コーヒーですね。え? 他にも?
初投稿です。
暇つぶしにでもお読み頂ければ幸いです。
「そうか、亡くなったのか」
努めて神妙に話す俺に、カウンターを挟んで向かい合っているアルバイト兼学友の花村懐も暗い態度で応えた。大学の夏休みも終わり、少し肌寒くなってきたからか、懐はトレーナーの上からお仕着せのエプロンを纏っている。俺も今日は長袖ワイシャツとくるぶしまで丈のあるデニムを選んだが、それでも九月下旬の少々冷えた店内の室温に体が震えた。
「そう、二ヵ月くらい前。丁度大学の夏期休暇が始まったあたりに、いつものところで」
後ろで束ねた髪を指先でいじりながら、店内の出窓あたりに視線を向ける。そこには、猫一匹がすっぽり収まりそうなサイズの網目が荒いバスケットが今もなお放置されていた。中には、爪とぎでボロボロにされたクッションが所在なさげにくたびれている。
俺は体をバスケットがある窓際の方へ向けて、数ヵ月前まで確かにそこに居た生物の姿を記憶の断片をつなぎ合わせて思い出してみる。しかし、これが上手くいかない。散髪代をケチって髪が伸び放題になっている自分の頭を拳で小突いてみるが、なかなか姿も名前も出てこなかった。
「確か、ここの店長の飼い猫だっけ?」
「そうなの。店長も亡くなった時はすごい落ち込んで、三日間臨時休業したくらい」
個人経営の喫茶店が三日も営業に穴を開けて大丈夫なのだろうか、と店の先行きを心配してみる。いつ来ても店内の席が客で埋まっているのを見たことが無い。そもそも、老人が余生の暇つぶしに儲け度外視でやっているような店だから大丈夫なのだろうと、勝手に納得した。
今も店内には俺をのぞけば、ガタイの良いタンクトップ姿の欧米風外国人が背後のボックス席を一人で贅沢に使い、ナポリタンを啜っているだけだ。咀嚼音と俺達の依田話が天井で有線放送を垂れ流すスピーカーと向こうを張っている。
「私は今年から入ったバイトだったから、まだ付き合いは浅いけどやっぱりショックだったなぁ。先輩なんてショックのあまり、もうここ辞めちゃったし」
「マジかよ?」
啜っていたコーヒーを軽く噴き出した。
「『ここにいたら嫌でもドイルちゃんのこと思い出しちゃうから』って。もう自分のママが亡くなったくらいに落ち込んでたなぁ」
そうだ。ドイルって名前だったな。俺はこの喫茶店の名物猫の容姿をようやく頭の中で再構築できた。まんまると太って、白・黒・茶のトリコロールが愛らしい三毛猫だった。それもオス。いつも窓際に置かれたバスケットにその豊満な体をすっぽりと収めながら、物憂げに外の世界を眺めていた。愛嬌と珍妙さは俺と懐が通う大学でも噂になっていて、一目見ようと授業終わりの学生がこの喫茶店を訪れていたが、当のドイルは我関せずといった態度で、客には愛嬌を振りまかずビー玉のような透き通る眼で軽くあしらっていた。
別に俺は特別ドイルのことが好きだったわけでもないが、もうあの不愛想な態度を取ってもらえないと思うと、ここに来る楽しみが一つ無くなったような気がした。
そういえば、この喫茶店はドイルがいたということから、学生の間では便宜的に「猫カフェ」と呼ばれているが、本当の名前はなんというのだろう。そして、名前の由縁たるドイルがいなくなった今、この店はこれからも「猫カフェ」と呼ばれ続けるのだろうか。
そんなことを考えていた折に、黙々と食事していた外国人客が席を立ち、レジへと向かった。一週間分くらいの生活用品が入っていそうなほどこんもりと膨らんだリュックサックを背負っていて、両手にはこれまた本来の体積以上に膨張した紙袋を下げているところを見ると、長旅の帰りなのかもしれない。客を待たせない様に懐もまたレジの方に小走りで移動する。
「…………?」
なんだろう? 後ろを通り過ぎる時、すごい睥睨されたような気がする。客である俺が店員とおしゃべりしているのが気に障ったのだろうか。それなら、懐の方を睨みそうなものだが、どうやら彼女には敵意はないらしく、終始穏やかな表情で会計を済ませていた。
