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裕子さんの話



「今はもう音楽活動はしてらっしゃらないんですか?」


 わたしが窓の外を流れていく景色に視線を彷徨わせながら、いつかした、沢田との会話を思い起していると、裕子さんが気を使って話しかけてきてくれた。


 わたしはぼんやりとしていたので慌ててとなりを振り返ると、運転席でハンドルを握っている裕子さんの横顔に視線を向けた。そして、

「ええ、もうだいぶ前に」

 と、曖昧に微笑して答えた。


 沢田が入院している病院までは裕子さんの車で一緒に行くことになった。わたしが運転してきた車は近くにある、無料で止められる駐車場(というか空き地)を裕子さんに教えてもらって、そこに停めてきた。


「もったいないですね。わたし、一度、大塚さんの曲、聞いてみたかったかなぁ」

 と、裕子さんは明るい口調で言ってから軽く笑った。

「わたしの曲なんて全然大したことないから駄目ですよ」

 と、わたしは苦笑して答えた。

「たぶん、がっかりするだけです」


「そんなことないと思いますけど」

 裕子さんは微笑して言った。それから、

「でも、なんで音楽辞めちゃったんですか?」

 と、裕子さんはちらりとわたしの方を振り向くと、本当に不思議に思っているような口調で尋ねてきた。

「お兄ちゃんは、大塚さんのこと、めちゃくちゃ才能あるひとだって言ってたけど」


「沢田、そんなこと言ってたんですか?」

 と、わたしは小さく笑って言った。自分でも顔が赤くなるのがわかった。

「わたしなんて全然ですよ」

 わたしは口元に浮かべた笑みをそのままに続けた。

「音楽でプロになりたいと思ってるやつなんてそれこそ吐いて捨てるほどいて、結局のところ、わたしもそのうちのひとりでしかなかったんです」


「そんなことないんじゃないですか?」

 裕子さんは横目でわたしのことを見ると、小さく笑って言った。

「だってお兄ちゃんは大塚さんのこと褒めてたし」


 わたしは裕子さんの科白に曖昧に微笑むと首を振った。

「それに実際問題、ずっと一緒に音楽をやってきたやつが途中でぬけちゃって、だから、具体的に音楽を続けていくのが難しくなっちゃったんです」


 それから、わたしは彼女に田畑のことを話してきかせた。音楽の専門学校で彼と知り合い、ずっと一緒に音楽活動を続けてきたこと。でも、その彼が三年ほど前に事情があって故郷に帰っていってしまったこと。それからもわたしはひとりで音楽活動を続けていこうとしたのだが、結局上手くいかなかったこと。


「なんか駄目なんですよね、わたし」

 と、わたしは軽く笑って弁解するように言った。

「あいつじゃないと。他のひとと一緒にやってみたりもしたんだけど、なんかしっくりこなくて。それで音楽に対する情熱みたいなものが薄れちゃって。そのあと、バイトしてた喫茶店にそのまま就職して最近まで働いてたって感じです」


「・・・そっか。色々あったんですね」

 と、裕子さんはどこか気遣わしげに軽く目を細めてわたしの顔を見ると、それから前に向き直った。そして、

「でも、そういうふうにそのひとじゃないとだめだって思えるような絆っていいですね」

 と、静かな口調でしみじみとそう思っているように言った。


「絆って、そんな大層なものじゃないけど」

 わたしは軽く笑って答えた。それから、

「裕子さんは今何をされてるんですか?お仕事は?」

 と、ふと気になって尋ねてみた。


「わたしですか?」

 と、裕子さんはわたしの言葉を繰り返すと、

「わたしはいま、調律師をやってます。ピアノ調律師」

 と、明るい表情で言った。

「何か、お仕事、愛されてるみたいですね」

 と、わたしは微笑んで感想を述べた。それから、わたしは小学校のときの友達のことを少し、思い出した。彼女は今頃どうしているのだろうと思った。


「愛してるかどうかはわからないけど、嫌いじゃないですね」

 と、裕子さんはわたしの感想に、照れ臭そうに小さく笑って答えた。

「仕事で色んな家の色んなピアノを触るんですけど、その家その家でそれぞれピアノに個性というか、歴史みたいなものがあって、何か色々考えさせられますね」


「ひとえにピアノといっても、それぞれ違いがあるっていうことですか?」

 と、わたしは尋ねてみた。すると、裕子さんはちらりとわたしの顔に視線を走らせると、またすぐに前に向き直りながら、


「そうですね。ピアノっていってもほんとに色々ありますね。単純に、高価なピアノとそうでないピアノの違いっていうことじゃなくて・・・まあ、もちろんそれもあるんですけど、でも、わたしが言いたいのはそういうことじゃなくて、なんというか、ピアノの個性?みたいなのもの?」


