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1億2000万円の豪邸に、私の部屋だけなかった

作者: 熾星
掲載日:2026/10/21



 両親が桜丘市に買ったのは、一億二千万円もする、広さ二百平方メートル近い高級マンションだった。


 引っ越し当日、家族のLINEグループに母から動画が届いた。姉の彩音には専用のピアノ室、八歳の弟の悠斗には広々としたゲーム部屋。両親は一番大きな寝室を使うらしい。


 私の部屋だけ、どこにも映っていなかった。


「お母さん、私の部屋は?」


「キッチンの隣に納戸があるでしょう。折り畳みベッドくらい置けるわよ。どうせめったに帰ってこないんだから」


「でも、あそこ窓がないよね」


「美琴はお姉ちゃんなんだから、悠斗に譲ってあげなさい。それくらいわかるでしょう?」


 また、その言葉だ。


 彩音のピアノのために私は塾をやめ、大学の生活費も自分で稼いできた。悠斗が欲しがるものは、私の持ち物でも譲らされた。


 今度は、窓のある部屋まで。


 返信する代わりにメールを開いた。北海道の雪森町役場から、地域おこし協力隊の採用通知が届いている。学校での美術活動や、使われなくなった校舎の活用に携わる仕事だ。


 採用を受けると返信した。


 あと半月で、この家を出る。



1



 午後八時。土砂降りの中、新居に帰り着いた。


 駅からマンションまで歩いただけで、髪も服もびしょ濡れだった。玄関を開けると暖房の効いた空気が流れてきて、リビングでは彩音がフェイスパックをしていた。悠斗は大きなテレビでゲームに夢中で、両親はその隣で果物を食べさせている。


「美琴、ドレスは?」


 母が私を見るなり眉をひそめた。


「彩音のドレス、取りに行ってって頼んだでしょう」


「今日、熱が出て病院に行ってたの。LINEも送ったよ」


 声がかすれ、途中で咳き込んだ。診察のあとも熱が下がらず、帰りの電車では座っているだけで精いっぱいだった。


 父が果物の皿をテーブルに置いた。


「熱くらいで行けないのか。彩音は明日、市民ホールで本番なんだぞ」


「お店が遠いし、病院を出た頃にはもう遅くて……」


「それで手ぶらで帰ってきたわけ?」


 彩音がパックを外し、スマホで時間を確かめた。


「明日の朝、ヘアメイクさんが来るんだけど。ドレスがなかったら困るよ」


「お昼に連絡したでしょう?」


「でも、結局まだお店にあるんだよね。無理ならもっと早く言ってくれればよかったのに」


 返事をしようとした時、悠斗が声を上げた。


「お母さん、カーペット! 美琴が汚した!」


 足元を見ると、白いウールのカーペットに雨水の跡がついていた。


「やだ、汚い! 風邪もうつるから、こっち来ないでよ!」


 母は悠斗の肩を抱き、私の足元を見た。


「新しいカーペットなのよ。玄関で靴を脱いでちょうだい」


 靴箱に手をついて靴を脱いだ。足先が冷え切っていて、指もうまく動かなかった。母はカーペットの汚れを確かめると、悠斗のところへ戻っていった。


 私は玄関に置いた傘を手に取った。


「今から行ってくる。でも、タクシー代が足りないと思う」


 母が財布から一万円札を二枚取り出した。


「お店には遅くなるって連絡しておくから。帰りに南口のケーキ屋さんにも寄ってね。悠斗がブラックフォレストを食べたがってるの」


「さくらんぼがのってるやつ! 違うの買わないでよ!」


「わかった」


 再び靴を履くと、まだ残っていた水が靴下に染み込んだ。


 扉を閉める直前、父の声が聞こえた。


「まったく、頼んだこと一つまともにできないのか。彩音のことも少しは考えてほしいもんだ」


 母は、ドレスさえ取ってくれば大丈夫だからと父をなだめていた。


 外の雨はますます強くなっていた。


 レンタル店のある商店街は一部が通行止めになり、大回りしてようやく到着した。店員は遅い時間まで待っていてくれ、預けてあったドレスに防水カバーを二重にかけてくれた。


「お足元が悪いので、お気をつけて」


「ありがとうございます。遅くなってすみません」


 それから南口へ向かった。駅近くの商業施設にある、夜遅くまで営業しているケーキ店だ。


 ショーケースにはほとんど商品が残っていなかったが、ブラックフォレストが一つだけあった。仕事帰りの客で混み合っていて、会計を終えるまでにも時間がかかった。


 雨で電車が遅れ、最後はタクシーを探して帰った。


 再び玄関を開けた時には、午前二時を回っていた。


 リビングの明かりは消え、家族はもう寝ている。ドレスを衣装ハンガーに掛け、ケーキに悠斗の名前を書いたメモを貼って冷蔵庫へ入れた。


 キッチン脇の納戸には、引っ越し用の段ボールが積み上がっていた。折り畳みベッドは箱の下に埋もれ、広げる隙間もない。新しい家具と洗剤の匂いがこもり、長くいると息苦しかった。


 箱を二つ動かしたところで目が回った。壁に手をついてしゃがみ込み、しばらく呼吸を整える。結局、きれいな段ボールを一枚敷き、上着をかぶって横になった。


 外で冷蔵庫の開く音がした。


「お母さん! ケーキあった!」


「明日にしなさい、悠斗。もう遅いから」


 眠そうな母の声が返ってきた。


 鞄から薬を取り出し、水で飲んだ。天井の小さな照明を消すと、段ボールに囲まれた部屋は真っ暗になった。



2



 何かが砕ける音で目が覚めた。


「怪獣だぞー! 全部壊しちゃえ!」


 悠斗の声だった。


 壁に手をついて立ち上がり、納戸の扉を開けた。リビングの床には細い木材が散乱し、柱も梁も、細工を施した軒先も折れている。悠斗はその真ん中にしゃがみ込み、玩具のハンマーで残った屋根を叩いていた。