扉に取り付けられた鈴がカラン、と響き、客の退店を告げる。
「今のお客さん、実はよく来るんだ」
レジ打ちを終えてカウンター内に戻ってくるなり、懐は零した。
「そう、ここのお得意さんだったのか」
「私がシフト入れてる時によく見るからそうかもって思ってたんだけど、店長さん達に聞いたら、ここに通い始めたのは最近なんだって」
「ふーん」
あまり興味無さそうに返した。実際興味もなかった。俺は講義が終わって、バイトの時間までの時間潰しによくこの店を使っているから、その客も用事が始まるまでの間隙を埋める為にここに足を運んでいるのかもしれない。
「俺も接客のバイトしてるから分かるけど、客が一人も来ないってのは、それはそれでしんどいし、いつも同じ客なら緊張もしないしいいじゃないか」
「まぁ、そうなんだけど、ちょっと気になることがあって……」
歯切れ悪く語尾を濁した。
「どうしたんだよ……」
「いつもと違ってたんだよね、さっきのお客さん」
「違う? 何が」
「それがね……」
推理小説ならここらがきっと導入部分になり、俺たち二人があの外国人客に端を発する難事件・怪奇現象に巻き込まれていくのだろうが、残念ながらこれは時間を持て余している学生同士によって交わされる退屈な昼下がりの対話でしかない。潰しても潰しきれない程の暇を抱えている学生達の暇潰しにドラマチックな起承転結を期待するのはお門違いだ。
「服装?」
拍子の抜けた声で聞き返す俺に、懐は続ける。
「そう、夏休み前までは、いっつも長い袖と丈の上下ジャージでこの店来てたから、今日久々にあのお客さん見た時一瞬誰か分からなくて」
さっきまで近くのカウンター席でナポリタンを口へ運んでいた客の容姿を思い出す。己が筋肉を見せつけるような黒のタンクトップに、太股がほぼむき出しの短パンを着用していた。
「季節が変わったから衣替えしたってことは……いや、それならむしろ今こそジャージ姿になってないとおかしいか」
俺は自分の推測を言下に否定した。最近、ちらほら夏かと疑うような暑い日もあるが、総じて過ごしやすい気候になっている。
「それにさ、さっきはあのお客さん、そこのボックス席に座ってたけど」
懐が指差す方向に目を向ける。テーブル上には、先の外国人が食べ終わった料理の食器がそのままにされている。片付けろよ。
「前までは、いっつも一番奥のカウンター席に座ってたの」
ボックス席に向けていた指をスライドさせ、一番奥のカウンター席――俺から見て二つ左隣の席――を示した。入り口から最も遠い席でもある。
「そこに? いつも?」
「そう。どんだけ店が空いててもそこがいいって。窓から日の光が入んないから薄暗くて他のお客さんはあんまり座りたがらないんだけど、なんかそこに執着してたの。だから、今日来た時に、ボックス席座ったから余計に変だなぁ、って」
服装のことも含めて、と懐は最後に付け加えた。
確かに、一見さんならともかく、常連が急にルーティンを変えてきたら、些か気にはなるだろう。ボウリング場でバイトをしている俺にこの状況を当てはめてみるなら、毎週決まった曜日の決まった時間に決まったレーンでしか球を投げない客が、突然いつもと違う曜日のいつもと違う時間にいつもと違うレーンで球を投げ始めたようなものだろう。最もバイトなんて所詮ただの暇つぶしの小遣い稼ぎ程度にしか思っていない俺が、そんな状況に直面したとしても、大して違和感を覚えずに、その日のシフトが終わるのを呆けて待っているだろうな。
「あと、他にも気になるところがあって」
「まだあるのかよ」
心の中で留めたつもりだったが、しっかり声に出してツッコんでいた。
「どんだけあのお客さんにご執心なんだよ。別にいいだろ、客がどんな格好してどこに座って喫茶店ご自慢のナポリタン啜ってようが」
「そう。そこなの」
懐は、ピンと立てた人差し指を俺に向けてきた。そこ? どこだ?