 裕子さんはそこまで言葉を続けてから急に照れ臭くなったのか弁解するように微笑すると、

「とにかく、ピアノひとつひとつに違いがある気がするんです。人間にそれそれぞれ違う性格があるみたいに」

 と、裕子さんは微笑んで穏やかな口調で言った。


「そういうものなんですかね」

 と、わたしは感心して頷いた。


 車はいつ間にか市内を抜けて海岸線の道を走りはじめていた。裕子さんの話では沢田が入院している総合病院は海が見下ろせる見晴らしの良い場所に建っているということだった。道のずっと先の方に小高い丘のような場所があり、そこに比較的大きな建物が建っていて、あれが沢田の入院している病院だろうかとわたしが考えていると、


「最近、ピアノの調律をやっていて、すごく印象に残ってることがあるんです」

 と、裕子さんがふと思いついたように話はじめた。わたしは窓の外に向けていた視線を裕子さんの横顔に戻した。

「その家ははじめて担当したんですけど、結構年配の男のひとが依頼してきてくれて」

 裕子さんはそこまで話すと、ちらりとわたしの顔に視線を向けて、

「ごめんなさい。こんな話退屈ですよね」

 と、苦笑して謝った。


 わたしは微笑んでそんなことないですよと答えると、ぜひ続きを聞かせてくださいとお願いした。すると、裕子さんはいくらか戸惑ったようにわたしの顔を見て、それから、視線をフロントガラスの向こうに戻すと、ゆっくりとした口調で話しはじめた。


  


                              ☆



「その日は日曜日で、朝から雨が降ってました。すごく静かに降る雨。外の世界はそのまま雨の色素を取り込んだような半透明青色の色彩に染まってて」


 わたしは裕子さんの話しに黙って耳を傾けながら、雨の降る、静かな日曜日の朝を思い浮かべてみた。そうしていると、聞こえるはずのない穏やかな雨音が、どこらともなく聞こえてくるような気がした。


「わたし、だいたい一日平均五、六件の家を回るんですけど、その日の最初の仕事が、そのおじいさんの家だったんです。はじめて担当することになったひとの家。それでわたしはじめての家だからすごく緊張してたんですけど、わたしが家を訪ねていくと、そのおじいさんはすごくにこやかに話しかけてくださって、ああ、わたし、いいひとで良かったなって思ったんです。家によっては・・・言い方悪いけど、すごく気難しい方もいらっしゃるから」


「調律師の方も色々大変なんですね」

 と、わたし微笑して言った。


「そうですね。場合によってはすごく気を使って大変なときもありますね」

 と、裕子さんは答えてから、苦笑するように口元を綻ばせた。


「それで早速、ピアノの調律をさせてもらうために、自宅に上がらせてもらってピアノをみせてもらったんです。そしたら、そのピアノがすごく綺麗なピアノなんですよ。綺麗というか、ずっと大切に使われてきたんだろうなっていう感じがするピアノなんです。黒のアップライトピアノ」


 わたしはなんとなく小学校の頃、学校の教室で、佐藤さんがピアノを弾いている姿を思い浮かべた。


「わたし、じゃあ調律をはじめてさせてもらいますねっておじいさんに言いました。おじいさんはにこにこしてどうぞよろしくお願いしますって言ってくれて。わしはピアノのことはよくわからんから、適当にやってくださいって」

 裕子さんはそこまで話すと、言葉を区切った。わたしは黙って彼女の言葉の続きを待っていた。


「そしたら」

 と、彼女は五秒間程黙っていてから口を開いた。

「全然音が狂ってないんですよ。ちゃんと音が合ってるんです。これだったら調律の必要なんてないくらい。ただ」

 と、裕子さんは言った。


「ただ?」

 と、わたしは裕子さんの言葉を繰り返した。

「すごく透き通った、まるで外の冷たい雨に濡れたみたいな哀しげな音が出るんです。わたしの思い込みかもしれないんですけど」


 わたしは裕子さんの言ったピアノの音を思い浮かべてみた。どことなく淡い青色の色素がついたようなピアノの音色。


「それでわたし言ったんです。おじいさんに」

 と、裕子さんは話し続けた。

「何か寂しい感じの音が出るピアノですねって。何かすごく大きなものを失って、ピアノ自体がその喪失感をずっと抱えてるみたいな感じがするって。そしたら、おじいさん、何か思うところがあったのか、眼差しを伏せて、やっぱりそうですか沈んだ表情で答えたんです」


「ということは、裕子さんのそのコメントが、まさに確信をついてたってことなんですかね」


 裕子さんはわたしの感想に、短く顎をたてに引いた。


「そしたら、おじいさんがわたし教えてくれたんです。このピアノは十年くらい前に亡くなった奥さんが大切してたピアノだって。結婚してすぐくらいの頃に購入して、奥さんはピアノを弾くことがすごく好きなひとで、毎日ように弾いてたって。奥さんが亡くなってからも奥さんが大切してたピアノを駄目にしたくなくて、頻繁にピアノの調律に来てもらってるけど、やっぱり昔と今ではピアノの音の響き方に違いがある気がするって。もしかたら、ピアノの音の響き方が変わってしまったのは、そのせいだろうかって。つまり」


