、ぶっちゃけてしまうなら上の条件をすべて満たしてなお、二万円である。



二万円で条件を満たしていると聞いた時点で、実際に見ないで電話で即決してしまったのが馬鹿だった。


だから、こうして実際に見て酷く後悔しているんだから。



アパートは一階と二階の二つしかないが、外見自体は悪くはない。


ただしそれは普通の人が見た第一印象ならば、だ。


『目』を持つ人間が見たなら一発でそこに誰かいることはわかってしまう。


それにここに来てご近所さん、町会役員から聞いたことだが、普通の人にも気配を感じ取ることができて、二階に住んだ人はみな二週間もしないうちにみんな出て行ってしまう、とのことである。


鬼姉から受けた地獄の特訓によってある程度霊に耐性その他が出来ているけれど、これから暮らす空間にそんなに強烈なのがいると厳しい。



そして、月々の仕送りを考えると、今から新しいアパートを探し、そこと契約するのはより懐が厳しい。



恵助は大きく息を吸い込むと、ついこの間までの地獄を思い出してそれに比べればこれくらい!と、めいっぱい自分を奮い立たせるとだいぶさび付いている階段を上り、特訓で身につけた、『目』を最高まで鈍らせるスイッチを入れて部屋の中へと踏み込んだ。



『目』というのは、霊を知覚することが出来る能力を総称して使う言葉らしく、普段から霊を見ることが出来てしまうとすべての霊が助けを求めてついてきてしまうため大変危険らしい。



一般に霊能力者の類が力に目覚めるのはこの『目』からで、一般人が感じ取ることが出来ない小さい霊がいたとき、なんとなく鳥肌が立つ、背中に寒気を覚える、手のひらに汗をかくなどというところから始まるらしい。

そこから、意識的に視界の隅で見ることが出来る、意識的に見ないように出来る、意識的に正面から見ることが出来る、意識的に強制鈍化が出来る。

というのが大体の流れらしいから、いきなり卒業式に目覚めた俺がいきなりしっかりと霊を感じ取れたことは珍しく、かつ危険な状態だったらしい。



だから……



一瞬手足が硬直し、軽い震えが体に走る。


――今はまだ心が癒えていないからそれ以上『無理やりいきなり強制鈍化習得訓練』の内容を思い出すのはやめにした。



改めて部屋を見渡してみると確かに、かなり鈍化しているのに『わかってしまう』。

これじゃあ普通の人には鈍化できる人なんかよりよっぽど危ない。


部屋自体は一人暮らしするのには十分すぎる広さだった。


玄関を開けると一畳に少し足らないかなくらいの玄関、まっすぐに伸びる床の先には台所があり、そこも二人で作業することが出来るくらいのスペースがあった。



その廊下の左側には風呂と、築十年ほどのアパートにしては珍しい洋式のトイレ。


右側にはすりガラス製の引き戸があり、あけると大きな窓がついた四畳半が一部屋。


押入れが二つ。


ふすまを開けると六畳の部屋が一部屋。


ここが居間に当たるのだろう。


台所とこれまたすりガラスの引き戸でつながっている。


「いい部屋じゃん!」


さっき覗いた四畳半の部屋の隅に、おそらく女らしい霊の気配を感じたがこれ以上できないほど鈍化しているので、わざと聞こえよがしに一人ごとを言ってみた。



少し、プレッシャーが飛んでくる。


しかし恵助はすました顔を崩さない。


「少し、埃っぽいかな。」


部屋中の窓という窓すべてを開け放って新鮮な空気を室内に入れる。


当然、霊がたっているすぐそばの窓も開け放つ。


まだ少し冷たい空気が部屋の澱んだ埃っぽい空気を押しのける。


恵助が軽く深呼吸をしようとしたとき、窓がキシ、となってゆっくりと半分閉じてしまった。


再び開け放つが、半分閉まる。また開けても同じことの繰り返し。


………すばらしいアピールっぷりだ。


ちなみに、霊が活発に活動するのは夜ではないのか、という話は一般論でしかなく、夜によく幽霊を見たというのは、闇にまぎれて見間違うのか、幽霊が出そう、暗いの怖い、後ろに誰かいるんじゃないかなどと、精神状態がナイーブになってシンクロしやすくなるためである。


つまり幽霊様は、実のところ朝から晩まで、年がら年中『元気』なのである。



「立て付けが悪いのかな?あ、しばらく人が使ってなかったんだから、あれやらなきゃ。せっかく全部窓開けたのにな」


恵助は窓を閉めて持ってきた掃除用具の袋から、『パラさん』という坊主の、異常に目がギラギラしたハナタレマシュマロマンのようなキャラクターが虫をもしゃもしゃと食べている不気味な絵が描かれた缶を持ち出し、部屋の中心で踏んで、煙が出たのを確認して部屋を出た。


今日明日で部屋の大掃除を終わらせなければ引越し業者が荷物を持ってきてしまうし、何より学校が始まってしまう。


ちょうど今昼時。


少し近所をぶらぶらと歩いて昼飯を食べて帰ればパラさんは終わっている時間だろう。それと。


外から部屋の様子を伺ってみる。今は特に何も感じ取れない。



ひとつだけ気がついたことがある。



あの女の霊、名前がわからないから仮に霊子さんとしよう。


霊子さんには悪霊の類が持つ悪意のプレッシャーがまったくなかった。


一連の怪現象は純粋ないたずらか、何かのメッセージを伝えたいかのような様子なのである。



――もしも何か理由があるなら、話し合いで浄霊出来るかもしれない。もっとも、こっちが完璧に知覚していることがあっちにばれたら事態が急変するかもしれないから、それまではばれないようにしといたほうがましかもな。



そんなことを考えて、恵助は時間つぶしに町へと繰り出していった。





[何よ何よ何よ何よ〜あの鈍さは〜鈍いにもほどがあるわ!あれだけアピールしたら何かしらの異常を感じ取ってもいいはずなのに〜!『いい部屋だ』ですってぇ?今までみんな、一歩入ってきて違和感を覚えていたのに!『立て付けが悪いのかな?』ですってぇ?私がやってんのよぉ!何で気づかないのよ〜!これじゃあ見込みがないじゃないのぉ!]


恵助が去った後の部屋では霊子(仮)が一人地団駄を踏んでいた。


キシ、パキ、とラップ音が鳴り響く。



その顔は寂しさにより今にも泣き出しそうな様子である。


霊子はその場に座り込み、一人体を揺らしていたが、ふと、部屋の中心で煙を撒き散らす物体に興味を持ってその殺虫スプレーの缶をつまみ上げた。


濃い煙のせいか、めいっぱいまで顔に近づけなければ缶の絵柄が見えない。


ぐっと顔に近づけ、パラさんが見えた瞬間に、踵から一気に頭の先まで小虫が這い上がる感覚。


[ひゃっ]


霊子はパラさんを投げ捨て、すぐさま部屋の隅へと退散した。



[何おいて行ってんのあの男。なんなのあの不気味なキャラクターは!怖いよー。ここから出られないし、こんなに煙だらけだとなんか気持ち悪いし誰か〜早く何とかして〜!]


