対立の二重奏
さて、静音ちゃん・奏音ちゃんとお弁当を囲んだ日の放課後も、私は静音ちゃんと一緒に、大道具制作に励んでいた。教室の片隅でペンキを塗ったり、木枠を組み立てたり。すると、ふと静音ちゃんが微笑んで言う。
「桜ちゃんが手伝ってくれるお陰でもう焦る心配なさそう」
そう言ってくれると、私も頑張ってる甲斐があるよ! けれど――同時に、お昼休みの奏音ちゃんの言葉が頭をよぎる。
『これ以上、シズを苦しめないで』
私に苦しめてるつもりなんてない。でも、もしかして私は気づかないうちに静音ちゃんに負担をかけてるのかな? 大道具の進捗が順調なのは良いことだけど、妹が廃部に追い込んだ部活の部長に手伝ってもらってるわけだから……静音ちゃん、どんな気持ちなんだろう。もしかしたら、心の中ではものすごく葛藤しているのかもしれない。表情には出さないけれど、ふとした瞬間に見せる沈んだ目や、少しだけ迷ったような仕草が、それを垣間見せているようにも思える。実際、この件はタブーのようになっていて、お互い部活の話さえも避けてる感じ。あぁ……そういうところで、静音ちゃんを苦しめちゃってるのかも。けれど、私は引くわけにはいかない。直接、一緒に奏音ちゃんや生徒会と正面から戦うことができたらどんなに助かることだろう! ……とは言えないけれど、反撃の糸口探しだけは忘れてないから。
そんな決意だけは固めつつも、結局昨日と同じく楽しく作業を進めただけ。その中で静音ちゃんと話してみた感じだと……奏音ちゃんとの仲は極めて良好。こないだも、静音ちゃんが授業で描いた油絵を奏音ちゃんがすごく気に入って、部屋に飾りたいって言ってたとか。そんな一幕を話す静音ちゃんの瞳はとてもキラキラ輝いていて……静音ちゃんが、奏音ちゃんのことが大好きなんだなぁ、ってとても伝わってくる。
その他の話題といえば……私と音楽の趣味が合いそう……とか? ……うぅ、私、全然ストリップ部の役に立ってないかも……
そして、時刻は完全下校時刻の一〇分前。今日もきっちりと作業を終えて片付けを済ませた。教室を出るとき、私は静音ちゃんに声をかける。
「今日は一緒に帰ろうか」
「うんっ、ありがと!」
静音ちゃんはパッと笑顔になって、元気よく頷いてくれた。
駅まではちょっと回り道になってしまうけど、静音ちゃんと話しながら帰るのは、普通に楽しい。ちょっとした下心はあるけど、それを忘れちゃうくらい楽しい。
「昨日の『年下彼氏』見た?」
「うん、リリちゃん、ちょっと見ないうちに芸人から俳優に転向してたの、すごいよね!」
そんな普通の話をしているうちに、静音ちゃんの家に到着。並ぶ戸建ての中でもひときわ落ち着いた二階建てだ。
「わぁ……学校まで徒歩圏内だなんて最高じゃない?」
忘れ物とかしてもすぐ取りに戻れるし。
「えへへ……何となく近くていいなー、とは思ってたんだけど、奏音ちゃんも蒼暁院受ける、って言ってたから」
やっぱり、双子だと通いたい学校も同じになるんだなぁ。で、静音ちゃんもついてきたってことね。
「それに、こういう一軒家ってのも、ちょっと憧れなんだよねー……私、ずっとマンション暮らしだったから」
羨ましげに見上げる私に、静音ちゃんは嬉しそうに言う。
「良かったら、今度遊びに来ない?」
「うん、ありがとう! 絶対行くよ!」
そんな約束を交わしたところで、手を振りながら玄関へ入っていく静音ちゃんを見送ってから、私は改めて蒼暁院駅へと足を向け直す。だけど、その進路を遮るように曲がり角から現れたのは――
「偵察、お疲れ様」
「偵察って……というか、こんなところでどうしたの?」
いやいや、むしろ偵察っぽい登場してるの紗季の方じゃん! とツッコミたくなる私。
「もちろん、貴女を待っていたのよ。お互い情報交換もしたいでしょう?」
紗季は相変わらず落ち着いているけど、なんとなく鋭い目つきが気になる。そこには、まるで私の一挙手一投足を見逃さないという意志が宿っているみたい。これって私が偵察されてる側……じゃあないよね……?
