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福島さんの思い出


   ☆





 気持ちの良い天気なので、海沿いの道に車を止めると、防波堤のうえに上がり、そこに座って海を眺めながら昼食を取ることにした。海が目の前にあるかせいか、吹きつける風は冷たく澄んでいて、照りつける日差しは強いものの、それほど暑さは感じなかった。


 昼食のメニューは途中のコンビニで買った弁当とお茶だ。空腹せいか、すぐに弁当はなくなってしまい、あとは海を眺めながらゆっくりとお茶を飲んだ。ちょっとしたピクニックだ。


 ピクニック。そういえばもうだいぶ前のことになるが、わたしがまだアルバイトをしていた頃、同じアルバイト先のひととこんなふうに海を眺めながら弁当を食べたことがある。あれはわたしがまだ二十三とか、四の頃で、一緒に弁当は食べたひとは、わたしよりも四つほど年上の女の人だった。


 彼女の名前は福島真由美といった。彼女は美大の油絵を卒業したあと、留学費用をためるためにアルバイトをしていた。フランスに留学するつもりなのだ、と、あるとき彼女はわたしに話してくれた。


 今となってはどういう経緯で彼女が絵を描くのにわたしがついていくことになったのかよく思い出せないのだが、わたしたちは朝早い時間帯の電車に乗って千葉の海に出かけた。


 わたしが彼女に連れられていったのは、遊泳禁止で岩だらけの、人影のない、しんとした浜辺だった。波打ち際には敵意をむき出しにしたような荒々しい波が激しく打ち付けていた。


 彼女は砂浜の上に座ると、スケッチブックにもくもくと絵を描き始めた。わたしは彼女の隣にあぐらをかいて座ると、彼女に道具をかしてもらい、スケッチのまねごとのようなことをして時間を過ごした。


 しばらくしてからふと彼女がどんな絵を描いているのか気になってとなりを覗き見てみると、彼女のスケッチブックに描かれていたのは、到底海とは思えないような絵だった。素人のわたしにはそれは海というよりも、巨大な壁の上をミミズが動きまわっている絵のように見えた。


 きっとわたしが唖然とした表情を浮かべているのが視界の隅に入ったのだろう、彼女はちらりとわたしの顔に視線を走らせると、可笑しそうにクスクス笑った。


「とても海の絵には見えない?」

 彼女は振り向いてわたしの顔を見ると、口元に悪戯っぽい微笑を浮かべて尋ねた。


「いや、まあ、海に言えないというか、なんか独創的な感じだなぁと思って」

 正直な感想を述べるのは失礼かと思ったわたしは穏当な表現になおして言った。


すると、彼女は愉快そうに大きく口を開けて笑って、それから、

「正直に言っていいのよ」

 と、楽しそうに言った。


「実際のところ、わたしもこれは一目見た感じじゃとても海には見えないなって思うもの」

 彼女は笑って続けて言った。


それから、彼女が説明してくれたところによると、彼女が描いている海の絵はいま目の前に広がっている海をそのまま描いたわけでないのだということだった。自分の視覚のなかに入ってくる海を一度自分のなかでバラバラに分解して、それからそこに自分なりのイメージや、解釈を加えて、再構成したものだという話だった。


彼女の言っていることは素人のわたしには難しかったが、彼女の描いている絵がただ観たままの海を描いているわけではないのだということはなんとか理解できた。


「へー。すごいですね。さすがは美大生」

 わたしは感心して言った。


「まあね」

 と、彼女はおどけてそう答えると、口元で小さく笑った。それから、彼女はまた顔を俯けると、真剣な表情で絵の続きに取りかかった。


「福島さんって」

 わたしはしばらくしてから声をかけた。


「なに?」

 福島さんはスケッチブックから顔を上げると、不思議そうにわたしの顔を見た。


「いつぐらいから絵に興味を持ちはじめたんですか?」


 彼女は私の問いに、顎に手をあてて何かを思い出そうとするように視線をやや斜め上に上げた。それから、彼女は五秒間くらい考えていたけれど、


「昔からわりと絵を描くのは得意な方だったけど、でも、本格的に絵をちゃんとやろうと思いはじめたのは高校のときね」

 と、福島さんは口を開くと言った。


「何か切っ掛けとかあったんですか?」

 と、わたしは尋ねてみた。


「切っ掛け?」

 と、福島さんはわたしの科白を復唱した。


「そう。これから絵を描こうって決意するような」


 福島さんはわたしの言葉に可笑しそうに微笑すると、

「決意って、そんな大袈裟なものじゃないけど」

 と、言って、逡巡するようにわずかに間をあけたあと、


「実を言うと、好きなひとができたのよ」

 と、福島さんはわたしの顔を見て微笑んで言った。

「高校のときに」

 福島さんはそう言ってから照れ臭そうに口元で笑った。


「今となって懐かしいわね」

 そう言った福島さんの口調は明るかったが、気のせいか、その瞳には何か失われてしまったものを忍ぶような淡い光があるように思えた。


「良かったら聞かせてくださいよ」

 と、わたしは言った。






   ☆



 福島さんが好きになったその男のひとは、同じ高校のひとつ年上の先輩だった。福島さんは高校に入学すると、友達に誘われて美術部に入ったのだが、それは友達に誘われて仕方なく入ったという感じで、最初の頃はそれほど熱心に活動するつもりはなかった。