霊子の悲痛な叫び声は少しパラさんの煙を揺らめかせ、すぐに消えてしまった。


その他の変化といえば、隣のおばさんが井戸端会議の時の話題を手に入れたくらいのものでしかなかった。


煙が薄くなっていき、そろそろ二時間がたとうとしていた。

あの男が帰ってくるころだろう。


[こうなったら最終手段よ!いっそのこと追い出して次に来る人かけてやるわ!]


霊子は残酷な笑みを浮かべてパチンと指を鳴らした。


この状態を見れば大概の人間は一目散に退散するはず。


霊子の合図に誘われるように部屋の隅、小さな穴から黒い塊がゾロリと出てきた。





恵助は再びアパートへとたどり着き、カンカンと錆び付いた階段を上った。

回りが悪いノブに手を置き、状態を鈍化して一度深呼吸をする。


玄関を開く音がやけに響いて聞こえて、さっきまでとは違ったプレッシャーが部屋を支配していることに気がついた。


わずかに警戒し、かつ自然なそぶりでさっき霊子さんがいた部屋へと踏み込んだ。



「ん、なんともない、か。」



わずかに残った煙のニオイを出すためにすべての窓を開け放つ。


なぜか部屋の隅に吹っ飛んでいた殺虫剤の缶を手にとって、片付けようとしたとき背後に異様な気配が急に生まれた。


それは霊のそれではなく、明らかに何かしらの生物によるものである。


ゆっくり、時間が止まった部屋の中で恵助は振り向いた。



そこには、霊子がいるらしき部屋の隅にある穴から、いい感じの照り具合の黒いダイヤモンド、ブラックマトリクス、連○の黒いやつこと、ゴキブリが畳を半分埋め尽くすほど大量に走り回っていた。



恵助の体が一瞬にして冷たくなり、紙やすりでもこすり付けられたような痛みに近い寒気が背に走り、体の大部分の毛穴が閉じ、そのくせ、嫌な汗が額に浮かぶ。


呆然とそのさまを見ていたら、突如動きまわっていたブラックマトリクスたちが一斉に止まった。


気のせいか、やつらは一斉にこっちを見ている気がする。



[振り向くな!仲間の死に足を止めるな!あの煙によって失った友の死は等量の敵の血によってあがなうのだ!共にあの超絶鈍感男をこのアルカディアから追い出そうじゃないか。全軍、突撃ぃ〜!]


霊子の拳を振り上げながらの号令によって最前線にいる足軽たちがパッと羽を開く。


やつら、飛ぶ気だ!


フラッシュバックのように、昔泊まりに行った本家でカーテンを開けたとき、ガラスに張り付いていたブラックマトリクスに襲い掛かられたことを思い出す。



ブチン!



恵助の頭の隅で、何かが切れる音だけが聞こえた。


「い……!」


手に持った缶を強く握る。


[い……ですって。フフフ、言葉も出ないようね。敵は戦意喪失!一気に畳み掛けちゃえ〜!]


ゴーゴー、イーハー!なんていいながら、万歳をするように残りの拳も振り上げ霊子は叫んだ。

が、それを打ち消して恵助の大声がガラスを揺らす。


「いい加減にしろぉー!」


全力で手に持った缶を一直線に霊子に向けて投げつけた。


空気を切り裂いて霊子に缶が飛んでいく。



[フン、悪あがきね。そんな缶なんて当たるわけがな…っきゃあ!]


カィ〜ンなんて間抜けな音を立てて、何もない空間で缶が撥ねた。



―――どういうこと、霊体の私に私が望まないのに物質である缶があたるなんて。おでこ痛いし。それに、今、いい加減にしろって、まるで私の差し金だってわかっていたようなセリフ言っていたし、ビリビリっておでこ痛いし。明らかに私を狙ったように缶を投げていた。なによりおでこ痛いし。少し、涙出てきたし。まさか…この男は。



霊子はそんなことをゆっくりと倒れこみながら考えていた。


総大将を倒されたゴキたちは元の穴へといっせいに戻っていってしまう。



息も荒く、強く拳を握り締めていた恵助だったが、頭に上った血がブラックマトリックスが引いていくのと同時に引いてくると、とんでもないことをしてしまったと後悔した。


今まで散々見えていないフリをしていたのに、思わず強烈なツッコミまで入れてしまったのだ。これはさすがに気付かれてしまっただろう。



「あー、さ、殺虫剤の缶を投げると、ゴキブリって逃げてくれるんだナァ。」



カタコトで言い訳をつぶやいて、転がった缶を拾い上げる。


と。



服を引っ張られる感覚。ちらりと視界の隅で見てみる。


霊子が服をつまんで引っ張りながら、こっちを凝視している。


[あなた、もしかして私のこと見えているんじゃない?]



バレた!



恵助は表情の一瞬の変化がばれないように窓に近づいて脇の霊子と距離をとった。


「……にしても、ご、ゴキブリがあんなに出るなんてナァ。世界一ゴキブリが集まる部屋って申請したらギネスに乗るんじゃないかナァ。畳に直接布団敷くと寝ている間が怖いナァ。」


引っ張られていることに気づかないフリをして、缶に穴を開けて危険物用のゴミ袋に投げ込んだ。


[ねえってば!ホントは聞こえているんじゃないの〜?]


「あーあ、部屋がこの広さなら飯おごるから掃除も手伝ってくれってノブに頼んどけばよかったナァ。」


[もしかしてほんとに見えてないの?にしてはいやに独り言が多いみたいだけど………いいわ。聞こえているのかいないのかはっきりとさせてあげようじゃない!]


―――おいおい、いったい何をする気だこいつはぁ〜!


恵助がまた視界の端で振り向いたとき。



霊子は腕を振り上げた。



[いでよぉー!ブラァッックマトリィィ…]


恵助は反射的に、利き腕の中指を親指で勢いよく弾けるように止めて、人差し指と薬指を霊子の額に当てた。

後悔の多分に混ざったいびつな笑みを浮かべて。


「そこまで。缶があたったところに超絶デコピン食らいたくなかったら呼ばないでね。」


無表情で霊子さんは何度か頷いた。


――――やってしまった。思わず反応してしまった。今、ゴキブリはいないし、当然他の人間はここにいないし、びっしり指が触れているし、もうごまかせない。いくらなんでもこんなバレかたはしたくなかった。もし今敵意の塊を食らったらとり殺されてしまうかもしれないのに。


恵助は平然としているように見せつつ、内心ひやひやしながら霊子さんの反応を待った。


霊子は無表情でじっとこっちを見つめてくる。


[あなた…]


「ん?」


[あなたは…]


「うん。」


[あなたはまさか…]


「だぁー!だから俺はなんだよ?」



硬く冷たい表情は急に崩れ、どこか少しだけ、泣いているようにも見える弛緩した笑顔になった。


[あなた、ほんとに私のこと見えているのね。声も聞こえているのねぇ〜!]


