1-1.真実のはじまり
いつからだろう。
胸の中の「好き」という気持ちが抑えられなくなったのは。
わたしは恋をした。永い時のなかで、初めて恋をした。
はじまりは、もしかしたら罪悪感からだったのかもしれない。
残してきた彼に、よく似た男の子。想いを寄せてくれていた彼。
だけど、いまは違う。
わたしは――真雪は、マユキのままで恋をした。
* * *
キーン、コーン、カーン、コーン……。
「よーし、解答やめ! 後ろから回収しろ」
チャイムと同時に試験監督の先生が声を上げ、筆記用具が置かれる音と一緒に、全員がいっせいに溜め息のような声を洩らす。
「終わった……」
あらゆる意味で。
佐藤祐介、十八歳。今年の受験を見据えた、大事な夏――
自分にしては結構がんばったつもりだったが、平均が取れるかどうかというところだろう。教えてくれた彼女に申し訳ない気がする。
窓際後方に目をやる。
純血の日本人だというが、珍しすぎる銀髪の少女。空を仰ぐその表情は、儚く見えるがゆえに神秘的ですらあって、思わず見とれてしまう。
そのうち俺の視線に気がついた彼女は、口パクとジェスチャーで会話を試みてくる。
『――どうでした?』
俺たちの間では定番の行為だけに解読も容易い。
『ヤバイ、ピンチ』
がっくりと肩を落として出来が悪かったことを伝えると、彼女は頬をむっと膨らませて睨んできた。
『せっかく、教えてあげたのに』
『ゴメンナサイ』
手を合わせて平謝りすると、何か考えるような素振りをしてから彼女はまた「パクチャー」――口パクとジェスチャーを合わせて勝手に命名した――を送ってくる。
『それじゃあ――』
彼女の両手がいくつかの数字を表す。
――六十、一、七。
問題用紙を指差し、何かを口にやる仕草。親指と人差し指で円を作り、にっこりと笑いかけてくる。
「えっと……六十点、ひとつ、七回――試験、飯、金?」
ジェスチャーの解読に成功すると、彼女は口パクで確認を求める。
『ひとつでも六十点以下の科目があったら、ご飯おごりですよ? 七回くらい』
とんでもない要求に、俺は反論する。
このとき、わけもなく机をガタンと揺らしたため注目を集めたのだが、俺も彼女も気づかなかった。
『なんで七回なんだよ!』
『んと……なんとなく?』
首を傾げられても困る。学生にとっての死活問題であるだけに、譲れない線があった。
『せめて、三回。それ以上は無理』
『中間考査のぶんは?』
痛いところを突いてくる。もう忘れたと思っていたのだが、これは仕方ない。
『足しても五回だろ!』
『……そういえば、バレンタインのお返し貰ってません』
うぐっ。そんな前のことまで覚えてるとは――痛すぎて何も言い返せない。
考えるフリをしてそっぽを向き、恐る恐る視線を戻すと、ジト目で恨みがましく見つめてくる彼女がいた。
『あー、七回な……ワカリマシタ』
交渉材料がない。いやむしろ、これ以上つづけたら増える気がしたので、了解する。
頭のなかで財布の中身と相談をはじめた俺を、彼女はくすくすと笑って見ていた。
「――もう、いいのかしら?」
頭上から降りかかった声に顔を上げると、担任の女教師が苦笑いを浮かべながら俺を見下ろしていた。どうやら、ずっと観察されていたらしい。中間考査のときも同じことをやったというのに、俺たちは懲りないなぁ。
「校舎内、恋愛禁止。外でイチャイチャしてね」
先生のからかいに教室が沸く。そのなかで彼女――姫宮真雪は、真っ赤になって恥ずかしそうに俯いていた。
「祐介くん、帰ろ」
「ああ」
ホームルームの終わった教室で、真雪が寄ってくる。
「お前らはホント仲いいよなぁ。さっさと、くっついちまえばいいのに」
友人のひとりが冷やかすように言うが、俺も真雪も苦笑するだけだ。いままで何度となく言われてきて同じように返していた。
俺はともかく、真雪の反応はよくわからない。
純真無垢といった感じの彼女の性格なら、さっき先生にからかわれたときのように照れて顔を赤くすると思っていたのだが、何故か哀しそうな色を交えて、困ったような笑みを向けてくるのだ。
俺は真雪のことが好きで、自惚れかもしれないけど――真雪も俺のことを好きでいてくれているはず。
だがそれでも、お互いに踏み出せない理由がある。だから、ぬるま湯のような心地よい関係で満足してしまっている。それはきっと仕方のないことで、無理に秘密を暴いて友達以上恋人未満の関係を壊そうとは思わないのだった。