真相を軽く尋ねてみると……まあ、私が静音ちゃんの手伝いをしていたのは隠してなかったし。それで、今日は一緒に帰るだろうと、ここで張ってたんだって。
「けど、何で静音ちゃんの家知ってるの?」
私の問いに、紗季は平然と答える。
「調べたからよ。念のため、生徒会全員」
「えぇ……?」
ものすごい執念だ、と感心しつつも、さすがに驚きを隠せない。いくらストリップ部のためとはいえ、そこまで徹底する? なんかもう、感謝を通り越してため息も出ない。
そんな私の顔を見て――先ずは、紗季のほうから成果報告。
「生徒会に対抗するのであれば、それなりに味方を作らないとね」
どうやら、紗季は独自に調査を進めていたらしい。帰り道を歩きながらの雑談っぽい雰囲気だけど……その話を聞けば聞くほど、生徒会が意外と陰湿だということがわかってくる。
「水商売や風俗でアルバイトをしているコたちにも、以前から何かとチクチクと圧力をかけていたみたい。どうやら、いきなり生徒会室に呼び出して――」
あ、それ、私のときもあったやつだ。
「――成績なんかも筒抜けで、学業が振るわないようなら、校則でバイトを禁止しなくちゃいけなくなる、とか脅しをかけてね」
「酷い……」
連帯責任と称して一部の生徒を見せしめにするなんて、どこまで性格が悪いのか。さすがに私も擁護できない。これには紗季も同じ気持ちのようだ。
「似たような成績でも、昼間のバイトの生徒には何も言わないんだから、どう考えても気に入らない部活や仕事を恣意的に排除したいだけよ」
その言葉に私は反論できない。今日一緒にお昼を食べた奏音ちゃんを悪く言いたくはないけれど……
「で、桜の方はどう? 何か突破口は見えた?」
「えーと、実は……」
少し間を置きながら、私はひとつずつ言葉を探していく。けど……うーん……
「大道具作るのって、大変だなぁ……って」
「それで?」
ぅ、紗季からの視線が厳しい。
「ちゃんと、私も手伝わなきゃダメだったなぁって反省させられた、というか……」
「……そう」
興味を失ったように、紗季の視線は空へ向く。ご、ごめんてば……。あとは、ドラマの話で盛り上がった……なんて、もはや言えようもない。
私のあまりの不甲斐なさに、紗季にはかける言葉もない……わけではなかった。その視線をこっちに戻すと、少し見つめてから唐突に問いを変える。
「ところで、家までの道順は覚えてる?」
「うん、もちろん」
今度遊びに行きたいな、って思ってるし。
「そう……途中で押村公園を通らなかった?」
「うん? 通ったけど」
広い公園だから中を突っ切ると近道になるし、車も通らないから安全だ。
紗季は少し間を置いてから静かに頷く。
「そう。他に何か気づいたことは?」
「う、うーん……?」
ここで、ふと昼の会話を思い出す。
「……ああ、そういえば」
紗季なら“あの言葉”の意味がわかるかも。
「奏音ちゃんに言われたんだけど……これ以上静音ちゃんを苦しめないで、って。どういうことだろ?」
「生徒会副会長の高岸奏音のほうね」
紗季は丁寧に確認しつつ、少し考えるように目を細める。
「ストリップ部と生徒会の関係を気にしている……としか思えないけど」
「うーん、そうだよねー……」
そんな話をしているうちに、気がつけば蒼暁院駅に着いていた。桜が通う女子高の生徒はほとんどこの駅を利用している。
紗季は少しだけ周囲を見回して――まるで、その場で思いついたように。
「明日から私も放課後手伝うわ」
「え? 本当に?」
「“桜には踏み込めない領域”もあるでしょうから」
「うんっ、ありがとう!」
紗季が加わることになったのは心強い。私は自分の絵心の無さをよく自覚しているので、むしろ私より力になってくれるだろう。
そして、紗季からもうひとつの指示が出た。
「あと、しばらくお昼は高岸姉妹と共にして」
「えっ……それって、私をストリップ部から除け者にするってわけじゃ……ないよね?」
