Gap 食い違う記憶
澪の新しい住居は、大きなマンションだった。私の家から、歩いて15分。割合に近い。
「私の部屋は、ここの10階だよ」
「大きい……」
唖然とする私に笑って、澪はオートロックのガラス扉を鍵で開けた。澪に続いて私も中に入る。
エレベータに乗り、10階まで上がる。「青柳」と書かれたプレートがかかっているのは、一番奥の角部屋。
「ただいまー」
澪が声を掛けると、奥から澪と同じ明るい茶髪の、エプロンを付けた女性が現れた。私の覚えている顔と、ほとんど変わらない。
「お帰りなさい、澪。遅かったわね」
相変わらず若いなあと私が驚いていると、女性……つまり、澪の母親が口を開いた。
「うん、涁に会ってね、久しぶりに家に遊びに行っていたから」
「連絡くらい入れなさいよ」
「メールしたけど?」
「え?……あら、本当。マナーにしていたから、気付かなかった」
……相変わらず、ちょっと抜けている。
「あら?えっと、その子は……」
その時、おばさんが私に気付いた。さて、どうなることやら。
「涁、だよ」
澪がいたずらっぽく笑いながら、はっきりと言った。きっと、自分と同じように驚く事を期待しているのだろう。
……けれど。
「ああ、そんな暗い所にいるから気付かなかったわ。久しぶり、涁君。去年年賀状で見たから分かっていたはずだったんだけど、やっぱり大きくなったわねえ」
おばさんは、そう言ってにっこり笑った。そこに不自然さは、ない。
「…………え?」
澪が呆然と目を見開いた。
「お久しぶりです、おばさん。すみません、澪をこんな遅い時間まで引き止めてしまって……」
澪が何か言う前に、私はそう言って丁寧に頭を下げた。
「あら、良いのよそんな事。8年ぶりだもの、話す事、いっぱいあるはずだもの。少し上がっていかない?お父さんもいるのよ」
「いえ、悪いですし……」
「遠慮なんてしなくていいわよ。さあ、上がって。何をしているの?澪。貴方が上がらないと、涁君が入れないわよ?」
屈託なく笑ってそう言う母親を、澪は混乱した顔で見上げた。そのまま口を開こうとするので、ブレザの裾を軽く引いた。
澪が振り返る。目で促した。澪は、泣きそうな顔をした後、向き直り、黙って靴を脱いだ。
廊下を歩き、突き当たりのドアを開くと、広々としたリビングが目に入った。シンプルな家具が、無駄無く配置されている。センスのいい部屋だった。
ソファを薦められ、紅茶をだされた。お礼を言ってから、一口すする。
澪は私の隣で、口を開いては閉じ、俯いてはまた顔を上げ、を繰り返していた。両手がきつく握られている。
足音がして、廊下に続くドアが開いた。中年の、しかし、若々しさの残る男性が入ってきた。
細身ながら、運動をしていると一目で分かる体格。その年代の人に珍しい細面は、知的な雰囲気を感じさせる。口元が澪に似ていた。
「久しぶりだな、涁君。随分と大きくなった」
そう言って、男性……澪の父親が微笑んだ。立ち上がり、頭を軽く下げる。
「お久しぶりです、おじさん。お変わり無さそうで、何よりです」
「……本当に、立派になったな。時の流れるのは早いものだ」
私達の会話を、澪は泣きそうな顔で見ていた。
紅茶をだしてから奥に下がっていたおばさんが戻ってきた。手にはアルバムと、はがきを持っている。
「澪が今朝、涁君に会うかもしれないって言ったのを聞いて、何だか懐かしくなっちゃって、押し入れから出してきたの。涁君も、見る?」
「ええ、是非」
おばさんに会ってすぐに浮かんだ予測を確認する為にも、頷いた。
アルバムを開く。幼稚園の写真だった。澪と私が、砂遊びをしている。2人の来ている服に、何となく見覚えが会った。
ページをめくる。卒園式だ。2人ともおめかしさせられ、精一杯気取った笑顔で家族と共に写っている。