 私の卒業制作だった。


 三か月かけて作った伝統的な木造建築の模型だ。古い建物の図面を調べ、柱の位置や屋根の勾配を計算し、細かな部品を一つずつ削って組み立てた。難しい継ぎ目は何度も作り直し、ようやく完成させたものだった。


 来週の卒業作品展に出す予定で、指導教員からは全国の学生向け建築デザインコンペへの応募も勧められていた。三十万円の賞金が取れれば、北海道への引っ越し費用に充てられる。


 その模型の屋根が、目の前でもう一つ砕けた。


「悠斗、やめて!」


 駆け寄って手首をつかみ、模型から離した。悠斗は尻もちをつき、一瞬ぽかんとしてから大声で泣き始めた。


「お母さーん! 美琴に叩かれた!」


 寝室から飛び出してきた母が、悠斗を抱き上げる。


「美琴、何してるの! まだ八歳なのよ!」


「私の卒業制作を壊したの! 三か月もかけたのに!」


 床に膝をつき、折れた屋根を拾った。細かな継ぎ目が割れ、木片が指の間からこぼれ落ちる。


 父は床を一瞥しただけだった。


「模型くらい、また作ればいいだろ」


「あと一週間しかないんだよ。作り直せるわけないでしょう!」


「そんなに大事なら、片づけておけばよかったんだ。悠斗はまだ小さいんだから」


「昨日、触らないでって言ったよ。お母さんが今日までここに置いていいって……」


「私のせいにするの?」


 母の声が鋭くなった。


「引っ越したばかりで、どれだけ荷物があると思ってるの。あなたのものまで見ていられないわよ」


 悠斗は母に抱かれたまま泣きやみ、私と目が合うと舌を出した。


「遊ばせてくれなかったからだよ」


 その時、彩音が寝室から出てきた。昨夜私が取りに行ったドレスを着て、姿見の前で裾を整えている。


「朝からうるさいんだけど。もうすぐメイクさん来るよ」


 彩音は床の木片を靴先で避けた。


「壊れちゃったものはしょうがないじゃない。先に掃除してくれない?」


「これ、私の卒業作品なの」


「知ってるよ。でも今日は私の本番だから」


 母も私を見た。


「ほら、早く片づけて。悠斗にも謝りなさい」


「どうして私が謝るの?」


 父が声を荒らげた。


「親に口答えするな! 弟にまた手を出すなら、この家から出ていけ!」


 床に落ちた柱を一本拾った。折れた部分を差し込んでみたが、指を離すと屋根はまた崩れた。何度か試しても、元の形には戻らない。


 やがてほうきを取り、修復できない部品を袋へ入れた。まだ形の残っているものだけ箱に詰め、大学で先生に相談することにした。


 悠斗はゲームへ戻り、母は牛乳を注いでいた。彩音はヘアメイクの担当者へ電話し、父はソファでスマホを眺めている。


 最後の木片を拾い、箱の蓋を閉じた。



3



 北海道へ向かう日が近づいていた。


 卒業に必要な手続きはほぼ終わっていたが、身分証や昔の学校の書類が、まだ実家の書斎に預けられていた。祖母の遺品も、出発前に持ち出しておきたかった。


 夕食時、久しぶりに家族と同じテーブルについた。


「お父さん、お母さん。預けてある書類を返してほしいの。卒業したら必要になるから」


 父が箸を止めた。


「今さら何に使う?」


「仕事の手続きにも使うと思う。それと、おばあちゃんのものも持っていきたい」


 母は湯飲みを置いた。


「ちょうどよかった。私たちも話があるの」


 父が書斎から封筒を持って戻ってきた。中には数枚の書類が入っていて、表題には「今後の生活費と財産についての確認書」とある。


 将来、マンションや預貯金の相続について、彩音や悠斗と争わないこと。働き始めたら収入の半分を両親へ渡すこと。姉弟が経済的に困った時には、できる限り援助すること。


 署名欄には、私の名前だけが印字されていた。


「これ、私だけが書くの?」


「彩音には音楽の活動費がかかる。悠斗の教育費だってこれからだ」


 父は当たり前のように言った。


「お前はもう卒業するんだから、自分で何とかできるだろう」


「給料の半分も?」


「働き始めたら家にも金を入れてもらう。それくらい当然だろ」


 母も頷く。


「私たちだって、いつまでも若くないのよ。後で揉めないようにしておきたいだけ」


 彩音はネイルを乾かしながら笑った。


「美琴、まさか新しいマンションを分けてほしいなんて思ってないよね? あれは悠斗のために買ったんだし」


「私にも相続の権利はあるでしょう」


 父が箸を置いた。


「誰のおかげで大学まで行けたと思ってる」


「生活費はほとんど自分で稼いだよ」


「育ててもらった恩を忘れるな」


 母がため息をつく。


「美琴ならわかってくれると思ってたのに。サインするだけで済む話でしょう?」


 書類を一枚ずつ撮影した。


「何を撮ってるんだ」


「私にも控えが必要だから」


 最後のページまで撮り終えた。これ以上話しても、預けた書類を返してもらえそうになかった。この紙にどれほどの効力があるのかは、離れてから専門家に確認すればいい。


「わかった。サインする」


 名前と日付を書いて差し出すと、両親は意外そうな顔をした。母は署名を確かめてから、満足そうに封筒へ戻した。


「最初からそうしてくれればいいのよ」


「書類を返してくれる?」


 母は書斎の棚から古いファイルケースを持ってきた。


「これで全部。失くさないようにね」


 翌朝、市役所で転出の手続きを済ませた。窓口で必要な説明を受け、北海道へ移ったあとの届け出の期限をスマホに控える。


 庁舎を出ると、階段に陽が差していた。雪森町から届いた連絡を確認し、ファイルケースを鞄へしまった。



4



 出発の三日前、荷物をまとめ始めた。


 持っていけるものは少なかった。服は彩音のお下がりが多く、昔の教科書やノートも、引っ越しの際に母がずいぶん処分していた。残っているものを並べてみても、スーツケース一つに収まりそうだった。