「そうではないわ」
紗季の返事に安心しつつも、どこか複雑な気持ちを抱えながら――私たちは駅の改札をくぐった。
その翌日の放課後――紗季が私たちの大道具作りを手伝いに来てくれる時間がやってきた! 人手が増えるのは本当にありがたいし、紗季は器用だから頼りになること間違いなし。だけど――
「……桜、私が来ること、話したの?」
教室に入ってくるなり、紗季が私に小声で尋ねてくる。その表情には、わずかに苛立ちが含まれていた。普段はいつも冷静な態度を崩すことがないだけに、こうして感情を表に出すなんて珍しい。詳細はわからないけれど、何か紗季なりの事情があるのだろうか。
「そりゃあ……まあ、うん」
お弁当を食べながら、今日から紗季も手伝ってくれるよって、静音ちゃんたちに普通に話しただけなんだけど……
「シズのほうが大変そうだから。猫の手も借りたいでしょう?」
言って、静音ちゃんの隣に立つのは奏音ちゃん。その言葉には優しさが込められているように聞こえるけれど、どこか含みのある口調が、私たちの空気をわずかに緊張させる。
そして――案の定、紗季と奏音ちゃんの相性は……最悪だった。
「椎名さん、ご自身のクラスは大丈夫です?」
開口一番、奏音ちゃんが問いかける。その口調はあくまで礼儀正しいけど、どうにも挑発的だ。
「ご心配なく。むしろ、生徒会副委員長としてお忙しいのではなくて?」
紗季もすかさず反撃。なんか、目に見えない火花がバチバチしてる感じ……!
「いえ、不当に他人の身辺を探りまわるような探偵業は兼任しておりませんので」
奏音ちゃんの言葉に、思わずギクリとする。これって、紗季の調査がバレてるってこと!?
でも、紗季は微動だにせずに答える。
「何のことか存じませんが、生憎私のクラスは余裕もあるようですので」
すごい……こんな状況でも顔色ひとつ変えないなんて、さすが紗季。
だけど、奏音ちゃんも負けていない。
「ところで椎名さん、あなた、“例の部活”には所属しておりませんでしたのね」
あ、きた――『ストリップ』と言いたくない奏音ちゃん独特の言い回し。これに対して紗季は、わかっていながらもさらりとはぐらかす。
「例のとは? 私はまだ、合唱部は続けていますけれど」
うわぁ、ふたりのやりとりが完全に別の次元に行ってる! その隣で、静音ちゃんと私は何も言えない。
「どうでもいいですけれど、関係者のような顔をして部外者が首を突っ込むのはよろしくないかと」
「それを言うなら、副会長が他のクラスに首を突っ込んでいる暇はないのでは?」
「そのお言葉、そっくりそのままお返ししますが」
「私は、桜の親友ですので」
「でしたら私は、シズの妹ですから」
「生徒会副会長様ともあろうお方が、妹を特別扱いですか?」
「生徒会としての業務を疎かにしているわけではない以上、一生徒として振る舞う分には問題ないでしょう?」
ふたりの声の温度は低く、けれど互いに抑えきれない熱を秘めていて、教室全体にピリピリとした雰囲気が広がっていく。教室の壁に飾られたカレンダーや張り紙なんかも、なんだかしおれているようだ。他のクラスメイトたちはというと、小道具作りや細かい作業を進めているけど、みんな肩をすくめたり、視線を泳がせたりして、やはりどうにも落ち着かない。たまに交わされる会話も、声が小さくて、明らかに普段とは違う。
静音ちゃんも、筆を握った手が震えているようだ。ああ、もう、こんな空気じゃ集中なんてできないよね……。なんかもう、発言の一つひとつが火に油を注ぐようだ。昨日まではあんなに楽しく作業していたのに……どうしてこうなったんだろう? やっぱり、紗季が来ることをお昼に話したのが原因なのかな。それとも、もともと紗季と奏音ちゃんの間には埋められない溝があったのかも。考えても答えは出ないけれど、この空気の重さに私も静音ちゃんも、心底グッタリしてしまった。
そのうえ、さらなる災難が私たちに降りかかる……!