がばっと、急に抱きつこうとしてきたが、霊子は恵助の胴をすり抜けて、向こう側に倒れこんだ。


なんともお約束な、人間臭い動きに思わず恵助は苦笑してしまった。



どうやら問題はないようだ。


恵助は鈍化のスイッチをオフにする。



直ぐ隣に建っているアパートとの隙間から差し込む、翳ったおとなしい光の中、起き上がった女の霊、いや、改めて見ると同年代の女の子である霊子は少し癖が強そうな栗色で肩にかかるほどの髪をかき上げ、今倒れこんだ事実を無きものにしようと鼻歌など歌っている。


背は恵助よりも十センチ強ほど低く、すらりとした四肢は霊体だからなのか、それとも身に纏う真っ白な長いワンピースのせいなのか、やけに白く、儚く、今にも折れてしまいそうに見える。


しかしそのしぐさにはその見た目から感じさせるような儚さは微塵も感じ取れず、酷くおかしな話だけれど元気溌溂としている。


その矛盾した光景は、この部屋には本当は幽霊さえもいなくて、忘れていた夢の登場人物が勝手に網膜に焼き付いていて、今動き出してしまっているのではないかと思ってしまうほど、どこか神秘的で現実離れして、でも懐かしさを覚えさせる。


鼻歌を歌いながら照れ隠しに微笑むさまはどこか品があって、このまま直視していたら顔が赤くなってしまいそうなので恵助はわざとらしくない程度に顔を背けていた。


「そういう家系らしくてね。だから気付いていたけどまったく気付かないフリをしていたんだ。まあ、親しみやすそうな人でよかった。ところで何でそこまでして霊感がある人間を…?」


霊子はほんの一瞬だけ酷く驚いたような、不思議なものを見たような表情になった。


「どうかした?」


[別に。私はね、地縛霊ならぬ、事縛霊なの。つまり私は場所、人への怨念ではなく、死んだきっかけを認識していないためにこの世界にとどまってしまったの。死んでしまったことを理解していないけれど、結果的に死を理解だけは出来ている状態ってこと。それで、いろいろなところに飛び回って記憶のかけらを探していたら、偶然立ち寄ったココでちょっと霊感強いインチキ霊媒師に変な結界張られちゃったもんだから自分じゃ出られなくなっちゃったのよ。だから、しっかりと霊を認識できる力を持つ人の力を借りられればここから出ることが出来るんじゃないかって思ったってわけ。]


―――なるほど、だから霊症に敵意がなかったのか。本当に自分の存在をアピールしていたというだけなんだから。



恵助は窓から家の周りを見渡した。

そう言われれば、この嫌な気配は霊だけによるものではなくて、結界のせいでもあるらしい。


[でね、霊感が強い人にあったら私の『原因』を探すのに協力してもらおうかなぁなんておもったわけ。私が気持ちよく成仏するためにね。どう?わかった?]


胸を張って霊子はふわりと浮かび上がった。


敵意はない。



ただ、純粋に成仏するために、協力者が来るまでこんな結界の中に閉じ込められていたのだ。



「なあ、もし、見えるけど協力も出来ないし、俺が結界をどうこうできる力も持っていなかったら?」


[そしたら、追い出すわよ。もう一度ブラックマトリクスを使ってね…]



彼女は、不安、というよりも寂しそうな笑みを浮べて、髪をいじっている。


[なんて嘘。それなら、話し相手にでもなってくれればいいよ。今までのことを考えたらそれだけでも十分だし。それまでいやならほんとに追い出そうかなぁ]


ふむ、そうしよう。なんて、彼女は一人で頷いている。



もし、ここで俺が協力しないとなったら、次に霊感を持つ人間に出会うのはいったいいつになるというのだろうか。


ただでさえ幽霊が出るといわれ、月二万円でも借り手がつかないっていうのに…。



そんなことを考えたら、とても、断るなんて、出来るわけがないじゃないか。



「え〜と、そういうことなら協力しても……いい…かな。」


[そうよね……幽霊なんて面倒なものに協力なんてするわけ……え?今あなた………なんていった…の?]


今までかなり挫折してきたのか、今回も本当にあきらめかけていたのだろう。


信じられないといった目で俺を凝視する彼女の肩は、少しだけ、震えていた。



「協力するよ。たいしたことは出来ないだろうけど。」


恵助がそういうなり、霊子はまた嬉しそうに飛びついてきて、恵助をすり抜けて転んだ。


―――実はかなりおっちょこちょいなのかな。



恵助は霊感を鋭敏化させるスイッチを入れ、すっと手を差し出した。


「俺は高柳恵助。これからよろしく、え〜と…」



[私はレイコ。苗字は思い出せないからレイコって呼んで。よろしくね、恵助]


レイコは勢い良く手を握り返してきた。その手の感触は確かにあったけれど、引き起こすときは当然、酷く軽かった。


「よろしく、霊子さん」


恵助は一瞬浮かんだ不安さをかき消そうと笑ってつぶやいた。


[違うわよ。今、幽霊の霊に子供の子で霊子って呼んだでしょ。私が幽霊だから!カタカナでレイコだから、そこのところ間違わないでよね]


まったく発音は一緒だって言うのに、何でそっちを意識しているとわかったんだろうと、子供のように怒っている彼女がおかしくて、思わず噴き出してしまった。



「ゴメンゴメン、じゃあ改めて、よろしくレイコさん」


[ちがーう!レイコさんじゃなくて、レイコ。大体私たち同い年くらいじゃないの。]


「そんな感じだけど、レイコさ…あ、レイコはなんだか雰囲気が同年代っぽくない。」


[ム、それでいいのよ。そりゃ二年くらいここに幽閉されていれば多少精神的に成熟するってもんでしょうが。やっと契約完了。形としては二十四時間常に恵助について回る形になるからよろしくね。]



「え?それってつまり…」


[守護は出来ないけれど守護霊に近いのかしら?]


「じゃなくて、学校は?トイレは?風呂は?そして何よりその他もろもろの俺のプライバシーは?」


[無い!!さ〜て、自己紹介がすんだことだし掃除の手伝いをしてあげる。力強い助っ人もいるしね。]



異様なほど男らしいレイコの断定の言い回しに、一瞬思考が止まってしまう。


「おい、無いってそんなに力いっぱい……え?助っ人?」


きょとんとする恵助をわきに、レイコは拳を振り上げた。


「あっ、それってまさか……」


ほぼ確信に近い予感に髪の毛が全部二ミリずつ浮かぶような感覚。


そういわれればそうだ。


『普通の女の子』が、ブラックマトリクスを使役するわけがないものな。

なんて、恵助の疑問は頭の片隅ですとんと綺麗に腑に落ちた。



[出でよブラックマトリィィィックス]


「や、やめてくれ〜」


黒い塊がゾロリと出てくるのと時を同じくして恵助の絶叫が部屋中にこだました。



後日、荷物もすべて運び込まれた後、隣近所のおば様方に。


「大丈夫だったの?初日の絶叫はすさまじかったわねぇ。いざとなったらこっちに駆け込んできてもかまわないからね。」


「怖いわねぇ。そういえば私はその日女の恐ろしい叫び声を聞いたわよ」


「少し顔色が良くないみたいだけどがんばってね。恵助君」



[がんばってね、けーすけクン]


