Explanation 事実と慰め
記憶と寸分変わらない一軒家の前で、私達は立ち止まった。涁が鍵を取り出し、ドアを開けた。
「ただいま」
「おじゃまします」
少し緊張しながら、玄関に上がる。私達の声に答える人は、いなかった。
「涁、お母さんは相変わらず?」
「うん、父さんも母さんも、夜遅くまで働いてる。……裕真、そこにいるのは分かってる。さっさと出てこい。お客さんに失礼だろ」
「うう、気付いてたか……」
階段の影から、中学生くらいの男の子が出てきた。裕真ってことは、つまり……
「澪、覚えてる?弟の裕真。裕真…は覚えてないだろうな。俺が小2の時に引っ越した、青柳澪。何度かうちにも遊びに来てる」
「覚えてる訳無いじゃん。俺幼稚園だよ?」
「私は覚えてるよ。久しぶりだなあ」
見上げるようにして裕真君に笑いかけた。裕真君は少し緊張気味だ。
「……さて、裕真。何か言う事があるんじゃないのか?」
不意に涁がにっこりと笑って裕真君にそう言った。凄くいい笑顔なんだけど、目が笑ってない。眉目秀麗な男の子の笑顔ってただでさえ迫力があるのに、微妙に漂う怒気と合わさって、かなり怖い。
「ははははは……。ね……兄ちゃん、怖い」
顔を引きつらせる裕真君。
「何か弁明は?」
「ありませんごめんなさいっ!」
涙目になりかけながら謝る裕真君に、涁はとどめを刺した。
「裕真、お前、今日から2週間、掃除・洗濯・風呂当番」
「えーっ!酷い!!何もそこまで……」
「裕真が馬鹿やったおかげで、どれだけ大変だったか説明しようか?」
「うっ……」
裕真君が抗議するも、涁の言葉に黙り込む。
「ねえ涁、何の事?」
「……あー、まあ、澪だからいっか。こいつ、俺が外出している間に受けた高校からの伝言、伝え忘れたんだよ。新入生総代の挨拶、選ばれてたって知らなくて、リハーサルも不参加。実はぶっつけ本番だったんだよね、おかげで」
「……そうだったんだ」
それはまあ、怒るだろう。
それにしても涁、あれ、即興だったんだ。ものすごくいい出来だったから、かなり練習したのかと思ったんだけど。
「さて、部屋に上がろうか。裕真、今から大事な話があるから、部屋に来るなよ。掃除でもしてろ」
「兄ちゃん、いくら幼馴染でも、女の子をいきなり部屋に上げたら、母さんに怒られるよ?」
からかい気味の裕真君の言葉。あれだけ脅されてて、もう復活している。大したものだ。
……裕真君も、知らない、のかな。
「裕真、1つ言っておく事がある。澪の家には、去年まで毎年、年賀状を送っていた」
「…………あの、写真入りの?」
そのやり取りで、ああ、知っているのかと分かった。
「そういう事。という訳で裕真、しっかり掃除してなさいね?」
最後だけ口調を変えた涁は、「だからやめろって!」と叫ぶ裕真君を無視して、私を連れて2階に上がった。そこに涁の部屋がある。
「座って」
涁が机から椅子を出して、勧めてきた。頷いて座ると、涁はベッドに腰掛けた。
「さて、澪。改めて、久しぶり」
そう言って、涁は笑みを浮かべた。
頷いた後、少し迷ったけれど、単刀直入に聞く事にした。
「……涁、何があったの?」
涁が困惑した表情を浮かべた。
「……正直、未だによく分からないんだ」
涁はこの4ヶ月弱の事を話してくれた。冬休みが始まった日、ふと気が付くと自分が様変わりしていたこと。誰もが涁を、昔から男子だったと思っていて、微妙に記憶が変わっていること。戸籍もいつの間にか書き換えられていたこと。
「どうしてこうなったかとか、何があったのかとか、さっぱり分からない。けど、他にどうしようも無いから、こうやって皆を騙してる」
涁はそう話を締めくくって、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「騙してるだなんて……」
「事実だ。澪ももう、分かってるだろ?いくら周りがそう思い込んでいるとはいえ、俺に役者の才能があるとは思わなかった」