「おいお前ら! 下校時刻も守れないようだと文化祭自体中止になるからな!」
杉田先生の大声が教室に響き渡る。その迫力に、作業していた手がピタッと止まり、静音ちゃんが「ぴゃっ!?」と小動物のように可愛らしい悲鳴を上げた。先生からの警告に周囲も一斉に驚いてしまい、場の緊張感がさらに高まる。紗季たちの舌戦に気を取られていた所為で、作業終了のタイミングをすっかり見失っていた。先生に怒鳴られるのがよほど嫌なのか、静音ちゃんの顔には明らかな消沈の色が浮かんでいる。
「急いで終わりにしよ。最終下校時刻からはみ出したら……」
静音ちゃんが小声でつぶやく。その言葉に、私たちも慌てて片付けに取り掛かることにした。これ以上、心労をかけたくないからね。
廊下に出て、私たちは一生懸命水洗い! けれど、そんな私たちの背中にのんびりした労いの声がかけられる。
「あらあら、そんなに焦らなくても。電車に乗り遅れるでもないし」
わぁー……小此木先生だー。その穏やかな口調に、なんだか心がほっこりする。やっぱり先生は癒やしだなぁ、と私は内心で思わず微笑んでしまう。
でも、次の瞬間。
「そうやってまた甘やかす」
冷たい声がせっかくの温かさを切り裂いた。振り返ると、そこに立っているのは――大塚先生!
背筋をピンと伸ばした堂々たる姿勢、きっちり整えられたショートカットの髪は黒く光り、見るからに厳格な性格を物語っている。眼鏡の向こうの鋭い目元の奥には、まるですべてを見透かしているような冷たい光が宿っていて、少しでも隙を見せたら叱責されそうな気迫が漂っている。濃紺のスーツはシワひとつなく、袖口からのぞくシャツの白さが、規律の厳しさを象徴しているようだ。その存在自体が『時間厳守』を体現しているみたいで、その場にいる全員の息が詰まる。
その厳しく光る目は、小此木先生だけでなく、私たち生徒全員をも貫いているようだ。これには思わず体が硬直する。時間の使い方ひとつでとんでもなく糾弾されそうな、この圧倒的な存在感……これが大塚先生という人なんだ、と改めて思い知らされる。
「もう少し、もう少し、と……昨日に至っては三〇分も完全下校が遅れていたようで」
大塚先生の指摘に、小此木先生は目を伏せながら、小さく声を漏らした。
「で、でも……それは、私が締めの日でしたので……」
「そんな事情を生徒たちが酌むとでも? 次は四〇分、次は五〇分と際限なく延ばし続けるものです。昨日はあなたの帰りが遅れただけで済みましたが、もし今日も――」
まさかの先生同士の説教タイム!? これには私も静音ちゃんも何も言えない。紗季はヤレヤレ、といった表情で、私たちに撤退を促す。そ、それはちょっと酷いんじゃ……とは思いながらも……ああ、いや、わかってる。私たちをかばってくれてるわけでもないし、むしろ、時間通りに帰ることこそ、先生たちの意に沿う行動なんだって。けど……心が痛いなぁ……
今日は終始ピリピリしていた雰囲気のまま、校門の前で私たちはそれぞれ別れることに。
「私は桜と用があるから」
紗季がそう言うと、奏音ちゃんは冷たい視線を送る。
「そう。では、また明日。……シズ、帰りましょ」
短く挨拶を告げると、静音ちゃんを連れて歩き出した。
「う、うん……ごめんね、桜ちゃん」
「こっちこそ……ごめん」
静音ちゃんが申し訳なさそうに振り返るので、私は慌てて笑顔を浮かべて応える。
別段、駅とは反対方向に用事があるわけじゃないけど……。彼女たちの背中を見送りながら、胸の中にはなんとも言えないもやもやが残っていた。静音ちゃんと奏音ちゃんが歩き去る背中を見ながら、自分の力不足を痛感する。この状況をうまく収める方法はないかと考えるけれど、どうにも答えが出てこない。私って……やっぱり部長の器じゃないのかな……