おばさんに肩を叩かれた時、すぐ後ろでくつくつとそんなことを言って笑っていたレイコに協力することになったことを後悔した。


が、そんな後悔は手遅れで、レイコを交えた普通じゃない新生活は始まろうとしているのだった。


『入学式、そして。』



だいぶ暖かくなってきた風が、学校を取り囲んでいる桜の花の香り運んでくる。


着慣れた学ランもこの日ばかりはなんだか堅苦しい気がしてならない。


ついに高校の入学式が始まろうとしていた。


恵助は小、中学校と受験をしていないのでどうも試験を受けて入学した高校というところは格式高いのだろうか、なんて考えが浮かんでくる。


[そーんなことあるわけないじゃない。所詮普通科の学校は中学校の延長みたいなものよ。]


「あのさ、レイコ。思考を読むのはやめてくれって。それと式の最中に話しかけてきても全部聞き流すから怒って何かいたずらをするのだけはやめてくれよ」


恵助は振り向きもせず横にふわふわ浮かんでいるレイコに返事を返した。


レイコはそんなことわかってるわよ。やめてくれやめてくれって、そればっかりなんだから。

なんて、小さく顔を背ける。


少し悪い気もしたけれど入学式から問題が起きたらたまらない。

ここばかりは心を鬼にしてレイコに冷たく当たらなきゃかな。なんて考えていたとき、後ろから肩を思いっきりひっぱたかれた。



「なにしみったれてんだよ恵助。そんな顔してると高校でもまた彼女ができねぇぞ〜」


「うるっさい。お前みたいな変態に朝から絡まれているこっちの身にもなってみろ。いくら華々しい入学式だからって少しだけ落ち込んでみたりしちゃうだろ」


「そんなご無体な。プルートを分かち合った中ではないか。って、あれ全部見たのか〜」


「あれか、いろいろあって半分しか見れてない。もう少しだけ貸しといてくれるか」


「借りていることさえ忘れてくれなければいつになったってかまわんとも」



バシッとまた青年は恵助の肩をひっぱたいた。



[ねぇ、この子誰?プルートって何のこと?]


落ち込んだ様子だったレイコはノブの様子を見ると態度をコロッと変えて急に話しかけてきた。

目をキラッキラさせて興味津々である。


先ほどから話しかけてきているのは幼馴染で昔からの親友の坂本信行。


見た目は丸坊主頭に無骨で、そのくせ精悍な顔立ちで、鼻筋が通っている上やや頬が引き締まって、こけているように見えるという、見るからに体育会系バリバリの男である。また、それなりに女子にも人気がある。


――こいつは坂本信行。昔からの腐れ縁なんだ。趣味は体を鍛えることと、話の区切りに人にきつい一発を食らわせること。もちろん男に限り。プルートって言うのは借りているものが入っているかばんのブランドだよ。



恵助はさらりと嘘の混じった返答を返した。



[ホントにぃ?なんか嘘っぽいんだけど。だいたいかばんのブランドの話をして半分しか見ていないって返事おかしいじゃない]


―――うっさい!ホントだし、プライバシーだ。


「なんか顔色が悪いぜ?まだ寒いんだから普段はマフラーとか防寒着を身に着けたお前を傍観したい。」



「余計サムイから。そして何より、鳥肌立つくらい今の言葉気持ち悪い。」


「む、それでよし。それほど体調が悪いわけでもないみたいだな。じゃあとっとといこうぜ。見たところ同じクラスになったようだしな。」


そういいながら振り分けられたクラス表を指差すノブはどこか埠頭に立ってポーズをとっている人に似ていた。



「腐れ縁だね。残念だ」


「ああ腐れ縁だな。うんざりだぜ」


ノブと悪意を含まない罵り合いをするのは昔から続いていることだ。



恵助は特に気にすることなく、ノブが指差すクラス表の横の学校の見取り図を覗き込んだ。



小日向高校は一年から三年までで千人ほどの高校で、南側から順に、校庭、体育館および図書館、食堂、特別教室などがある三階建ての特別棟、教室や職員室がある四階建ての一般棟がある。


それぞれが渡り廊下でつながっていて屋上に出るためには鍵が閉まった一般棟四階の扉から出るしかない。



校門は校庭の西側に小さいものが、生徒用、教師用の玄関の真正面に電動の大掛かりなものがあり、校舎の外観は限りなく白に近いクリーム色。


一般棟の東側西側に入り口と階段が、校舎の両端の外側にはそれぞれ屋上までつながった鉄製の非常階段があり、東側に駐車場つきで職員室の正面、教師専用の玄関、西側に生徒用の玄関がそれぞれの階にあり、一階から順に一年二年三年の教室がある。


四階には第一、第二多目的室、視聴覚室、生徒会室、倉庫、開かずの間と書かれていた。



開かずの間ってなんでこんな部屋が用意されているんだろうと思ったけれど校長のジョークか何かだろうと無理に納得しておいた。


そのまま体育館へと移動して、退屈な校長の話を聞いて、いつの間に役割を決めたのか新入生の中から一人、なにやら話しをして、同じく二年の生徒会長が返事をする番になった。



会長は舞台の両脇に設置された舞台への階段を上り、舞台中央に飾られた国旗と校旗に礼をし、舞台袖近くに座っている来賓と校長にもそれぞれ礼をする。


礼をするたびに長い髪が揺れていた。


舞台の中心に立ち、毅然とした態度でまっすぐに会長が顔を上げたとき、一瞬体育館の新入生にどよめきが生まれた。



体育館のステージに上がった生徒会長は、ほんとうに、きれいだった。


その出で立ち、すらりとした体には天性のものであろう気品が満ちていた。


上等なシルクのような腰の辺りまで伸びている黒髪は今や消え去りつつある日本人の古くから存在している『黒髪の美』というものを理解するための手本のようで、言葉は春のさわやかな風のようにしみこんできたし、その声は泣き止まない赤子を一瞬で落ち着かせる慈愛に満ちた母親のそれのように澄んでいて、静かだった。



そもそも一年のスリッパと女子のスカーフは赤、二年が緑、三年は淡いブルーだが、現時点で緑のスカーフの二年生が『生徒会長』として挨拶していること自体とんでもないことである。


[けーすけクンには関係のなさそうな世界のひと。まさに高嶺の花ね。]


不思議な微笑を浮かべてレイコはひらりと正面に立った。


――なんだよ。そんなことわかってるから。でもあれだけきれいだと男なら誰だってあこがれたりするもんだろ?ほら、見えないからちょっと横にずれてくれ。


[な、なによそれー!目の前の美女を前にそりゃないんじゃないの?]


