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過ぎ去ってしまった季節といくつかの想い

              ☆


 アパートへの帰り道を歩きながら、わたしが思い出していたのは、沢田が実家に帰っていった日の夜のことだった。


 あの日は、今日とは逆で、沢田がわたしのことを見送ってくれた。あの日、引越し作業を終わらせてしまったあと、わたしと沢田は沢田のおごりで夕食を食べにいった。


 その帰り、沢田はわたしをアパートまで送ってくれた。わたしはどうせ近くだからいいと断ったのだが、沢田は承知しなかった。最後だから、送りたいのだと彼は言い張った。


 その帰り道、わたしのアパートの前で、沢田が口にした言葉をわたしは思い出した。彼のその言葉を思い出すと、胸か痛くなった。心が一点に向かってぎゅっと収縮していくような苦しさがあった。


 どうして、あのとき……。


 八月にしては涼しい風が吹いて、頭上で葉桜が揺れる音が聞こえた。その音に耳を傾けていると、どうしてかそれは誰かの哀しい歌声のようにも聞こえた。




              ☆


 わたしが音楽をはじめたのは、高校のときだった。高校の文開催でライブをやらないかと友達に誘われたのが切っ掛けだった。それまでわたしは漠然と音楽をやってみたいなとは思っていたのだが、でも、具体的に行動を起したことはなかった。兄がギターをやっていたので、遊び半分に教えてもらったことがあるくらいのものだった。


 でも、友達と一緒に文開催でライブをやってみて、音楽とはこんなに楽しいものなのかと感動した。文字通り、魂が激しく揺さぶられるような感覚があった。それからは勉強はまるでそっちのけで友達と音楽活動に明け暮れるようになった。暇があればいつもギターの練習をしていたような気がする。


 高校を卒業すると、わたしは東京にある音楽の専門学校に進学した。専門学校で学ぶことはあまりなかったが、わたしはそこで田端哲郎という同い年の男と知り合った。


 背の高い、がっしりとした体格の男で、彼は伸びやかで力強い歌声を持っていた。わたしと田畑は音楽の趣味も似ていた。だから、自然とわたしと田畑は一緒に音楽活動をするようになった。


 学校帰りや、バイトが終わったあとなどに、東京の街角でストリートライブをやった。わたしがギターを演奏し、彼が歌を歌うというスタイルだった。オリジナルの曲ばかりやっていたので、あまり立ち止まって聞いてくれるひとはいかなかったが、それでも田畑と夜の街角で一緒に演奏するのは楽しかった。


 専門学校を卒業したあとも、わたしと田畑はアルバイトをしながらストリートライブを続けた。たまにはライブハウスで演奏することもあった。相変わらず思うように客は増えなかったが、それでもなかには熱心にわたしたちの音楽に耳を傾けてくれるひとたちも少しは現れはじめた。


  


                 ☆


 翌日の早朝、引越し業者が荷物を運び出し、トラックで走り去ってしまうと、わたしはアパートの管理会社に電話をかけて、しばらくしてやってきた管理会社のひとにアパートの鍵を渡した。それで引越しは完全に終了した。


 アパートのドアを閉めると、ガチャンと思ったよりも大きな音が鳴った。わたしは後ろを振り返って、さっき閉めたばかりのアパートのドアを見つめた。もう二度と、このドアを開けることはないのだなと思うと、やっぱり、少しだけ哀しかった。


 目の前の視界に、過去の色んな日々の断片が、半透明の色彩で浮かびあがって、でも、すぐ消えた。


 

 ちょうど正午を向かえようとする日差しは強く、蝉がうるさいくらいにわめき散らしていた。アパートの前の国道に沿って植えられた桜の木々は、当たり前だが、今日わたしがこの街からいなくなってしまうことなんてどうでもよさそうな顔をして、時折吹いてくる弱い風にその濃い緑の葉を揺らしていた。


 わたしは目の前の桜の木を見上げると、心のなかでバイバイと言った。


 でも、もちろん、返事なんてなかった。ただ、耳元を吹きすぎていく、弱い風の音が聞こえただけだった。




                   ☆



 わたしは愛車の赤いミニカーに乗り込むと、すぐにクーラーを全開にした。屋根のない駐車場に長いこと放置していたせいで、車のなかは熱気がこもってかなり蒸し暑かった。ついでに窓も全開にする。


 この車は喫茶店に勤めているときにローンをして買った。レトロなデザインが気に入って買って、かなり愛着があったのだが、でも、もうすぐこの車も手放すつもりでいた。


 仕事を辞めた今となっては、車の維持費を払っていくことなんてとてもできそうにないからだ。


 でも、車を手放す前にひとだけ、わたしにはやっておきたいことがあった。この車に乗って、沢田の住んでいる兵庫県まで行くのだ。


 この計画を思いついたのは、つい先日、引越しの準備中に沢田の小説を見つけたときだった。


 沢田の小説を読んでいたら、無性に沢田に会いたくなった。沢田には彼が引越していってから一度も会っていなかった。何度かメールのやりとりをしたことがあるくらいのものだった。でも、そのメールも、ここ一年程は全くしていなかった。


 わたしは実家に帰る前に沢田に会いに行こうと思った。それも、沢田の前に突然現れて、彼を驚かせてやるのだ。突然現れたわたしの姿を見て、目を丸くする沢田の顔が今から目に浮かぶようで、可笑しかった。


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