 その中で、どうしても失くしたくないものがあった。


 祖母の澄江がくれた、銀のネックレスだ。


 祖母は、私が両親に叱られて夕飯を抜かれた夜、よく焼き芋を持ってきてくれた。学校の授業参観でも、両親が彩音のコンクールへ行った時には、足の悪い祖母が電車を乗り継いで来てくれた。


 亡くなる前、祖母は長年身につけていたネックレスを私に渡した。小さな銀の葉をかたどったペンダントで、裏には私の名前が刻んである。


「美琴、つらいことがあっても、何でも一人で我慢しちゃ駄目だよ。自分のことも大事にするんだよ」


 ずっと古い木箱にしまい、クローゼットの奥へ置いていた。


 ところが、蓋を開けると中は空だった。洋服も段ボールもひっくり返して探したが、包んでいた小袋まで見つからない。


 もう一度クローゼットを確かめようとした時、リビングから悠斗の笑い声が聞こえた。


 ベランダに出た悠斗が、銀色の細い鎖をぶら下げていた。


「悠斗、それ、どこで見つけたの?」


「小さい箱に入ってた! 美琴の?」


「うん。おばあちゃんの形見なの。返して」


「やだ。これ、買ったの?」


「おばあちゃんにもらったんだよ」


 悠斗は鎖を光にかざした。


「美琴、お金ないって言ってたじゃん」


「大事なものなの。こっちに来て」


 手を伸ばすと、悠斗は後ろへ下がった。背中のすぐ向こうにはガラスの手すりがある。


「危ないから、そこで遊ばないで」


「先に謝ってよ!」


「何を?」


「この前、僕を突き飛ばしたじゃん!」


「模型を壊してたでしょう。今はネックレスを返して」


 悠斗の口元が尖った。


「謝らないなら、返さない!」


 そう言って腕を振り上げた。


「悠斗、待って!」


 銀の鎖が空中に飛んだ。小さな葉が一瞬光り、そのまま中庭の池へ落ちていく。


 手すりに駆け寄った時には、水面に小さな波紋が広がっていた。


「何で投げたの!」


 振り向いて悠斗の胸元をつかんだ。


「返してって言ったでしょう!」


「痛い! 離して!」


 悠斗が泣き叫び、両親と彩音が駆けつけてきた。父は私の手を見るなり近づき、頬を平手打ちした。


 体が脇の棚にぶつかり、耳の奥がじんとした。


「また悠斗に手を上げたのか!」


「あの子、おばあちゃんのネックレスを池に投げたの!」


「ネックレスくらいで何をそんなに怒ってるんだ。悠斗が怖がってるだろうが!」


 母は悠斗を抱き寄せ、首や腕に傷がないか確かめている。


「大切ならちゃんとしまっておきなさいよ。管理人さんに頼めば探してもらえるでしょう?」


「箱にしまってた。それを悠斗が勝手に……」


「あなたも、そんな顔で追いかけるからでしょう」


 彩音もソファの脇から口を出した。


「あのおばあちゃんのネックレスでしょ? 今度似たのを買ってあげるから、もうやめなよ」


「新しいのはいらない。おばあちゃんのを返してほしいの」


 悠斗は母の後ろへ隠れ、もう泣きやんでいた。


 父がまた声を荒らげる。


「弟に乱暴するなら、今すぐ出ていけ!」


 玄関へ向かった。靴を履き、上着を手に取る。


「こんな時間にどこへ行くの。ご近所に迷惑かけないでよ!」


 母の声を背に、扉を開けた。



5



 外へ出ると、雨が降り始めていた。


 中庭の池には黒い小石が敷かれ、落ち葉が水の流れに乗ってゆっくり回っている。二階から落ちたのはわかっていても、ネックレスがどこに沈んだのか見当がつかなかった。


 池の縁にしゃがんでスマホのライトを当てていると、巡回中の警備員が声をかけてくれた。


「どうされました?」


「すみません。大切なネックレスが、この池に落ちてしまって……」


 事情を聞いた警備員は管理室へ連絡し、水を循環させるポンプを一時的に止めてくれた。長い網と懐中電灯も用意して、一緒に探してくれる。


「落ちたのは、この辺りですか?」


「たぶん、もう少し右だと思います」


 網で水底を探るたび、泥や落ち葉が引っかかった。けれど銀の鎖は見つからず、一時間ほど経った頃、警備員は申し訳なさそうに言った。


「暗いと難しいですね。朝になったら設備の担当者にも排水口を見てもらいます」


「ありがとうございます。こんな時間にすみません」


「いえ。でも危ないので、水の中には入らないでくださいね」


 警備員が管理室へ戻ったあとも、家に帰る気になれなかった。ベンチに腰を下ろし、池の水面を眺めているうちに、雨がコートへ染み込んでくる。


 やがて二階のベランダに明かりがついた。


「美琴、まだそこにいるの?」


 母の声だった。


「見つからないの」


 隣にいた父が、面倒そうに言う。


「もういいだろう。明日にしろ!」


 悠斗も顔を出した。


「お母さん、お腹すいた! 唐揚げ食べたい!」


 母は悠斗を連れて部屋へ戻り、ベランダの扉が閉まった。


 スマホが震えた。家族のLINEグループに、母からメッセージが届いている。


「悠斗も元気になったし、週末はどこか連れていってあげようか。沖縄でも行く?」


 彩音がすぐに返信した。


「いいね! 海が見えるホテルに泊まりたい!」


 続いて悠斗の嬉しそうなスタンプが並んだ。


 画面を閉じ、スマホをポケットにしまった。


 翌朝、管理室を訪ねると、設備担当の人が待っていてくれた。池の水位を下げ、排水口を調べる準備をしてくれたという。


 借りた長靴を履き、足元に気をつけながら池の縁へ降りた。泥と小石の間を探り、排水口の格子に手を伸ばす。指先が何か細いものに触れ、そっと引き上げると、泥のついた銀の葉が現れた。