――はいはい、絶世の美人が正面で、超高速でぐるぐる回っていると恐れ多くて大変で、目がつぶれてしまいそうなので少しどいていただきたく。ははぁ。



なんていったら、レイコはなぜそんなに不機嫌になるのか怒りオーラを丸出しにしだした。


[完璧な人間なんていないんだからどうせ裏じゃ何やっているかわからないわよ。あれで実はオカルトマニアで黒魔術とか詳しかったり、カエルの解剖をしていたり、くっふっふっとか、おーほっほっほっとか高慢に笑ったりする腹黒なんだからー!……たぶん。]



って言ってから顔を背けて、飛んでいってしまった。



心に刻み込まれておそらく一生消えることはないだろう一度きりの入学式を済ませた。


角刈りの見るからに体育会系の逆三角形の体型をした教師が担任になったらしく、順番に誘導に従って教室に向かう。



教室で聞いた話では今週いっぱいまで部活動見学をして、その後仮入部を三日間。


その後本入部という流れで、それが当面のイベントということになるらしい。



担任は今井久雄というらしい。

担当は予想を裏切って数学。恐ろしいことに生徒指導担当らしい。



この教師、ユーモアはあるようだが癖なのか口の片側を吊り上げるように笑うのでもともとの強面も手伝って皮肉笑いにしか見えない。


「久雄ちゃんと呼んでくれてもかまわない」


と言ってのけているが、見たところ腕を組むのも癖らしく、手に持っている眼鏡ケースに先ほどサングラスが入っていたことを確認したので、町でサングラスをかけて腕を組んでいるさまを見かけたら間違いなく『本物』に見えるという、心細さ最大級の一年生の担任にしては酷く遠慮したいというのが担任に抱いた第一印象だ。


おそらくこのショックは今年一年間忘れることはないと思われる。



少なくとも自分は久雄ちゃんなどと絶対に呼ぶことは出来ないだろう。


そして何よりも恐ろしいのはレイコがさっきから


[何よこの教師。こわっ!本物が紛れ込んだんじゃないの?ヒサオちゃーんヒサオちゃーん…むしろ久雄の叔父貴って感じねぇ。]


なんて、俺と同じ感想を抱いてさっきから今井センセイにチョップしたり鼻にデコピンしたりとちょっかいを出し続けている。


今井センセイがさっきからしきりにくしゃみをしているのは間違いなくレイコのせいだ。


見たところ霊感は人並み以下であるのがせめてもの救いだけどレイコには一発文句を言っとかなきゃ磨り減った俺の精神は報われないし、目の前の光景に笑いを必死になってこらえている自分が変人だとクラスメイトに認識されたら大変じゃないか!



そんなこんなでハラハラとしたまま初日のホームルームは終わった。



後は穏便にレイコと話をつけてせめて学校にいるときくらいは心に安静を与えてもらえるようにすることと、さっき盛大にノブが立ち上げた親睦を深めるカラオケ大会に参加することと、レイコに付き合って町を少し散策して終わり。



なんて今日の簡単な予定を頭の中で立ち上げたとき、廊下で変なざわめきが起こった。


廊下側の生徒はいっせいに廊下へと飛び出していく。


恵助が何事か確認しようとして一歩人込みに踏み出したとき、教室の入り口にすし詰めになっていた人だかりが一歩引いて割れた。



モーゼの海割りのごとく分れた人ごみの真ん中にたっていたのはついさっき入学式で挨拶をしていた生徒会長だった。


すべるように自然にこっちに歩いてきて。



「はじめまして。私は松下二十重といいます。ちょっとこの後いいですか?」


と、俗に言う天使の微笑を浮かべて一言。



一瞬『音』なんてもともと無かったかのように、世界が沈黙に支配された。


「……え?」


静寂を打ち消して間抜けな声が出てしまう。



名前は知っている。


パンフレットにも載っていたし、入学式の挨拶のときにその容姿もしっかりと目に焼きついている。



でも、レイコがいっていたとおり高嶺の花、住む世界が違う人という認識だったんだ。


いきなり、しかも会長のほうから自分のところに来るはずがないじゃないか。



頭の中で冷静になれ、冷静になれ。



おそらく俺に言ったんじゃないんだろうと言い聞かせ、深呼吸をして周囲を見渡してみた。



恵助の周りにはほかに話しかけることが出来そうなのは恵助以上に唖然としているレイコのみ。


空モーションじゃないのか?


もう一度正面から生徒会長を見てみるとその視線はまっすぐ飛んできていて正面から見た俺の視線とぶつかってしまった。



「俺、のこと、ですか?」


恐る恐る聞いてみた。

とたん横でトビかけていたレイコが正気に戻ったらしく声を張り上げる。



[そんなわけな……]


ないでしょ。


レイコがたったそれだけのことを言い切る前に、目の前の生徒会長さんは小さく頷いた。



恵助と生徒会長とレイコを中心に、水面に波が起こるようにざわざわと人波がゆれる。

半分はこれからどうなるのか興味津々な。残りの半分は圧倒的な殺意の念がこもっている。


「ここで話すのもなんですから人がいないところへ……どうしました?体調が悪いようでしたら明日また来ますが…」


二十重は改めてトんでしまっている恵助の顔を覗き込んだ。


「いえ、あの、別に体調が悪いとかそんなんじゃ…」


手を振りながら少し顔をそらす。


頭に血が上るのが自分でわかる。

周りにも確実に動揺しているのがばれてしまっているだろう。



「ああ、もしかして新しいクラスメイトと親睦を深めるためにこの後予定が入っていました?」


親睦も何も、もう修復不可能なんじゃないかって言うくらいの殺意が周りからずっとビシビシ伝わってきている。

無論、廊下からもだ。


とんでもない状況だと困るのと同時に、少し嬉しかったりするのは男のサガだろうか。


「それは…」


不意にバチンと肩をひっぱたかれた。


何事かと勢いよく振り向くと、すぐ後ろにノブがいつもの様子で立っていた。



「どうも、会長さん。俺は恵助の幼馴染の坂本信行っす。こいつには何の予定も無いっすから、どんどん連れて行っちゃってください」


「おいノブ何を勝手な…」


「入学早々こんな絶好のチャンスが来たんだ。乗らない手はないだろ?」


「いや、そりゃそうだけど…」


「ならいくしかねぇだろ。」


「あの、どうかしました?やっぱり今日はお暇したほうがよろしいでしょうか。」



二人でごにょごにょと話をしていたらまた松下さんは不安そうにこっちを覗き込んできた。



「いえ、こいつ会長みたいな美人に話しかけられて少し緊張しているだけです。何なら無理やりにでも引っ張って行っちゃってください」


「あら〜、お上手ですね」


なんて、嬉しがっている会長さんをよそにノブは無責任なことを言って、小声で


「恵助後でいろいろ聞かせてくれよ。グッドラック!」


なんて親指を立てている。


「では。皆様お騒がせしました。失礼します。」


最初に浮かべた天使の微笑をまた浮かべ、松下さんは恵助の手を引き一階から一気に四階へと上っていった。


[最後の警告だよ恵助、なんかいやな予感がするよ。やめておきなって]



引っ張られているとき、レイコがそんなことを耳打ちしてきたが、その、二十重さんの手は柔らかくて、少し冷たくて、頭の中はとっくに真っ白でとても引き離すことが出来ない。



そんな恵助を見てレイコは、もう知らないから!なんていって黙ってついてきた。



「あ〜、ゴホン。その何だ。順番が逆になってしまったが、今日はこれで解散だ。今日から部活の見学が出来るからそれぞれ途中でやめることのないようしっかり決めるように。」


今井教諭が閉めの言葉を言っていたが教室の中ではいったいあれは何なのかの議論が飛び交っていてそれどころではなくなっていた。


仕舞いには女子の間で恵助の男としての採点がはじまり、男子の間では高校時代に最も殺傷力の高い部活をしていたのは誰だの、二十重様にアタックしてみる順番をあみだくじで引いてみて喧嘩が起こるだの、それらにはかかわらないけれど松下二十重タンファンクラブなどというものが持ち上がっていたりするなど騒然としていた。