奏音ちゃんたちが角を曲がり、見えなくなると、私は紗季に向き直る。
「紗季……今日のは、ないと思う……」
ちょっとためらったけど、言わずにはいられなかった。あの険悪な空気の中で、静音ちゃんが萎縮しているのを見て、どうしても放っておけなかったし、私自身も居心地が悪くて胸が苦しかったし――
だけど、紗季は、私の指摘に特に動揺も見せず、冷静そのもの。
「ええ、予想以上に手強かったわ」
そうじゃなくて! 私はただ、みんなでもっと仲良くしてほしいだけなんだけど……
そんな私の思いをヨソに、紗季は軽く眉を上げながら言葉を続ける。
「あの副会長、私を挑発し続けて、核心に近づくのを徹底的にガードしてたわ」
「え……?」
私はつい間抜けな声を上げてしまう。紗季と奏音ちゃんのやりとり、ただの言い争いじゃなかったってこと? 私の想像を超えた何かがあったの?
「やっぱり、副会長ともなると、何か知っているのでしょうね。生徒会……あるいは学校全体の弱点になるような情報を」
「う、うーん……?」
紗季の話が難しすぎて、全然ついていけない。私の頭はポカーン状態。なんか、紗季と奏音ちゃんの戦いはレベルが高すぎる気がする……
「桜、明日もお昼もあのふたりと一緒に食べるのでしょう?」
唐突に話が変わった。いや、紗季の中では変わっていないのかもしれない。
「そのつもりだけど」
正直、その席にまで紗季が加わると、またギスギスした空気になるんじゃないかと不安。紗季と奏音ちゃんの間に再び火花が散る場面を想像すると、胸が締め付けられるような思いがする。けど、紗季はそんな私の懸念なんて気にもしない。
「その席で、副会長はきっと、私に手伝いから下りるように言ってくるはずよ」
「う、うーん……?」
何それ、また難しい話だよ……。だけど、紗季はさらっと続ける。
「そうしたら、私は用事があるから加われないと伝えて」
「う、うん……わかった……」
紗季が来れないのはちょっと残念。みんなでやったほうがきっと作業も進むだろうし、頼もしい存在なのに。けれど、奏音ちゃんと仲直りするには、いまは紗季との距離を少し置いた方がいいのかもしれない――そう思うことで、ようやく自分を納得させた。
で、そんなバチバチの明けた翌日の昼休み――静音ちゃんたちのお弁当は……なんだか、昨日と比べると地味だった。玉子焼きはしっかり火が通りすぎて少し焦げっぽく、焼き魚も端が乾いているように見える。茶色い煮物も少し寂しげな雰囲気だ。全体的に彩りも控えめで、おかずたちがションボリと肩を落としているみたい。昨日の件が尾を引いている……とは思いたくないけれど、もしそうなら……やっぱりこっちも申し訳なくなってくる。
「鈴木さん、今日の放課後は、椎名さんにはちょっとご遠慮いただきたいのだけど」
食べ始めてすぐに奏音ちゃんからそう進言されて――私は内心ほっとした。というのも、紗季の想定通りに進まなかった場合の指示を、私はもらっていなかったから。その場合は、私から切り出したほうがいいのか、なかったことにしていいのか――ともあれ、そんな私の懸念は不要となり、紗季の言葉通りに物事が進んでいるんだな、と感心するやら恐れ入るやら。
「うん、そのことだけど、紗季、今日は用事があるって」
これで、場の緊張が少しでも緩んでくれるかなー……と期待したけれど、奏音ちゃんの難しい表情は変わらない。眉間に小さな皺が寄り、視線はどこか遠くを見つめるようで、何かを真剣に計算しているようにも見える。