反論しかけた私に、涁がそう言った。冗談めかしてはいるけれど、目は笑っていない。それで、納得せざるを得なかった。
幼い頃、ずっと一緒にいた私の目から見ても、涁は見事に男の子を演じている。所々、仕草に昔の癖が残っているけれど、それは私だから辛うじて分かるくらい。その癖も、男子が持っていても不自然じゃないものばかり。どう見ても、ごく普通の男子生徒だ。
「それにしても澪、よく話しかける気になったな。講堂で見て、驚いただろう?」
そう言って涁が笑う。それに合わせて笑ってみた。
「うん。涁は清条高校に入ったと思っていたのに、掲示板に名前が無くて、凄く不思議だったんだ。で、講堂で名前を聞いてほっとしたら、男の子が出てきたんだもん。アナウンスが間違ってるのかと思った」
「掲示板……ああ、そう言えば男女別だったな。普通の高校なら、クラス毎に名前を掲示するから、同姓同名の奴がいるんだな、と思うだけだっただろうに」
納得したように頷く涁。
「うん、それだったら話しかけなかったと思う。あの時は、半信半疑だったけど、涁、当たり前の顔して私の名前を呼ぶんだもん」
「誰も驚いた事が無かったから、澪もそうだと思ったんだよ」
そう言って涁が苦笑する。そっと聞いてみた。
「ねえ、誰も気付かないの?」
「……ああ。母さんと父さん、裕真。知ってるのはそれだけ。じいちゃんばあちゃんでさえ、男だと思ってる。それにしても、最初俺を見た時の父さん達の反応はすごかった。もう少しで追い出される所だったな」
そう言って、涁が小さく笑う。まるでどこかが痛いのを、堪えているみたいに。
「……裕真君、兄ちゃんって呼ぶんだね」
「今朝から。言葉遣いも変えろって言われた。ぼろを出さない為には、仕方が無いな。……まあ、あいつは単に、気味が悪いらしい」
そう言って涁は、肩をすくめた。
「ま、気持ちは分かる。これが逆ならまだしも、男が女言葉つかうのは、生理的に気持ち悪いもんな」
涁はおどけた顔をして、最後は独り言のようにそう言った。無理に明るく振る舞う涁に、我慢できなくなった。
椅子から立ち上がり、涁に歩み寄る。
「澪?」
当惑気味に見上げる涁の肩を、そっと抱きしめた。顔は、あえて見ない。
「気持ち悪くなんか無い。涁は涁だよ」
「……澪」
「私の前でまで、無理する必要ないんだよ?気を使わなくていいの」
そう言って、腕に力を込めた。
『新しい友達が出来たんだ。個性的だけど、すっごくいい子』
『今私は、麻菜、香奈、美樹って友達といつも一緒なの。親友って言っていいと思う。毎日馬鹿な事しながら、大騒ぎしてる。澪にも紹介したいな』
中学に入ってから、届いた手紙。文章から、文字から、楽しそうな雰囲気が伝わってきた。ちょっと羨ましかったけど、涁に仲がいい子が出来て、私も何だか嬉しかった。いつか会ってみたいと思っていた。
けど、それが実現した時には、彼女達は覚えていなくて。今日久しぶりに彼女達の名前を呼び、涁「君」と呼ばれた時、涁は凄く寂しそうだった。
捩じ曲げられた記憶。皆から、涁が知る過去が消され、涁の知らない過去が勝手に刻まれて。そのまま皆に話を合わせて、距離を置いて。平気な訳が無い。
それでも笑っている涁を見ているのは、辛い。
「今まで、大変だったね。ずっと独りで、頑張ってきたんだ」
涁の肩が、大きく揺れた。強張る背中を優しく撫でる。
「力になれなくて、ごめんね。でも、もう大丈夫だよ。私は涁の事、ちゃんと覚えているから。涁の、味方だから」
「……澪。今の状況、他人から見るとかなりマズいんだけど。自覚ある?」
涁は笑いながら冗談めかしてそう言うけれど、声が、震えていた。
「関係ないよ。言ったでしょ、涁は涁だって。……だから、我慢しなくていいんだよ」
涁は黙って、私の肩に額を押し付けた。少しして、小さな嗚咽が聞こえてきた。頭にそっと手を置く。
私はそのまま、涁が泣き止むまでずっと、涁を抱きしめ、頭を撫でていた。