「あのお客さん、いつもはコーヒー一杯しか頼まないのよね。でも、今日はナポリタンのサラダセットまで頼んでたから、もう違和感が半端なくって……って、早くお皿下げなきゃ!」
今更、テーブルに食器が放置されていることに気付いた懐はどたどたと慌てた足取りでカウンターから飛び出し、回収に取り掛かった。
そんな懐の仕事っぷりを横目で見ながら、今聞いた情報を頭の中で整理してみる。
さっきまで店にいた外国人客。懐がこの店でバイトをし始めてからまもなく、姿を見せるようになった。来る時はいつも上下の長いジャージ姿で、一番奥のカウンター席でコーヒーだけを頼み、長居せず店を後に。
夏期休暇中に顔を出すことはなく、久しぶりに来店したと思ったら、タンクトップ姿になっていて、いつものカウンター席ではなくボックス席を選び、しっかりと腹に溜まるメニューを注文した。
整理してみても、気になることは特に無かった。単にこの外国人客が気まぐれを起こしただけではないだろうか。安直な答えに半ば得心しながら、俺はカップに僅かに残ったコーヒーを一口で飲み干す。
食器の片づけを終えた懐がカウンターに戻ってきたタイミングで、壁に取り付けられた時計が午後四時を告げた。鳩時計のような形をしているが、故障しているのか肝心の鳩は巣籠から顔を覗かせなかった。
「動物……」
頭の中に去来した閃きを思わず口にした。
「え?」
懐が微かな声で反応する。
「そうだ、猫。あの外国人客のお目当てはドイルだったんじゃないのか」
店の名物猫。ドイルが亡くなったのは、この夏。つまり、あの外国人客が足繫くここに通っていた時にはまだ存命だったはずだ。昼下がりにドイルを鑑賞に来ることが彼のささやかな楽しみだったのではないか。
「うーん、そうかなぁ……」
中々公算の大きい推理に懐は首を傾げる。
「ドイルを見に来たんなら、もっとドイルに近い席選ぶと思うけど」
「あ、確かに」
夏樹は出窓のバスケットを、俺は一番奥のカウンター席をそれぞれ横目で確認した。外国人客の特等席は、ドイルの特等席であるバスケットが置かれた出窓から一番離れた席にあることを思い出す。
「それに、あんまりドイルに興味あるって感じでも無かったなぁ。ここに来るお客さんはよくドイルの写真撮ったり、猫のおもちゃで相手したりとかしてたけど、その人はそんなこともしなかったし」
懐が俺の推理に更にダメ出しをする。自分の感じた手ごたえがただの骨折り損だったことよりも、懐の言葉の中に出てくるドイルが全て過去形で表現されていることに一抹の物悲しさを感じた。
「それじゃあ、あれだ。ここのコーヒーが好きなんじゃないか。ほら、前からコーヒーだけ頼んでたって言ってたろ?」
「そんなにおいしくないよ、ここの」
おい。
カウンターの奥――厨房の方でコーヒー豆の入った袋を重たそうに整理していた店長から一瞬凄まじい邪気を感じた。こいつがクビにされたら俺にも責任あるかな。
持ち球を出し尽くした俺は、空になったカップの底を見つめる。
そういえば、前に読んだ推理小説にも猫が出てきたな。探偵役の刑事が捜査に行き詰まったら、それを見透かしたようにいつもヒントをくれる。その猫も確か三毛猫だったはず。
「花村君」
厨房から店長が若干不機嫌そうな様子で顔を出す。いつ見ても店長はくたびれた肌色の前掛けエプロンをしていて、年齢の割に禿げていない頭と曲がっていない腰が健康的だ。牛乳瓶の底のように分厚い丸眼鏡が俺と懐を交互に捉える。
「あ、はい。どうしたんですか店長」
先の失礼な発言など既に忘れたと言わんばかりに、涼しい顔で応える懐。店長は片手に持っている小包を持ち上げた。
「ちょっと、遠方の友人に送りたいものがあったのを忘れていてね。どうしても今日までに送らなきゃならないんだ。だから、少し店を空けるよ。この時間は殆どお客さんも来ないから大丈夫だと思うけど」
「分かりました、任せてください」
気軽に返事する懐に店長は若干不安そうな顔をしながらも、再び店の奥へと戻っていく。
「ああ、それから」
カウンターから姿が見えなくなる直前、店長が上体だけ振り向き、眼鏡の縁をくいっと上げて、懐を見る。