「つまり、ピアノの自体が奥さんの死を悼んでいて、それでピアノの音に変化がでているんじゃないかってこと?」


 わたしが裕子さんの科白を引き継ぐと、裕子さんはそうだというようにこくりと頷いた。 


 わたしは誰もいない部屋の片隅で、いなくなってしまったひとの帰りを待ちわびている黒のアップライトピアノを思い浮かべた。


「そのひとの奥さんは何が原因で亡くなったんですか?」

 と、わたしは気になったので尋ねてみた。


「風邪をこじらせて肺炎にかかって亡くなったって言ってました」

と、裕子さんはわたしの問に少し小さな声で答えた。

「もともと身体が弱いひとだったって」


「・・・そっか」

 わたしは適当な感想が思いつかなくてただ頷いた。

わたし、ピアノの調律が終わったあと」

 と、裕子さんは更に言葉を続けて言った。

「おじいさんに提案してみたんです。おじいさんも試しにピアノを弾いてみませんかって?そのとき、ほとんど調律の必要なんてなかったから予定してた時間よりもずっと早く終わったんですけど、だから、この空いた時間を利用しておじいさんにピアノを教えてみたらどうだろうって急に思いついて」

 裕子さんは言ってから少し悪戯っぽく微笑んだ。


「そしたらどうでした?」

 と、わたしは裕子さんの笑顔につられるようにして微笑んで尋ねてみた。すると、裕子さんは可笑しがっている表情で、

「最初は照れ臭がって、いや、わたしはいいよなんておっしゃってたんですけど、何度かわたしが勧めてるうちに、もともと奥さんがピアノを弾いているのを見ていて興味はお持ちだったみたいで、じゃあ、ちょっとだけやってみようかなって言ってくださって」


「へー」

 と、わたしも楽しくなってきて小さく笑った。わたしの今見えている情景に重なるようにして、ひとりのおじいさんがいくらかぎこちなくピアノと向かいあっている場面が浮かびあがってきた。


「何の曲を教えたんですか?」

 と、わたしは尋ねてみた。

 すると、裕子さんはわたしの顔を見て、

「エリーゼのためにです」

 と、楽しそうな口調で答えた。


「エリーゼのためにって、初心者がやるには難しいんじゃないですか?」

 と、わたしが驚いて言うと、裕子さんは小さく笑って、

「もちろん、全部ちゃんと終えたわけじゃなくて、主題のところを、右手でちょこっとだけです。それくらいだった初心者の方でも大丈夫じゃないですか?」


「ああ、なるほど」

 わたしは納得して頷いた。

「でも、なんでエリーゼのためなんですか?」

 と、わたしは不思議に思って尋ねてみた。すると、裕子さんはほんの少し哀しみを含んだ優しい表情で、

「わたしが、そのおじいさんに、奥さんが弾いてた曲で何か印象に残ってる曲ってありますかって尋ねたら、おじいさんが名前は覚えてないんだけど、こんな曲って口ずさんでくださったんです。それでその曲がエリーゼのためにだったんです」


 わたしはおじいさんの右手によって紡ぎ出される、いくらたどたどしくはあるけれども、優しく清らかに響くピアノの音を思い浮かべてみた。その淡い水色の色素を帯びたようなピアノの音は、外に降る透明な雨音とやわらかく溶け合っていく。


「そしたら不思議なんですけど」

 と、裕子さんは言葉を続けた。

「おじいさんがピアノを弾いた瞬間、それまでどちらかというと冷たく透き通るような感じだったピアノの音色がほんの少し明るく輝いた感じがしたんです。なんというか、音に温もりが灯ったっていうか・・・まあ、それこそ、単純にわたしの思い込みかもしれないんですけどね」


 裕子さんはそう言って自嘲気味に少し笑うと、

「でも、ほんとに、そんな気がしたんです」

 と、微笑んで続けた。


「じゃあ、もしかしたら」

 と、わたしは微笑んで言った。

「そのピアノは嬉しかったのかもしれませんね」

 と、わたしは言った。

「そのおじいさんに弾いてもらえて。しかも、その曲が亡くなった奥さんがいつも弾いてた曲だったから、まるで亡くなった奥さんがそこにいるような気持ちになったのかも」


 裕子さんはわたしの科白に何も言わずにただ目元で微笑んで静かに頷いた。


 ふと、窓の外に視線を向けてみると、そこには花が咲いていた。誰かが植えたのだろう、道に沿ってずっと花が咲いていた。何ていう名前の花なのかはわからなかったが、それは微かに青色の色素を含んだ白い花だった。その道に沿って植えられた名前の知らない花は、夏の終わりの静かな風に吹かれて少し寂しそうに揺れていた。耳を澄ませていると、風に吹かれて揺れる花の音が聞こえてきそうな気がした。





                                ☆


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