春を盗んだ悪役令嬢ですか? では、太陽神へ捧げた五百七十万金貨の行方をお尋ねします
今回の調査には、リディアとアリシアだけでなく、母セレスティアも同行していた。
さらに帝国気象院から老学者のオルド、魔術院から結界術を専門とする若き魔術師エルナが派遣されている。
父ユリウスは帝都へ残った。
もっとも、同行しなかったからといって休んでいるわけではない。
北方連合の法令、献金記録、神殿の財産権、処刑命令の有効性を調べ、出発前に馬車一台分の資料を用意していた。
「お父様は、少し心配しすぎではないでしょうか」
リディアが分厚い資料の山を見る。
セレスティアは首を横に振った。
「心配しすぎるくらいが、ちょうどよいのです」
「この資料だけで、馬が一頭余計に必要になったのですが」
「あなたも請求書を二百枚積んだでしょう」
「必要になるかもしれません」
「百九十九枚は余ると思いますよ」
「一枚で足りると?」
「正しく書けば」
母娘が話している横で、アリシアは窓の外を見ていた。
帝都を出た頃には緑の草原が広がっていた。
北へ進むにつれ、空は灰色に変わった。
二日目には路肩へ雪が残り始め、五日目には見渡す限りの銀世界となった。
暦の上では、もう初夏である。
本来なら農作物が芽吹き、放牧された家畜が草原を歩いている時期だった。
しかし畑は厚い雪に覆われ、街道沿いの家々から煙は上がっていない。
避難したのか。
あるいは、薪さえ尽きたのか。
「異常ですね」
気象学者オルドが馬車を降り、雪を採取した。
温度を測り、空を見上げる。
「北方は春が遅い土地ですが、ここまで広範囲に寒気が停滞した記録はありません」
「自然現象ではないのですか?」
リディアが尋ねる。
「自然現象だけとは考えにくいでしょう」
魔術師エルナが雪へ杖を向けた。
青白い光が地面の上を走る。
「雪の中に、微弱な魔力が含まれています」
「処刑を宣告された公爵令嬢の魔力ですか?」
「まだ分かりません」
エルナは慎重に答えた。
「魔力には個人ごとの特徴があります。ただし、自然界を巡るうちに変質しますので、本人と直接比較する必要があります」
「つまり、その令嬢が原因である可能性も残っている?」
「可能性は否定できません」
アリシアが姉を見る。
「今回は、本当に悪役令嬢が春を盗んだのかもしれないのね」
「決めつけてはいけません」
リディアは雪に覆われた畑へ目を向けた。
「無実だと決めつけることも、罪人だと決めつけることと同じです」
これまでリディアたちが関わった事件では、立場の弱い者が証拠もなく悪役にされていた。
だからといって、今回も必ず無実だとは限らない。
重要なのは肩書でも、過去の経験でもない。
何が起きたのか。
誰が何をしたのか。
その結果、誰が利益を得ているのか。
すべてを確かめなければならない。
一行が北方連合の中心都市ノルディアへ到着したのは、それから三日後だった。
高い城壁に囲まれた街は、深い雪に埋もれていた。
建物の一階部分は半ば雪に覆われ、住民たちは屋根から出入りしている。
街の中央にある大広場には、巨大な太陽神の像が建っていた。
黄金色の円盤を掲げる神像の足元には、何百人もの人々が集まっている。
中央の壇上では、白と金の法衣をまとった神官が演説していた。
「北方から春が失われたのは、氷の魔女が太陽神の怒りを買ったからである!」
群衆から怒号が上がる。
「魔女を処刑せよ!」
「春を返せ!」
「子どもたちを救え!」
馬車を降りたリディアは、人々の顔を見た。
彼らは怒っていた。
しかし、その怒りよりも強いのは恐怖だった。
春が来なければ種をまけない。
種をまけなければ秋の収穫はない。
すでに多くの家が食料を失い、家畜も凍死している。
誰かを憎まずには耐えられないほど、追い詰められているのだ。
壇上の神官が両手を広げた。
「氷の公爵令嬢ヴィオラは、生まれながらに呪われた魔力を持つ! あの女が太陽神へ背き、北方の春を封じたのだ!」
神官の後ろには、大きな献金箱が並んでいた。
「だが、恐れる必要はない! 太陽神は信仰深き者をお見捨てにはならない!」
神官の声が広場へ響く。
「魔女を火へ捧げ、祈りの証として財を差し出せば、必ず春は戻る!」
人々は列を作り、献金箱へ金貨や銀貨を入れていく。
中には結婚指輪や家宝を差し出す者もいた。
小さな少女が、古びた人形を箱へ入れようとしている。
母親が止めた。
「それはお金にはならないわ」
「でも、わたしにはこれしかないの」
「神様は、お金や宝物だけを欲しがるの?」
アリシアがつぶやく。
リディアは壇上の神官を見た。
「少なくとも、あの神官は欲しがっているようですね」
演説を終えた神官が、調査団の馬車に気づいた。
彼は人々をかき分け、リディアたちの前へ歩いてくる。
五十歳ほどの男性だった。
柔和な笑顔を浮かべているが、目だけが笑っていない。
「帝国からの調査団とお見受けいたします」
「リディア・フォン・アルヴェインと申します」
「わたしは太陽神殿の大神官、ソラリスです」
彼は胸へ手を当てた。
「悪役令嬢セレスティア様と、そのご令嬢をお迎えできるとは光栄です」
「ヴィオラ公爵令嬢について、お話を伺いたく参りました」
「すでに答えは出ております」
「裁判が終わったのですか?」
「神託が下りました」
「裁判は?」
ソラリスの笑みが少しだけ固くなる。
「神の裁きは、人の法に勝ります」
「北方連合の法では、神託だけで処刑できるのですか?」
「非常時には、大神官が罪人を裁く権限を持ちます」
リディアは父から渡された法令集を開いた。
「その非常事態条項は、外敵の侵攻または大規模な魔物災害に適用されるものです」
「異常気象も同様でしょう」
「条文には記載されておりません」
「法は、すべての事態を予測できるものではありません」
「だからこそ、都合よく読み替えてはなりません」
ソラリスの目が細くなる。
「ヴィオラが春を奪ったことは明白です」
「証拠は?」
「神託です」
「どなたが受けたのですか?」
「このわたしです」
「記録は?」
「神の言葉を疑うのですか?」
「あなたが神の言葉を正しく伝えているか確認したいのです」
広場に残っていた者たちがざわめく。