「……そう……」
その一言に込められたニュアンスは読めなかったけれど、少しはホッとしてくれたのか、そうではないのか。いや、むしろ私のほうが何故か複雑な気持ちだよ。
「椎名さんがそう言ったのは、“昨日”のことね?」
「え?」
そこ、気にするところなの? 奏音ちゃんの問いかけの意味がよくわからない。よくわからないからこそ――また紗季と奏音ちゃんの間で何かのせめぎ合いがあるような。少なくとも、“紗季が昨日の時点で用事があると言い出すことは奏音ちゃんの中では想定の範囲内だった”――そんな気がする。私には到底ついていけそうにないけれど、横に座る静音ちゃんが申し訳なさそうな顔をしているのは悲しかった。
放課後になり、奏音ちゃんはすぐに私たちの教室へとやってくる。そして、作業が始まる前に切り出した。
「ねぇ、美術室とか使えないの?」
「えっ?」
静音ちゃんが驚いた顔をする。私もその発想はなかったから、一瞬動揺してしまった。
「ほら、そっちのほうが塗りも捗りそうだし」
「ぅ、うーん……?」
奏音ちゃんの言葉に、静音ちゃんは唸るように返事を濁す。確かに、騒がしい教室よりも静かな場所のほうが集中できるかもしれない。ということで、私も賛成しておこう。
「今日はこの書き割りを完成させるつもりで……一枚だけならみんなで運べるだろうし」
「う、うん、そうだね」
それで、静音ちゃんも頷いてくれた。
画材を片手に大道具を載せたキャスターを転がしながら、私たちは渡り廊下へと向かう。ゴロゴロという音が廊下に反響するのが、何故だか気まずさを掻き立てるようだ。静音ちゃんの様子を窺うと、足下に視線を落としたまま、黙々と大きな荷物を押している。今日は穏やかに進められるといいんだけど。
渡り廊下に差し掛かると、窓から差し込む夕陽が道を暗い道を明るく染め直していて、柔らかな光が廊下全体に広がっていた。その暖かい色合いとは対照的に、空気はひんやりとして肌に触れるたびに少し緊張感をもたらす。誰も通っていない廊下を、私たちの足音と車輪の鈍い音だけが響き渡り、妙に静まり返った空間を一層引き立てていた。妙に長く感じる移動時間に、私は何か話題を振ったほうがいいのか迷ってしまう。
「美術室って、なんか特別感あるよね。アトリエっぽいというか」
ようやくひねり出した言葉に、奏音ちゃんはちらりと視線を向けるだけで何も言わず、静音ちゃんは小さく頷くだけ。ああ、失敗したかな……と心の中でため息をつきながら、私はキャスターの音だけが響く空気をどうにかしたいと、心臓が小刻みに跳ねるのを感じる。手汗がじわりと出てきて、視線が落ち着かない。何かを話さなくちゃ、そう思うほど焦りが増して、そんな不甲斐ない自分に苛立ってしまう。
何だか気まずい雰囲気のまま、美術室のドアを開けると――その瞬間、私たちの間に緊張感が走る。
「!」
真っ先に驚いたのは奏音ちゃんだった。鋭い目つきで部屋を見渡すと、すぐに視線は入り口近くの机に向かう。
「紗季……?」
これには私もビックリだよ。
「あら、奇遇ね。私、授業の課題が遅れてて」
果物の写生をしていた紗季は顔を上げ、どこか余裕たっぷりの笑みを浮かべる。筆先はどことなくゆったりしており、その目にはいたずらっぽい輝きがあった。まさに、わざとらしいくらいの“ばったり会っちゃった感”満載の態度だ。