「私の入れるコーヒーはオ・イ・シ・イからね」
「……」
それだけ言い残して、店長は裏の通用口から出ていった。引きつった笑みを浮かべる懐と目が合う。
「まぁ、ドイルが亡くなった時に比べたら、随分元気になってるよ。ウチの店長」
「……そうか」
文脈を全く無視した発言に、大して深く考えずに相槌を打った。
「それにしても、相変わらず分厚いレンズだよな」
ドイルは店長の眼鏡が気に入らないようで、爪の先で引っ搔いていたことがあったな。
「そういえば、あのお客さんも」
顎に手をやり、思案気に何かを思い出そうとする懐。
「今日は掛けてなかったなぁ、サングラス」
「グラサン?」
「そう、あの外国人のお客さん。前来た時はいつもサングラス掛けてたなぁ、って」
懐は親指と人差し指で丸の形を作り自分の目元に合わせた。丸の中から覗く目は半目開きで俺を捉えている。
「まぁ、今日は日差しも強くないし、持ってこなかったんじゃないか」
「うーん、そうかなぁ」
あまり納得していないように呟く。
サングラスか。確かに、屋外で掛けている分には何ら違和感も無いが、店内でも外さないというのは少し怪しい。そして、久しぶりに来店したと思ったら、初めから掛けていなかった。いや、サングラスだけじゃない、夏期休暇が明けたことを契機に、座る席も服装も注文するメニューも一新した。一体、夏の間にあの外国人客に何があったのか。本人に聞けば分かることだろうけど、わざわざそこまでする気にもなれない。
「そうだ、今日の統計学の授業なんだけど……」
もうあの外国人客の話題に飽きたのか唐突に話を変えた。俺と懐は同じ学科に所属しているから、必然的に履修する授業もかぶることが多い。授業中寝ていたからノートを写させて、と媚びるような目つきで頼んできたが残念至極、俺もその授業は出席確認の時だけ起きて、それ以降は机に突っ伏して一切顔を上げていない。だからノートは白紙であることを伝えたら、懐は不機嫌そうな顔を隠そうともしなかった。
「何よ。ちゃんと起きて聞いといてよ、当てにしてたのに」
文句を言いながら、俺以外客のいない店内の掃除を始めた。テーブルを水に濡れた布巾で次々と拭いていく。机の清掃が完了したら、次は出窓へと移った。いまや家主がいなくなったバスケットを下ろし、濡れ布巾で汚れを落としていく。
バスケットを見て、ふと自動的に脳裏にドイルの姿がよぎった。
それを引き金に、今日話したことが連鎖的に脳内に浮上しては泡沫に消え、核を形成する部分だけが残り複合されていく感覚に陥る。
夏。亡くなった飼い猫。狭い喫茶店。猫カフェ。外国人の常連。アルバイト。一杯のコーヒー。大学の近く。授業終わり。暇つぶし。焙煎。ジャージ。ナポリタン。夏期休暇。会計。カウンター席。暇な昼下がり。サラダセット。サングラス。不機嫌な店長。ボックス席。――ドイル。
「なぁ」
考えがまとまるよりも先に、俺は懐に声を掛けていた。
懐は振り返る。
「何?」
「コーヒーおかわり。それと」
咄嗟にドヤ顔を作る。
「解決編始めるぞ」
その前に、こういう時のお約束を一応やっておくか。一息つき、心の中で高らかに宣言する。
私は読者に挑戦する。
掃除を終えた懐は俺と自分の二人分のコーヒーを淹れて、隣のカウンター席に行儀よく座り、推理を聞く態勢を整えた。さっきは、この話題に飽きていた癖に、今は目の奥が爛々としている。
そう目を輝かせられると話しづらい。なぜなら、大見得を切ったのはいいが、ことの真相は話してしまえばなんということも無い些事なのだから。
「猫アレルギー?」
すごく間抜けな声を懐は上げた。まぁ、そんなリアクションになるだろうということは話す前から予想はしていたが。俺は話を続けた。
「そう。俺はそういうアレルギーを持っていないから想像での推測になるけど、皮膚に発疹が出て、目も充血する症状を持ってるんだと思う」
「じゃあ、それを防ぐための上下ジャージにサングラスだったってこと?」
「防げているかどうかはわかんないけど。ホントに重症な人って、見ただけとか、見なくてもアレルゲンが同じ空間にいるだけとかで症状が引き起こることもあるぐらいだからな。もしかすると防ぐよりも隠す目的だったのかもしれない」