ソラリスは一瞬だけリディアをにらんだ。
だが、すぐに穏やかな笑顔へ戻る。
「ずいぶんと疑い深い方だ」
「調査官ですから」
「あなた方が何を調べようと、処刑は三日後に執り行われます」
「延期してください」
「できません」
「正式な国際調査の要請は、北方連合議会から出されています」
「議会は神殿より下にあります」
「では、その点も確かめましょう」
リディアは広場の献金箱を見た。
「それから、集めた五百七十万金貨の帳簿をご用意ください」
ソラリスの笑顔が消えた。
「神へ捧げられた財産です」
「異常気象への対策費として集めたと伺っております」
「祈りも対策です」
「食料の購入、避難所の運営、寒さで倒れた方の治療には、いくら使いましたか?」
「信仰を金額で測るおつもりか!」
「金額を集めたのはあなたです」
人々のざわめきが大きくなる。
リディアは声を張り上げなかった。
ただ静かに、群衆にも聞こえる声で続けた。
「献金が必要だった理由と、集めた金の使い道を確認するだけです。正しく使われているのであれば、何も困ることはございません」
ソラリスはしばらく黙っていた。
「神殿の帳簿を、部外者へ見せることはできない」
「承知いたしました」
リディアは書記官へ視線を送った。
「帳簿の提出拒否を記録してください」
「待ちなさい」
「何でしょう」
「拒否したとは言っていない」
「見せられないとおっしゃいました」
「あれは、神殿法上の問題があるという意味だ」
「では、問題を確認するため神殿法の該当条文をお示しください」
ソラリスは答えなかった。
「帳簿の提出は、明日の正午までお待ちします」
「勝手に期限を決めるな!」
「処刑まで三日しかございませんので」
リディアは穏やかに一礼した。
「調査にご協力いただけることを期待しております」
その日のうちに、一行はヴィオラが収監されている氷牢へ向かった。
氷牢はノルディア城の地下にあった。
壁も床も青白い氷に覆われている。
本来は強力な炎魔法を使う犯罪者を収容するための施設だった。
冷気を吸収し、内部へ閉じ込める特殊な結界が張られている。
最奥の牢に、ヴィオラはいた。
白銀の髪。
青紫の瞳。
肌は雪のように青白く、唇にはほとんど血の気がない。
薄い囚人服を着せられ、両手には重そうな魔力封じの枷がはめられていた。
それでも彼女は、背筋を伸ばして立っていた。
「帝国からの調査団です」
リディアが名乗ると、ヴィオラは静かに頭を下げた。
「遠路、ご足労いただき感謝いたします」
「お体の状態は?」
「問題ございません」
「嘘ね」
エルナが即座に言った。
ヴィオラは目を瞬いた。
エルナは牢の結界へ測定器を向けた。
針が激しく揺れる。
「この結界は、冷気を閉じ込めるだけではありません。あなたの魔力を吸い上げています」
「魔力を?」
リディアが振り返る。
「はい。それも、かなりの量です」
エルナは顔を険しくした。
「このまま三日も置かれれば、処刑を待たずに命を失う可能性があります」
牢番が青ざめた。
「わたしたちは、大神官様から命じられただけです!」
「結界を止めてください」
「許可がなければ」
アリシアが剣へ手を置く。
「許可と命、どちらが大切かしら」
「アリシア」
リディアが妹を止める。
「法的に参りましょう」
「法的に死にかけている人を助けるの?」
「だから急ぐのです」
リディアは北方連合議会から発行された調査権限書を示した。
「被告人の生命に危険がある場合、調査団は一時的に拘束方法を変更できます」
ユリウスが用意した資料の、七十二ページ目だった。
「結界を停止し、魔力封じの枷だけを残してください」
「大神官様に逆らえば、我々が」
「従えば、あなた方は不当な拘束による殺人未遂の加担者となる可能性があります」
牢番たちは顔を見合わせた。
やがて牢長が結界を停止した。
氷壁に刻まれた魔法陣から、光が消える。
ヴィオラの体がぐらついた。
アリシアが扉を開け、倒れる前に彼女を支えた。
「問題ないようには見えないわね」
「申し訳ございません」
「謝る前に休んで」
毛布と温かい飲み物が運ばれた。
ヴィオラの顔に少しずつ血色が戻る。
エルナはヴィオラの魔力を測定した。
測定器の結晶が、淡い青色に光る。
次に街道で採取した雪を置く。
こちらの結晶も青く光った。
「同じ色です」
アリシアが言う。
「では、本当にヴィオラ様の魔力が雪を降らせているの?」
「いいえ」
エルナは二つの結晶を並べた。
「よく見てください」
ヴィオラの魔力を測った結晶には、銀色の光が混ざっている。
雪から取り出した魔力には、黒い筋が走っていた。
「基礎となる魔力は同じです。しかし雪のほうには、強制的に変質させられた痕跡があります」
「つまり?」
「ヴィオラ様の魔力が使われていることは間違いありません」
エルナは停止した氷牢の結界を見た。
「ですが、ご本人の意思ではありません。何者かが魔力を吸い上げ、異常気象を起こす術式へ流している可能性があります」
リディアはヴィオラへ向き直った。
「いつから、ここに収監されていますか?」
「三か月前です」
「雪が解けなくなったのは?」
「わたくしが入牢した、翌日からと聞いています」
偶然にしては、あまりにも一致している。
「大神官は、あなたを処刑すれば春が戻ると言っています」
ヴィオラの表情が曇る。
「それは、わたくしにも分かりません」
「ご自身の魔力に、異常気象を起こす力があるのですか?」
「幼い頃、感情が乱れると周囲の温度を下げることがございました」
「どの程度?」
「部屋の窓が凍る程度です」
「北方全域を覆う力はございますか?」
「ございません」
ヴィオラは自分の手を見る。
「少なくとも、以前のわたくしには」
「以前?」
「一年前から、魔力が異常に増え始めました」
「原因は?」
「大神官ソラリス様から、祝福を受けるようになってからです」
リディアたちは顔を見合わせた。
「どのような祝福です?」
「週に一度、太陽神殿で祈りを捧げました。特別な聖水を飲み、魔力を安定させる儀式を受けました」
「その聖水を調べる必要があります」
エルナが言う。
「ほかに、何か体へつけられましたか?」