このクラスには、入学初日にしてすでに三年間過ごしてきたかのような奇妙な一致団結、一枚岩関係が出来上がりつつあったのであった。





「で、松下さん、ここはいったい何なのでしょうか。」


「二十重でいいですよ。高柳恵助君。私も恵助君と呼ばせていただきます」


二十重さんはチャラッと髑髏やら十字架のキーホルダーが下がった鍵で扉を開こうとしていた。それは酷く二十重さんに似合っていない。



今いるのは一般棟四階。



一階から一気に階段を上がって四階の西端から東端まで一気に歩いてきたこの教室。


教室名を書いてあるプレートは向こうから第一多目的室、第二多目的室、視聴覚室、生徒会室、倉庫、そしてここのプレートは、すれて読み取ることが出来ない。



たしか、朝見た張り紙に書いてあって、今四階を歩いてきて見つけなかった部屋は『開かずの間』だけ。


[確か地図のとおりなら開かずの間でしょ。ココ、嫌な気配がするし、霊の予感はほんとに当たるからけーすけ少しヤバイかもね〜。]



目を細め残酷な微笑を浮かべてレイコは真上から顔を覗き込んできた。


「開かずの間です。とは言ってもこのとおり鍵があれば普通に開くんですけれどね。」


くすっと笑う二十重さんは綺麗だったが、目の前に置かれた状況はそれを楽しむ余裕を完全に奪い去っている。



――やっぱり、開かずの間だったか。



小さく深呼吸をしてみるけれど、じゃじゃ馬になった心臓はそんな静止を受け付けてくれない。


どうやら人よりも危機察知能力が高いらしい第六感もピコンピコンと警鐘を鳴らしている。



――なんだか、今さっきからレイコに初めて会ったときみたいな寒気がする。


[私が言うのもなんだけど、それよりもたちが悪いわよ。きっと]


――そうかもね。


もう一度恵助が深呼吸をしたとき、ギィィィ、キュラキュラ、ガタンガタンと扉が断末魔の叫び声をあげた。



扉が口を開いた先には最も日が差し込むはずの四階にもかかわらず今にも這い出さんと差し込む光に抵抗する暗闇があり、見るからに胡散臭い代物たちが所狭しと壁際に積み上げられていて、ただでさえもとの幅が一メートル半ほどしかないというのに人一人が体を傾けてやっと通れるほどの狭さだ。



「じゃあ、奥のほうへどうぞ。足元に気をつけてぴったりついてきてくださいね。」



なんていって、二十重さんは慣れた様子で暗闇の中に消え去った。言葉のあやじゃなく、暗闇の中に『消え去った』ように見えた。


恵助はアパートに踏み込んだ時と同じく、念のため頭の中の鈍化のスイッチを押して、教室内へと踏み出した。





暗く、積まれたもので曲がりくねった迷路のようになっている教室の入り口を抜けるとぼんやりとオレンジ色の光が照らす広い場所へと出た。


「改めて、ようこそいらっしゃいました。恵助君。」


はじめてみたときとまったく変わらない笑顔を浮かべている二十重さんをまっすぐ見ることが出来なくて教室内を見渡してみる。



部屋の窓はすべて重々しい暗幕で閉じられていて、この真っ暗な部屋を照らしているのは電灯でも太陽光でもなく数本のろうそくの光のみだ。


教室の広さ自体は大量のものたちによって占められている部分が多く、十畳ほどのスペースが残るのみで、入り口からどう進んできたのかいまいちわからないが、おそらくそれが東側に位置している。



迷路を抜けて、すぐ正面の西側の真ん中にある机に座っている二十重さんとは向かい合う形になっていた。


「あの、この部屋はいったい…」


「なんなのでしょうかじゃなくて、まず最後まで二十重の話を聞くべきだ」


急に後ろから声が聞こえて驚いて振り向くとそこには下にだけ銀色のフレームがついたメガネをかけて、最近珍しい海老の尻尾のように太く長い三つ編みの知的美人といった百五十センチに少し足らないほどの小さな女子がいた。



スリッパと制服についているスカーフの色が緑であるから二年生であることはわかった。


手には小型のノートパソコンを抱えていて、おそらく抱いた印象は間違いないだろう。



「視線が私の頭から足まで移動した後、スリッパ、スカーフ、ノートパソコンへと移動してまた頭に戻った。それは何だ?なんにしてもじろじろと人を見るのはとても失礼だ。」

切り捨てるように断定的に。何の抑揚もなくこの先輩はそんなことを言った。


「あ、すいません。」


くいっとメガネをあげて、何もなかったかのように先輩は二十重さんの横へと移動した。


「もう。初音ったら初めての人にそんなことを言うから怖がられるのよ。」


「二十重、この同好会は好きません。私は非科学的な幽霊などというものは信じていませんし、なによりここはあなたの負担にしかなっていない。」


「そんなことないよ。それに、そのための恵助君なんだから。」


[恵助、この初音って奴気に食わないわ。しかもなんだか話がきな臭くなってきたし。]


レイコがふわりと初音さんの後ろに回りこむと初音は怪訝な顔をして振り向いた。


どうやらそれなりに霊感が強いらしい。気をそらさないとこの暗さで同調してレイコに気づいてしまうかもしれない。



「あ、あのすいません。話の続きをお願いします。」


恵助が恐る恐る切り出すと初音は恵助を冷たく一瞥して二十重の横へと移動した。


「ここは私が説明するから初音は黙っていてね。恵助君。君をここへ呼んだのは他でもない、このオカルト研究同好会に入ってもらおうと思ってのことなんです。」


「オカルト研究同好会…ですか。」


「そう。私大のオカルト好きで特別にこの開かずの間を借りて活動をさせてもらっているんですけれど、どうも私には霊感がまったくないみたいなんです。ですから例のアパート二階に今年の一年生が入居したって聞いてぜひともうちの同好会に入っていただきたいと思ったんです。聞いた話だと引越しの準備の段階で恐ろしい女の叫び声がしたり、恵助君の悲鳴が聞こえたりしたって近所の人から聞ききました。だからアパートで起きた怪奇現象の話を聞かせていただきたくて。それに大概の人が二週間ほどで引っ越すアパートに普通に暮らせている恵助君はいったいどう暮らしているのか興味が沸いてしまったんです。」


ガツンと頭にたらいが落ちてきたような気がした。


しかもこの言葉を聞いてレイコはやっぱりそんなことだろうと思ったわ〜なんていって大爆笑しているし。


――うるさいよレイコ。そりゃわかってたけれど期待しちゃったりしたのは事実なわけで。男のサガっていうかなんていうか。



[まあ、高嶺の花が舞い降りてきたんだからねぇ。で、どうするわけ?]