そして、今夏ドイルが天寿を全うしたことを小耳に挟んだ彼は、なんの憂いもなく健康的な手足を、ビー玉のように大きい目玉をむき出しにこの店を訪れたのだ。
「カウンター席の一番奥をいつも使ってたのも」
二人の視線がカウンターの奥に飛ぶ。
「そこが、ドイルから一番遠い席だったから」
まだ熱さが残るコーヒーを少し啜る。懐も同じようにコーヒーを口に運び、まだ聞きたいことがあるという目つきで俺を見ている。
「コーヒー一杯しか頼まなかったのは?」
「一番早く提供されて、一番早く消費できるメニューだから」
「消費って……」
懐は俺の言葉に引っ掛かったのか微妙な笑みを浮かべ顔を引きつらせる。確かに今の言い方はあまり素直じゃなかったかもしれないが、お前だってさっきここのマスターのコーヒーは所詮素人趣味の三流の味だって言ってただろ――そこまでは言ってないか。
勿論俺も店長の淹れるコーヒーをそんな風には思っていない。おいしいよマスター、と心の中でエールを送りながら残りのコーヒーを流し込む。
「夏休みに全く顔を出さなかったのは?」
「その理由は多分俺と同じ」
「……帰郷ってこと?」
「そう」
瞼を閉じて、さっき後ろをすれ違った外国人客の姿を思い浮かべる。正しくは手にしていた荷物を。重さで持ち手の紐が指に食い込むくらい中身がぎゅうぎゅうに詰め込まれた紙袋を。
「あの外国人客,さっき紙袋を下げてただろ? ちらっと中が見えたんだけど英語で商品名が書かれた、あんま見たことない菓子類の袋だったよ。このあたりに売ってそうには見えないし、あんなに量があるってことはサークルとか下宿先とかに配る地元のお土産じゃないかな」
「うーん」
懐は腕を組み唸った。
「カウンター席の奥を使う理由。コーヒーしか頼まない理由。いつでも上下長いジャージだった理由。夏休みは来なかった理由……は分かったけど」
俺の目を見て一番疑問に思っていることを尋ねた。
「そもそも、なんでそこまでしてここに来るんだろ?」
尤もな疑問だ。
「猫アレルギーだったけど実は生粋の猫好きで、ドイルをめでに来たのかな……いや、それならもう今は来る必要がないはず。……そもそもドイルには興味示してなかったし」
顎に手をやり、俺に聞こえるか聞こえない位のボリュームでぶつぶつと独り言つ。
「それはな……」
ここには鏡がないから分からないが、この時の俺は酷いしたり顔をしていたことだろう。それくらい俺にとっては軽快な解答だったから。
「あの客のお目当てはお前だよ」
「え?」
カップの取っ手を掴もうとしていた懐の指が止まる。顔が若干赤く火照り、視線は焦点を定めずにあらぬ方向に飛び交っている。今、別の客が来たらまともな接客はできそうにないな。
「今、なんて?」
震えた声で聞き返してきた。
「だから、あの客のお目当てはお前だよ、懐」
「な、な、何をコンキョにっ」
顔は何とか平常を装うことに成功しているが、動揺を隠しきれていないことが呂律に表れている。
「あの外国人客、大学の留学生だって言っただろ? 多分、大学内ですれ違ったお前に一目ぼれしたんじゃないか。それで、懐がここで働いているのを知って、お近づきになる口実作りに、お前がいる時を見計らってコーヒー飲みに来てたんだよ。猫アレルギーな自分の体質を必死に抑えてな」
それか、たまたま立ち寄った喫茶店で働く懐の姿を見て一目ぼれ、という線もあり得たがどっちにしても最終的な結果は同じだったから、補足はしなかった。
今の推理を黙って聞いていた懐だったが、まだ納得しきれていない様子だった。まぁ「あいつ、お前のこと好きだってさ」なんて言われて、素直に聞き入れられるのは小学生までだろう。
「でも、それって私以外のバイトの子が目当てかもしれないじゃん」
「そう。俺もそう思ったんだけど、やっぱりあの外国人客の意中の相手はお前だと思うぜ」
「どうして?」
「さっき、あの客がレジに向かう時に……」
外国人客が俺の後ろを通った時の違和感を思い出す。
「レジに向かう時、俺のことすごい目つきで睨みつけてたから」
まるで猫が獲物を横取りされない為に必死で牽制しているかのような目つきで。――俺の獲物に手を出すな。