ヴィオラは首元に触れた。
「首飾りをいただきました。けれど、収監時に没収されました」
牢長が保管庫から首飾りを持ってきた。
黒い石のついた銀の鎖だった。
エルナが測定器を近づけた瞬間、針が限界まで振れた。
「魔力増幅器です」
「増幅?」
「人の魔力を育てるものではありません。吸い取るために、魔力の生成量だけを無理やり増やす道具です」
ヴィオラの顔が青ざめる。
「では、一年間の儀式は」
「あなたの魔力を利用する準備だったのでしょう」
リディアは質問を続けた。
「なぜ、あなたが選ばれたのですか?」
「わたくしは北方でもっとも強い氷魔法を持つ家系に生まれました」
「ほかに、ソラリス大神官と対立する理由は?」
ヴィオラは少し迷った。
「神殿への献金制度へ、反対しておりました」
北方では十年前から、収穫量の一割を太陽神殿へ納める制度が始まっていた。
本来は不作の際に備え、神殿の倉庫へ食料を蓄えるためのものだった。
しかし近年、神殿は保管量を公開しなくなった。
ヴィオラは公爵家の権限を使い、監査を要求していた。
さらに今年、父である公爵が病に倒れたため、彼女が領地経営を引き継いだ。
最初に行ったのが、神殿への納入停止だった。
その一月後、大神官が神託を受けた。
ヴィオラは太陽神を侮辱し、春を奪おうとしている。
そう告げられたのである。
「随分と分かりやすいですね」
アリシアが言う。
「献金を止めた方が、神の敵になったのですから」
「ですが、それだけでは証拠になりません」
リディアはエルナを見る。
「魔力がどこへ流れているか、調べられますか?」
「術式が現在も動いているなら」
エルナは氷牢の壁へ杖を当てた。
淡い光の糸が浮かび上がる。
糸は床を通り、地下のさらに奥へ伸びていた。
「魔力の流れがあります」
「どこへ?」
「北東です。おそらく太陽神殿の方角でしょう」
翌朝。
大神官ソラリスから届いた帳簿は、わずか十二ページしかなかった。
五百七十万金貨を集めた組織の記録とは思えない。
収入欄には献金総額。
支出欄には、祈祷費、祭具費、神殿維持費とだけ書かれている。
具体的な購入先も、金額の内訳も、領収書もなかった。
「これを帳簿と呼ぶのですか?」
リディアが神殿の会議室で尋ねる。
ソラリスは平然と答えた。
「神聖な金の使い道を、俗世の基準で測ることはできません」
「祈祷費として二百十万金貨」
リディアは帳簿を読み上げた。
「具体的に何へ使ったのでしょう」
「祈りを捧げました」
「どなたが?」
「神官たちです」
「神官一人につき、いくら支払われましたか?」
「答える必要はない」
「祭具費は百八十万金貨。購入した祭具の一覧は?」
「神聖な品です」
「神殿維持費として百六十万金貨。どこを修繕しましたか?」
「神殿全体だ」
セレスティアが会議室を見回した。
壁には細かなひびがある。
天井の金箔も剥がれていた。
「百六十万金貨を使ったようには見えませんね」
ソラリスの顔が強張る。
「建物の維持だけではない。信仰を守るための費用だ」
「残り二十万金貨は?」
「予備費だ」
「現在、どちらに?」
「保管している」
「確認させてください」
「できない」
「なぜ?」
「神聖だからだ!」
リディアは帳簿を閉じた。
「つまり、五百七十万金貨のうち、使途を証明できるものは一つもないのですね」
「神を侮辱するな!」
ソラリスは机をたたいた。
「春が来ないのは、信仰が足りないからだ! それゆえ、より多くの献金が必要なのだ!」
「献金を増やすと、気温が上がるのですか?」
「神が、お喜びになる!」
「金貨を何枚差し出せば、一度上がりますか?」
ソラリスは言葉に詰まった。
リディアは席を立った。
「神殿の金庫、倉庫、儀式場を調査します」
「認めん!」
「北方連合議会の許可がございます」
「ここは神の領域だ!」
「北方連合の領地内です」
「神へ逆らえば、罰が下るぞ!」
「帳簿を確認しただけで罰を下す神なら、ずいぶん都合がよろしいのですね」
ソラリスは神官たちへ命じた。
「この者たちを追い出せ!」
誰も動かなかった。
神殿の入り口には、アリシアと北方連合の騎士団が立っている。
騎士団長が文書を掲げた。
「大神官ソラリス。議会の決議により、神殿資産の一時凍結と施設調査を行います」
「貴様、神を恐れないのか!」
「恐れております」
騎士団長は答えた。
「ですから、神の名を使って民から金を奪った者がいるなら、見過ごせません」
神殿の調査が始まった。
地上の金庫には、金貨がほとんど残っていなかった。
食料倉庫も空だった。
神殿は不作に備える名目で穀物を集めていた。
だが、飢えた住民へ一袋も配っていない。
「備蓄はどこです?」
監査官が尋ねる。
倉庫番は震えながら答えた。
「売られました」
「誰の命令で?」
「大神官様です」
「売却先は?」
「南方の商会です」
「北方の民が飢えているのに?」
「雪が降り始める前に、すべて運び出されました」
リディアは日付を確認した。
穀物が売却されたのは、異常気象が始まる三日前。
つまり、ソラリスは雪が続くことを事前に知っていた。
「売却代金は?」
「神殿の地下金庫へ運ばれました」
地下へ続く扉は、厳重に施錠されていた。
ソラリスは鍵を渡すことを拒んだ。
「神の財産だ!」
「民から預かった財産です」
「わたしは太陽神の代理人だぞ!」
そのとき、エルナの持つ測定器が激しく鳴った。
「この下です」
地下から、ヴィオラと同質の魔力が流れている。
アリシアが扉の鍵へ手を伸ばした。
「鍵を渡さないなら、壊すわ」
「神殿を破壊するつもりか!」
「扉の鍵だけよ」
「同じことだ!」
「では、開けてください」
ソラリスは動かなかった。
アリシアが剣を抜く。
一閃。
錠前だけが床へ落ちた。
「穏便に済ませたわ」
「姉として、あなたの穏便の基準が心配です」
リディアは言いながら、地下へ続く階段を見た。
冷たい風が吹き上がってくる。
地下には巨大な儀式場があった。
壁一面に、複雑な魔法陣が刻まれている。
中心には黒い水晶柱。
そこから無数の魔力の糸が伸び、北方全域へ広がっていた。
水晶柱の根元には、ヴィオラの氷牢と同じ術式がある。