更にページをめくる。小学校入学式、夏休み、プール…。曖昧な記憶の中に残る思い出が、鮮明に正確に切り出されている。
ただ1つ、私が男の子である事だけを除いて。
澪が息を呑む音が聞こえた。私は年賀状に手を伸ばす。
家の前で、家族全員が写っている写真だった。セルフシャッタで撮った写真。メカ音痴の両親に変わって私がセットした。
その写真もまた、今の私が少し幼く写っている。
「毎年年賀状を送ってもらっていたけれど、やっぱり写真と実物は違うわね。涁君、本当に大きくなって。さっき見たとき、一瞬本当に誰だか分からなかったわ」
その後、おばさんとおじさんがいくつかの昔話をした。相槌を打ったり、一緒に笑ったりしながら、私はある事に気付いていた。
2人は、私が「女」であると分かる手掛かりとなる記憶を、一切失っている。変えられる事の無いまま、つなぎ合わされた記憶は、見事に私の性別を曖昧にしていた。
クラスメイト達よりも記憶に干渉する割合が小さい理由は、随分会っていなかった事、私達が小さかった事につきるだろう。
澪は両親と私が話している間、ずっと俯いて何も言わなかった。隣で座っている私に、小さな震えが伝わって来る。
「それにしても涁君、昔から顔立ちの整った子だと思っていたけれど、本当に男前になって。澪も惹かれたんじゃない?」
おばさんがいたずらっぽく笑って言った。恋愛に繋がるのではとからかう、他愛も無い娘とのコミュニケーション。普通なら、笑って、あるいは、ちょっと慌てて否定する場面だ。
でもそれは、澪には我慢できる事じゃなかった。
「どうしてなの!?どういう事なの?意味分からないよ!何でお父さんお母さん、そんな当たり前みたいに……!」
突然叫ぶ澪に、両親がぎょっとした顔をした。
「澪、落ち着いて」
手を肩に置いたけれど、澪はそれを激しく払いのけた。
「涁も涁だよ!何でそんな平気な顔しているの?どうして笑っていられるの?」
「澪、一体……」
おばさんがおそるおそる声を掛けるも、澪は聞こえていないようだ。
「こんなの、おかしいよ!私は絶対認めない!!」
澪はそう言ってリビングを飛び出した。
「澪!」
慌ててソファから立ち上がった。そのまま澪を追いかけようとして、おじさんに引き止められた。
「待ちなさい。涁君、君は何を隠している?」
おじさんの顔は、厳しく引き締まっていた。
「澪は、ちょっとした事で取り乱すような子ではない。その澪が怒鳴るなんて、何があった?」
「……説明は、少し待って下さい。今は澪と話があります」
澪がしようとしている事は、大体想像がついた。それは4ヶ月前、私がした事と同じ。……私の過去を、探すこと。
「玄関を開ける音は聞こえなかった。おそらく澪は、部屋にいるはずだ。涁君はもう高校生。異性の部屋に入る気かね?」
おじさんの目が、私を射抜いた。おばさんが、動揺を隠しきれない表情で、しかしおじさんと同じような目をして私を見た。…あの時、私の両親が見せたのと、同じ目。
「澪は気にしません。僕もです。そういう関係になる気は一切無いし、なるはずもありません。たとえ僕が入ったとしても、澪は気にしない。それに、ここは僕が行かなければならないんです」
おじさんの目を真っ直ぐ見ていった。優しい目で私と遊んでくれた彼は、私によく言った。
『人と大切なお話をする時にはね、相手の目を見て話しなさい。目も見れない人の言う事は、信じちゃ駄目だ。人の思いは、目に映るものだよ』
だから私は、詳しく告げないまま、信じてもらう為に、絶対に目を逸らさずに訴えた。
おじさんは、しばらく私を見つめた後、頷いた。
「分かった。君を……信じよう」
「ありがとうございます」
一礼して、素早く身を翻した。