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佐藤可奈の思い出 2

    

                    ☆


 彼女のことを思い出すと、わたしが最初に思い浮かべるのは、彼女が好んでよく弾いていたヴェートヴェンのピアノソナタだ。何か失われてしまったものを忍んでいるような、思い出しているような、それでいて、とても優しい曲。色彩のイメージで言うと、淡いブルーと淡いグリーン。その光が交錯し合いながら揺れているような感じ。


 彼女はその曲を、彼女のお母さんが好きだった曲だと話した。雨の日の日曜日なんかにお母さんがよく弾いていた曲だ、と、彼女はわたしに話してくれた。そしてそのお母さんが弾いているピアノ曲を聞いているのがとても好きだった、と、彼女は懐かしそうな、寂しそうな表情でわたしに語った。


 わたし自身も彼女の弾くそのピアノ曲が好きで、よく頼んで彼女に弾いてもらっていた。わたしが彼女の演奏に耳を傾けながらいつもイメージしたのは、深い湖の底に沈んでいく、やわらかく、温かそうな、微かに黄金色の色素を含んだ透明な太陽の光だった。


 深い湖の底には一本の白い花が咲いていて、彼女はその深い湖の底で、冷たい水に揺られながら、普段はあまり光の届かない薄闇のなかで、彼女にとって永遠と思える距離にある湖面を憧れるように見つめている。


 彼女のいる湖底は一日の大半が半透明の青色の色素の闇に包まれている。でも、一日のうちのごくわずかな時間のあいだだけ、明るい太陽の光が彼女のもとにも届くことがある。


 太陽の光は水中のなかを文字通り闇を切り裂くように抜け、ゆっくりとではあるが、でも、確実に、彼女のもとへ舞い降りていく。彼女はその光に触れようと手を伸ばす。でも、彼女の伸ばした手の指先があともう少しで光に触れようとした瞬間、光は何かに砕かれるように散り散りになって消えてしまう。


 彼女の演奏するピアノ曲はとても暖かくて純粋でありながら、同時に、どうしようもなく深い暗闇を抱え込んでいるようにも感じられた。


 

                     ☆



 それは喧嘩というよりも、わたしが一方的に癇癪を起した感じだった。


 確かあれは、彼女と知り合って一年程が経った、夏休みに入る直前くらいのことだった。


 その日は日曜日で、朝から静かな雨が降っていた。


 ほんとうはその日、外で遊ぶ予定なっていのだが、雨が降っているので急遽予定を変更して、わたしの家で遊ぶことになったのだ。


 その日はいつもわたしの部屋で遊ぶときそうしていたように、部屋でおしゃべりをしたり、漫画を読んだり、テレビゲームをしたりして時間を過ごした。


 可奈ちゃんがわたしが作ったプラモデルに興味を示したのは、わたしがテレビゲームに夢中になっているときだった。


 わたしにはふたつ年上の兄がいて、その影響もあってわたしは当時女の子が好むような人形やぬいぐるみよりも、男の子みたいに、プラモデルやモデルガンなどに夢中になっていた。


「美樹ちゃん、これなに?」

 と、わたしがゲームをしていると、背後から彼女の声が聞こえた。振り返ってみると、彼女はつい最近わたしが苦労して完成させたばかりのプラモデルを手に取って珍しそうに眺めていた。


「あ、それ触らないで!」

 と、彼女が自分のプラモデルを触っているのを見た瞬間、わたしは反射的に咎めるような口調で言ってしまっていた。わたしはそのプラモデルがお気に入りだったのだ。彼女に触れられて、壊されてしまったりするのが心配だった。だから、つい、きつい言い方をしてしまった。


 きっと彼女はそのわたしのリアクションにびっくりしてしまったのだろう。えっと、言って、わたしの顔を見た瞬間、手にしていたそのプラモデルを床の上に落としてしまった。プラモデルは床に落ちた衝撃で、手と、顔の部分がもげてしまった。


「だから、触らないで言ったじゃん!」

 と、わたしはその光景を見た瞬間、怒鳴っていた。わたしはそれまで座っていたフローリングの床の上から立ち上がると、歩いていって、床の上に落ちているプラモデルを拾い上げた。そして力任せに、彼女の二の腕あたりを叩いた。


「・・・ごめん」

 と、彼女は怯えたような表情でわたしの顔を見ると謝った。


「帰って」

 と、わたしは怒った声で言った。


「美樹ちゃん、ほんとにごめん」

 と、彼女は目に涙を浮かべながら申し訳なさそうに謝った。でも、その声をわたしは無視した。


「もう帰って!」

 と、わたしは叫ぶように言った。


 彼女は何か言いたそうな表情でわたしの顔を一瞥したけれど、結局何も言わずにそのままわたしの部屋から出て行った。部屋から出て行く彼女の背中を見つめながら、わたしは自分の心のなかに苦い味がするような感情がゆっくりと広がっていくのを感じていた。



