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散り行く桜の花のようにそっと


                  ☆




 裕子さんとは再び沢田の家の前で別れた。病院を出たあと、裕子さんの車で沢田の家まで送ってもらい、そこで別れたのだ。



 わたしは乗ってきた自分の車を運転しながら、裕子さんと帰りの車のなかで話したことを考えた。


 病院からの帰り道、ふと話題にのぼったのは、沢田の書いた小説のことだった。裕子さんは実はまだ自分は兄の小説を読んだことがないのだ、と、わたしに告げた。そして、裕子さんはわたしに兄の小説を読んだことはあるか?と尋ねてきた。


 わたしは彼女の問に、あると答えた。東京に居た頃は恥ずかしがって、なかなか読ませてくれなかったのだが、一年くらい前に手紙が届いて、その手紙のなかに、沢田が書いた小説が同封されていたのだ、と、わたしは裕子さんに説明した。



「どうでした?読んでみて?」

 裕子さんはわたしの方を振り向くと、強く興味を惹かれた様子で尋ねてきた。

「良かったですよ」

 と、わたしは小さく微笑んで答えた。

「お世辞とかじゃなくてほんとに」


 わたしの答えに、裕子さんは安心したような嬉しそうなやわらかな笑みを目元に浮かべてわたしの顔を見た。


「結末は必ずしも、ハッピーエンドとはいえないのかもしれないけど、でも、優しくて、暖かくて、静かで・・・わたしは好きでしたね。ほんとうは今日、その読んだ小説の感想を伝えようと思ってたんですけどね」


 裕子さんはわたしの科白に少し悲しそうに目元で微笑んでただ頷いた。


 裕子さんは別れ際、またきてください、と、言った。

「大塚さんが来てくれると、お兄ちゃんも喜ぶだろうし、わたしもまた大塚さんに会いたいから」

 裕子さんはにっこりと微笑んで言った。


 わたしは裕子さんの科白にまた来ますと答えた。

 

 車の窓を開けると、風が吹き込んできた。風は冷たく澄んでいて気持ちが良かった。風のなかには海の匂いが混ざっていた。そしてほんの微かに秋の香も。窓の外にはずっと海岸線の景色が広がっている。夕暮れの光がたっぷりと溶け込んだ海は、オレンジの果汁で一杯に満たされたような暖かな色彩に染まっていた。


 口に含むと、甘酸っぱい味がしそうな色。空は半透明のやわらかなピンク色に染まっていて、空のずっと高い所からは夜の最初の透き通った闇が静かに沈み込もうとしていた。



 わたしは窓の外に見える海と空があまりにも綺麗だったので、道端の隅に車を寄せると、車を停車させた。そして窓の外に見える景色をぼんやりと眺めた。そうしながら、わたしは昨日から今日にかけてのことを振り返った。


 ほんの短いあいだのことなのに、ずいぶん色んなことがあったような気がした。七年近く暮らしたアパートを引き払い、車に乗って兵庫県までやってきた。そしてその途中て佐藤可奈という女の子と出会い、過去の色んな大切なひとたちのことを思い出した。それから、裕子さんと、沢田のこと・・・。



 わたしは車のシートに深くもたれかかると、軽く瞳を閉じた。そうしていると、色んな細々とした疲れが一気に押し寄せてきた。軽い眠気を感じた。


 そしてわたしはふと思った。このまま眠るように自分という存在が消えてしまうとしたら、どんなに楽だろうな、と。風のなかにわたしという存在は溶けてなくなってしまうのだ。何かを考えるのが億劫に感じられた。生きていくことの困難さを思うと、そこから逃げ出してしまいたいような衝動に駆られた。何かもかもがどうで良い気持ちになった。


 どうせどこにも辿り着けないのだ、と、妙に悲観的な気分になった。思考のなかに、一ヶ月ほど前した部長との会話が蘇ってきた。部長は会社を辞めようとしているわたしに対して不満そうに言った。そんなことをしていると、また同じようなことを繰り返すことになるぞ、と。きみは甘えているんだ、部長は言った。


 そう、わたしは甘えた、弱い人間なのだ、とわたしは思った。わたしにはいくところなんてどこにもないのだ。これまでやってきたことが全て無駄だったように、沢田があんなことになってしまったように、全ては無駄だし、どこにも辿り着けないのだ、と、感じた。



 わたしは閉じていた瞳を開くと、足元のアクセルをじっと見つめた。そうしようと思えば、と、わたし思った。今、ここで思いっ切りアクセルを踏み込めば、車はガードレールを突き破って、わたしの身体は車ごと遥か崖下の海に落ちていくのだろう。・・・そうすれば楽になれる。そうだ。そうしよう。