「あった……!」


 留め金は曲がり、表面には細かな傷がついていた。それでも裏に刻まれた「美琴」の文字は、はっきり読めた。


 両手で包み込み、管理人たちに何度も礼を言った。


 部屋へ戻った時、家族はまだ寝ていた。


 納戸でネックレスの泥を洗い流し、柔らかい布で丁寧に拭く。乾かしてから小袋に入れ、リュックの内ポケットへしまった。


 それから濡れた服を着替え、擦りむいた指に絆創膏を貼る。最後に、用意してあった荷物を持った。


 リュックと小さなスーツケースが一つ。私の荷物はそれだけだった。


 リビングには悠斗のおもちゃが散らばっていた。食べかけの菓子がテーブルに残り、ゲームのコントローラーはソファの下へ落ちている。


 いつもなら片づけていたが、そのまま玄関へ向かった。


 LINEの家族グループを退会し、両親と彩音、悠斗からの連絡を拒否する。共有アカウントの設定も確かめ、新しい住所が家族に伝わらないようにした。


 最後にマンションのカードキーを靴箱の上へ置いた。


 扉を閉めても、誰も起きてこなかった。


 駅で空港行きの切符を買うと、雪森町役場の佐伯さんからメッセージが届いた。


「北海道は朝晩かなり冷えます。防寒着を忘れずにお持ちくださいね」


 お礼を返して電車に乗った。


 見慣れた町並みが窓の向こうへ流れていく。リュックの内側に指を入れ、銀の葉にそっと触れた。


 次に暮らす家には、ちゃんと窓がある。



6



 雪森町での暮らしは、役場が紹介してくれた小さな一軒家から始まった。


 建物は古かったが、台所にも寝室にも窓があり、外には白樺の木が並んでいた。大家さんは入居する時間に合わせて暖房をつけてくれ、玄関には新しいスリッパまで揃えてあった。