彼女から吸い取られた魔力は、地下を通ってここへ集められ、水晶柱によって増幅されていた。
「これが異常気象の原因です」
エルナが断言する。
「この術式が、北方上空へ冷気を送り続けています」
「止められますか?」
「可能です。ただし、急に破壊すると蓄積された魔力が暴発します」
「どれほどの被害が?」
「神殿と、この街の半分が凍りつくでしょう」
ソラリスが突然笑い出した。
「触れられまい!」
全員の視線が集まる。
彼は階段の上で、勝ち誇った表情を浮かべていた。
「術式を止めれば街が滅びる。術式を残せば雪は降り続ける」
「あなたが作ったのですね」
「神の奇跡だ!」
「先ほど、自分で作ったと認めたように聞こえましたが」
ソラリスの笑みが引きつった。
「言葉のあやだ」
「では、どなたが作ったのです?」
「魔術師だ」
「名前は?」
「知らん」
「知らない魔術師が、神殿の地下へ巨大な術式を作った?」
「神に導かれた者だ!」
「その者への支払い記録は?」
「神聖な契約だ!」
どれだけ言葉を重ねても、説明になっていなかった。
エルナは術式の周囲を調べていた。
やがて、水晶柱の裏に小さな制御盤を見つける。
「解除用の鍵があるはずです」
「どのようなものです?」
「太陽をかたどった金属板です。このくぼみにはめ込み、魔力の流れを逆転させれば安全に停止できます」
リディアはソラリスを見た。
「鍵をお持ちですね」
「知らん」
「身体を調べても?」
「大神官の体へ触れることは許されぬ!」
アリシアが近づく。
ソラリスは後ずさった。
「やめろ!」
「鍵を出してください」
「持っていない!」
「では、調べても困りませんね」
「無礼者!」
ソラリスは法衣の内側へ手を入れた。
取り出したのは鍵ではない。
赤い石のついた短い杖だった。
彼が杖を掲げると、水晶柱が激しく輝く。
地下全体が揺れた。
「何をしたのです!」
エルナが叫ぶ。
「術式を暴走させたのです!」
「全員、ここで凍りつけばよい!」
ソラリスの顔から、聖職者らしい穏やかさは完全に消えていた。
「わたしの計画を邪魔した者は、全員が魔女に殺されたことになる!」
冷気が渦を巻き、氷の柱となって伸びる。
アリシアがリディアとセレスティアの前へ立った。
しかし、剣で防げるものではない。
エルナが結界を張る。
透明な壁へ氷がぶつかり、亀裂が走った。
「長くは持ちません!」
リディアは周囲を見た。
制御盤。
水晶柱。
魔力の糸。
ソラリスの胸元。
彼の法衣の隙間から、太陽をかたどった金色の板が見えている。
「アリシア。鍵は胸元です」
「分かったわ」
アリシアが駆け出した。
冷気の隙間を抜け、ソラリスの前へ迫る。
「近づくな!」
ソラリスが杖を向ける。
氷の刃が飛ぶ。
アリシアは身をひねってかわし、そのまま彼の手首を打った。
杖が床へ落ちる。
続けて法衣の胸元をつかみ、金の板を引き抜いた。
「返せ!」
「エルナ!」
鍵が投げられる。
エルナが受け取り、制御盤へはめ込んだ。
「ヴィオラ様の魔力が必要です!」
「連れてきておりません!」
牢から出したばかりのヴィオラは、城で治療を受けている。
本人の魔力がなければ、術式を逆転できない。
そのとき、水晶柱から伸びる光の糸が強く輝いた。
「いいえ」
セレスティアが言う。
「この術式は今も、ヴィオラ様とつながっています」
エルナが光の糸を見る。
「そのとおりです。ですが逆流させれば、彼女の体へ大きな負担が」
「このままでも、魔力を吸われ続けます」
リディアは即座に判断した。
「少しずつ逆転させてください。吸い取られた魔力を、ご本人へ返します」
「時間がかかります!」
「その間、結界を維持できますか?」
「三分なら!」
「わたくしもお手伝いします」
セレスティアがエルナの隣へ立つ。
彼女は強大な魔術師ではない。
しかし長年、各国を渡り歩く間に、魔力制御の基礎を学んでいた。
リディアも反対側へ手を置く。
アリシアは暴れるソラリスを床へ押さえつけた。
「離せ! 神へ逆らえば呪われるぞ!」
「今のところ、あなたのほうがよほど呪われた顔をしているわ」
「わたしを誰だと思っている!」
「五百七十万金貨の使途を説明できない容疑者」
「大神官だ!」
「それは職業であって、免罪符ではないわ」
エルナが鍵を回す。
水晶柱の光が一度、大きく膨らんだ。
「始めます!」
地下に流れ込んでいた魔力が、ゆっくりと逆方向へ動き始める。
黒い筋が水晶柱から剥がれ、砕けていく。
北方全域へ広がっていた魔力の糸が、一つずつ消える。
しかし水晶柱には、まだ膨大な力が残っていた。
エルナの結界へ亀裂が広がる。
セレスティアの手に霜がついた。
リディアの指先から感覚が失われていく。
「あと一分です!」
「続けてください!」
氷の壁が迫る。
アリシアはソラリスを柱へ縛りつけ、姉の背後へ立った。
自分の外套を広げ、飛び散る氷片からリディアを守る。
「姉様!」
「あと少しです!」
遠く離れた氷牢で、ヴィオラは自分の中へ戻ってくる魔力を感じていた。
冷たく、激しく、長い間奪われ続けた力。
このまま受け入れれば、体が耐えられない。
彼女は寝台から起き上がった。
「横になっていてください!」
医師が止める。
だがヴィオラは窓へ近づいた。
街の向こうに、太陽神殿が見える。
自分の魔力が、あそこから戻ってきている。
ならば、受け取るだけではいけない。
制御しなければならない。
ヴィオラは目を閉じた。
母から教えられた、氷の魔力を静める呼吸。
父と練習した、力を大地へ巡らせる術式。
公爵家が何百年も、雪崩から領民を守るために使ってきた魔法。
彼女は戻ってきた魔力を、自分の中に閉じ込めなかった。
大地へ広げた。
街を凍らせるためではない。
積もった雪を、ゆっくりと水へ変えるために。
神殿地下の水晶柱に亀裂が入った。
「魔力の性質が変わりました!」
エルナが叫ぶ。
黒く濁っていた光が、澄んだ銀色へ変わる。
水晶柱が砕けた。
爆発は起きなかった。
代わりに、優しい光が地下全体を満たした。
天井から落ちた氷が水へ変わり、床を流れていく。
リディアは膝をついた。
アリシアが姉を支える。
「終わったの?」
「はい」