「それだけ? そんなの只の思い込みかもしれないじゃん。」
あからさまに肩を竦めてガッカリしている。ガッカリしているってことは、好意を寄せられている可能性に少しは期待していたのだろうか。
残念そうな懐の顔を見て、意地の悪い悪戯心が生まれた。
「じゃあ、一つ賭けをしようぜ」
「どんな?」
「お前がここのバイト辞めてみるんだよ。それで、あの外国人客がお前目当てでここに通ってたかどうか確かめられるだろ。もし、外国人客がぱたりと来なくなったら、俺に一杯コーヒー奢ってくれよ」
「いや、私に何のメリットもないじゃん!」
ツッコミの勢いに、カップの中のコーヒーが大きく波打つ。
「それに、ここは気に入ってるから辞めたくないよ」
「分かってるって、冗談だよ」
その時、鈴の音が店内に小さく響いた。店の扉が開かれたのだ。懐はその音に俺より少し早く反応し、扉の方を向き直る。
「いらっしゃいま……って、なんだ店長か」
入口の扉を開けた人物の姿を確認するや、徐に腰を下ろしカップのコーヒーを飲みほした。
「何だって花村君、シフト中だろ。今入ってきたのが私でなくお客さんだったらどうするんだ」
「今は、労働基準法に基づいて休憩中でありまーす」
店長からの粘っこい叱責を涼しい顔で躱す。不服そうな顔をしながら、店長は店内を見渡してどこか寂し気な顔色を浮かべている。
「やはり、猫がいないと物寂しいなぁ」
ぼんやりとぼやく店長に、二人ともどうリアクションを返していいか分からず、黙り込んでいた。カップを口にして誤魔化そうと思ったが、生憎中身はもう残ってない。
「そうだ、花村君少し良いかな?」
店長はさも今思い出したかのように話を切り出す。
「はい? 何ですか、店長」
「実は、今度またウチに猫を置こうと思ってね」
言い方に少し引っかかる。置く? 飼うのではなくて?
「え? 店長また別の猫飼うんですか」
「違うよ、杉崎君が飼ってる猫をウチで一旦預かろうと思ってね」
杉崎とは、ここでバイトをしている女学生の名前である。同じ大学に通っており一つ年上だが、浪人しているため学年は同じだ。懐にここのバイトを紹介した人物でもある。
「彼女の下宿先ペット禁止なのに、黙って飼ってたのがこの前バレたみたいでね。ペットも受け入れてくれる下宿先を見つけるまで、店で預かって欲しいって言われたんだ」
「あー杉ちゃん、ついにバレちゃったか」
「大人しい猫みたいだから許可したんだ。それを君にも伝えておこうと思ってね。……やっぱり猫がいないと寂しいだろう?」
さっき言ったことを繰り返す。店長の口調は明るいようにも沈んでいるようにも感じられた。愛猫が居なくなった虚無感と、他人の飼い猫ではあるが、猫がまたこの店に戻ってきてくれる歓喜に板挟みになっているのかもしれない。
共有事項を伝え終わると、店長は厨房の方へと姿を消した。休憩もほどほどにね、と懐に釘を刺すのも忘れなかった。
再び店内が静まり返る。その静寂を先に破ったのは懐の方だった。
「そうだ、さっきの賭けの話だけど、こうしない?」
顔に喜色を浮かべながら、両の手を合わせる。
「今度、杉ちゃんちの猫がここに来るでしょ。そうなってから、あの外国人客が、またサングラスと長袖長ズボンのジャージ姿に戻って、そこの一番奥のカウンター席でコーヒー一杯だけ頼むようになってたら、私に学食一回奢るってのはどう?」
自信満々な顔で挑戦してくる。同じことを思いついていたけど先を越された悔しさに奥歯を噛む。だけど、こっちだって怯むつもりはない。
「いいぜ、その挑戦受けて立つ」
先に賭けを始めようとしたのは俺の方だからな。後に引くなんて格好悪い。
「そういえば、杉崎んとこの猫ってなんて名前なんだっけ」
懐は答えた。
「エラリーだよ」
おやおや。これはまた謎を呼んできそうな名前だな。
時刻はもうすぐ夕方の五時。壁に飾られた鳩時計の方を見る。今度こそあの巣箱から鳩は顔を出してくれるのか。果たして、外国人客は再びやってくるのか。エラリーは一体どんな猫なのか。
喫茶店に漂うノスタルジーな雰囲気に陶酔しながら、そんなことを考えてみた。