2話
美月は、恋に落ちないための努力を始めた。
それは、社内の誰にも知られてはいけない、孤独な戦いだった。
まず、彼の声を聞かないようにイヤホンを常備。
「おはようございます」の破壊力は、朝の脳に致命傷を与える。
次に、会議では彼の隣にならないように席を調整。
彼の横顔は、資料の内容をすべて吹き飛ばすほどの威力がある。
昼休みは、彼が来るタイミングを避けてトイレに逃げる。
社内チャット「Pipin」では、彼の写真が飛び交うが、通知はオフ。
彼が話しかけてきたら、目を合わせずに「はい」とだけ答える。
それでも、彼は言う。
「美月さんって、いつも僕にだけ冷たいですよね」
「えっ、そんなことないですけど…(あるけど)」
彼は天然だった。
そして、なぜか美月にだけ懐いてくる。
「美月さんの資料、いつもわかりやすくて助かってます」
「いえ、そんな…(やめて、褒めないで、顔が近い)」
「今日の服、似合ってますね」
「えっ…(それは…反則でしょ)」
美月は、限界だった。
このままでは、恋に落ちる。
恋に落ちたら、仕事が終わる。
仕事が終わったら、人生が詰む。
だから、美月は“資料”を作った。
タイトルは——
『推しの顔面に耐える方法』
内容はこうだ。
• 目を合わせない(視線は45度斜め下)
• 声を聞いたら深呼吸(心拍数調整)
• 社内チャットはスタンプのみ(文章は危険)
• 推しの顔面を“壁紙”と認識する(背景化)
• 褒められても「ありがとうございます」のみ(感情を挟まない)
• 彼の笑顔は“自然現象”として処理する(感情を持ち込まない)
この資料は、社内プレゼンのフォルダにこっそり保存された。
誰にも見られるはずがなかった。
なのに——
誤送信。
よりによって、送信先は一ノ瀬くん本人だった。