 担当職員の佐伯千尋さんが、学校やスーパー、バス停を案内してくれた。


「雪が積もると、移動に時間がかかるんです。冬場は天気予報を確認してから出かけてくださいね」


「わかりました。ありがとうございます」


「買い物できる場所も限られていますから、日用品は少し多めに用意しておくと安心ですよ」


 佐伯さんの説明をスマホに控えた。


 仕事が始まると、北丘小学校で美術活動を手伝うかたわら、使われなくなった校舎の活用についても話し合いに参加した。


 最初の授業には、自分で作った建築模型を持っていった。柱や梁を外せるようにした小さな木の家で、子どもたちは興味津々で机の周りに集まった。


「先生、これ、人が住めるの?」


 小春という女の子が手を挙げた。


「これは小さすぎるけど、本物の家にも似た仕組みが使われているんだよ」


 屋根を持ち上げて柱を外すと、子どもたちが身を乗り出した。


「次はみんなで作ってみようか」


「じゃあ私、窓がいっぱいあるおうちがいい!」


「いいね。どこにつけたい?」


「お庭が見えるところと、山が見えるところ!」


 図書館を作りたい子、犬小屋がいい子、星を見ながら眠れる家を考える子。話を聞いているうちに授業は終わり、片づけの時間になっても子どもたちは図面を描いていた。


 授業後、小野寺校長が声をかけてくれた。


「高瀬さん、子どもたちがずいぶん楽しそうでしたね」


「私も楽しかったです。実際に触ってもらうと、説明だけより伝わりやすいみたいで」


「今度、旧校舎も見てもらえませんか。子どもたちが集まれる場所にできないか、町と相談しているんです」


「ぜひお願いします」


 大学で学んだことが、ここでも役に立つ。そう思うと、次の仕事が楽しみだった。


 仕事を終えたら家へ帰り、うどんを作って食べる。夕食後は窓際で翌日の資料を整理し、疲れたら自分の好きな時間に休めた。


 一か月ほど経った頃、大学時代の友人、森川奈緒から連絡があった。


 その日は放課後、活動室で子どもたちの模型を片づけていた。机の端に置いたスマホが鳴り、画面には奈緒の名前が表示された。


「美琴、今大丈夫?」


「うん。どうしたの?」


「ご家族が美琴を捜してるみたいで……。何かあった?」


「家とは連絡を取らないことにしたの。今は北海道にいるよ」


「そうだったんだ。無事ならよかった」


 奈緒は少し安心したように息を吐いた。


 以前、私の実家の近所に住んでいた彼女は、共通の知り合いから母があちこちに連絡していると聞いたらしい。


「沖縄旅行から帰ってきて、美琴が本当に引っ越したってわかったんだって。電話してもつながらないし、彩音さんのLINEにも返事がないって」


 奈緒がInstagramのスクリーンショットを送ってきた。


 青い海を背景に、家族四人が並んでいる。彩音はホテルのテラスでポーズを取り、悠斗は水鉄砲を持って笑っていた。


 出発の日、玄関にはカードキーを置いてきた。納戸の荷物もすっかりなくなっていたのに、家族はしばらく気に留めなかったらしい。


 写真の日付を見る。その頃、私はもう雪森町に着き、授業の準備をしていた。


「お父さんは、お金に困ったら戻ってくると思ってるみたい。お母さんも、外で少し苦労すればわかるって」


「そうなんだ」


「でも最近、家のことでいろいろ大変みたいだよ」


 彩音は衣装のクリーニングや楽譜の受け取りを自分で手配するようになった。悠斗が散らかしたリビングも、母が片づけているらしい。


「お母さん、近所の人に『あの子は昔から頑固で困る』って話してたんだって」


 奈緒は少し言いにくそうに続けた。


「謝って戻ってきたら、水に流してあげるつもりらしいよ」


 窓辺に置いてある模型を見た。小春たちが作った木の家が、いくつも並んでいる。


「奈緒、知らせてくれてありがとう。でも、もうわざわざ聞いてこなくていいからね」


「うん。美琴が元気なら、それでいいよ」


 通話を切ると、隣の教室で作品を片づけていた小春が、模型を抱えて駆け寄ってきた。


「美琴先生、窓ができたよ!」


「上手にできたね。次は開くドアも作ってみようか」


 小春は嬉しそうに頷いた。廊下では、帰り支度を終えた子どもたちの声がしている。


 窓の外では、白樺の葉が黄色くなり始めていた。



7



 冬になって間もなく、奈緒からメッセージが届いた。


「美琴、お姉さんが入院したって。血液の病気らしいんだけど、かなり大変みたい」


 その夜、奈緒に電話をかけて詳しい話を聞いた。


 彩音は演奏会の練習中に倒れ、病院へ運ばれたそうだ。詳しい検査を受けた結果、急性骨髄性白血病と診断され、治療が始まったという。


 病状によっては、造血幹細胞移植も検討する必要があるらしい。


「私も人づてに聞いただけだから、詳しいことまではわからなくて」


「うん。教えてくれてありがとう」


 電話を切ったあと、しばらく机に向かったままでいた。


 数日後、卒業した大学からメールが届いた。家族から緊急の連絡があり、本人に転送してもよいか確認したいという。


 私は転送をお願いした。


 母のメールには、彩音の治療の経過や、家族が受けた検査について書かれていた。


 両親はHLAの検査を受けたものの、ドナーとして適切な結果ではなかったらしい。悠斗にも適合する可能性があると言われ、詳しい評価の話が出たという。


 けれど母は、八歳の悠斗には負担をかけたくないと書いていた。


「美琴、一度、病院で検査を受けてくれないかしら。お願い」


 そのあとに、いつもの言葉が続いていた。


「あなたならわかってくれるわよね」


 メールを保存し、大学の担当者には転送してくれたお礼だけを返した。