エルナが測定器を見る。
「異常気象を起こしていた術式は停止しました」
「春は戻るのですか?」
「すぐには分かりません。上空へ蓄積した冷気が消えるまで、数日は」
そのとき、地下へ一筋の光が差し込んだ。
地上へ続く階段からだった。
曇り続けていた空が割れ、太陽の光が神殿へ入ってきたのである。
ソラリスは床へ崩れ落ちた。
「そんなはずはない」
神ではなく、自分が作った偽りの冬。
それが終わった瞬間だった。
「わたしは太陽神に選ばれたのだ」
「本当に?」
リディアは息を整えながら立ち上がった。
「あなたが神へ選ばれたことを証明するものは、何でしょう」
「神託を受けた!」
「記録は?」
「わたしの言葉だ!」
「奇跡は?」
「この冬だ!」
「ヴィオラ様から奪った魔力で起こしたものですね」
「違う!」
「では、この術式は?」
「魔術師が勝手に作った!」
「先ほど、あなたが杖で暴走させました」
「それは」
「解除用の鍵もお持ちでした」
ソラリスは黙った。
「冬が続けば、人々は不安になる」
リディアは地下に積まれた献金箱を見た。
地上では空だった金庫。
だが、地下の隠し部屋には金貨が山のように積まれている。
「不安になった人々へ、春を戻すためだと言って献金させる」
さらに奥には、豪華な家具、宝石、酒、絹の衣装が隠されていた。
「そしてヴィオラ様を処刑した後、術式を停止する」
ソラリスの顔がゆがむ。
「春が戻れば、人々はあなたの神託が正しかったと信じる。公爵家を排除し、献金制度を守り、さらに多くの金を集められる」
「証拠はない!」
秘密の金庫が開かれた。
中には帳簿があった。
表向きの十二ページではない。
献金の受領額。
穀物の売却益。
水晶柱の建設費。
魔術師への支払い。
各地の神官への口止め料。
大神官個人の別荘や宝石の購入費。
すべてが細かく記録されている。
リディアは最終ページを確認した。
「几帳面な方で助かりました」
「それを返せ!」
「証拠として押収いたします」
「神殿の所有物だ!」
「民から奪った金の記録です」
ソラリスは騎士たちに拘束された。
地上へ出ると、雪がやんでいた。
厚い雲の隙間から、太陽が見える。
街の人々が家から出て、空を見上げていた。
何か月も見ることのなかった青空だった。
「大神官様!」
人々は拘束されたソラリスを見て、戸惑った。
「なぜ、大神官様が?」
「魔女を処刑していないのに、どうして太陽が?」
誰かが尋ねた。
リディアは広場の壇上へ立った。
人々の怒りと不安が、自分へ向けられているのを感じる。
「ヴィオラ公爵令嬢が、北方へ冬をもたらしたことは事実です」
広場がざわめく。
セレスティアが娘を見る。
だが口を挟まない。
「ただし、ご本人の意思ではございません」
リディアは声を張った。
「太陽神殿はヴィオラ様を氷牢へ入れ、その魔力を吸い上げました。神殿地下の術式によって魔力を変質させ、北方全域へ冷気を流していたのです」
「嘘だ!」
ソラリスが叫ぶ。
「その女も魔女の仲間だ!」
エルナと騎士たちが、水晶柱の破片と術式の写しを運び出した。
続いて、金貨の詰まった箱が並べられる。
「皆様が太陽神へ捧げた、五百七十万金貨です」
箱が一つずつ開かれる。
群衆から驚きの声が上がった。
「大神官ソラリスは、表向きにはすべて祈祷へ使ったと説明しました。しかし実際には、地下金庫へ隠していました」
宝石。
高級な酒。
豪華な衣装。
別荘の権利書。
「不作に備えて集めた穀物は、雪が降り始める前に南方へ売却されています」
一人の老人が声を上げた。
「わしらへ配る食料はないと言っていたではないか!」
「子どもが飢えていたのよ!」
「神殿には一袋も残っていないと言われた!」
怒りの声が広がる。
ソラリスは拘束を振りほどこうとした。
「神殿を維持するために必要だった!」
「別荘が?」
リディアが尋ねる。
「わたしには祈りを捧げる場所が必要だった!」
「海辺の保養地に?」
「神官にも休息は必要だ!」
「北方の民が暖房も食料もない中で?」
「神に仕える者は、民より重要なのだ!」
広場が静まり返った。
ソラリスは、自分が何を口にしたか気づいた。
「違う。今のは」
「神官が民より重要だと?」
「そういう意味ではない!」
「献金を集めた理由は、民を救うためではなかったのですか?」
「神殿を守ることが、民を救うことになる!」
「神殿の地下で金貨を守っている間に、何人亡くなったかご存じですか?」
ソラリスは答えられなかった。
「百八十七名です」
リディアの声が広場へ響く。
「凍死、飢え、薬不足。神殿から食料と資金が提供されていれば、助かった可能性のある方々です」
「わたしが殺したわけではない!」
その言葉に、人々の表情が変わった。
怒りだけではない。
失望だった。
最後まで、自分の責任を認めようとしない者へ向ける目だった。
「そうですね」
リディアは答えた。
「あなたは自分の手で、百八十七人を傷つけたわけではない」
ソラリスの顔に希望が浮かぶ。
「ならば」
「ただ、助けるために預けられた食料と金を隠し、異常気象を起こし、救助を妨げたのです」
希望が消えた。
「それらがどの罪にあたるかは、裁判所が判断いたします」
ヴィオラの処刑は、正式に停止された。
神殿の地下術式が止まって三日後。
ノルディアの気温は、ゆっくりと上がり始めた。
積もった雪が解け、街道の石畳が姿を現す。
一週間後には、家々の屋根から雪が消えた。
二週間後。
雪の下から、小さな緑の芽が現れた。
人々は広場へ集まり、その芽を囲んだ。
誰かが祈りを捧げた。
けれど、金貨を箱へ入れる者はいない。
そこへヴィオラが現れた。
完全に回復したわけではなかった。
長い間魔力を吸われていたため、杖をついている。
人々は彼女を見ると、道を開けた。
中には目をそらす者もいた。
処刑を求める声を上げた者たちだった。
ヴィオラは誰も責めなかった。
芽の前へしゃがみ込み、両手を地面へ当てる。
淡い銀色の光が広がった。
凍っていた土が柔らかくなり、地下の水がゆっくりと流れ始める。
「何をしているのです?」
リディアが尋ねる。
「急に雪が解ければ、洪水が起きます」
ヴィオラは額に汗を浮かべながら答えた。
