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あのとき沢田が言ってくれたこと

                ☆



 相変わらず沢田は瞳を閉じたまま身動きひとつしなかった。


 病室のなかに差し込む日の光は少しずつオレンジ色の色素を深めていき、沈黙のなかでオレンジ色の色素に染まった空間を見つめていると、まるでそこに流れていく時間が、川の、穏やかな水の流れのように目に見えてくる気がした。


 裕子さんは五分ほど前にケータイに電話がかかってきて、ちょっと話してくると言って病室を出て行ったきりまだもどらなかった。


「沢田」

 と、わたしはなんとなく小さな声で眠り続けている沢田に話かけてみた。

「あんたは今何を考えてんだよ」

 と、わたしは独り言を言った。

「せっかくわたしがはるばる遠いところを訪ねてきたっていうのにさぁ」

 

 わたしは最後、沢田が引越していく前に告げたことを思い出した。

 

 あのとき、沢田は言ったのだ。言ってくれたのだ。好きだ、と。ずっと好きだったのだ、と、わたしに言ってくれたのだ。


 引越し作業を終えて、ふたりで夕飯を食べに行って、それで沢田に家まで送ってもらう帰り道の途中でのことだった。


 通りに沿って植えられた満開の桜の花が綺麗にライトアップされていて、その薄紅色の花には、ほんの微かに、何か哀しいように青紫色の夜の色素が溶け込んでいた。


「お別れする前にさ、どうしても話しておきたいことがあるんだ」

 と、沢田は急に歩みを止めると、改まった口調で言った。わたしがどうしたのだろうと思って沢田の顔を見つめると、沢田はわたしの視線を避けるように顔を俯けて、しばらくのあいだ黙った。


「なんだよ。急に改まって」

 わたしは沢田が黙ったままでなかなか話出そうとしないので、困って小さく笑って言った。


「そんな改まって言わなきゃならないようことなわけ?」

 わたしはからかうように微笑して言った。すると、沢田は何かを決心したようにそれまで俯けていた顔をあげてわたしの顔を見つめると、

「あの、実はさ」

 と、言いづらそうに口を開いた。


 そして、沢田はわたしに言ってくれたのだ。わたしのことが好きだ、と。ずっと前から好きだったのだ、と。


「なんだよ。それ」

 わたしは恥ずかしくなって、それを誤魔化そうとして小さく笑って言った。

「そんな真顔で冗談なんか言うなよ」


 わたしの科白に対して、沢田は冗談なんかじゃない、と、告げた。本気で言ってるんだ、と、沢田は真剣な表情で言った。


 わたしは黙って沢田の顔を見つめた。あまりにも突然な言葉に、何も言葉が出てこなかった。冷たく澄んだ、でも、春の匂いを含んで微かに甘いような香のする弱い風が、耳元を吹きぬけて行った。わたしは何枚かの花びらが、ライトアップされて微かに青味がかった夜の闇に溶けるように散っていくのを目で追った。


「ごめん」

 と、わたしはいくらか長い沈黙のあとで口を開くと、やっとそれだけ言った。沢田の気持ちは嬉しいけど、でも、わたしにはいま他に好きなひとがいて、だから、申し分けないけれど、沢田の気持ちに応えることはできないのだ、と、わたしは告げた。


 わたしの答えに、沢田は口元で力なく微笑んだ。


「うん、わかってたよ。それは」

 沢田は少しのあいだ黙っていから、口を開くと、少し傷ついたような、でも優しい笑顔で言った。わかっていたけど、ただ最後に自分の気持ちを伝えておきたかったのだ、と、沢田は続けてから、弁解するように言って口元で弱く笑った。


「俺が今言ったことは忘れてよ」

 と、沢田はなんでもなさそうに明るい声で言った。

「ただのひとり言みたいなものだから」

 

 うん、と、わたしは沢田の科白に曖昧に微笑んで頷いた。何て言えばいいのか、どう言うべきなのか、あまりこういうことを経験したことのないわたしにはよくわからなかった。


「それじゃあね」

 と、沢田は言った。

「実家に帰って、しばらくして落ち着いたら、また手紙でも出すよ」

 沢田は微笑んでそう言った。そして、沢田は軽く手をあげると、わたしに背を向けて、もと来た道をゆっくりと引き返していった。わたしはしばらくのあいだ、そんな沢田の背中をほんやりと見つめていた。


 涙が頬を伝っていったのはそのときだった。泣くつもりはなんてなかったのに、涙は勝手に溢れて出て、眠っている沢田の顔を濡らした。


 わたしは慌てて溢れて出した涙を手の甲で拭った。わけもわからず、何かが無償に哀しかった。今まで自分が信じてきたものが、大切にしてきたものが、簡単に踏みにじられてしまったような、激しい苛立ちのようなものを感じた。


 わたしは誰かに対して叫び出したいような衝動に駆られた。なんでだ、と。なんでこんなふうになってしまうんだ、と、わたしは思った。わたしたちは自分なりに必死に前に進もうとしてきたはずなのに、どうして、どうして、どこにも辿り着けずに終わってしまうんだ、と、虚しくて、悔しかった。


「あんたは小説を書くんじゃなかったのかよ」

 と、わたしは沢田の顔を見つめながら心のなかで呟いた。

「ひとに希望を与えられるような小説を書くんじゃなかったのかよ」

 と、わたしは瞳を閉じて、そのなかに見える心の暗闇のなかで、強く叫んだ。


 でも、もちろん返事なんてなかった。


 閉じていた瞳を再び開くと、窓から差し込む深いオレンジの色の光が、哀しくも暖かく眠り続ける沢田の顔をそっと照らしていた。




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