 奈緒によれば、両親は私の卒業した大学まで出向き、学生支援の窓口で居場所を尋ねたそうだ。指導教員にも連絡したが、勤務先や住所は教えてもらえなかったという。


 母の文章を読み返すと、私が検査を受けることがすでに決まっているような書き方だった。


 彩音の治療について、私にできることがあるのかもしれない。それでも、まずは医師から直接説明を受けたい。


 母には返事をしなかった。



8



 半月ほど経ったある日、見知らぬ番号から電話がかかってきた。


 私は学校で美術の授業をしていた。一度目の着信を切ってもすぐにまた鳴るため、子どもたちに作業を続けてもらい、廊下へ出た。


「もしもし」


「美琴! やっと出たか!」


 父の声だった。


「彩音の病気は聞いただろう。すぐ帰ってこい」


「聞いてるよ」


「聞いてるなら何で帰らない! 実の姉なんだぞ!」


 階段の踊り場まで歩いた。窓の外には雪が積もっている。


「病院から私に連絡は来てないよ。どんな検査をするのか、まだ詳しく聞いてないから」


「家族から聞けば十分だろう。ごちゃごちゃ言ってないで帰ってこい!」


「受けるかどうかは、私が決めることだよ」


 向こう側で母の声がして、受話器を取り上げるような音がした。


「美琴? お母さんよ」


 母は鼻をすすった。


「お父さんも心配で、つい言い方がきつくなってるの。彩音のこと、お願いだから助けてあげて」


「悠斗の検査はどうなったの?」


「どうして悠斗の話になるの?」


「メールに書いてあったでしょう。もっと詳しく調べるって」


「悠斗はまだ八歳なのよ。もし何かあったら……」


「私が検査を受けるのは、心配じゃないの?」


 母が息を詰まらせた。


「そういう意味じゃないわ。あなたはもう大人でしょう」


「だったら、自分で決めていいよね」


 母は黙り込んだ。


 しばらくして、泣くのをこらえるような声で言った。


「実のお姉ちゃんでしょう。こんな時くらい、力になってあげられないの?」


 窓の下に見える校庭を眺めた。


「病院から説明を受けたい。話を聞いてから考えるよ」


「帰ってきてくれるのね?」


「まだ決めてない」


 母が長く息を吐いた。


「今まで寂しい思いをさせたのはわかってる。帰ってきたら、家のこともちゃんと考えるから」


「家のこと?」


「ほら、あなたの部屋も残してあるし。悠斗にも、もう勝手にものを触らせないから」


「キッチンの隣の納戸?」


 母の声が変わった。


「今は部屋の話をしてる場合じゃないでしょう!」


 スマホを耳から少し離した。教室では、子どもたちが塗った模型を窓際へ並べている。


「お母さん、授業に戻るから」


「美琴、待って!」


「病院の説明を受けたら考える。それ以上は約束できない」


 父がまた電話に出た。


「今日中に帰ると約束しろ。さもなきゃ職場へ行くぞ!」


「好きにして」


「お前がどんな娘か、学校の連中にも話してやる!」


「もう切るね」


 電話を切り、番号を着信拒否に設定した。


 教室へ戻ると、小春が模型を抱えて駆け寄ってきた。


「美琴先生、見て! 今度は窓を四つにしたよ」


「うん、いいね。屋根が少し傾いてるから、一緒に直そうか」


 授業が終わってスマホを確認すると、別の番号から十件以上の不在着信が残っていた。


 そのまま画面を閉じた。



9



 父からはその後も、役場や学校に苦情を入れるというメッセージが届いた。


 すべて保存し、佐伯さんに事情を説明した。佐伯さんは必要な時の連絡先を紙に書いて渡してくれた。


「ご家族でも、ご本人の了承なしに住所を教えることはありません。学校にも一応伝えておきましょう」


「ありがとうございます。ご迷惑をかけてすみません」


「そんなに気になさらないでください。こちらでも対応しますから」


 その夜、パソコンを開いた。


 高校時代からつけていた家計簿と、銀行の取引履歴を並べる。父はいつも、私を大学まで行かせるために大金を使ったと言っていた。実際にどれだけ負担してもらったのか、一度きちんと確かめたかった。


 高校の長期休暇にはアルバイトをしていたし、大学では給付型の奨学金と授業料の減免制度を利用した。建築設計事務所で図面作成の仕事も続け、課題が忙しい時は受注を減らし、長期休暇にはまとまった仕事を引き受けていた。


 両親に出してもらった衣服代や医療費、学校の教材費も、残っている記録と照らし合わせた。幼い頃の費用など、領収書のないものには推定額と注記する。


 時間をかけて整理すると、確認できる金額と根拠のある概算を合わせて、約四百三十万円になった。


 長年のアルバイト代と設計事務所からの報酬を貯めてきたので、引っ越し費用を差し引いても、どうにか五百万円は用意できる。


 そのお金は、いつか勉強を続けるために使うつもりだった。小さな設計事務所を持つことも考えていた。


 しばらく画面を見つめ、それから以前母に教えられた父名義の口座を開いた。


 五百万円を振り込み、明細と計算表を添えてメッセージを書く。


「今まで私にかかったお金を、わかる範囲で計算しました。五百万円、振り込んであります。明細も送ります」


 文章を読み返してから、続きを入力した。


「これまで育ててくれたことには感謝しています。でも、もう『育ててやったんだから言うことを聞け』とは言わないでほしい」


 最後に、短く付け加えた。


「彩音の治療は病院の先生と相談して。検査を受けるかどうかは自分で決めます。私はもう、あの家には戻りません」


 送信してすぐ、父から電話が来た。


 出なかった。


 翌日、奈緒から連絡があった。父が振込記録を見て激怒したと、以前の近所の人から聞いたらしい。母も、私が貯金をほとんど送ってしまったのではないかと、知り合いに尋ねていたそうだ。