「氷の魔力を使って、雪解けの速度を調整しています」
「まだ、お体が」
「だからこそ、少しずつです」
彼女は自分を処刑しようとした民の土地を守っていた。
一人の男性が人混みから出てくる。
「ヴィオラ様」
彼は帽子を脱ぎ、頭を下げた。
「申し訳ありませんでした」
別の女性も前へ出た。
「わたしも、あなたを魔女と呼びました」
「息子が死んで、誰かを恨みたくて」
「神官様の言葉を、確かめようともしなかった」
謝罪の声が続いた。
ヴィオラは立ち上がった。
「皆様を、すぐに許せるかは分かりません」
人々がうつむく。
「わたくしは死を望まれました。公爵家の屋敷には石を投げられ、使用人たちも傷つきました」
「はい」
「なかったことにはできません」
ヴィオラは静かに続けた。
「ですが、皆様が恐れていたことも分かります」
春が来ない。
食料がない。
家族が病に倒れる。
そこへ、神の代理人を名乗る者が現れ、すべては一人の女のせいだと言った。
それを信じれば、複雑な現実について考えなくて済む。
一人を燃やせば春が戻る。
そう思いたくなるほど、人々は追い詰められていた。
「許すかどうかは、これからの皆様を見て決めます」
ヴィオラは土から出た芽を見る。
「二度と誰か一人を悪者にするだけで、問題が解決すると考えないでください」
一人の老人が尋ねた。
「では、我々は何をすればよいでしょう」
「一緒に調べてください」
「何を?」
「なぜ備蓄がなくなったのか。なぜ神殿の帳簿を誰も確認できなかったのか。なぜ裁判もなく、わたくしを処刑できたのか」
ヴィオラは人々を見渡した。
「同じことが起きない仕組みを、一緒に作ってください」
謝罪だけでは変わらない。
反省を口にするだけでも足りない。
次に同じことが起きないよう、自分たちの手で制度を変える。
それがヴィオラの求めた責任だった。
大神官ソラリスの裁判は、一か月後に開かれた。
議場には北方連合の代表者だけでなく、献金した市民たちも集まった。
罪状は数日にわたって読み上げられた。
公爵令嬢への虚偽告発。
違法な監禁。
魔力の強制搾取。
異常気象を起こした罪。
公金および献金の横領。
備蓄穀物の不正売却。
殺人未遂。
証拠隠滅。
調査妨害。
集めた金額は五百七十万金貨。
売却した穀物の代金は百四十万金貨。
過去十年間に不正流用した神殿税を加えると、被害額は九百八十万金貨に達していた。
ソラリスは最後まで、自分は神に選ばれたと主張した。
「わたしがいなければ、民は希望を失っていた!」
裁判長が尋ねる。
「その希望を与えるために、意図的に冬を起こしたのですか?」
「試練がなければ、救いは生まれない!」
「あなたが試練を作り、自分で救うふりをしたと?」
「民には導く者が必要だ!」
「その対価が九百八十万金貨ですか?」
「信仰を金で測るな!」
「金を集めたのは、あなたでしょう」
傍聴席から失笑が漏れた。
ソラリスはリディアを指さした。
「この女こそ悪魔だ! 神聖な神殿へ踏み込み、信仰を破壊した!」
リディアは傍聴席から答えた。
「わたくしは、帳簿を確認しただけです」
「それが信仰を破壊したのだ!」
「帳簿を見ただけで壊れる信仰なら、初めからあなたの嘘で作られたものだったのでしょう」
議場が静まる。
「本物の信仰は、帳簿を見られても失われません」
リディアは神官たちが座る席を見た。
ソラリスへ協力しなかった神官。
不正を疑いながら、声を上げられなかった神官。
彼の命令に従い、後から証言した神官。
さまざまな者がいた。
「神を信じることと、神を名乗る人間へ無条件に従うことは別です」
若い神官が立ち上がった。
「そのとおりです」
彼は法衣を握りしめていた。
「わたしは地下の術式を知っていました」
議場がざわめく。
「ですが、大神官様へ逆らえば破門されると恐れ、黙っていました」
「では、お前も共犯だ!」
ソラリスが叫ぶ。
若い神官は顔を青くした。
それでも逃げなかった。
「はい」
彼は認めた。
「止める機会がありながら、止めませんでした。その責任を負います」
ソラリスが言葉を失う。
共犯と呼ばれた神官は、言い訳をしなかった。
自分だけ助かろうと、大神官へすべての罪を押しつけもしない。
「ですが、証言します」
若い神官は裁判長を見た。
「二度と神の名が、人を黙らせる道具とならないように」
彼の証言によって、ソラリスが異常気象を計画した経緯が完全に明らかとなった。
ソラリスには終身刑が言い渡された。
神殿と個人の全財産は没収された。
ただし、返還すべき九百八十万金貨には届かなかった。
別荘、宝石、美術品、土地、隠し口座。
すべてを売却しても、回収できたのは七百六十万金貨だった。
残額について、裁判長が尋ねる。
「被告に返済能力はありません」
リディアは一枚の書類を提出した。
「では、労働によって返済していただきます」
ソラリスの顔が青ざめる。
「大神官だったわたしに、働けと言うのか!」
「神官も働くでしょう」
「祈りを捧げていた!」
「その祈りへ、二百十万金貨を請求なさったのですね」
「神聖な仕事だ!」
「北方では、雪解けによって街道や橋の修繕が必要です」
リディアは請求書を彼の前へ置いた。
「人々の生活を支える、十分に神聖な仕事だと思います」
「寒い場所で働けというのか!」
「皆様が暮らしている場所です」
「わたしは体が弱い!」
「裁判前の健康診断では、同年代の平均より良好でした」
「祈る時間が必要だ!」
「労働後はご自由に」
ソラリスは請求書を見た。
残額、二百二十万金貨。
返済完了までの推定年数。
彼の年齢では、生涯かけても終わらない可能性が高い。
「こんなものは認めん!」
「あなたが認めなくても、返済義務は消えません」
「神が許さないぞ!」
リディアは穏やかに微笑んだ。
「でしたら、神へ返済をお願いしてはいかがでしょう」
議場に笑いが広がった。
ソラリスは顔を赤くした。
「神を侮辱するな!」
「いいえ」
リディアは、彼の前に置かれた請求書を指した。
「わたくしが請求しているのは、あなたです」
裁判後、回収された金と食料は北方全域へ返還された。
最初に行われたのは、飢えた家庭への食料配布だった。