美術室は広く、ところどころに使いかけのイーゼルや画材の箱が置かれている。窓から射し込む夕陽が木製の床を赤く染め、床に斜めの長い影を落としながら部屋全体を穏やかに包み込んでいる。光の暖かさが感じられる一方で、空気はひんやりとしていて、息をするたびに微かな冷たさが肺に染み渡るようだ。静まり返った空間はまるで時間が止まったみたいで、その重みが私たちの存在を一層際立たせている。壁際には完成間近の作品が並べられ、どれもカラフルで生き生きとしているのが少し嬉しい。
「美術部員は……?」
奏音ちゃんが眉間に皺を寄せ、静音ちゃんに問う。
「かのちゃん、美術部は木曜日……お休み……」
「どうしてそれを先に言わないの!」
「ぴゃっ!?」
静音ちゃんは困惑したように目を閉じ、何も言えなくなる。うぅ……奏音ちゃん、怖い……。隣にいるこっちまで一緒に怒られてるような気分だよ……
紗季が果物の写生を続けている机の周りには、水彩パレットや汚れた布巾が散らばっていて、ここでひとり黙々と作業していたことが窺える。果物は籠に入れられて机の中央に置かれ、その周りに光の陰影が落ちている。紗季の描くキャンバスには、その果物たちの繊細なタッチが丁寧に描き込まれている最中だった。
「と、ともかく……私たちは隅の方で静かに進めましょうか」
奏音ちゃんが書き割りをさらに奥の方へと押しやろうとする。しかし――
「そんな大きなものを室内縦断させるつもり?」
紗季の言葉には冷静さの中にも厳しさが混じっていて、まるで状況を完全に掌握しているかのような自信が窺えた。果物を描き続ける手は止まることなく動き続け、その優雅な動作が、かえって言葉の強さを際立たせる。机と机の間を通せば運べなくもないけれど、どこかにぶつけないか、ちょっと心配。
「すぐそこが空いてるんだから、そこで済ませた方が良いのでは?」
たしかに、机の近くには十分なスペースがあるけど……言い方になんかトゲがある。
「かのちゃん……運ぶのにも時間かかってるし……」
静音ちゃんがぽつりと呟くと、奏音ちゃんの動きが止まる。そして、一瞬の沈黙の後――
「…………」
何も言わずに、書き割りを紗季の指差した場所に横たわらせた。それを手伝いながら、私の胸に嫌な予感がよぎったけど、とりあえず私たちには作業を開始するしかない。
でも――やっぱり今日も。
「わざわざこんなところまで運んでくるなんて、教室に誰か会いたくない人でもいるのかしら?」
紗季からの尋問が始まってしまった。
「それとも、来る“予感”があったとか」
その一言が静まり返った部屋の空気をさらに重くする。“予定”ではなく“予感”という表現――それで、ふたりが相手の何に“警戒”していて、どんな思惑で動いたのか、何となく、漠然と察せられた……気がする。
奏音ちゃんは眉をひそめながら紗季をじっと見つめ、静音ちゃんは小さく身をすくませている。私はどう対応すべきか迷いながらも何も言えず、部屋全体に漂う緊張感が肌にまとわりつくように感じた。
「絵を進めるのなら美術室が適切。誰が考えても自明なことでしょう?」
「クラス行事を進めるのなら自分の教室で。それもまた自明では?」
奏音ちゃんの声には強い怒りが感じられるけれど、紗季はそれに淡々と応戦。もし美術部の皆さんがいたら、さぞ迷惑そうな顔をされただろうな。……ああ、だから、今日を選んだのかも。
……ん? ということは……? 私の中に、漠然とした嫌な予感がよぎる。
「この際単刀直入に訊かせてもらうけど」
紗季はストレートに切り出した。
「私に答えられる範囲で」
奏音ちゃんもそれを真正面から受け止める。
しかし――
「いえ、私が質問しているのは……静音さん、貴女よ」
悪い予感的中!!