                  ☆


 次の日、学校に登校すると、彼女は真っ先にわたしに謝ってきた。でも、そのときわたしは何故か意地になっていて、彼女の言葉を素直に受け入れることができなかった。意地悪く、彼女のことを無視してしまった。


 彼女はわたしが無視すると、傷ついた、寂しそうな表情を浮かべて、自分の席へと戻っていった。

 

 ほんとはそのとき、わたしはすぐにでも彼女と仲直りしたい気持ちで一杯だったのだが、でも、どうしてか、そうすることができなかった。彼女はわざとわたしのプラモデルを壊したわけじゃないのに、しかもなおかつ、謝ってくれているというのに、わたしは自分でも理解できないほど頑なになってしまっていた。

 

 その日以来、わたしたちは口をきかなくなった。以前は毎日のように一緒に帰っていたのに、べつべつに帰るようになった。



  そして、彼女と口をきかないまま、夏休みを迎えてしまった。




                     ☆



 郵便受けに、彼女からの手紙が入っていたのは、夏休みも半ばを過ぎたある日のことだった。


 わたしたちは夏休みに入ってから一度も会っていなかったし、口もきいていなかった。何度かわたしは彼女の家に電話をかけて、この前のことを謝ろうかとも思ったのだが、でも、勇気がなくてできなかった。


 手紙を開封してみると、まず彼女はこの前プラモデルを壊してしまって、申し訳なかった、と、書いていた。ほんとうにごめん、と。

 

それから、彼女はこう手紙の文章を続けていた。


 突然ですが、わたしは新学期がはじまる前に、また転校することになってしまいました。


 美樹ちゃんにはほんとうに感謝しています。美樹ちゃんとはじめてちゃんと言葉を交わした、あの日の放課後のことを、わたしは今でも印象的に覚えています。


 あのとき、わたしは美樹ちゃんに親しく声をかけてもらえて、ほんとうに嬉しかった。これまでわたしなんかと親しくしてくれてありがとう。


 わたしは転校続きで、今まであまりちゃんとした友達がいたことがなかったから、この学校にきて、美樹ちゃんという友達ができたことはほんとうに嬉しかった。感謝しても感謝しつくせない限りです。


 わたしのせいでこんふうにちゃんとしたお別れの挨拶もできないまま離れ離れになってしまうのはとても残念だけど、わたしは新しい転校先でもいつも美樹ちゃんのことを想っています。美樹ちゃんのことを応援しています。


 そして少しでもいいから、わたしが転校しても、美樹ちゃんがわたしのことを思い出してくれたら嬉しいなと思います。


 最後になってしまったけど、この前のお詫びに、わたしの宝物を美樹ちゃんにあげます。これはわたしがお母さんにもらった大切な宝物です。きっと美樹ちゃんだったら似合うんじゃないかな。


  わたしが転校しても元気でね。バイバイ。



 彼女が出紙と一緒に同封してくれていたのは、蝶々の形をした、きれいな髪留めだった。


 わたし彼女の手紙は読み終えると、涙がとまらなかった。どうしてあのとき、彼女のことを責めたりなんてしまったのだろうと激しく後悔した。彼女は何も悪くないのに。そして彼女が謝ってくれたときに、どうしてその言葉を素直に受け入れなかったんだろうと悔しかった。


 わたしは手紙を読み終えると、彼女の家にすぐに向かったけれど、彼女はもう既に引越してしてしまったあとらしく、彼女の住んでいた家には誰もいなかった。ただ入居者募集の張り紙がしてあるだけだった。


  彼女の手紙には彼女の新しい連絡先も住所も何も書かれていなかった。たぶん、彼女は手紙を書いたあと、自分でわたしの家の郵便ポストに投函したのだろう。そしてもしかしたら、そのまま町をあとにしたのかもしれなかった。わたしはそんな彼女の姿が目に浮かぶようで、哀しかった。


 新学期がはじまると、わたしは担任の先生に彼女の連絡先について尋ねてみたけれど、担任の先生も彼女がどこか北海道の方に引越したらしいということを知っているだけで、彼女の新しい住所についてまでは知らないようだった。


 もしかしたら、もっと他にも手をつくせば、彼女の新しい住所について知る方法もあったのかもしれないが、当時まだ子供だったわたしにそこまで思いつくことはできなかった。


 そしてそのようにして、わたしは佐藤可奈という大切な友人を失ってしまったのだった。


 彼女は今頃どこでどうしているのだろうな、と、わたしは思う。彼女はあれからまた新たに大好きなピアノを習うことができたのだろうか。そして、お母さんと再会することはできたのだろうか。


 彼女が手紙と一緒に同封してくれた蝶々の髪留めは今でも大切にもっている。いつか、もし、どこかで彼女と再会できたそのときは、あの髪留めを彼女に返そうと思う。そして、あのとき言えなかった、ごめんの言葉を言なくちゃな、と思う。



 耳を澄ますと、水色の色素を含んだ、彼女の優しくも哀しいピアノの音色が、どこからともなく聞こえてくるような気がした。


 

 ☆



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