次に診療所の再開。
避難所の暖房。
凍結で壊れた街道と橋の修繕。
農民には春まき用の種と、家畜を失った家庭への補助金が支給された。
だが、例年より大幅に遅れた春を取り戻すことは簡単ではない。
種をまけても、秋までに育たない可能性がある。
そこでヴィオラは、気象学者オルドや魔術師エルナと協力し、雪解けの時期を地域ごとに調整した。
南側の畑から順に雪を解かす。
水が一度に川へ流れ込まないよう、水路を作る。
寒さに強く、短期間で育つ作物を帝国から取り寄せる。
神殿へ集められていた金だけではない。
北方の人々も自ら働いた。
かつてヴィオラへ石を投げた者が、彼女とともに水路を掘った。
処刑を求める署名を集めた青年が、食料の配布を手伝った。
神殿の言葉を広めた商人たちが、今度は正しい気象情報を各地へ届けた。
罪が消えたわけではない。
けれど、傷つけた土地と人々のために働くことで、少しずつ関係を作り直していった。
雪が解けて二か月後。
ノルディアの郊外には、一面の麦畑が広がっていた。
例年より背は低い。
それでも青々とした穂が、夏の風に揺れている。
ヴィオラは畑の中に立ち、長い間その光景を見ていた。
「春は戻りましたね」
リディアが隣へ立つ。
「はい」
「北方を苦しめた魔力が、今度は春を守った」
ヴィオラは自分の手を見る。
「この力を、ずっと恐れていました」
幼い頃から、氷の魔力は不吉だと言われてきた。
感情が乱れれば部屋を凍らせる。
人を傷つけるかもしれない。
春を遠ざける力だと。
「ですが、力そのものに善悪はございません」
セレスティアが二人の後ろから声をかけた。
「何のために使うかです」
「わたくしは、この力を北方のために使えるでしょうか」
「すでに使っておられます」
ヴィオラは麦畑を見た。
雪解けの洪水を防ぎ、畑を守ったのは彼女の魔力だった。
さらに冬には雪崩を防ぎ、保存庫の温度を一定に保つためにも役立つだろう。
ヴィオラは長く息を吐いた。
「リディア様」
「はい」
「わたくしは、公爵家の当主を継ぐことにいたしました」
病に倒れていた父は回復しつつある。
しかし娘へ領地を任せると決めた。
「神殿へ国の備蓄を一任する制度も廃止します」
「代わりは?」
「各都市と村に、公開された共同倉庫を作ります。保管量と出入りの記録は、誰でも確認できるようにします」
「良いお考えです」
「神殿の新たな指導者も、神官だけで決めるのではなく、信徒と市民の代表を加えて選びます」
ヴィオラは少しだけ笑った。
「帳簿を見ただけで壊れない信仰を、作り直します」
「それは、わたくしではなく、あなた方にしかできないことです」
「もう一つ、お願いがございます」
「何でしょう」
「北方へ残っていただけませんか?」
「どのくらい?」
「できれば、十年ほど」
リディアは目を瞬いた。
隣でアリシアが吹き出す。
「随分と長い滞在ね」
「申し訳ございません」
ヴィオラは慌てて続けた。
「もちろん、ご予定があることは承知しております。ただ、制度を作るにはリディア様のお力が」
「お手伝いはいたします」
ヴィオラの顔が明るくなる。
「ですが、期限は半年です」
「半年?」
「その間に、あなたと北方の方々がご自分で制度を運営できるよう支援します」
「わたくしに、できるでしょうか」
「できなければ、わたくしが十年残っても同じです」
リディアはヴィオラを見る。
「大切なのは、わたくしが問題を片づけることではありません。次の問題が起きたとき、こちらの皆様がご自分で解決できることです」
ヴィオラはしばらく考えた。
やがて、しっかりとうなずく。
「分かりました」
「では、半年間よろしくお願いいたします」
「あら」
セレスティアが口を挟む。
「半年の休暇ではなかったのですか?」
「その予定でした」
「結局、半年間働くのですね」
「お母様こそ、帝都へお戻りになってもよいのですよ」
「雪解けの水路計画が、まだ終わっておりません」
「お仕事をなさるのですか?」
「少し、お手伝いするだけです」
リディアとアリシアが顔を見合わせた。
「お母様の『少し』は信用できないわ」
アリシアが言う。
「どなたかにも、同じことを言われた気がします」
半年後。
北方連合には新しい制度が整えられた。
神殿の財産と公共の備蓄が分離された。
献金は完全に任意となり、使用目的と金額の公開が義務づけられた。
神託だけを根拠に、個人を処罰することは禁止された。
魔術による異常現象が起きた場合は、神官だけでなく、魔術師、学者、法務官が共同で調査することとなった。
ヴィオラが当主となった公爵家には、気象魔術研究所が作られた。
異常気象を予測し、雪崩や洪水から人々を守るための施設である。
所長にはエルナが就任した。
「帝国へ戻らなくてよいのですか?」
リディアが尋ねる。
「こちらの研究のほうが面白そうです」
エルナは水晶板へ気象図を書き込みながら答えた。
「それに、ヴィオラ様の魔力を安全に使う方法は、まだ研究途中です」
少し離れた場所で、ヴィオラが子どもたちへ氷魔法を見せている。
手のひらから小さな雪の鳥が生まれ、空を舞う。
以前なら子どもたちは、彼女の力を恐れたかもしれない。
今は歓声を上げ、雪の鳥を追いかけている。
「良い場所になりそうですね」
リディアが言う。
「始まったばかりです」
ヴィオラが戻ってきた。
「失敗することもあるでしょう」
「そのときは?」
「記録を残し、原因を調べ、改善します」
「十分です」
リディアは微笑んだ。
出発の日。
ノルディアの門には、多くの人々が集まっていた。
誰も高価な贈り物を差し出そうとはしなかった。
代わりに届けられたのは、今年初めて収穫された麦で焼いた、小さなパンだった。
「旅の途中で召し上がってください」
少女がリディアへ籠を差し出す。
かつて献金箱へ人形を入れようとしていた少女だった。
「大切にいただきます」
リディアは籠を受け取った。
少女は首をかしげる。
「リディア様は太陽神様の使いなの?」
「違います」
「でも、春を戻してくれたでしょう?」
「春を戻したのは、たくさんの方々です」
リディアはヴィオラを見た。
「魔力を取り戻した方」