「美琴、本当に大丈夫? そんな大金、送っちゃって」


「生活できる分は残してあるよ」


「でも、これから必要になるかもしれないでしょう?」


「うん。だから、しばらくは貯金し直さないとね」


 奈緒は少し黙ったあと、ため息をついた。


「困ったら私にも言ってね。お金のことじゃなくても」


「ありがとう」


 電話を切ったあと、母から別の番号でメッセージが届いた。


「美琴、私たちはお金が欲しくてあなたを育てたんじゃないのよ。彩音はあなたの助けが必要なの」


 しばらくして、もう一通届く。


「今までつらい思いをさせたのは悪かったわ。でも、お姉ちゃんを見捨てるの?」


 二通とも保存し、その番号も着信拒否にした。


 翌朝、雪森町には大雪が降っていた。


 防寒着を着て、画材の入った鞄を背負う。冬の作品展までに仕上げる図面が、まだ何枚も残っていた。



10



 父は本当に雪森町までやってきた。


 その日の午前中、私は旧校舎で活動室の改装について打ち合わせをしていた。スマホが震え、佐伯さんから着信が入る。


「高瀬さん、今お電話よろしいですか?」


「はい。どうしました?」


「お父様とおっしゃる方が役場にいらしていて……。勤務先を教えてほしいとおっしゃっているんです」


 手元の図面を置いた。


「今、役場にいるんですか?」


「はい。応接室でお待ちいただいています。こちらからお断りすることもできますが」


「私が行きます。できれば、佐伯さんにも同席していただけますか」


「もちろんです」


 応接室に入ると、父は窓際に立っていた。上着には雪がつき、足元には旅行鞄が置かれている。


 私を見るなり、大股で近づいてきた。


「美琴! やっと顔を出したか!」


 向かいの椅子に座った。


「ここで話そう。何の用?」


「よく平気で仕事なんかしていられるな。彩音はまだ入院してるんだぞ!」


「私にも仕事があるから」


「一度くらい帰ってこい。病院で検査を受けるんだ」


「その話なら、電話でも答えたよ」


 父は机を叩いた。


 佐伯さんが静かに口を開く。


「高瀬さん、ここは役場です。大きな声はお控えください」


 父は佐伯さんをにらんだ。


「うちの家族の問題だ。部外者は黙ってろ!」


「高瀬さんはこちらでお仕事をされています。これ以上騒がれるようでしたら、お帰りいただきます」


 父は何か言いかけたが、口を閉じた。


 代わりに鞄から数枚の紙を取り出し、机に並べる。


 私が学校の美術活動に参加している写真だった。町の広報資料に掲載されたもので、子どもたちと模型を作っている姿や、旧校舎の図面を見ながら話している場面が写っている。


「ずいぶん楽しそうじゃないか」


 父は写真を指で叩いた。


「学校の連中にも、お前が姉を見捨てたことを話してやろうか」


「必要なら、正式な窓口に話して」


 私は写真を見ながら答えた。


「でも、子どもたちや先生の仕事を邪魔するなら、警察に相談するよ」


 父の手が止まった。


「お前、親を警察に突き出すつもりか?」


「ここで怒鳴るのはやめて。話があるなら聞くから」


 父は椅子に座り直した。しばらく黙っていたが、やがて低い声で言った。


「彩音に何かあっても、そのつもりでいられるのか」


「彩音のことが心配なのはわかる。でも、私が検査を受けるかどうかまで、お父さんが決めることはできない」


 父は口を引き結んだ。


 やがて椅子を引き、鞄をつかんだ。


「育てて損した。後悔するなよ!」


 出口へ向かう父の背中に声をかけた。


「彩音、まだ入院してるんでしょう。そばにいてあげて」


 父は振り返らず、応接室を出ていった。


 佐伯さんが温かいお茶を入れてくれた。


「大丈夫ですか? 少し休んでから戻ってもいいですよ」


「ありがとうございます。でも、午後の授業があるので」


「学校にも状況を伝えておきますね」


「お願いします」


 役場を出ると、雪はやんでいた。歩道には除雪した雪が積み上がり、職員たちが玄関前を片づけている。


 鞄を肩に掛け直し、旧校舎へ戻った。


 その夜、奈緒から電話があった。


「美琴、お父さん、そっちまで行ったんだって?」


「うん。今日、役場に来たよ」


「大丈夫だった? 何かされなかった?」


「佐伯さんが一緒にいてくれたから、大丈夫」


 奈緒はほっとしたようだった。


「よかった……。あのね、お父さん、帰ってから病院でお母さんと大げんかしたらしいよ」


 看護師が止めに入るほどだったと、共通の知り合いから聞いたそうだ。彩音も両親と口論になり、病室が落ち着かない様子だという。


「彩音さん、美琴を連れて帰ってこなかったことも怒ってたみたい」


「そう」


「もう家のことは私に任せて、って言いたいくらいだけど……そうもいかないしね」


「心配してくれてありがとう」


「うん。何かあったら、また電話して」


 通話を終えて間もなく、彩音本人からメッセージが届いた。


「美琴、昔のことで嫌な思いをさせたなら謝る。でも、いつまで怒ってるの?」


 少しして、続きを知らせる通知が鳴った。


「私は本当に病気なの。会いに来てくれない?」


 画面を見つめた。


 彩音が演奏会のドレスを着て、壊れた模型の前に立っていた朝を思い出す。


 あの時、彼女は「作り直せばいいじゃない」と言った。


 スマホを伏せた。


 その春、旧校舎に最初の活動室が完成した。開室の日、子どもたちは作った家を窓辺に並べ、私は入口で記念写真を撮った。


 小春が大きく手を振り、隣の子が笑いながら肩を寄せる。


 シャッターを押すと、教室いっぱいに笑い声が響いた。



11



 桜丘を離れて二年目の春、両親がマンションを売る準備をしていると奈緒から聞いた。


 彩音は入退院を繰り返し、予定していた演奏会もすべて中止になった。これまで音楽活動にかなりのお金を使ってきたうえ、マンションのローンも残っている。父の収入も減り、家計が苦しくなっていたそうだ。


「新しい家、売るんだって?」


 奈緒に聞き返した。


「そうらしいよ。まだ住み始めてそんなに経ってないのにね」


「あのマンション、ずいぶん高かったから」


「うん。それに、悠斗くんのことでまた大変みたい」


 奈緒の声が少し重くなった。


 悠斗が学校で同級生を傷つけたという。


 ゲームのカードをめぐって口論になり、相手の目を鉛筆で刺してしまったらしい。けがをした子は病院へ運ばれ、視力に深刻な影響が出ていた。


「目を?」


「うん。治療してるけど、どこまで回復するかわからないみたい」


 言葉を失った。


 奈緒によると、相手の家族は学校に説明を求め、両親に損害賠償を請求しているという。父が悠斗を連れて謝罪に行ったものの、本人は相手がカードを渡さなかったからだと言い張り、話し合いは難航したらしい。


