第一話 ~Wizards' Cafe~ ②
ユキは少し前に「魔法使い」という言葉を知った。
その言葉の大本の由来は某大型匿名掲示板のようだが、ユキがその言葉を知ったのはさっきのようなクラスメイトの会話の中でだった。
たとえ机に突っ伏していても、いやだからこそ、ユキにはクラス中の会話が聞こえてくる。ユキには、クラス中の会話の内容を把握しているのは自分しかいないという自信すらあった。
授業の間の休み、昼休み、放課後。日々聞こえてくる雑多な他愛もない話の中で、不意にユキの耳に届いたその単語はまさしく異様だった。誰の口から出た言葉なのか、ユキはすでに覚えていない。しかしユキは日常生活の中に飛び交うその「魔法使い」という単語に、いつにない興味を覚えたのだった。
「あっ・・・森センセ・・・」
その日の放課後の教室で、ユキは森と再び顔を合わせた。
「ユキ・・・お前今まで寝てたのか・・・。」
森がユキの頬の、制服に押し付けれてできた跡を見ながら、呆れたように言った。
「クラスの奴らも起こしてやればいいものを。」
森はだれもいなくなった教室を見まわしながら頭を掻いた。
「・・・」
ユキは何も言わなかった。
森が担任なってから三カ月ほど経つが、ユキは彼と二人だけで話したことは数えるほどしかなかった。4月におこなわれた個人面談と、家庭訪問。それからクラスの係についての事務的な会話を何回か。ユキが森について知る情報は、彼がホームルームや国語の授業で話したことか、もしくはほかのクラスメイト達の会話から聞こえてきたことだけだった。
35歳、独身男性。
国語の教師。
クラスの担任になるのは久しぶり。
旅行が好きで、休日はよく旅行に行く。
彼の個人的に知っていることなど、その程度だった。
(「魔法使いである」というのは今日の新情報である。ただし信ぴょう性には甚だ欠けるものがあるとユキは考えていた。)
それなのに、森はユキのことを初対面のときから下の名で呼んだ。他の生徒に対しては絶対下の名前で呼ばないのに、だ。
ユキは、これは正直勘弁してほしかった。
森は生徒から人気があった。
35歳には見えない若々しくすっきりとした面持ち。少し長く柔らかな髪。生徒の声を聞くときの真摯な態度。その反面なかなかつかめない無機質な人柄。
彼はその外見のみならず、生徒を惹きつける不思議な雰囲気を放っていた。彼に心惹かれる女子生徒は多く、男子生徒からも支持が厚かった。独身女性教師の中にも何人か彼を狙っている先生がいると、ユキはクラスメイトからの会話で聞いたことがあった。
そんな彼から自分だけ下の名で呼ばれることで、ユキは特別扱いされているような気がしていた。
それがむず痒いのと同時に、いつ他の生徒から妬まれるかわからないと、我ながらおこがましいと思うようなことを、ユキは日頃から思っていた。
そしてユキは、自分もまた彼に興味のある生徒の一人であることを、強く否定することはできないのであった。
「ユキ。」
森先生がユキの名を再び呼んだ。ユキは身を固くした。
彼について、もうひとつ知る情報があった。
怒ると途轍もなく恐ろしいのだ。
「さっきの授業では私に起こされた後もまた寝ていたな。」
(ホントに寝てしまったわけではないんだけれど・・・)
とユキは心の中で呟いた。考え事をするには机に突っ伏す姿勢が一番いいのだ。しかし、そんなことは先生にとってはどうでもよいことを知っていたユキは、言葉を発することもできず森の目を見つめていた。
「なんだ。私の授業はつまらないか?」
(つまらない・・・)
と呟いた心の中の声は、喉元に到達する間もなく胸の中で溶けて消えていく。
「いえ・・・そんなこと・・・」
必死に声を絞り出すユキ。流れる冷や汗。一触即発。
・・・・そんな光景が一瞬にして目に浮かんだ。
(これはなんとかせねば!!)
しかし実際はそのような問答は待ち受けてなかった。
「ユキ、お前コーヒーとか興味あr
「先生は『魔法使い』なんですかっ!!!!!?????」
ユキの腹の底から発された大きな声の後、二人の間に沈黙が流れた。
(・・・・やっちまった・・・なんで話題を逸らそうとした次の話題がそれなのさわたし・・・)
(・・・・今先生は『コーヒーに興味あるか』って・・・別に怒るつもりなかったんだ・・・)
(ヤバい・・・先生見てる・・・・痛い子だって見てるよ~・・・)
慌てふためくユキをよそに、森は小さく微笑んだ後こう言った。
「・・・もし興味があるんだったら・・・明後日の日曜日、ここに来てみないか?」
森はその言葉ともに、何か書いてある小さな紙切れをユキに渡した。
(えっと・・・興味って、コーヒー?・・・それとも・・・)
「どっちもさ♪」
森はユキの心の声が聞こえたかのようにそう言ってユキの方に一瞥をくれてから、背を向けて教室を出て行った。
しばらくして、ようやく動揺が収まってきたユキは、手にした紙切れに目を落とした。
そこには近くの繁華街の地図と・・・
「うぃ・・・うぃざーず・・・Cafe?」
森がユキを誘った店の名が書いてあった。
―――――次の日曜日
ユキは、森に渡された地図が示す店の前に立っていた。
(来ちゃった・・・けど・・・本当にこれ?)
その店は古びた雑居ビルの二階に位置しているようだった。そのビルの二階の窓際に、はがれかけたペンキで店の名が書かれた木製の看板がかかっているのが見えたからだ。一階はこれまた古びた雑貨屋で、二階へ続く階段は暗い店内の奥の方にあるようだった。
(は、入りにくい・・・・)
ユキがためらうのも無理はなかった。そのビルがあったのは、その地域でも屈指の治安が悪いと噂される一角だったからだ。隣り合うビルを見ても、どのフロアに何が入っているのか見当もつかないような、陰湿な雰囲気の漂うビルばかりだった。街を歩いている人々の格好はまさに自由そのもので、とても品がいいとは言えなかった。
(先生、なんでわたしをこんあところに呼んだのかな~・・・)
街ゆく人々の視線にびくびくしながら、ユキはビルの一階の雑貨屋の中に入り、その奥の階段へと向かった。
(最初はデートかもとも思ったんだけど・・・よくよく考えてみれば、まさかね~・・・)
ユキは少しおしゃれしてきてしまった自分の格好を呪った。何かを期待すればするほど、それが裏切られたときのみじめな気持は大きくなる。今までそんな経験たくさんしてきたではないか、と。
階段を登り切ったユキは、すぐそばにあった扉を見た。
"Wizards' Cafe" (魔法使いのカフェ)
ユキはそう書かれた扉をゆっくりと押し、店内へと足を踏み入れた。