「ぴゃっ!?」
指名されたその瞬間、静音ちゃんの体がビクリと強張る。思わず声を上げたことで手元がブレて、筆が逸れた。その視線は、紗季から逃れようと泳いでいるけど……逃げ場なんてどこにもない。
やっぱりだ。教室では周囲に人も多くてラチが明かないと踏んで、場所を移すために……!
「シズの代わりに私が答えるわ。作業の邪魔はさせたくないし」
奏音ちゃんの冷たい声が、美術室の静けさを引き裂く。その声はまるで鋭利な刃物のようで、静音ちゃんをもビクッと萎縮させた。けれども、そんなことで手心を加えるような紗季ではない。
「静音さん、貴女、先週まで毎日夜遅くまで残っていたのでしょう? それも、一〇時過ぎまで」
「それが本当なら、私の方で問い質させてもらうわ」
奏音ちゃんは即座に割り込むけど――紗季はそれすらも無視して話を続ける。どこまでも静音ちゃんを追い詰めるつもりらしい。
「そして貴女は、通学の途中で押村公園を通っている。変質者が現れたという、あの公園をね」
その瞬間、奏音ちゃんの顔が引きつった。けれど、すぐにその動揺を隠すように声を張り上げる。
「また廃部の件を蒸し返そうというの? どう足掻いたって覆らないわ!」
「静音さん、貴女、“何か”を目撃したのでは?」
紗季の声は低く、冷静そのものだったが、その抑揚のない口調には隠しきれない力強さが込められていた。微かに片眉を上げた表情が、内に秘めた追求の意志を如実に物語っている。その言葉の重み――それに、私は思わず静音ちゃんの顔を窺った。その表情は緊張で真っ赤に染まり、瞳には涙が溢れそうになっている。唇は震え、声を出そうとしても喉が塞がれているかのようだった。まるで、追い詰められた子ウサギみたいに。
「さもなくば……“誰かと”――」
そのひと言がさらに場の緊張感を高める。
「私には生徒会の仕事もあるの。放課後、シズとは別行動よ」
「誰も貴女と会っていたなんて言ってないじゃない」
紗季は簡潔に返す。奏音ちゃんの動揺を一層際立たせるようなその声には、確かな追求の意思が込められていた。
「私だけならともかく、シズを巻き込まないで!」
奏音ちゃんが怒りに任せて立ち上がった。その手はボードを叩く寸前で止まり、唇を強く噛みしめている。目は紗季を鋭く睨みつけ、肩は緊張でわずかに震えていた。けれど、紗季に引く気はない。
「そうはいかないわ。彼女の証言によっては、ひとつの部活が消えずに済むかもしれないのだから」
「部活部活と! そんなこと、どうでもいいじゃない!」
「あら、生徒会副会長様が酷いことを言うのね」
紗季の冷ややかな言葉に、奏音ちゃんは拳を震わせる。そして、声を荒げて叫んだ。
「それだけあなたたちがおかしいのよ! そんな、変な部活なんて……ッ!」
奏音の言葉が終わるよりも早く――ついに静音ちゃんが立ち上がった。
「もうやめて、ふたりとも!」
静音ちゃんの大きな声に、私たち全員が凍りつく。普段の静かな彼女からは想像もつかないような迫力に、私も思わず動きを止めた。
「もうヤダ! 帰って! もうみんな、帰って!!」
声を振り絞るように叫ぶ静音ちゃん。その瞳には涙が溢れていた。こんな静音ちゃんを見たのは、初めてだった。
「でも……シズ……」
奏音ちゃんが何かを言おうとするけど、静音ちゃんはそれすらも遮る。
「書き割りは私が戻しとくから! お願いだから、もう放っておいて!」
その必死な声に、奏音ちゃんも紗季も言葉を失っていた。