友達との付き合いで、ただ席をいれておくだけのつもりだった。ところが、福島さんはその入った美術部で思いがけず、先輩と知り合うことになった。福島さんはその先輩に会うために毎日放課後美術部の活動に参加するようになり、そうしているうちに、自分でも熱心に絵を描くようになっていったのだ、と、福島さんはわたしに語った。


「その福島さんが好きになったひとってどんな感じのひとだったんですか?」

 わたしは気になったので尋ねてみた。

「カッコイイひとですか?」


「そりゃ、まあね」

 福島さんはわたしの問に、苦笑するように笑って答えた。

「わたしって結構面食いだと思うし」


 それから、わたしが芸能人だと誰に似ているのかと尋ねると、彼女は最近人気が出てきたばかりの俳優の名前をあげた。その俳優はすらりと背の高い、女のひとのように綺麗な顔立ちの、どことなく影がある感じのする俳優だった。


わたしもその俳優のことはカッコイイなと思っていたので、

「そんなにカッコイイひとが学校にいたんですか!?」

 と、驚いて、感心して言った。


「って言っても、これはあくまでわたしの主観。実際にはそこまでじゃないと思うけど」

 福島さんはわたしの感激ぶりに笑って訂正した。


「でも、それだけカッコイイひとだと、学校でも相当人気があったんじゃないですか?」


「そうね」

 わたしの問に、福島さんは目元で笑って頷いた。


「だから、最初の頃は敬遠してたの。わたしと一緒に入った友達の女の子も先輩に憧れてみたいだし、だから、みんなと同じなんてバカみたいと思って」


「もちろん、カッコイイひとではあるから、気にはなってたんだけどね」

 福島さんはそう付け加えるように言ってから、微苦笑した。


「そういう感じはわかりますね」

 と、わたしは笑って同意した。


「だけど、あるとき、はじめて、先輩の描いてる絵を観てから、そういう敬遠してた気持ちが吹っ飛んじゃったの。その、なんていうのかな、先輩の描いてる絵があまりにも真剣というか、迫るものがあるというか」


「真剣?」

 わたしは福島さんの言葉の意味がいまひとつ飲み込めなくて繰り返した。


「つまり、わたし、はじめてその先輩の描いた絵を観るまでどこか先輩のことをバカにしてたようなところがあったの」

 と、福島さんは説明した。


「先輩って女の子に人気があったから、いつも女の子と一緒にいたし、だから、チャラチャラしたひとだなっていうイメージがあって。だけど、そんなイメージのひとが描く絵があまりにも、情熱的というか、なんだろう、魂を込めて描いているなっていう感じがしたから、先輩のイメージがそこで大きく変わって」


「そっか」

 と、わたしは相槌を打ってから、


「ちなみにどんな感じの絵を描いてたんですか?その先輩は」

 と、興味を惹かれて尋ねてみた。


「そうね」

 と、福島さんはわたしの問に頷くと、その先輩の描いた絵を思い出すように軽く眼差しを伏せた。

「どちらかというと、暗い感じの絵ね」

 と、福島さんわずかな沈黙のあとで口を開くと言った。


「濃い青色の、青色というよりは黒に近い感じね、そんな色彩がメインにあって、何かが魂の奥の方で絡み合っているような、求め続けながら、永遠に得られないものを表現しているような・・・そんな感じの絵」

 福島さんはそう言うと、俯けていた眼差しをあげて、そこに何かがあることを確認するように正面の海に目を向けた。


 わたしはそんな福島さんの横顔に視線を向けながら、福島さんのその好きなひとが描いたという絵を思い浮かべた。何故かそれはわたしのイメージのなかで、暗い夜の海面にひっそりと静かに咲く青色の花としてイメージされた。


 少しの沈黙があって、その沈黙のなかにいくつもの波の音が吸い込まれていった。


「そのひとって、何か原因があってそういう感じの絵を描くようになったのかな」

 わたしはふと思いついたことを口に出して言った。すると、福島さんはわたしの方を振り向いて、何か悲しい光景を目にするときのように軽く目を細めてわたしの顔を見つめた。


「わたしも、そこまで詳しいことは知らないけど、色々あったみたい」

 福島さんはわたしの方に向けていた顔を正面に戻しながら静かな声で言った。


「先輩はお姉さんを事故で亡くしてるみたいなの。それでそのお姉さんが絵を描くのが好きだったひとみたいで・・・それで先輩も自然と絵に興味を持つようになったみたいなんだけど・・・だから、過去にお姉さんを亡くしてることが、もしかしたら先輩の絵に影響を与えてたのかもしれないなって思う・・・もちろんそれだけじゃなくて、他にも色々あるんだと思うけど」


 わたしは福島さんが好きだった、その先輩を想像してみた。


「でもね」

 福島さんは続けて話した。


「先輩の絵は暗いんだけど、でも、すごく綺麗なの。黒って、不安や恐怖、そういうものをイメージさせる色彩なのに、でも、先輩の描いた絵を見てるとね、不思議と優しい気持ちにもなれるのよね」


 わたしは福島さんの言葉に耳を傾けながら、またさっき自分が勝手にイメージした、夜の暗い海面に咲く青色の花を思い浮かべた。


「まず絵の表面に絵かがれているのは喪失感とか、哀しみとか、そういった感情で、その奥の方に、何か暖かいもの、たとえは鮮やかな緑の木々の葉にろ過されて地上に降る木漏れ日の光のようなものが隠されている気がしたかな、先輩の絵は」

 そう言った福島さんの表情は、失ってしまったものを悼みながら、でも、それを優しく受け入れているような静けさがあった。





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