1-3.おとぎ話
終業式の朝。集会のために体育館へ向かう列の中で、真雪がパクチャーを送ってきた。
『十六時に、屋上で』
『どうしてだ?』
今日は集会が終わったら、ホームルームだけで解散だ。昼前には帰ることが出来るのに。
『……秘密です』
口元に人差し指を当てて、柔かく微笑む真雪。楽しげな、哀しげな、そんな複雑な表情をしていた。
夏休みの生活指導や受験生への激励など、お決まりで退屈な校長の話を聞き流しつつ、俺は真雪のことを考えていた。改まっての話とは一体なんだろうか。
全く内容が想像できない、わけでもない。良すぎるほどに仲がいい、俺と真雪。だが、お互いに身の上話をしたことはなかった。
可能性としては、このごろ体調を崩しがちな俺への詰問。または真雪自身の謎に対する回答。
まさかとは思うが、告白なんてことはないだろう。馴れきってしまった二人には、恋心を打ち明けるようなきっかけがない。
教室に戻ってからのホームルームが終わったのは、正午を少し過ぎたころで、校舎の中は次第に閑散とし始める。気がつくと真雪は消えていて、俺は独りで取り残されていた。
* * *
「真雪……」
小さく呟いた俺の声に、いや屋上の鉄扉が軋む音に気づいて、少女が振り返る。彼女の表情には、淡い微笑が浮かんでいた。
夕刻とはいえ、真夏の近い空はまだ青く、果てしなく澄み広がっている。視線を空に戻した真雪の横顔に、一瞬あの冬と同じ感情を抱いたのは何故だろう。
空の向こう側を見つめるような遠い目。それが、とても哀しそうに見えたのは――
「綺麗だよね」
フェンス際に立ち尽くす真雪に歩み寄ると、ぽつりとそんな言葉が投げかけられる。
「この世界の空って、いろんな表情を見せてくれる……漆黒の夜、月と星々、白銀の雪景色、茜色の夕焼け、晴れ渡る蒼穹。あたりまえに在るものだけれど、それって奇跡のひとかけらだと、そう思いませんか?」
「……そう、かもな」
真理を辿る真雪の言葉。普段は考えもしないことだが、彼女の口から出たものなら、いまは自然と頷けた。空へと伸びた真雪の腕は、神秘を抱いているようでさえあった。
真雪は静かに佇んでいるだけで、用件を語り始める気配がなかった。何か予感のようなものを感じて、覚悟を決めて俺は彼女を促す。
「話があるんだろ?」
「……はい。聞いて、くれますか? 遠い世界のおとぎ話を――」
――むかしむかし、天空に築かれた水晶のお城に、美しいお姫様がいました。お姫様は民のために、生れた日から永遠を眠る運命を背負っていました。しかし、せめてもの思い出にと地上に降り立ったお姫様は、そこで恋をしてしまいます。天空のお姫様と地上の青年。二人の恋は、許されないものでした。けれど、心の奥深くに積もる温かく切ない想いは、溶かすことが出来ないのです。青年と結ばれたい、そう願ったお姫様は、天空に帰ると身近な人々に訴えました。
「どうして私は、囚われていなければならないの?」
「どうして私は、眠っていなければならないの?」
しかし、誰も本当のことを言おうとはしません。古いしきたりで決まっていることだからと、口を噤みます。天空には秘密があったのです。後に、お姫様は秘密を知ることになるのですが、重すぎる秘密に我侭を通すことが出来ず、苦しんでしまいます。どうしようもなく悩んだ末の選択肢は、たった二つ。自分ひとりの幸せと、世界みんなの幸せ。天秤にかけることなど不可能な選択です。結局、お姫様は地上の青年と別れて、泣きながら天空へ戻ったのでした――
真雪が紡いだ物語は、それこそおとぎ話のような、途方もなく夢想的なものだった。だが、表情は深い哀しみで色取られていて、彼女にとっては真剣なことなのだと分かる。
「――お姫様が幸せになるには、どうしたらいいの? 青年と結ばれるには、どうしたらいいの? ねえ、どう思いますか?」
突拍子もない話に混乱しながらも、真雪の必死な様子に触発されたのか、俺は真面目に答えを探していた。単に状況に流されているだけかもしれないが、自分なりの答えを見つけなければいけない。そう、思ったのだ。
「あー、いまいち理解できてないんだが……お姫様が困ってるなら、男が天空に行って助けてやればいいんじゃないのか?」
「えっ?」
「何でもかんでも、一人で抱え込むことないだろ。秘密だって、共有すれば少しは軽くなるだろうし。何か出来ることがあるかもしれないし」
驚きの表情で目を見開いて、真雪は俺を見つめていた。そんなに意外だったろうか。確かにおとぎ話とは縁遠いかもしれないが、普通の回答だと思うのだが。
「そっか……ありがとう」
「どう、いたしまして?」
感謝されるようなことは何も言ってない。感じたままを言葉にしただけだ。それでも真雪は、何故か嬉しそうに笑っていた。
「えへへ。用はこれだけです」
「訳わかんねーよ」
「わかんなくていいですよ。聞いて欲しかっただけだから――それに、答えを貰えたから……勘違いでも思い込みでも良い。希望が欲しかっただけだから」
独り言のような呟きは、俺の耳まで届かなかった。
「何か言ったか? よく聞こえなかった」
「……なんでもないです。先に、帰ってもらえますか?」
「え? あ、あぁ……」
突然のお願いに戸惑う余裕さえなかった。そっとしておいたほうがいいのかもしれないと思い、素直に背を向けて立ち去ろうとする。
「それじゃあな」
「――祐介くんっ!」
振り向いた俺に、真雪が何かを告げる。
「――――」
瞬間、屋上を吹きぬけた一陣の風にさらわれた真雪の言葉を、俺は聞き取ることが出来なかった。
ただ、彼女の胸の前で祈るように組まれた手が、やけに印象に残って脳裏から離れなかった。