――霊感があることを人に教えると、その人が影響されて霊に『引っ張られやすくなる』って姉貴に教わったし、いつレイコのことがばれて面倒なことになるかわかったもんじゃない。この話はなかったことにしよう


[そうそう。私に協力する時間もなくなっちゃうしね。]


――――まあ、厄介なのはレイコだけで十分だよ


[なによそれ。にしても、『霊の予感は良くあたる』とは我ながらよく言ったものね。本当にオカルトマニアだったとは…]



―――まったくだよ


どこか不愉快そうだったレイコはまたいつもの様子に戻って天井をくるくると飛び回り始めた。


ふと、たまにレイコは子犬のようだな、なんて思った。



「すいません二十重さん。なんだか俺にも霊感がないみたいでそれらしきものを見たことがないんです。近所の人が言っていた悲鳴って言うのは掃除中に…その、恥ずかしいんですけれどゴキブリがたくさんでたのでびっくりしてしまったんですよ。だから特に役に立てそうにありません」


嘘をつくのは気に入らないけれど仕方がない。

恵助は少しだけ後ろめたくて顔を伏せた。


「そうですか。それなら仕方がないですね。」


二十重が残念そうに肩を落としたとき、静かになっていた初音が殺意とともに急に口を開いた。


「二十重、あれはおそらく嘘。高柳は今の言葉を言ったとき、目をそらして、片手で口元を隠すように触り、その後その手をポケットに入れて微妙に後ずさりをした。これらはいずれも嘘をついた人間が無意識に行う行為で、ここまで顕著に出るのは逆に信じられないくらい愚直なのか、本当に心底曲者なのか。でも、もう一度、今の言葉をそっくりそのまま『普通に』繰り返せるならば嘘ではないはず。そして、嘘なら私が見逃すはずがない。」



メガネの奥の釣り目が光っている。

二十重に嘘をつくような愚か者は今にも視線で射殺さん、というアイコンタクトが一緒に飛んでくる。


[恵助は嘘をつくのが下手で、愚直だって言うのは私も大賛成だけど]


――待て待て待てぇ!何でお前にまでそんなこと言われにゃならんのだ!確かに嘘をつくのは苦手だから俺が愚直だとか言うのは、まあ、何とか飲み下すとしても、これじゃ断れないじゃないか!


[そうね、お手上げかも。今度はこんな辛気臭いところなんかに入る気がないってしっかりといってみるとか]


――辛気臭いは余計だけど、それだとなんだか申し訳ないだろ。


「あらあら、残念。ごめんなさい恵助君。確かに急すぎたし、オカルト研究同好会なんてあまり入りたいと思わないものね。部活動見学は先が長いことだし、おいおい興味がわいたり、霊感に目覚めたようならこの同好会に入ってもらえるかしら。基本的に活動は自由って言うのがうちの売りでもあるからばいととかもできますしね。」


[むぅ?]


二十重さんの言葉に急にレイコは腕を組んで顔をしかめ始めた。


「え、あ、はい。失礼しました」



「また来てくださいね。それと、この同好会のことは口外厳禁でお願いします」


軽く首をかしげて二十重さんは手をふった。


恵助は一度礼をして再び迷路のようなモノの山の間を縫って開かずの間を出た。



薄暗いところから急に出たため窓から差し込んでくる日光が眼球に突き刺さる。


それと同時に、はぁぁぁ、と無意識に長いため息が出た。



どっと疲れた気がする。

たかだか二十分かそこらでこれほど疲れるのは初めての経験かもしれない。


[意外ね。こんなにあっさりと引くなんて。周囲の目も省みずにわざわざ恵助を呼び出したって言うのに。]


恵助が空っぽになった肺に大きく息を吸い込んだとき、さっきから考え込んでいたレイコが口を開いた。



――レイコ、と、言うのはつまり…どういうこと?


[つまり、何か裏があるってことよ。気をつけたほうがいいかもね。]


――ってことは、つまり…ごめんどういうこと?


[バカッたぶん恵助が他の部活に入ることなくここに戻ってくる算段がもうあるのか、これからここに戻ってくるような心代わりを仕込む気満々ってことよ]



――な〜んだ。良かったそれなら大丈夫じゃないかな。二十重さんはそういうことをしそうな感じじゃないしさ。


レイコは間の抜けた恵助の言葉を聞いて、髪をかき上げながら残忍な笑みを浮かべ。


そして、階段をテンポ良く駆け下りていく恵助の背中に、小さくつぶやいた。



[ふふん、女は怖いのよ。そんな間抜けな顔をしていたらどうにもならなくなっちゃうんだから。]


――何してんだよ、おいていくぞ〜早く教室に戻らなきゃだからな!



恵助は階段の踊り場からきょとんとした顔を覗かせる。


レイコはまったく気づいていない恵助に小さくため息をついて。


[わかった。とにかく気をつけなさいってこと。それと、私はまっすぐ行くから結局恵助のほうが遅いのよ]



ちっちっちっ、甘いな恵助君。

なんていってレイコは垂直に床をすり抜け、一直線に教室に向かっていった。



「二十重、あのまま帰してよかったか?霊感云々は信じられないけれど、彼は何か知っていた風だった。」


初音はメガネをはずし細かく拭きながら目を細めて二十重を見た。


右横、やや椅子の後ろに立っているので、振り向かない二十重の顔は見ることが出来ない。


「私、霊感はないんだけど、それとは違うシックスセンス、言うならば直感は人よりも鋭いみたい。」



そういいながら机の引き出しを勢い良く開けると、そこには恐ろしく度の強い瓶底の様なぐりぐりメガネがぎっしりと詰まっていた。


ふらふらと指先をさまよわせた後、黒縁のレンズが頬骨の頂点ほどまで広がったものを選び出す。


「それで、恵助君を見て確信したの。彼には霊感があるわ。もしかしたら知覚した上であのアパートの霊と暮らしているのかもしれない。」



そう言いながら二十重は美しい黒髪を乱暴に、黒いリボンで瞬時にまとめた。


「そう。二十重が言うならそうなんだろう。」


二十重はその間もふわりと首元に巻いてある緑のスカーフを、不器用に、硬く巻きなおす。



初音は言葉を区切って、小さく微笑んで。


「なんにしても、私は、その二十重のほうが、好きだ。」


そっけないような、それでいて真綿の上からゆっくりと重たくなるような初音の言葉が終わるころ、二十重はぐりぐりメガネをかけた、入学式のときとは似ても似つかない姿になっていた。



「ふふ、ありがと。じゃあ行きましょうか。」


「コースは調べてある。誤差は十パーセント以内のはず。」


アナログの揺らめくろうそくの光の中、ぽっかりとテンゴクへの窓が開いたようにノートパソコンの青白い光が二十重の顔を照らす。



「…うん。十分。さすがは初音ね。」


「すごいのは二十重のもつ情報網のほうだ。」


下がってもいないメガネを上げ直し、初音はかちりとパソコンを閉じた。


「この方法は不本意だけれど。たまにはね。」



二十重は学生かばんから取り出したいまどきの軽量化からすると無骨すぎるトランシーバーのような携帯を取り出し、どこかへゴニョゴニョと電話をかけた。





教室の後ろ側のドアを引いたとき、電気がついていない教室の中に一人も欠けずにいたクラスメイトたちはいっせいにこっちに振り向いた。



ヒッと、すぐ後ろにいたレイコが小さく息を呑む。


教室を支配するのは衣擦れの音のみ。

六十八の視線はすべて恵助に向いている。



[恵助、これは早いところかばんを取ってきなさい。ここはまずい。]