エルナとオルドを見る。
「冬の原因を調べた方」
水路を作った人々を見る。
「洪水を防ぎ、畑を耕し、種をまいた方」
「じゃあ、リディア様は何をしたの?」
リディアは少し考えた。
「帳簿を確認しました」
少女は目を丸くした。
周囲から笑い声が上がる。
「帳簿って、すごいの?」
「正しく使えば、とても役立ちます」
「魔法よりも?」
「魔法で九百八十万金貨の行方を見つけるのは、難しいでしょうね」
少女は納得したようにうなずいた。
「わたしも、帳簿を読めるようになりたい」
「学校で学んでください」
「悪い神官を見つけられる?」
「悪い神官だけではございません」
リディアは笑う。
「お金を正しく使っている、良い神官を守ることもできます」
一行を乗せた馬車が、ノルディアを出発する。
街道の両側には、緑の畑が広がっていた。
半年近く前、同じ道を通ったときには、すべてが雪に埋もれていた。
今は農民が畑で働き、家々の煙突から食事を作る煙が上がっている。
「北方編も、これで終わりね」
アリシアが座席へ体を預ける。
「編?」
リディアが尋ねる。
「わたしたちの旅を、物語のように分けるなら」
「誰が読むのです?」
「いずれ歴史書になるでしょう?」
セレスティアが窓の外を眺めながら言った。
「その場合、わたくしたちは『神殿を破壊した悪役令嬢一家』と書かれるかもしれませんね」
「破壊したのは鍵だけです」
アリシアが反論する。
「地下の水晶柱も壊れました」
「あれは自壊したのよ」
「大神官は、わたしたちが神聖な施設を破壊したと主張し続けています」
「鉱山でも?」
ソラリスは現在、北方の鉱山で働いている。
連日、監督官へ自分は大神官だと訴えているらしい。
しかし返される言葉は、いつも同じだった。
「でしたら、神のお力でこの石を運んでください」
祈っても石は動かない。
仕方なく自分で運ぶ。
一日働いて得られる賃金はわずかで、九百八十万金貨の返済には遠く及ばない。
それでも裁判所は、返済義務を免除しなかった。
なぜなら重要なのは、金額をすべて返し終えることだけではない。
自分が民から奪った金によって、どれほど多くの働きが失われたのか。
その事実を、生涯かけて知ることだった。
「ソラリス元大神官から、手紙が届いております」
リディアは鞄から一通の封書を出した。
アリシアが嫌そうな顔をする。
「何と?」
「自分を釈放すれば、太陽神の加護をアルヴェイン家へ与えるそうです」
「まだ言っているのね」
「釈放しなければ、神罰が下るとも」
「返事は?」
リディアは封書の裏を見せた。
赤い印が押されている。
「返済窓口へ転送しました」
セレスティアが笑った。
「正しい送り先ですね」
馬車の中に笑い声が広がる。
リディアは窓から、遠ざかっていく北方の山々を見た。
春を盗んだのは、公爵令嬢ではなかった。
一人の神官だけでもない。
人々の恐怖を利用し、真実を確かめず、誰か一人を燃やせば問題が解決すると信じさせる仕組みだった。
その仕組みは壊された。
だが、恐怖そのものが世界から消えたわけではない。
これからも人々は不安になる。
簡単な答えを求める。
強い言葉で、自分だけが真実を知っていると主張する者に耳を傾けたくなる。
だからこそ、記録が必要だった。
調査する者が必要だった。
権威へ疑問を投げかける制度が必要だった。
そして、自分は悪役と呼ばれても構わないと、理不尽の前へ立つ者が必要だった。
「次は帝都へ戻るのですよね?」
アリシアが尋ねる。
「はい」
「今度こそ休む?」
「少なくとも一月は」
「短くなっているわ」
「北方で半年過ごしましたので」
「働いていたでしょう」
「今度こそ本当に休みます」
セレスティアが娘を見る。
「依頼が届いても?」
「ほかの調査官へ任せます」
「婚約破棄でも?」
「任せます」
「王家の横領でも?」
「任せます」
「一千万金貨の使い込みでも?」
リディアは少し黙った。
アリシアが笑う。
「迷ったわね」
「金額の問題ではございません」
「では、なぜ請求書を確認したの?」
リディアは手元を見る。
知らないうちに、鞄の中の請求書へ手を伸ばしていた。
「習慣です」
「一月も休めそうにないわね」
三人の笑い声を乗せ、馬車は南へ進んでいく。
その後、北方の人々は長くヴィオラを「春を守る氷公爵」と呼んだ。
かつて彼女を悪役令嬢と呼んだ者たちは、その名を恥じた。
だがヴィオラ本人は、どちらの呼び名も否定しなかった。
春を盗んだ悪役令嬢。
春を守った氷公爵。
人は自分に都合のよい物語を、簡単に誰かへ押しつける。
大切なのは、その呼び名ではない。
自分が何をしたか。
何を守ったか。
何を間違え、どう責任を取ったか。
ヴィオラはそれを知っていた。
公爵邸の執務室には、リディアから贈られた額縁が飾られている。
中に入っているのは、九百八十万金貨の請求書の写しだった。
その下には、短い言葉が記されている。
恐怖は真実を変えない。
権威は責任を消さない。
そして、春は誰かを燃やして戻るものではない。
北方に冬が訪れるたび、人々は共同倉庫の帳簿を確認した。
備蓄量。
配布先。
保管期限。
不足している物資。
誰でも見ることができ、誰でも疑問を口にできた。
神殿でも同じだった。
献金額も使途も公開され、神官自身が監査を受ける。
祈りは残った。
信仰も失われなかった。
失われたのは、神の名を使えば何をしても許されるという、偽りの特権だけだった。
そして翌年。
北方には、暦どおりに春が訪れた。
雪解けの大地から無数の芽が顔を出し、銀色だった世界を緑に染めていく。
ヴィオラは丘の上から、その景色を見つめていた。
彼女の隣には、気象研究所の者たち。
神殿の新しい代表者。
村や町から選ばれた市民たちがいる。
誰も彼女一人を英雄とは呼ばなかった。
誰も、彼女一人へ未来を任せようとはしなかった。
それぞれが帳簿と観測記録を持ち、自分の役割を果たしていた。
それこそが、リディアたちの残した本当の春だった。
誰か一人を犠牲にしなくてもよい時代。
恐怖の中でも、証拠を確かめられる社会。
権威ある者にも、責任を求められる国。
その春は、もう誰にも盗めなかった。