 学校や児童相談所も関わり、今後の対応を検討しているそうだ。


「悠斗くん、まだ小学生でしょう」


「うん。家族だけでは対応しきれなくなってるみたい」


 両親は結局、マンションを売った。


 一億二千万円で買った、あの広い部屋。売却で得たお金は住宅ローンの返済に充てられ、さらに賠償などの支払いが重なった。


 家族は昔住んでいた地域の古いマンションを借り、そこへ引っ越した。


 部屋は三つしかなく、新居の半分ほどの広さもないそうだ。彩音のグランドピアノも手放し、舞台衣装の一部は売りに出したという。


 彩音自身は体調を崩すことが増え、長い間ステージに立てていなかった。


 悠斗は狭くなった家が気に入らず、たびたび癇癪を起こしているらしい。


 欲しかった新作のスニーカーを母が買わなかった時には、コップを床に落として割り、止めようとした母を突き飛ばしたと、近所の人が奈緒に話していた。


 悠斗が飲み物をこぼすと、決まって私が雑巾を取りに行った。おもちゃを投げ出して遊びに行っても、片づけるよう頼まれるのは私だった。


 彩音の演奏会が近づくと、衣装を受け取り、楽譜を届け、必要なものを買いに行った。家族の誰かが困ると、母は決まって私を呼んだ。


 しばらくして、奈緒から母が私の近況を尋ねてきたと聞いた。


「美琴、どうしてる? 桜丘には戻ってこないの?」


「仕事も続いてるし、元気ですよ」


「家のこと、何か言ってた?」


「特には」


 そこで母は話をやめたという。


 その頃、私は雪森町の子ども建築模型展の準備に追われていた。改装した旧校舎の活動室には長いテーブルが並び、子どもたちの作品が少しずつ集まっている。


 木の家、紙の橋、小さな図書館がずらりと並んだ。


 小春が私の手を引いて、自分の模型まで連れていった。


「美琴先生、見て! 学校を作ったの。教室ぜんぶに窓があるんだよ」


 しゃがんで屋根を覗き込む。


「すごいね。屋根もしっかりできてる」


「大きくなったら、もっと大きな学校を作りたい!」


「楽しみだね。どんな学校にする?」


「図書室も広くしたいし、雨の日に遊べる場所もほしい!」


 私は笑いながら、まだ乾ききっていない屋根をそっと支えてやった。


 子どもたちが帰ったあと、奈緒から新しいメッセージが届いていた。


「彩音さんの病状がまた悪くなったみたい」


 しばらく画面を見てから返信した。


「知らせてくれてありがとう」


 活動室の照明を消し、窓の鍵を確認する。外へ出ると、山の向こうに夕陽が沈みかけていた。



12



 桜丘を離れて五年目の冬、雪森町に最初の大雪が降った。


 私は子どもたちと校庭で雪だるまを作っていた。


 三年間の地域おこし協力隊の任期を終えたあとも町に残り、今は旧校舎を利用した子ども芸術交流センターの運営を任されている。


 絵画室と木工室、小さな図書室ができた。春には古い家の屋根を観察し、夏は木の橋の模型を作り、秋は作品展を開く。冬の授業は、暖かい部屋で雪景色を描くことが多い。


 町の人たちも時々立ち寄るようになり、週末には大人向けの工作教室を開くこともあった。


 私は自分の収入から、経済的に余裕のない家庭の子どもたちに画材を買ったり、講座の費用を援助したりするようになった。


 そのうち二人の女の子が、希望していた高校に進学した。


 入学前、二人はわざわざセンターまで挨拶に来てくれた。


 一人は手描きの画集を、もう一人は紙で作った小さな家を持っていた。


「美琴先生、これ、先生にあげる」


 紙の家には窓がいくつも開いている。


「ずいぶん細かく作ったね」


「うん。私、いつか本物の家を設計したいんだ」


「そうなんだ。じゃあ、できたらぜひ見せてね」


「絶対見せに来る!」


 二人が帰ったあと、紙の家を事務室の窓辺に飾った。


 私の事務室は決して広くない。けれど大きな窓があり、晴れた日には遠くの林が見えた。雪の日には白くなった枝が揺れ、夕方になると窓ガラスに室内の明かりが映った。


 この五年間、桜丘へは一度も帰っていない。


 大学時代の友人とは時々連絡を取り合った。東京で働く奈緒は、旅行のついでに雪森町まで二度遊びに来てくれた。


 一緒に食事をして、大学の頃の話をしたり、最近の仕事について話したりした。実家の話題が出ることは、もうほとんどなかった。


 祖母の銀のネックレスは、今も毎日身につけている。


 あの日壊れた留め金は修理したが、銀の葉についた小さな傷はそのままだ。寒い朝にはペンダントを服の中へ入れてからマフラーを巻く。


 指先に触れる銀の感触を、私はよく覚えている。


 昼休みになり、子どもたちを校庭に残して事務室へ戻った。手袋を外し、午後の授業で使う資料を広げたところで、知らない番号からショートメッセージが届いた。


「美琴、お母さんです」


 机に置いた書類から目を上げた。


 続きには、彩音が先月亡くなったと書かれていた。長い間治療を続けたが、病気が悪化し、助からなかったという。


 悠斗もその後、問題を繰り返していたらしい。


 十三歳になってから、年上の子どもたちと金品を奪う事件に関わり、今は児童相談所の対応を受けて、家には戻っていないとあった。


 両親には、もうほとんど蓄えがない。


 家賃の安い古いアパートに住み、短時間の仕事や資源回収の手伝いをして暮らしているそうだ。


 最後の方には、謝罪の言葉が続いていた。


「今まで本当にごめんなさい。美琴の部屋さえ、ちゃんと用意してあげなかった」


 画面を下へ送った。


「あの時は、それがどれほどひどいことか考えもしなかった。おばあちゃんのネックレスのことも、ずっと気になっていました」


 そのあとに、もう一つメッセージが続いていた。


「彩音もいなくなって、悠斗もあんなことになってしまった。私たちも年を取って、この先どうしていいかわからないの」


「すぐに許してなんて言いません。ただ、一度だけ会いに来てくれないかしら」


 最後まで読み終え、スマホを机に置いた。


 窓のない納戸の匂いを、今でも覚えている。床いっぱいに散らばった卒業模型の木片も、池へ落ちていく銀の葉も、忘れていない。


 もう一度画面を開き、送信元の番号を着信拒否に設定した。それからスマホを机の引き出しへしまった。


 窓の外では、子どもたちが大きな雪だるまを作っていた。少し背の伸びた小春が、低学年の子どもたちと帽子の色で言い合っている。


 私に気づいた小春が、両手を大きく振った。


「美琴先生! 雪だるまが高すぎて、帽子が届かないよ!」


「今行くね!」


「早く早く!」


 コートを着て、マフラーを巻いた。銀の葉が襟元から滑り出したので、指で触れてから服の中へ戻す。


 玄関の扉を開けると、冷たい空気が頬に触れた。


 校庭へ向かって歩くと、雪が靴の下できゅっと鳴る。


 子どもたちが笑いながら駆け寄ってきた。


「先生、これ!」


 小春から赤い帽子を受け取り、私は雪だるまの頭にかぶせた。


 帽子が少し傾くと、みんなが声を上げて笑った。


 私もつられて笑いながら、帽子の向きを直した。







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