―――そうみたいだね


目的地は名前の順の並びでほぼ教室の中心の席だ。


一歩踏み込むと、取り囲んでいる視線から、消えていた殺気と興味津々なモノがよみがえっていく。



足が重い。


のどがカラカラになってくる。


死地に向かう人間はこんな気持ちなんだろう。



今日ほど自分の名前を憎らしいと思った日はない。

もし俺の名が輪島洋介だったなら確実に一歩でこの空間から退避できたのに。



しっかりと捕捉されているけれど、いまさら気配を消して。

今日配られたプリントの類を一秒でかばんにねじ込む。



「じゃあ、また明日。」


教室の中心で、気の抜けた油断でしかない恵助の一言が、剣呑とした男たちの殺気に掻き消えたころ。


馬鹿。

とつぶやいて、レイコは頭を抱えた。


そしてそれと同時に、ダムの壁が決壊したように質問の嵐が飛んでくる。



もはやそれは騒音といっていいほどで、たまに聞き取れた質問のほとんどが『二人でどこに行ったのか』『いったい会長とはどういう関係なのか』『いったい会長に何をしてきたのか』一度だけ『弟子入りさせてくれ』ってところだった。


「悪い、今日は忙しいから帰らせてもらうよ」



かなり大きな声でそう叫ぶと、押し寄せる人波を潜り抜け恵助は教室を飛び出し、そのまま一気に靴を履いて校門をくぐりぬけた。


[バカッ!相手はこっちの隙をうかがっていたのに、何であんなところで、あんなタイミングで、あんな間抜けなこと言うのよ。えらいことになるのなんて見え見えなのに!]


家に向かって走る恵助に飛びながら腰に手を当てて怒るレイコの様子は、まさにプンプンという擬音が出そうなほどだ。



「いや、あの沈黙は耐えられなくって。」


[さっきのあなたは草食のくせに自分から肉食獣の射程に入っていって、ひざを折って座り込むみたいに不用意で愚かだったわ。ちょっと気をつけなさいよね。]


「わかったよ。今度から気をつける。けど、話がおかしな方向へ言ってるぞ」


[恵助があまりに間抜けだから怒っているのよ。そんなこともわからないわけ?]


「だからゴメン。もう家に着いたからそんなに怒るなって。かばん置いたら街を散策するんだろ?」



携帯電話を耳に当てて、近所の奥様方の目をごまかしながら恵助はアパート横のさびた階段を見上げた。


[む、まあいいわ。あなたが間抜けなのはココしばらくの生活でわかっているし。じゃちょっと待っていてね。]


レイコはくるくると旋回飛行しながら階段を飛び越え、扉を突き抜け鍵を開けた。



鍵は持っているけれど、いつの間にか、これが日課になっていた。


[おいっす。おかえり〜]


頼りない音を立てて玄関の扉を開くと、居間の引き戸を開けて顔だけ出して、中途半端に演技しながらレイコは手をひらひらさせていた。



「うん、ただいま。」


恵助も答えるように手を振ってから、荷物をたたんだ布団の上に放り投げた。



昔から、姉貴は家を空けがちだったし、親父は正月だってめったに顔を見せないしで、家に誰もいないことには慣れていたけれど。

一日中憑かれて回っていた後でもやっぱり誰かが家で迎えてくれるというのはなんだかいいもんだな、なんて思う。



[なんだかケースケ考えることが親父臭いやねぇ。]


「勝手に人の思考を読み取るなって!だいたいレイコこそだんだんおばさん臭い口調になっていってるじゃないか」



パキ。



本棚が軋む。


[そりゃあ、私は見た目よりも彷徨っていますし、何よりも勝手にケイスケのココロの表層を覗き見たわけだけれど。]



ピシ。



窓ガラスが揺れる。


しまった。

どうやら触れてはならないところに触れてしまったようだ。



キレイに微笑むレイコの額には血管が浮き出ているような気がする。


そして、その笑顔は今まで見たどの様子より恐ろしい。



[言って良いことと悪いことがないかしら]


後ずさりして、さりげなく玄関に近づく。



カタリ。



棚の上の小物が倒れていく。


「いや、売り言葉に買い言葉って言うか、その。」



靴を引っ掛けるように履いた。


[その、なに?]



後ろ手で玄関のドアノブをつかむ。



「悪かった。」



ペキリ。



転がっていた割り箸にひびが入る。


ゆっくりと、第六感の危険信号の赤ランプに光がともっていく。


チリ、とうなじがざわめいた。


レイコは表情も変えずにウフフフフフフフフと、不気味に笑うと。



[許してあげない。]



といって、ざわりと、風景が曲がってみえる何かを飛ばしてきた。


「ばっ、殺す気かああああああああああっ」


玄関をぶち開けて階段を駆け下りるとドゴォ〜なんて轟音と一緒に今いたところを衝撃波が駆け抜けた。


[そんなつもりじゃなかったけど……なんだか意味がわからない衝撃波出ちゃった〜]



アパートを下から見上げると、レイコは玄関をくぐって一直線に飛んできた。


向こうの怒りは収まったらしいが、さっきのあれは下手したら死に至る衝撃波だ。


照れ笑いのようなものを浮べてはいるがあんなのを見せられると本当はこいつ狙ってやっていたんじゃないか、とか不安が頭によぎってしまう。



「今回は俺も悪かったから許すけど次にあんなの放ってきたら強制的に浄霊してやるからな!」


[出ちゃったんだからしょうがないでしょ。わざとじゃないんだし。何本気で怒ってるのよ。]


レイコは今の必殺衝撃波のことを、すねたような態度でごまかそうとしている。



「言うべき言葉が違うだろ」


命の危険が隣にあるのだ。

ここばかりは譲れないと恵助が詰め寄ると、レイコはあきらめたように肩を落とした。



[ごめんなさい。]



「よし。じゃあこの話は終わり。まず街のほうから散策してみるか。」


[え〜、それよりも聖地公園のほうがいいよぉ〜]


「何でまたいきなり墓地しかない、公園とは名前だけの場所を選び出すんだよ」


[だって私、幽〜霊〜ですから〜]


ひゅ〜どろどろなんて効果音を背中に背負うレイコ。


「買い物がてら町の中に行くから諦めてくれ。」


[な、なんでよぉ〜]


「だってさ、一体どれくらい霊がいるかわからないだろ。残滓どころじゃなくなるって。」



携帯でカモフラージュしながらそんな話をして街の中を歩き回ってみたが、残念ながらレイコの記憶の残滓は見つからなかった。


そのくせ、まあこんな日もあらぁね。


なんてわけのわからない男らしさを発揮するレイコは、大物だったのかもしれないな、なんて思った。





「二十重、口元だけはしっかりととって。後で解析するから。それと、あの延々かけ続けている携帯電話。一応発信状況だけ調べて。後は先ほどの家での動きとGPS探知した今日のルートを解析して何か意味があるのかどうか。」


「初音、あなたなんだか生き生きしていない?」


「そんなことはないけれど。そう、二十重が楽しそうなのを見るのは悪くないからか」


冷静な、抑揚のない声で初音は振り向きながら答えた。


「そう?ならそういうことにしておいてあげる。」


すべてを見透かしたような微笑を浮べて二十重はずり下げたメガネの上から初音を見やる。


「二十重!な、なにを……」


電柱の影で初音はノートパソコンを覗き込み、うつむいた。


パソコンの画面には、衛星から送られてくるアップにされた恵助の姿が映っていた。


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