 わたしは一瞬本気でそう考えて、慌てて我に返った。一体何を考えているのだろう。バカらしい。そもそもわたしには死ぬ勇気なんてないじゃないかと呆れた。


 わたしは足元に落としていた視線を上げると、もう一度夕暮れの優しい光に染まった海を眺めた。確かあのとき観た絵も、海の絵だったな、と、わたしは何となく思い出した。


 わたしが福島さんの絵を観たのは、今から二年ほど前のことだった。福島さんとは彼女が留学していって以来疎遠になっていたのだが、二年くらい前に街でばったり再会したのだ。


 わたしたちは近くの喫茶店に入って軽く話をした。そのとき、福島さんは今自分は留学を終えて日本に戻ってきていて、アトリエで絵を教えながら絵を描き続けている、と話してくれた。そしてそのとき、彼女が今度個展を開くのでぜひ観に来てくれと言って、観にいったのだ。


 彼女はその個展を友人と一緒に開いていた。個展会場には彼女の絵がいくつか展示されていたのだが、なかでも印象深くに残ったのは、海を描いた絵だった。夕暮れの海辺を描いた絵。


 夕暮れの海辺にはひとりの女性が描きこまれている。絵はその女性を横から捉えて描いていた。女性は海辺でしゃがみこむと、淡いピンク色の色彩に染まった海水を掌で掬っている。掌のなかには透明な海の水が溜まっていて、その掌のなかに溜まった海水を見つめる女性の眼差しはどこか哀しげに見えた。まるでそこに失われたものを見つめているかのような儚い光があった。


 でも、その瞳のなかに宿っているのは、ただ哀しみだけではなくて、ちょうど夕暮れの光のそれのように、深く暖かな何かも含まれている気がした。眼差しを伏せた彼女は深い喪失感を抱えながらも、同時に、決心をしているようにも思えた。やがて希望へと変化していく静かな光のようもの。


 わたしは窓の外に広がっていく景色を見つめながら、そのとき観た絵のことを思い出した。そしてまた久しぶりに福島さんに会いたいな、と、彼女のことを懐かしく想った。



 夕暮れの光に染まった、夏の終わりの空を、一機の飛行機が横切っていった。静けさのなかに、遠くを飛んでいく飛行機のエンジン音が静けさを強調するように聞こえた。


 わたしは空のずっと高いところを飛んでいく飛行機を見つめながら、沢田に語りかけるように思った。また来るよ、と。今度来たときには、意識を取り戻してすっかり元気になったあんたに会えるといいね、と。


 わたしは車のエンジンをかけると、走り出した。沈黙が気になってカーテスレオのスイッチを入れると、流れはじめたのは、優しく透き通った静かなピアノの曲だった。いつかどこかで聞いたことがあるような。


 もしかしたら、小学校の頃の同級生だった佐藤さんが演奏しているのかもしれないな、と、わたしはなんとなく想像した。



 沢田が書いた小説は、ひとりの女性を描いた物語だった。


 物語の主人公は三十代前半で、彼女は離婚していて、小さな幼い娘をひとりつれている。ある日の休日、桜の花が見ごろを迎えた温かな日、彼女は幼い娘を連れて散歩も兼ねて近くの公園に花見に出かける。そしてそこで彼女は風に吹かれて時折散っていく薄紅色の花を見つめながら、過去の色んなことを思い出す。


 離婚してしまった夫のこと。昔の夢・・・。彼女の昔の夢はプロのミュージシャンになることだった。でも、その夢はついに叶うことはなく、以前は毎日のように弾いていたギターも最近はめっきり触れることもなくなってしまった。


 彼女は思う。全ては失われていくんだな、と。わたしのこれまでの人生はなんだったんだろう、と。好きなひとも、夢も、全て失ってしまった。彼女はつい惨めな気持ちになって、泣き出しそうになってしまう。


 でも、そのとき、彼女の耳元に届いたのは、娘の歌声だった。さっきテレビで流れていた歌謡曲を娘が口ずさんでいるのだ。彼女はそんな娘の姿を見つめて微笑む。そして思う。そうだ。また今度久しぶりにギターを弾いてみようかな、と。娘のためにギターを演奏しやるのだ。それまであまりに目にしたことのない母親の姿を目にして、目を丸くする娘の姿が目に浮かぶようで彼女は可笑しかった。


 そしてもしかしたら、娘も歌を歌うことが好きな娘になってくれるかもしれないな、と、彼女は思う。薄紅色の花がいくつも舞い、それは目の前に広がる空間を輝くような桃色の色彩に染めていく。



 わたしは沢田の小説に触発されるように思った。家に帰ったら、久しぶりにギターを手に取ってみようかな、と。べつにプロになるとかそういうことではなく、ただ自分のためだけに歌を歌ってみるのも悪くないかもしれない。そしていつか沢田が目を覚ましたら、そのときは、沢田が自分の小説を見せてくれたように、わたしもヘタクソな歌を彼に聞かせてあげようと思った。




 一日の終わりの静かな光が、全てのものを、まるで記憶のなかの情景のような色彩に染め上げていた。ほんの少しだけ物悲しく、でも、やわらかで懐かしい色彩に。散りゆく桜の花のようにそっと。



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